「八幡神社」というのは、全国各地にあります。
「諏訪神社」もそうです。「天満宮」もそうです。
沖縄の「普天間」という地名を知らぬ人は、今の日本人にはないでしょうが、普天間の「普」は「普(あまね)く」ですから、「全て」の、という意味合いから後付けの文字で、本来は天満宮だったようです。
それを「天間」と書くと何だか別の神社のようですが。
もっとも、天満宮と言っても祀られてあるのは熊野権現なんだそうです。
脱線せぬうちに。
八幡宮の御祭神は、応神天皇。天満宮の御祭神は菅原道真公。諏訪神社は建御名方神。
人が祀られている場合もあれば、元々の神様の場合もある。でも、みんな神様。
初めは人だったけど、長年月を経て、神様になるのが日本です。建御名方神だって、初めは人だったんでしょう。でも、何だか、どこまでが人で、どこからが神様なのかよく分からない。
また、「祟り神」という言葉がありますが、人でも、没後、間を置かずに人の世に大きな影響を与えると思われた場合は、すぐさま「神」と「崇め」られる。「崇める」と「祟る」の字がよく似ているのは、「祝詞」の「祝(の)る」と「呪う」が「言挙げ」の両面ということとよく似ています。
人から神へ、という変化は今や日本だけ、です。
さて。
八幡宮の御祭神は応神天皇と書きましたが、摂社とか末社となると、それぞれの土地の神社ごとに御祭神名が違って居たりします。前回、「親神様や、兄弟神、親戚(?)の神々」と書いたのに、全くつながりのない神様が祀られていたりする。多くは、それぞれの土地の産土神ですが。
これは一体どういうことか。
実は元々「やしろ」のあったところに、更に尊い神様にお出でいただいたので、その尊い神様のために元々鎮座されていた神様には、そばの「やしろ」に引っ越していただいた、ということです。
元々鎮座されていた神様が腹を立てて出て行かれるとか、追い出された神様が放浪の旅に出る、なんてことはありません。ここ、重要ポイントです(以降の話の伏線)。
神社というのは神様の集う場、ですから、神様が神様同士恨んだり祟ったり、なんてことはありません。
「諏訪神社」もそうです。「天満宮」もそうです。
沖縄の「普天間」という地名を知らぬ人は、今の日本人にはないでしょうが、普天間の「普」は「普(あまね)く」ですから、「全て」の、という意味合いから後付けの文字で、本来は天満宮だったようです。
それを「天間」と書くと何だか別の神社のようですが。
もっとも、天満宮と言っても祀られてあるのは熊野権現なんだそうです。
脱線せぬうちに。
八幡宮の御祭神は、応神天皇。天満宮の御祭神は菅原道真公。諏訪神社は建御名方神。
人が祀られている場合もあれば、元々の神様の場合もある。でも、みんな神様。
初めは人だったけど、長年月を経て、神様になるのが日本です。建御名方神だって、初めは人だったんでしょう。でも、何だか、どこまでが人で、どこからが神様なのかよく分からない。
また、「祟り神」という言葉がありますが、人でも、没後、間を置かずに人の世に大きな影響を与えると思われた場合は、すぐさま「神」と「崇め」られる。「崇める」と「祟る」の字がよく似ているのは、「祝詞」の「祝(の)る」と「呪う」が「言挙げ」の両面ということとよく似ています。
人から神へ、という変化は今や日本だけ、です。
さて。
八幡宮の御祭神は応神天皇と書きましたが、摂社とか末社となると、それぞれの土地の神社ごとに御祭神名が違って居たりします。前回、「親神様や、兄弟神、親戚(?)の神々」と書いたのに、全くつながりのない神様が祀られていたりする。多くは、それぞれの土地の産土神ですが。
これは一体どういうことか。
実は元々「やしろ」のあったところに、更に尊い神様にお出でいただいたので、その尊い神様のために元々鎮座されていた神様には、そばの「やしろ」に引っ越していただいた、ということです。
元々鎮座されていた神様が腹を立てて出て行かれるとか、追い出された神様が放浪の旅に出る、なんてことはありません。ここ、重要ポイントです(以降の話の伏線)。
神社というのは神様の集う場、ですから、神様が神様同士恨んだり祟ったり、なんてことはありません。