2012.01/20 (Fri)
先日、「大学の入学を9月に」という報道がなされ、いくつかの番組でもそのことに関するニュースが特集的に組まれていました。何しろ東大で検討が始まった、ということですから、基本、何となし肯定的に見ている感がある。
何でも、世界の大学で、4月入学、というのは僅かに3%なんだとか。それから、日本は明治の初期は9月入学だったのだが、年度の会計締め切りが3月であること。つまり、4月入学はそれに合わせただけだ、と。
それに3月は田植えの準備、田植え等で忙しいから、人手がほしいということで4月になった(?)。
こう言ってしまえば、「4月入学に何ら必然性はない。世界の大勢は9月である。だから、9月にすれば、国際化の中、優秀な人材が世界から日本に集まるから、9月にすれば、全て上手くいく」、となって、「まずは東大からだ。そうすれば国立大は右へ倣え、だ」となる。
「なるほどねえ。さすが東大。ちゃんと最高学府のリーダーシップを取ってるなあ」
なんて考えるんでしょうかね、今の日本人は。
でも、おかしいですよ。
確かに、4月入学に必然性なんかありません。それは9月入学に何ら必然性がないのと同じことです。言い方を換えれば、大学別に好き勝手に入学式、したっていいんです。勿論そんなバカなまねはしない。そんなことしたら、受験生は言うまでもなく、社会全体から猛反発が来る。
入学試験に焦点を合わせて、高校も受験塾も予備校も受験生の家族も行動している。もっといえば、社会全体がその時のために社会の仕組みを特別につくっているんです。時期を合わせて入試をやり、入学をさせる、というのはそのためであること、今更言うまでもない。
「4月が色々な面で、便利だ」。これが理由で4月にした。
では、9月にする理由は?
「世界の大勢は9月である」「9月にすれば、世界中から優秀な人材が集まる」「海外留学もしやすくなる」
先日、「大学の入学を9月に」という報道がなされ、いくつかの番組でもそのことに関するニュースが特集的に組まれていました。何しろ東大で検討が始まった、ということですから、基本、何となし肯定的に見ている感がある。
何でも、世界の大学で、4月入学、というのは僅かに3%なんだとか。それから、日本は明治の初期は9月入学だったのだが、年度の会計締め切りが3月であること。つまり、4月入学はそれに合わせただけだ、と。
それに3月は田植えの準備、田植え等で忙しいから、人手がほしいということで4月になった(?)。
こう言ってしまえば、「4月入学に何ら必然性はない。世界の大勢は9月である。だから、9月にすれば、国際化の中、優秀な人材が世界から日本に集まるから、9月にすれば、全て上手くいく」、となって、「まずは東大からだ。そうすれば国立大は右へ倣え、だ」となる。
「なるほどねえ。さすが東大。ちゃんと最高学府のリーダーシップを取ってるなあ」
なんて考えるんでしょうかね、今の日本人は。
でも、おかしいですよ。
確かに、4月入学に必然性なんかありません。それは9月入学に何ら必然性がないのと同じことです。言い方を換えれば、大学別に好き勝手に入学式、したっていいんです。勿論そんなバカなまねはしない。そんなことしたら、受験生は言うまでもなく、社会全体から猛反発が来る。
入学試験に焦点を合わせて、高校も受験塾も予備校も受験生の家族も行動している。もっといえば、社会全体がその時のために社会の仕組みを特別につくっているんです。時期を合わせて入試をやり、入学をさせる、というのはそのためであること、今更言うまでもない。
「4月が色々な面で、便利だ」。これが理由で4月にした。
では、9月にする理由は?
「世界の大勢は9月である」「9月にすれば、世界中から優秀な人材が集まる」「海外留学もしやすくなる」
何だかおかしくないですか?
「社会の仕組みとして都合がいいから4月にしていた」が、「世界の大勢が9月だから倣おう」「優秀な人材も入って来る」。
「4月入学」には曲がりなりにも国として、理由がある。けど、9月入学のどこに、国は言うまでもなく「最高学府としての理由」、もっと言えば「誇り、自負心、向学心、探究心」があるのでしょうか。「大勢に倣う」ことのどこに「主体性」が、「意志」があるでしょうか。
我が国は「独立国」、ですよ? 優秀な人材を「(外国から)取り入れるため」、ではなく「育成するため」に、学校はあるのではないですか? そして、それは我が国の若者が本来の対象なのではないですか?
大学は最高学府。学府とは「学問の府」、学問の中心地です。「学び問う」のは、公私何れからであっても、その先に社会の、世界の向上・発展があるからです。
だからこそ、社会は学問に敬意を表する。
だからこそ、学生、学者は私利私欲の先を、社会への貢献を見つめようとする。
一見どうでも良いようなことこそ、浅薄な功利、打算で 性急に判断すべきではないことは、ここ数年の「仕分け」と称する小刀細工で取り返しのつかないようなことをした、また、目先の甘言に釣られてとんでもない政党を与党にしてしまったことを思い出せば、容易に納得できることと思います。
え?
「与党を選んだのは『一見どうでも良いようなこと』、なんかじゃないぞ!」
そうですか?
テレビを見る限りでは、
「誰がなったって一緒じゃない?」
「自民党ダメだったけど、民主党も・・・ねえ」
「民主党ダメだけど、自民党に戻ったって・・・」
みたいなことばかり言ってませんか?
「社会の仕組みとして都合がいいから4月にしていた」が、「世界の大勢が9月だから倣おう」「優秀な人材も入って来る」。
「4月入学」には曲がりなりにも国として、理由がある。けど、9月入学のどこに、国は言うまでもなく「最高学府としての理由」、もっと言えば「誇り、自負心、向学心、探究心」があるのでしょうか。「大勢に倣う」ことのどこに「主体性」が、「意志」があるでしょうか。
我が国は「独立国」、ですよ? 優秀な人材を「(外国から)取り入れるため」、ではなく「育成するため」に、学校はあるのではないですか? そして、それは我が国の若者が本来の対象なのではないですか?
大学は最高学府。学府とは「学問の府」、学問の中心地です。「学び問う」のは、公私何れからであっても、その先に社会の、世界の向上・発展があるからです。
だからこそ、社会は学問に敬意を表する。
だからこそ、学生、学者は私利私欲の先を、社会への貢献を見つめようとする。
一見どうでも良いようなことこそ、浅薄な功利、打算で 性急に判断すべきではないことは、ここ数年の「仕分け」と称する小刀細工で取り返しのつかないようなことをした、また、目先の甘言に釣られてとんでもない政党を与党にしてしまったことを思い出せば、容易に納得できることと思います。
え?
「与党を選んだのは『一見どうでも良いようなこと』、なんかじゃないぞ!」
そうですか?
テレビを見る限りでは、
「誰がなったって一緒じゃない?」
「自民党ダメだったけど、民主党も・・・ねえ」
「民主党ダメだけど、自民党に戻ったって・・・」
みたいなことばかり言ってませんか?