2014.06/04 (Wed)
以前に、「同文同種」ということについて書いたことがある。
正しくは「同文同軌」というのであって、同じ文字を使い、同じ度量衡(どりょうこう。はかり。物事の基準。車の「軌」)を使うこと。
「つまり国が統一される、ということ」、なんだ、と陳舜臣が説明している。
ついでながら「軌」というのは、道にできる二つの「轍(わだち)」のことだ。
馬車が通れば土道に二つの轍ができる。この均等な幅の二つの溝は、底が締まって固くなっている。
で、そこに車輪を落とし込んで走ると安定した走行ができる。
それ故にこの「軌」の道を「軌道」というようになる。御存知、鉄道などを「~軌道」というのはそこから来ている。
この「軌」、馬車によって間隔が違っていると土の道は轍だらけになって走りにくいこと、この上ない。だから、「同軌」にする。すると、当然道は快適に走行できる、と。
同じ文字を使い、同じ文章を書く。それは同じ「考えの基本」となる。
同じ「軌」にする。単位を共通のものにすることで、「生活しやすく」なる。
だから「同文同軌」とは、「国を纏め上げる」「国を統一する」、ということになる。
日本人はこれを、「同じ文字」、「同じ基準」と解釈する。それだけだ。
そこには、「変化」「流動」などの予感・不安はない。勿論期待もない。「捉えて、終わり」、だ。概念として捉え、「同文同軌」という語は、その「形容」と見る。そしてそこからの「自然な発展」は喜ぶけれども、能動的に「展開させる」ということは考えない。
しかし、シナでは違う。彼の国はこれ(文字や基準)を、「同じ」という形容詞ではなく、「同じくする」という動詞として、捉える。
概念とか形容ではなく(学者的な、第三者的な立場ではなく)、「同じにする」ということこそが大事なのだ。常にそうしてきた。
当然だろう、そうしなければ、そうやって常に働き掛けねば、侵攻や内乱で、いつ殺されるか分からないのだから。
それで、「同じくする」。してしまったら、その現実が永遠に続くことを信じる。
完成して(完結して)しまったのだから、発展はありえない。
日本人は書いた通り、その本旨を把握することに全力を注ぐ。
島国なんだから、入って来る新しい異質なもの、その基にある考えを、とにもかくにも把握しなければならない。それ(把握)に全力で取り組むうちに自国の能力を高め、いつも少し背伸びをする形で、冷静に発展してきた。パニックになって、上を下への大騒ぎ、なんてことは戦国時代だけだった。
それでも朝廷はちゃんと存在し続けているんだから、世界に見られるパニック現象に比べれば、パニックというのが恥ずかしくなるレベルだ。
やっぱりその時だって、日本は「奇蹟の国」だったわけだ。
そんなだから、「同文同軌」を間違えて「同文同種」とやったって、さほど違和感なんてなかったのだろう。それどころか、敢えて間違いに目をつぶったんじゃないか、とさえ思う。
「同じ文字を使う、同じモンゴロイド。大アジアの民、ではないか!」
でも、実は根本的に違うところがあるのだ、というのが「同」という文字の捉え方だった。日本は形容把握の、「同じ」、と見るけど、シナは動詞、行動の意味で「同じにする」、と見る。
「文を同じくし、軌を同じくする」ことで、国を「統一する」。
だったら「同文同種」は
「文を同じにし、種(だから、この場合は民族)を同じにする」。
つまり、本来、日本の国を動かすべき日本人の男を根絶やしにし、純粋な日本民族をなくす、漢民族だけにする、ということになる。民族浄化、というやつです。
「同じモンゴロイド。大アジアの民!」
なんてのは、本当に能天気な、日本人だけの妄想です。
「漢民族をやめて日本民族だけにするのでは?」とか「アジアの民、で白人に対抗する、なんてのは?」というのは絶対にあり得ない。
何しろ、中華の国なんですよ?蛮族である日本人を人として捉えますか?
「人というのは我々だけのことである」とシナは思い、「人というのは正統を受け継いでいる我々小中華のことである」と、朝鮮は思う。
さて。
日本の学者が意図的にそういった誤用を広めたとは思えない。
けれども「同じ文字を使う、同じアジアの民」というロマンチシズムは多分にあったろう。今なら「グローバリズム」だけれど、昔なら「大亜細亜主義」、だな、きっと。
日本なら形容詞、情況の説明でしかない「同じ」だが、隣の大国は、動詞、働き掛けのための、極めて現実的な「同じにする」としか捉えない民族なのだ。
それも、その歴史を省みるどころか自国の歴史を全否定し、共産主義思想で以て「国の夢」を実現させようと目論んでいる。
その観点から見ると、「平和」なんかは、どんな風な意味になるだろう。
「平和」、「平和主義」。九条の会の専売みたいになってしまったけど、安倍総理の言う「積極的平和主義」なんてのもある。
「平和」。
日本人はきっとこれを「平らか(情景)にして、和む」と読むのだろう。やはり情況を示している、と見る。その状態を描き、それに向かって問題を解決していこうというのが「積極的平和主義」。
対して「今ある平和な状態」、を維持していこうというのが「平和主義」と言える。勿論「平和主義」は欺瞞的だ。「現実主義」ならぬ「現実容認主義」でしかないからだ。
そうであっても「平和」は「平らか」と「和む」、二つの字が同等の意味合いで使われている。形容的、情況説明、静的な日本の捉え方だ。
ではシナの「平和」に該当する語である、「和平」はどうか。
「和」は目的であって「平」は手段だから、「平らか」ではなく「平らぐ」となる。
「平らげて和する」。
これまでの数々の激烈な報道官発言。その裏には何があるのかということを考える上で、こういうことについてちょっと考えて置く、ってことは必要なことなんじゃなかろうか。
