神道系の大学ってのは仏教系のそれと違って、数校しかありません。
伊勢にある皇学館、東京にある国学院。そして奈良にある天理大学。
そんなところでしょうか。
皇学館は伊勢神宮の神職養成のためにつくられたと思われ、国学院は伊勢を頂点とする国家神道に対し、教派神道と言われるところが集まってつくり、天理はその中の一つである天理教がつくった大学、みたいな解釈が為されていますが、どうも本当のところはそういったことではないようです。
明治の初め、例の文明開化の嵐が吹き荒れた時です。
神仏分離令(正式には神仏判然令と言うんだそうです)により、政府の意図するところではなかった廃仏毀釈が全国各地で起こったことは御存じのことと思いますが、実はもっと国として憂慮すべきことが起こり始めます。
それは全ての事柄に於ける西欧化です。
何しろ「和魂洋才」の言葉をじっくり見れば実感できるように、日本の近代化は「西欧の才」に、つまり、精神以外は全て西欧に倣わざるを得なかった。
当然学問なんかはその最前線。
「新しく西欧の学問を採り入れなければ欧米列強についていけない。まずは学校をつくろう」
ということで、学制が布かれ、日本全国に学校がつくられました。
勿論、全くのゼロからではない。各地にあった藩校や塾を学校として改めて定め、そこで近代教育を始める。
元藩校、塾の建物ですが、学習内容はこれまでの儒学中心のものだったり、手習いというわけにはいかないので、全て欧米のものを参考にします。
そして、数年後には、「小学」に対して「大学」がつくられます。
国立の大学を、各分野別に作る。それまでに作られていた各種専門学校が大学になります。医学校、工科学校、美術学校、などというのが、それぞれ医大、工業(工科)大、美大になる。
森鴎外などは飛び級で医学校(後の東大医学部)に14歳(本当は12歳だったそうです)で入学しています(ハイスクールフリートの衛生長、みなみさんみたい。)
欧米式の学問を学び、優秀な者は当然政府の要職に就きます。
そんな中、日本の文化・学問は幕末の頃とはうってかわって全く省みられなくなってしまった。文化・学問、それに基づく物事の考え方から、一般的な常識と言われるもの、果ては生活様式までが、軽視されるようになります。
それは大学を出たエリート達も同じこと。優秀ではあっても、日本のこれまでの物事や歴史に敬意すら持たなくなってしまった。そんなエリートが役所の主導権を握るのです。
新しい組織だから、とは言ってもここは日本。全てが欧米式になるだけでなく、考え方や行動までが日本人らしからぬものになっていくのを憂えられた明治天皇が、
「洋学を盛んに行うのは必要なことではあるが、我が国本来の在り方を学ぶ場はどうなっているのか」
と、国学を学ぶ場所の設置を考えるように命じられたのだそうです。
「和魂洋才」の「洋才」は、大変な勢いで展開しているのに、「和魂」の方は研究する場所すらない。
それで伊勢の地に、かねてより要望のあった神職の養成や、国学の研究のための場、として、「皇学館」がつくられます。
東京では同じく研究所がつくられ、「皇典講究所」と名付けられます。
wikiで見ると、久邇宮朝彦(くにのみやともよし)親王の令旨により建学されたのが皇学館。国学院は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王の令旨で開かれた、とありました。それぞれ、明治天皇の命を受けてのことです。
皇学館は大東亜戦争中、長年にわたる許可申請の末に官立の神宮皇学館大学となり、敗戦時、神道指令により、廃校。
皇典講究所は国学院を併設、後に閉所。国学院は独立して大学となります。
(天理大は研究機関ではなく、純粋に布教活動のためにつくられたものだそうです)
さて、「皇学館」と「皇典講究所」という名称についてです。
「皇学館」の「館」とか、「皇典講究所」の「講究所」の意味はすぐ分かります。
「館」は図書館の館。「林崎文庫」に設置されたからでしょう。
「講究所」は「講義研究所」と思われます。
しかし、「皇学」とか「皇典」というのは一体どういう意味でしょうか。
「調べたことはないけど、何となく了解している」
、という人がほとんどではないでしょうか。
伊勢にある皇学館、東京にある国学院。そして奈良にある天理大学。
そんなところでしょうか。
皇学館は伊勢神宮の神職養成のためにつくられたと思われ、国学院は伊勢を頂点とする国家神道に対し、教派神道と言われるところが集まってつくり、天理はその中の一つである天理教がつくった大学、みたいな解釈が為されていますが、どうも本当のところはそういったことではないようです。
明治の初め、例の文明開化の嵐が吹き荒れた時です。
