CubとSRと

ただの日記

不安定から

2019年12月25日 | 日々の暮らし
 安定は求めない。変化を続けて前へ、前へ!
        「HAJIME」オーナーシェフ|米田肇

 「挑戦することは歩くことと同じで、必ずどちらかの足を上げないといけない。すると片足立ちで不安定になる。上げた足が着地すれば安定するけれど、また片足を上げて不安定。でも、これをやらないと前に進めない。だから僕は必ず、自分から不安定を作り出していきます。いま安定しているなと思ったら、いま止まってしまっていると気づかないといけない」


 大事なのは壁にブチ当たること
              |冨永愛

 壁を乗り越えることが重要なのじゃなくて、まず壁にブチ当たることが大事なんです」
 今の20代はすごく穏やかでクールで、大人で、私たちとは全然違うなぁと感じます。ただ、穏やかなのは、どこか諦めているところがあるからで、クールなのはもしかするとハングリーになれないからというのもあるかもしれません。
 私は中学・高校のころにやっとPHSを使うようになった世代。何かを知ろうと思ったときには自分の足で動いて経験して、というのが当たり前でした。今はスマートフォンで調べればパッと答えが出るけれど、でもその答えは、自分でやってみて得たものじゃない。自分でやって駄目だったりうまくいったり、そういう実体験があると自信が持てるから、納得も成長もできるし、妥協だってできるようになるんだけれど……」

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 「今」に満足して「時よ止まれ!お前はあまりに美しい」と、嘆じた時、魂を売り渡す。
 ファウスト博士は悪魔メフィストと、そう契約した。
 メフィストはファウスト博士が満足するためのありとあらゆる要求をかなえていく。
 結果は「売り渡さない」の一言だけれど、実は「売り渡してない」だけの話で、ファウストとメフィストの戦い(或いは挑戦)は果てしなく続くのは御存じの通り。
 「安定を求めるために不安定を続ける」。簡単そうで難しく、でも、簡単なこと。踏み出せなくとも足を浮かせるだけで不安定は始まる。
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和魂 荒魂 幸魂 奇魂

2019年12月25日 | 神社
 もう十年も前に書いた日記なんですが、やっぱりこれ、書き直してでももう一回挙げといたほうが良いんじゃないか、と思ったものですから。

 十年前の正月に、ビートたけしが伊勢神宮を参拝するといったTV番組がありました。
 そこで出てきたんだけれど、意外に普段聞くことのない「和魂 荒魂 幸魂 奇魂」の話です。
 日本人の自然に対する感じ方、考え方が、これを知識として持つだけで、明らかになっていくんじゃないかな、と思います。

 神宮には御正殿と同様に重要視されている神殿があります。「荒祭宮(あらまつりのみや)」です。この荒祭宮は正殿と同じ、場合によっては御正殿以上に重要とされる宮です。祀られているのは天照大神の「荒魂(あらみたま)」です。
名前の通り「荒々しい神威の発動」を祀る宮です。
 「荒」は繰り返して「荒々しい」ですが、同時に「新(あら)たし」。生き生きとして生々し続ける、エネルギーに満ち溢れた様子も表します。だから、「荒祭宮」「は「新祭宮」という意味も含んでいる。
 (「新(あたら)しい」、は誤読で「新(あらた)しい」が、本来の読み方)

 御正殿の御魂は平時、平常の「穏やかな神威の発動」で、あまりにも穏やかなので、それを神威が発動されているとは気がつかない。この御魂を「和魂(にぎみたま)」と言います。
ただ、「穏やかなので気がつかない」けれども、さすがにビートたけし、「圧倒されて、願い事なんかできなかった」と言ってました。それが、「和魂」の発動です。
穏やか、平穏なんだけど、何とも言いようのない張りつめた感じ。
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
と詠まれたのは西行法師でしたか?
「何故なのか理由は分からないのだけれど何とも説明のしようのないありがたさに、涙がこぼれてしまう」
というのは、穢れを祓って無私無欲で参った者には当然の神威への感応なのでしょう。

元に戻って、「荒々しい神威の発動」というのは、たとえば、強風、大雨、かみなり、地震等、ひどければ、一からげに自然災害といわれるものです。ほどほどならば、豊作をもたらしてくれますが、神威の発動には人間の考える「ほどほど」という良し悪しの物差しがあてはまりません。
 大体「自然災害」というのは、「人間にとって」、という但し書きつきのもの。神威の発動で自然の景色が一変しても、それは本来「一変した」だけのことで「破壊された」ということではないでしょう。新たな景色が創造されたのだ、とも言えます。
 また、この「荒祭宮」は、他国と戦争をはじめる時に宮中の賢所と同時刻に宣戦布告の上奏をしなければならない宮なのだそうです。

「和魂(にぎみたま)」「荒魂(あらみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」、いずれも天照大神の御魂です。我々が、それぞれの発動されたものをそれぞれに拝するのは、天照大神の4面を拝する、というより、我々の心と身体の穢れを祓って我々の、その時の思いを、そのままに見ていただく、真心(赤心)で正対する、ということです。
時には荒祭宮だけ参拝したって、良いということですね。
勿論、「荒祭の宮を参拝しなかったら片手落ち」、「それじゃ参拝したことにならない」なんていうのも妙な原理主義。



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