CubとSRと

ただの日記

神様の通り道 (前)

2019年12月22日 | 神社
 「・・・だから、参道の中央は歩かず、左右いずれかに寄って歩く」
 、のだ、との説が最近、定説のようになっています。
 実際、神職さんも、そう説明されるようで、テレビでもそう言ってたし、本にもそう書いてある。

 でも、神様の威光は一方向ではなく四方八方に届くわけで。
 「神様が参道を高速で行き来されるわけではない」、と以前に書きました。

 ・・・・・・・・・・・・
 ~ 神様は普通、「坐(いま)す」とか「おはす」と言います。それは「じっと座っておられる」ということです。
 たまに動かれる時はどうかというと「千早振る」という枕詞が示す通り、それこそ「神速」ですから。「神速」で参道を行き来されたんじゃあ危なくってしょうがない。
 だからそういうことじゃない。
 えらい人の前に出た時、我々は真正面に、頭がぶつかるほど接近して立つでしょうか。それじゃ昔のヤンキーの喧嘩です。
 えらい人の前に立つ時は、ちゃんと間を取る。そして相手の顔をじろじろ見たりはしない。
 人だってそうなんだから、神様、となると推して知るべし、でしょう。
 「距離を取る」どころか、正面には立たない。何故って神様の威光の前には、立てるものではないからです。

 でも参拝する場合はそんなこと言ってられない。失礼を承知です。
 せめてものことは頭を上げないこと。それが「拝礼」、となる。

 となると、「参道」は「神様の通り道」なんかじゃない。どうしても、というなら「神様の威光」の道筋とでも言った方が良いかもしれない。
 尤も、「参道」って言葉からすると、これは神様の道じゃない、ということですけどね。これは我々のための道です。
 だって「参道」、でしょう?「参拝のための道」なんだから「「参拝道」或いは「参詣道」です。
 ただし、神様の威光が常に放たれているところにつくられているのだから、真ん中は自然、通れない、と「感じる」。~
 (2015.04/08 )
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 「参道」という名の通り、「参」拝する者のための「道」だから、これは神様の高速移動のためのものではなく、我々「参拝者」のためにあるのだ、と。
 なのに「(我々のための道を)神様のために開けて置く」。これ、実は説明と違って何か本当の理由があるんじゃなかろうか。
 事実は一つでも、そこへ至るための理由、更にはその説明には、色々な方便があります。
 しかし、事実は一つ(参道という名の拝殿への道)。この場合の事実は「敬神」の念であって、それをどういう方法で実現(表現)させるか。

 剣術の伝書には「(当方の)意地、高上なれば、(敵は)頭揚げられぬものなり」(こちらの位・境地が高いと、相手は手も足も出せず、それどころか、頭を挙げてこちらを見ることもできない)、という文言がありました。
 言い方を変えれば、貴人(或いは高い人格の持ち主)の前に立つと、目を向ける(不躾にじろじろ見る)ことができない、みたいな。
 けど、赤ん坊や、人を人とも思わない傍若無人な人だったらそんなことはありません。要は、当人の心掛け、心の持ち様にかかっている。

 神様の前に、それも真正面に立つ、ということは「神様と対峙する」ということだから、それは神と己が対等である、ということになります。
 対等な存在に「敬」の形である、「頭を下げる」或いは「頭を挙げられない」状態が生れるでしょうか。
 「お互いを認め合う形で『敬』はありうる」、と横車を押す人もいますが、神と人が「お互いを認め合う」っておかしいですよね。
 それはもう、「神」ではない。
 「敬神の念」があれば正面には立てないから、参道だって「真ん中は『何となく』歩きづらい」、と、自然に思う(感じる)。

 ・・・・筈なんですが、実際はどうでしょう。
 書いたように赤ん坊はそんなことは思わない。同じく傍若無人な人だって「何となく歩きづらい」、なんて思わないでしょう。
 赤ん坊は無知の故(純真だから、なんてのはウソ)に、「敬神」なんて、・・・ね?
 傍若無人な人は、人を人とも思わないんですから、神様に対してだって「忝(かたじけな)い」なんて思うわけもない。
 じゃ、普通の人は?初めて参拝にやって来た人、または、ただ観光旅行で連れて来られただけの人は???
 初めて参拝した人、それも自分の家に神棚なんかなくて、拝礼などしたこともない人は、「敬神」、なんて「経験のない感覚(境地)」なのだから、参道の真ん中を歩いたって不思議ではないでしょう。

 その、これまで持っていなかった心掛け、心の持ち様を体感(感得)するには?