以前に、「同文同種」ということについて書いたことがある。
正しくは「同文同軌」というのであって、同じ文字を使い、同じ度量衡(どりょうこう。はかり。物事の基準。車の「軌」)を使うこと。
「つまり国が統一される、ということ」、なんだ、と陳舜臣が説明している。
ついでながら「軌」というのは、道にできる二つの「轍(わだち)」のことだ。
馬車が通れば土道に二つの轍ができる。この均等な幅の二つの溝は、底が締まって固くなっている。
で、そこに車輪を落とし込んで走ると安定した走行ができる。
それ故にこの「軌」の道を「軌道」というようになる。御存知、鉄道などを「~軌道」というのはそこから来ている。
この「軌」、馬車によって間隔が違っていると土の道は轍だらけになって走りにくいこと、この上ない。だから、「同軌」にする。すると、当然道は快適に走行できる、と。
同じ文字を使い、同じ文章を書く。それは同じ「考えの基本」となる。
同じ「軌」にする。単位を共通のものにすることで、「生活しやすく」なる。
だから「同文同軌」とは、「国を纏め上げる」「国を統一する」、ということになる。
日本人はこれを、「同じ文字」、「同じ基準」と解釈する。それだけだ。
そこには、「変化」「流動」などの予感・不安はない。勿論期待もない。「捉えて、終わり」、だ。概念として捉え、「同文同軌」という語は、その「形容」と見る。そしてそこからの「自然な発展」は喜ぶけれども、能動的に「展開させる」ということは考えない。
しかし、シナでは違う。彼の国はこれ(文字や基準)を、「同じ」という形容詞ではなく、「同じくする」という動詞として、捉える。
概念とか形容ではなく(学者的な、第三者的な立場ではなく)、「同じにする」ということこそが大事なのだ。常にそうしてきた。
当然だろう、そうしなければ、そうやって常に働き掛けねば、侵攻や内乱で、いつ殺されるか分からないのだから。
それで、「同じくする」。してしまったら、その現実が永遠に続くことを信じる。
完成して(完結して)しまったのだから、発展はありえない。
日本人は書いた通り、その本旨を把握することに全力を注ぐ。
島国なんだから、入って来る新しい異質なもの、その基にある考えを、とにもかくにも把握しなければならない。それ(把握)に全力で取り組むうちに自国の能力を高め、いつも少し背伸びをする形で、冷静に発展してきた。パニックになって、上を下への大騒ぎ、なんてことは戦国時代だけだった。
それでも朝廷はちゃんと存在し続けているんだから、世界に見られるパニック現象に比べれば、パニックというのが恥ずかしくなるレベルだ。
やっぱりその時だって、日本は「奇蹟の国」だったわけだ。
そんなだから、「同文同軌」を間違えて「同文同種」とやったって、さほど違和感なんてなかったのだろう。それどころか、敢えて間違いに目をつぶったんじゃないか、とさえ思う。
「同じ文字を使う、同じモンゴロイド。大アジアの民、ではないか!」
でも、実は根本的に違うところがあるのだ、というのが「同」という文字の捉え方だった。日本は形容把握の、「同じ」、と見るけど、シナは動詞、行動の意味で「同じにする」、と見る。
「文を同じくし、軌を同じくする」ことで、国を「統一する」。
だったら「同文同種」は
「文を同じにし、種(だから、この場合は民族)を同じにする」。
つまり、本来、日本の国を動かすべき日本人の男を根絶やしにし、純粋な日本民族をなくす、漢民族だけにする、ということになる。民族浄化、というやつです。
「同じモンゴロイド。大アジアの民!」
なんてのは、本当に能天気な、日本人だけの妄想です。
「漢民族をやめて日本民族だけにするのでは?」とか「アジアの民、で白人に対抗する、なんてのは?」というのは絶対にあり得ない。
何しろ、中華の国なんですよ?蛮族である日本人を人として捉えますか?
「人というのは我々だけのことである」とシナは思い、「人というのは正統を受け継いでいる我々小中華のことである」と、朝鮮は思う。
さて。
日本の学者が意図的にそういった誤用を広めたとは思えない。
けれども「同じ文字を使う、同じアジアの民」というロマンチシズムは多分にあったろう。今なら「グローバリズム」だけれど、昔なら「大亜細亜主義」、だな、きっと。
日本なら形容詞、情況の説明でしかない「同じ」だが、隣の大国は、動詞、働き掛けのための、極めて現実的な「同じにする」としか捉えない民族なのだ。
それも、その歴史を省みるどころか自国の歴史を全否定し、共産主義思想で以て「国の夢」を実現させようと目論んでいる。
その観点から見ると、「平和」なんかは、どんな風な意味になるだろう。
「平和」、「平和主義」。九条の会の専売みたいになってしまったけど、安倍総理の言う「積極的平和主義」なんてのもある。
「平和」。
日本人はきっとこれを「平らか(情景)にして、和む」と読むのだろう。やはり情況を示している、と見る。その状態を描き、それに向かって問題を解決していこうというのが「積極的平和主義」。
対して「今ある平和な状態」、を維持していこうというのが「平和主義」と言える。勿論「平和主義」は欺瞞的だ。「現実主義」ならぬ「現実容認主義」でしかないからだ。
そうであっても「平和」は「平らか」と「和む」、二つの字が同等の意味合いで使われている。形容的、情況説明、静的な日本の捉え方だ。
ではシナの「平和」に該当する語である、「和平」はどうか。
「和」は目的であって「平」は手段だから、「平らか」ではなく「平らぐ」となる。
「平らげて和する」。
これまでの数々の激烈な報道官発言。その裏には何があるのかということを考える上で、こういうことについてちょっと考えて置く、ってことは必要なことなんじゃなかろうか。