神仏分離令(正式には神仏判然令と言うんだそうです)により、政府の意図するところではなかった廃仏毀釈が全国各地で起こったことは御存じのことと思いますが、実はもっと国として憂慮すべきことが起こり始めます。
それは全ての事柄に於ける西欧化です。
何しろ「和魂洋才」の言葉をじっくり見れば実感できるように、日本の近代化は「西欧の才」に、つまり、精神以外は全て西欧に倣わざるを得なかった。
当然学問なんかはその最前線。
「新しく西欧の学問を採り入れなければ欧米列強についていけない。まずは学校をつくろう」
ということで、学制が布かれ、日本全国に学校がつくられました。
勿論、全くのゼロからではない。各地にあった藩校や塾を学校として改めて定め、そこで近代教育を始める。
元藩校、塾の建物ですが、学習内容はこれまでの儒学中心のものだったり、手習いというわけにはいかないので、全て欧米のものを参考にします。
そして、数年後には、「小学」に対して「大学」がつくられます。
国立の大学を、各分野別に作る。それまでに作られていた各種専門学校が大学になります。医学校、工科学校、美術学校、などというのが、それぞれ医大、工業(工科)大、美大になる。
森鴎外などは飛び級で医学校(後の東大医学部)に14歳(本当は12歳だったそうです)で入学しています(ハイスクールフリートの衛生長、みなみさんみたい。)
欧米式の学問を学び、優秀な者は当然政府の要職に就きます。
そんな中、日本の文化・学問は幕末の頃とはうってかわって全く省みられなくなってしまった。文化・学問、それに基づく物事の考え方から、一般的な常識と言われるもの、果ては生活様式までが、軽視されるようになります。
それは大学を出たエリート達も同じこと。優秀ではあっても、日本のこれまでの物事や歴史に敬意すら持たなくなってしまった。そんなエリートが役所の主導権を握るのです。
新しい組織だから、とは言ってもここは日本。全てが欧米式になるだけでなく、考え方や行動までが日本人らしからぬものになっていくのを憂えられた明治天皇が、
「洋学を盛んに行うのは必要なことではあるが、我が国本来の在り方を学ぶ場はどうなっているのか」
と、国学を学ぶ場所の設置を考えるように命じられたのだそうです。
「和魂洋才」の「洋才」は、大変な勢いで展開しているのに、「和魂」の方は研究する場所すらない。
それで伊勢の地に、かねてより要望のあった神職の養成や、国学の研究のための場、として、「皇学館」がつくられます。
東京では同じく研究所がつくられ、「皇典講究所」と名付けられます。
wikiで見ると、久邇宮朝彦(くにのみやともよし)親王の令旨により建学されたのが皇学館。国学院は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王の令旨で開かれた、とありました。それぞれ、明治天皇の命を受けてのことです。
皇学館は大東亜戦争中、長年にわたる許可申請の末に官立の神宮皇学館大学となり、敗戦時、神道指令により、廃校。
皇典講究所は国学院を併設、後に閉所。国学院は独立して大学となります。
(天理大は研究機関ではなく、純粋に布教活動のためにつくられたものだそうです)
さて、「皇学館」と「皇典講究所」という名称についてです。
「皇学館」の「館」とか、「皇典講究所」の「講究所」の意味はすぐ分かります。
「館」は図書館の館。「林崎文庫」に設置されたからでしょう。
「講究所」は「講義研究所」と思われます。
しかし、「皇学」とか「皇典」というのは一体どういう意味でしょうか。
「調べたことはないけど、何となく了解している」
、という人がほとんどではないでしょうか。
もしかしたら「軍国主義の学問」とか「右翼のプロパガンダ書籍」なんて思っている人もいるかも。
でも、念のために調べてみると。
「皇学とは皇国の学問=国学」
「皇典とは皇国の古典籍=古典」
だそうです。
ならば、「皇学」「皇典」の「皇」というのは「国」という意味になる。
ということになると、「皇国」とはどういう意味になるのでしょうか。
「くにくに」?まさか。
「こうこく」と読まないで、大和言葉、訓で読んでみる。
でも、念のために調べてみると。
「皇学とは皇国の学問=国学」
「皇典とは皇国の古典籍=古典」
だそうです。
ならば、「皇学」「皇典」の「皇」というのは「国」という意味になる。
ということになると、「皇国」とはどういう意味になるのでしょうか。
「くにくに」?まさか。
「こうこく」と読まないで、大和言葉、訓で読んでみる。
訓読みにすれば「すめぐに」、或いは「すめら(み)くに」。
すると、「皇国」の語から、日本の在り方、日本の成り立ちが見えてきました。
ということで、次回は「皇国」という語について書いてみます。
すると、「皇国」の語から、日本の在り方、日本の成り立ちが見えてきました。
ということで、次回は「皇国」という語について書いてみます。
2012.11/19