CubとSRと

ただの日記

こんな神様

2019年12月23日 | 神社
 もう十数年前のことですが。

 東名高速道のS・Aで休憩した時、S・A内に立ててあった風にはためく幟の文字が、視界の端に入り、ぎょっとした。
 そこには「アイスクリ-ム」の文字があったんだけど、何と、
 「巨乳アイスクリーム」と書いてある!!
 「え?・・・・え・え~~っ?!」

 よく見たら「巨峰アイスクリーム」だった。
 何だ!紛らわしい。

 ・・・・私がスケベ?・・・なのかな?
 巨峰は好きで、よく食べるけれど。


 古事記に「おおけつひめ」の話があります。穀物の神様です。目・鼻・口、果ては尻からも食べ物を出す。豊作、豊穣の神様です。
 その食べ物をつくるさまを覗き見してしまったスサノヲ命が、
 「そんなものをオレに食わせる気か!」
 、と腹を立てて殺してしまう。

 おおけつ姫が大きな尻から食べ物を出す・・・・って???
 「え?・・・・え・え~~っ?!」でした。
 何より尻から穀物って・・・・。きったねぇ~。

 ですが、実は「おおけつ姫」という名だからと言って、お尻が大きいと言うわけじゃない。
 「けど、『おおけつ』だから『巨尻』・・・」
 だから、違いますっ。

 この神名は「おほ」+「け」+「つ」+「姫」です。
 「おほ」は「大」。「つ」は「~の」。
 それで、「け」と言うのは「食べ物」の意味です。
 後の世に食器のことを「け」というようになったようです。こんな歌があるでしょう?
 「家にあれば笥(け)に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る」
 ー家に居るならば笥に盛る筈の飯だけれど、旅の空の下だから、椎の葉を食器とする。ー

 伊勢神宮には御饌殿(みけでん)という建物があります。朝に夕べに天照大神に献ずる食事の用意をする場所です。
 「け」は食べ物を指すのですから、「大いなる」、「け」、「の」「姫神」という意味で、「おおけつ姫」は、「食べ物、食事全般を司る姫神様」ということです。
 「立派な(大いなる)、食物、食事全般の姫神」。
 それが大宜津比売、です。


 石見の国一宮の物部(もののべ)神社に、大田(おおだ)市駅から向かう途中、或る由緒正しい神社の名前が目に入ります。
 その名は「新倶蘇姫神社」。
 
 何て読むと思います?
 そうです。御想像の通り、「にいぐそひめ神社」。
 ・・・・・これは、どうも・・・・・・。

 意味は?と調べてみると「新しいクソの姫神」だって・・・・。
 そのまんま、じゃないか!
 しかし、何ともえぐいと言うか気の毒と言うか・・・。だって、姫神様ですよ?
 姫神様に「くそ」って・・・・。ひどい。

 そう思いながら、でも、考えました。
 資料にもあったんですが、「くそ」というのは、今のような「汚いもの」という意味ではなく、「肥料」の意味であったということです。
 でもねえ、「くそ」、ですよ、「糞」。

 しかし、これ(この感じ方)、ちょっと変です。
 日本で人糞を畑の肥料に、とするようになったのは戦国末期から。大陸から伝来した農業技術なんだそうです、人糞を畑に撒くのは。それに「肥え」とか「肥やし」と言います。良い意味です。
 江戸期になると、江戸市中の長屋などは共同便所ですから、一箇所に集められることになる糞尿は、近郷の百姓が金を出して買って行ったそうです。これもやはり金肥(きんぴ)です。見事なリサイクル。お金は大家の収入となった、とか。

 元に戻ります。
 古事記や日本書紀が書かれた頃には、人糞は肥料にされていたわけではない。「糞」という字を使ったから、人糞、みたいなイメージがあるけれど、本来の「くそ」にそんな意味はなかったと言えるんじゃないでしょうか。

 「くそ」は「く」と「そ」、です。「そ」とは「蘇」のこと。最近はテレビでも採り上げられるようになりましたが、古代の乳製品、チーズのことです。
 そして「く」は「倶」の字が当てられていますが、「具」「供」でも同じ。「供える」、です。用意、とか助ける、の意味を含んでいます。

 こう考えると、ここで使われている「倶蘇」は一番身近なところで言えば、牛糞、と見るのが妥当なところでしょう。
 牛を飼い、牛乳を用いて「蘇」をつくり、牛糞を肥料とする。そんな新しい農業技術を実践する一族が拓いた土地の産土神。それに祖先神、氏神として「新倶蘇姫」の神名を献じた。
 当時の、最先端の農業である「酪農」をやる一族がこの地に住んでいたという証拠が、この「新倶蘇姫神社」である、ということになります。

 古事記、日本書紀の書かれた頃、田畑では一体どんな作物が作られていたのでしょうか。現在、日常に我々が目にする食物のうち、穀物以外の農作物というのは当時ほとんどなかった、ということを考えたら、「肥料」というのが違って見えてくることでしょう。 
 そうなると「くそ」は「糞」や「屎」ではない、ということも見えて来ます。