 「形のないものを手に入れる」ためにするのが「習い事」ですが、「形に表せない形のないもの(心持ちとか境地)」を手に入れるための「習い事」、みたいなものはあるのでしょうか。



2017.11/29
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心積もりとご利益

2019年12月22日 | 神社
 禊の真意はどこにあるのか、ということで、少し寄り道をしました。
 自身の強い意志を以てしても耐え難い苦痛を受け入れ、徹底的に穢れを祓う。そうすることによって飛躍的な向上を実現する。
 現実の人間が、神に一歩近づくかもしれない。

 戻ります。
 兎は、兎ではなく、兎に仮託された何か、だと考える。
 八岐大蛇が「背中に松や柏を生い茂らせ、八つの丘、八つの谷に伸びるほどの巨大な大蛇」と書かれているからといって、
 「一年に一度、老夫婦(あしなづちと、てなづち)の八人の娘を一人ずつ喰らいに来る時、背中の松や柏はどうなるんだ?」
 などとは、誰も言いません。
 「動くたびに背中の松や柏がぶつかるだろうから、髪の毛なんかと違って大蛇もうっとうしくてしょうがないだろうな」
 そんなの抱腹絶倒のコメディーです。
 でも、文章を読む、或いは語るのを聞くと、そんな抱腹絶倒のコメディーの筈が、何とも壮大な「巨大な龍のような大蛇が地響きを立てて迫ってくる」大迫力の場面として想像されるばかりです。

 隠岐、いやもっと向こうの韓半島までも治めていた神が、「もっと有力な神がやってくる」と知って首実検をするために準備万端整えて、今や遅しと待っていた。そこに果たして有力な神々がやってきた。
 しかし、筋は通っているけれど、傲慢で思い遣りに欠け、とてもじゃないけど我が地に座してもらうべき神には見えなかった。当然、この地の姫神と結んで繁栄の基を拓く神ではない。
 ところが一人遅れてやってきた大国主は、間違いなくこの地の者と仲良くやっていけそうだ。
 それに、多くの物(担いでいる袋の大きさ)を持っている。(袋の中身は新しい技術や知識だと思われます)
 
 「これは信用のできる神」と判断し、八上比売に「警戒の要なし」と連絡する。八上比売は、この地そのものと言っていいんじゃないでしょうか。
 白兎は、海の向こうから追われるようにしてやって来て、この地に住み着いた難民、いや、意識としては漂着した結果、覚悟を決めて、この地を終の住処としてこの地の先住の人々と共に守り抜こうとした渡来民族なのかもしれません。そうではなくて、もしかしたら長きにわたって支配していた大陸や半島から引き揚げてきた、原日本人である引き揚げ者、かも。
 だから海を眼前にする丘に棲んで、見張りのプレーリードッグのように、背伸びをしていつも海の向こうを見張っていた、と考えたらおさまりやすい。

 白兎神社に参拝して、帰ろうと真正面に海を見ながら急な階段を降りる時、ここが何となく海の向こうを見張る、見張り台のような気がしてきました。そうでないと「白兎神社って、何のご利益があるんだろう」、となってしまいます。
 
 「大国主に助けられたから、『助けられるのが上手になる』のが、ご利益」
 、なんて変ですよね。それなら「白兎を助けた大国主」をこそ祀るべきでしょう。
 やはりこれは、預言をしたことから「先を見通す目を持つ神」だから、
 「謙虚に、真剣に他者のためを思う」、「『先見の明』が備わりますように」
 、となるんじゃないでしょうか。

 ご利益というのは、「ギブ、アンド、テイク」ではないし、「国益」のような、腹黒さ・狡猾・奸智・姦計等が大きく絡む、不安定な損得を指すものでもない。
 「敬し、願い、努めることで、少しでも実現した願い」のことだ、となりそうです。
 「祓、禊の先にあるもの」と考えれば。
 「自らの意志で苦難に飛び込み、飛躍的な向上を」と考えれば。


 是々非々論を振りかざすのも、他者の間違いを糾弾するのも、「自らの意志で苦難に飛び込」み、痛みに耐える(苦心する)ことをしなければ、結局はどこかの党のようにブーメランになって返ってくるばかりで、「ご利益」は夢のまた夢。
 あ、これは蛇足でした。

2017.04/18


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