CubとSRと

ただの日記

途半ば

2019年12月18日 | 神社
 「南無阿弥陀仏」、は「阿弥陀仏」を心に置き、常に
 「私は阿弥陀仏に抱かれている、阿弥陀仏と一つ(南無=帰命又は一体)なんだ」
 と言い聞かせることで、心の平安を得ようとする。
 対して
 「素晴らしい蓮華経と一体です。私は蓮華経に抱かれている」
 、ってのは、お経が私を抱くのか?
 「そんなバカな!」、ですよね。そうじゃなくて 
 「蓮華経の教えに抱かれている」、ってことですよね。

 「じゃあ、蓮華経を読んで、せめて一通り、理解だけでもしてるのか?」
 、って話です。

 お題目唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる。それは間違いない。でも、蓮華経の教えが分かるということじゃない。
 「資本論」という題名を百万遍唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる(かもしれない)。でも、マルクス思想が分かるわけじゃない。

 「読書百遍、意、自ずから通ず」、なんてのは「読書」だからであって、「唱題目」では「意」は通じない。
 心を強く持つための修練にはなっても、その物事を理解することに直接つながるわけではない。ただ、集中力をつける(心を強く持つ)段階で、その気になれば他人の言うことを聞く力は、つく。これが一番大事なことかもしれません。

 「お題目」唱えるのと、「念仏」は些か違います。
 「念仏」は、文字通り「念仏」。
 とは言え、文字通りも、「仏号を唱えるだけ」「心に強く念ずる」「ひたすら呪文の如くに『なんまいだ~』と唱える」等、色々です。
 念仏に共通するのは「仏の姿を描き易い」ということ。物事って、はっきりしてると取り組みやすいでしょう?
 「南無妙法蓮華経」は難しいですよ、お経の本を心に描く、って難しいでしょう。
 だから、逆に「お題目」は、気合を込めて唱えるという手を使う。掛け声に近くなる。
 昔は私の田舎でも、真冬の寒い時に「寒行」といって、団扇太鼓をドンツクドンドンと調子よく叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー」と強く唱えながら町を行進する一団がありました。地元の日蓮宗の信徒でした。水行も同じ調子でやってましたね。
 「な~むあ~みだ~ぶ」と唱えながら延々と大数珠をみんなで繰るのとは、出来上がる意志の強さが違うでしょうね。

 「お題目」を唱える。「念仏」を続ける。「真言」を唱えながら行動する。
 みんな「修行」ではあるけれど、当然のこと、蓮華経や阿弥陀経や仏典に書かれていることを読まなければ、経典は理解できない。
 それでも、そこでできた意志で、法話を聞き(=経典の講義を受ける)少しずつものが見え始める。

 神社に参ったってそうですよ。パワースポット巡り、じゃなくって、何かを感じて、或いはその神社の由緒に感じるところがあってお参りしてみた。
 その「心」を、神様が「見てござる」と、自身が思う。
 「何事のおはしますかは知ら」ないけれど、何とも「忝(かたじけな)い」と感じて涙がこぼれた。何故なんだろう、一体、あの時、オレは何に感じて涙が出たのだろう、と折々に思い出してみる。で、古事記読んだり、祝詞を読んだりしてみる。そうすることで色々なことが見え始める。
 そんな自身の心境を見詰めようともせず、ひたすら現世の御利益を、とオーバースローで賽銭投げて、参拝者の後頭部にぶつけてどうすんだ、と。


 ところで。
 私のように思いついたままを書き散らかして何もしないでいる者と、「行者」と言われるような人は全く違います。死ぬ気でやっておられますからね、そういう人は。

 何が恐ろしいと言って、死ぬ気でやっているのに、側から見ると全く自然で、そんな気配を微塵も見せず当たり前のように色々なことに淡々と取り組んでおられることほど恐ろしいものはない。

2014.06/14
 「やせ我慢、やめた」。
 日本の良さ、素晴らしさを何とか言葉に表したい、
 そしてそれで一人でも多くの日本人に考え始めてほしい、というのが、私の「やせ我慢」でした、何とかして言葉で表そうというのが。

 でも、やめた。言葉で表すなんて全く実力不足で、できない。
 いや、仮にできたとしても聞く耳がなけりゃ伝わらない。
 伝わったとしても、分かろうと努力しなけりゃ分からない。
 少々努力したって、そう易々と分かることじゃない。
 何しろ日本って、世界が驚くほどハイレベルなんだから。
 いやいや、世界の驚くレベルをはるかに超えた(理解を超えた)ハイレベルなんだから。

 「日本人への道」は長く険しい。
コメント
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