 「今」の眼で、快刀乱麻を断つが如くの勢いで全ての物事を裁定するのは小気味良いことではあるけれど、それでは歴史の存在価値は皆無になってしまいます。



2012.05/19
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神様の通り道 (後)

2019年12月23日 | 神社
  「敬神」のような「経験のない感覚(境地)」のように、これまで持っていなかった心掛け、心の持ち様を体感(感得)するにはどうしたらよいのか?
  「形に表せない、形のないもの(心持ちとか境地)」を手に入れるための「習い事」、みたいなものはあるのでしょうか、と書きました。

 形(所作)のあることならば、「習い事」として真似ることを繰り返していけば、段々に身に付きます。けど、形のないものはどうなんだろう。
 これ、形のあるものを習うのだって、「形だけ」習ったって「仏作って魂いれず」と批判されます。
 「形を習うことによって、その心も習う」。そうでなければ習う意味がない。
 形という入れ物を精確に作り上げることで、中身の形を思い描く。形を繰り返し表すことで、想像した中身の形が正しいかどうか手探りで確認し続ける。
 ならば、「形がない」からと言ったって、作法みたいなものをつくって取り組めば、同じことです。

 「参道」に戻せば、初めは「神様の通り道だから」みたいな「方便(説明の仕方)」で、納得し、とにかく言われるように参道の真ん中は通らず、参拝する。
 たった一つのことだけでも、そうやって心に留めて取り組むと、人間、自分で「ちゃんとできたかな?」と反省、評価します。願い事があって参拝した筈が、参道の歩き方の方が気になったりする。
 そうやって、「所作を学ぶ」ように一つ所に心を留めて取り組んでいると、却って雑念が消えていきます。そこに残っているのは?

 初めて参拝した時、「敬」なんてこれまで経験したことのない「感覚(境地)」であるのが普通ですから、何も思わず普通に参道を歩く。それが一度でも「神様の通り道だから」と、意識して参拝してみると、西行法師じゃないけれど「何ごとのおはしますかは知らねども(何だか分からないけれど)」、と何かこれまでに体感したことのないものを感じる。
 「何だか分からないけど忝(かたじけな)い」。

 一度でもそうやって聞いて、「何か」を感じるようになると、参道の真ん中を歩くと、何か居心地が悪くなる。
 更には拝殿を真正面に見据えて歩けなくなり、自然に、やや伏し目になってくるかもしれません。「敬虔」、というべきでしょうか。
 「大手を振って参道を」というのも違う気がしてくる。「手はどこに置いたらいいだろうか、ポケットの中、なんてのは考えられないな」、なんてことも思い始める。

 あ、そういえば。先日、習主席が米大統領を紫禁城に案内してましたね。その時、あまりの寒さと退屈さからか、習主席、コートのポケットに両手を突っ込んでいました。トランプ氏はちゃんと威儀を正して(勿論、手はちゃんと出してますよ)説明を聞いていた。
 その大統領が城内を見渡した時、習主席の姿が視界に入った。それに気づいた主席、授業中に小学生が注意された時みたいに、慌ててポケットから手を出して、何食わぬ顔をして・・・。何だか昔のコントを見てるみたいで、つい噴き出してしまいました。
 数か月前に、フィリピンのドゥテルテ大統領が主席の前でポケットに手を突っ込んでいたり、ガムをかんでみたり、ということをやって、まるで悪ガキみたいだった、というニュースがありましたが、こんなところに、その人の心中(或いは境地)は確かに見えるものだと思います。

 脱線終わり。
 一度や二度の参拝で「敬神の念」を実感しろというのは、大方の人には無理でしょう。「観光目的」とか「パワーをもらいに」、なんて人になると猶更です。そんな人が大挙して「参拝」という名目で押し寄せて来る。みんな揃って参道の真ん中をやって来る。参拝者の往来は大変なことになる。
 「中央でなければどちらでも良いのですよ」なんてことを言うと、今度は道の両側でぶつかり合いが起きる。
 で、「右側を通りましょう」ということにしてみた。こうすれば行きと帰りで反対側を通るわけですから、ぶつかる心配は、ない。
 (高速道でなくとも逆走は危険、ということですね)
 結果として全て上手くおさまる。
 「真ん中は神様の通り道」。上手い説明です。方便そのもの。

 でも、これを、「神様の通り道ですから」と言われて、「はい、そうですか」とマニュアルとして受け入れ、そこから先を全く考えようとしない、というのはどうなんでしょう。「忝さ」を感じる時が来るんでしょうか。「敬神の念」は湧くのでしょうか。


 この月の初めにツーリングに行った、と書きました。その時参拝した神社でのことです。
 多くの参拝者が小さな拝殿の前で、行儀よく一列に並んで自分の番が来るのを待っていました。
 「並ばないで参拝してもいいんですよ」、と声を掛けて、拝殿の端から参拝したんですが、列が崩れることはありませんでした。
 一列に並んで順番を待つ。真ん中で鈴を鳴らす。それも「敬神の念」の表現、とは思います。
 でも、後ろに多くの人を並ばせて、真正面に立ち、長々とお祈りをしているのを見ると・・・・。




2017.11/30
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