CubとSRと

ただの日記

「やせ我慢は」 (後) 途半ば

2020年03月27日 | 心の持ち様
2014.06/14 (Sat)

 「南無阿弥陀仏」、は「阿弥陀仏」を心に置き、常に
 「私は阿弥陀仏に抱かれている、阿弥陀仏と一つ(南無=帰命又は一体)なんだ」
 と言い聞かせることで、心の平安を得ようとする。
 対して
 「素晴らしい蓮華経と一体です。私は蓮華経に抱かれている」
 、ってのは、お経が私を抱くのか?
 「そんなバカな!」、ですよね。そうじゃなくて 
 「蓮華経の教えに抱かれている」、ってことですよね。

 「じゃあ、蓮華経を読んで、せめて一通り、理解だけでもしてるのか?」
 、って話です。
 お題目唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる。
 でも、蓮華経の教えが分かるということじゃない。
 「資本論」という題名を百万遍唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる(かもしれない)。でも、マルクス思想が分かるわけじゃない。

 「読書百遍、意、自ずから通ず」、なんてのは「読書」だからであって、「唱題目」では「意」は通じない。
 心を強く持つための修練にはなっても、その物事を理解することに直接つながるわけではない。ただ、集中力つける(心を強く持つ)段階で、その気になれば他人の言うことを聞く力はつく。これが一番大事なことかもしれません。

 「お題目」唱えるのと、「念仏」は、だから些か違います。
 「念仏」は、文字通り「念仏」。仏を念ずる(思う)。
 とは言え、文字通りも、「仏号を唱えるだけ」「心に強く念ずる」「ひたすら呪文の如くに『なんまいだ~』と唱える」等、色々です。
 共通するのは「仏の姿を描き易い」ということ。物事って、はっきりしてると取り組みやすいでしょう?
 「南無妙法蓮華経」は難しいですよ、お経の本を心に描く、って難しいでしょう。だから、逆に「お題目」は、気合を込めて唱えるという手を使う。掛け声に近くなる。
 昔は私の田舎でも、真冬の寒い時に「寒行」といって、団扇太鼓をドンツクドンドンと調子よく叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー」と強く唱えながら町を行進する一団がありました。地元の日蓮宗の信徒でした。水行も同じ調子でやってましたね。
 「な~むあ~みだ~ぶ」と唱えながら延々と大数珠をみんなで繰るのとは、出来上がる意志の強さが違うでしょうね。

 「お題目」を唱える。「念仏」を続ける。「真言」を唱えながら行動する。
 みんな「修行」ではあるけれど、当然のこと、蓮華経や阿弥陀経や仏典に書かれていることを読まなければ、経典は理解できない。
 それでも、そこでできた意志で、法話を聞き(=経典の講義を受ける)少しずつものが見え始める。

 神社に参ったってそうですよ。パワースポット巡り、じゃなくって、何かを感じて、或いはその神社の由緒に感じるところがあってお参りしてみた。
 その「心」を、神様が「見てござる」と、自身が思う。「何事のおはしますかは知ら」ないけれど、何とも「忝(かたじけな)い」と感じて涙がこぼれた。何故なんだろう、一体、あの時、オレは何に感じて涙が出たのだろう、と折々に思い出してみる。
 で、古事記読んだり、祝詞を読んだりしてみる。そうすることで色々なことが見え始める。
 そんな自身の心境を見詰めようともせず、ひたすら現世の御利益を、とオーバースローで賽銭投げて、参拝者の後頭部にぶつけてどうすんだ、と。


 ところで。
 私のように思いついたままを書き散らかして何もしないでいる者と、「行者」と言われるような人は全く違います。死ぬ気でやっておられますからね、そういう人は。
 何が恐ろしいと言って、死ぬ気でやっているのに、側から見ると全く自然で、そんな気配を微塵も見せず当たり前のように色々なことに淡々と取り組んでおられることほど恐ろしいものはない。

 「やせ我慢、やめた」。
 日本の良さ、素晴らしさを何とか言葉に表したい、と。
 そしてそれで一人でも多くの日本人に考え始めてほしい、というのが、私の「やせ我慢」でした、何とかして言葉で表そうというのが。
 でも、やめた。言葉で表すなんて全く実力不足で、できない。
 いや、仮にできたとしても聞く耳がなけりゃ伝わらない。
 伝わったとしても、分かろうと努力しなけりゃ分からない。
 少々努力したって、そう易々と分かることじゃない。
 何しろ日本って、世界が驚くほどハイレベルなんだから。
 いやいや、世界の驚くレベルをはるかに超えた(理解を超えた)ハイレベルなんだから。

 「日本人への道」は長く険しい。
 生まれてから60年が過ぎたけど、とてもじゃないけど、日本の素晴らしさを言葉では表せない。実力不足だ。まだ日は暮れてないけど道は遠い。

 と言うわけで、「やせ我慢」は自分のためだけにすることにしました。
 伝えよう、考えてもらおう、なんて、まだ自分が途半ば。

 だからこれからは「気づいた!」「分かった!」と思ったことを、有頂天になって書き散らすことにします。
 
 何?「それじゃこれまでと同じじゃないか」、って?
 そんなことありませんよ~。
 今まで以上に自分勝手ということで、バージョンアップを目指してます~~。


                        (おしまい)

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「やせ我慢は」 (中)  日蓮のやせ我慢は?

2020年03月27日 | 心の持ち様
2014.06/12 (Thu)

 「やせ我慢」ってのは「痩せ」の「我慢」だ、って以前、書きました。
 その心は「痩せ」は「体力がない」。「体力がない」者が我慢したって「大したことない」。でも、大したことなくても、「我慢」してやってるうちに、体力はついてくる。それに体力がないんだから、「我慢」(無理)したって、大事には至らない。
 そうやって、段々に力がついてくる。体力だって精神力だって同じことなんだから、やるしかないんだ、何度も何度も挫折しながら。

 そんなつもりで、何回か書きました。「生兵法」だって同じで、初めはみんな生兵法なんだ、と。要は生兵法と自覚して、こつこつ、やせ我慢すること。
 「日本は素晴らしい」、なんて言うのはやめるけど、それはいくら言ったって聞いた方に聞く気がなかったり、聞き流してしまったり、そこから自分で一歩でも踏み出そうと思わないなら意味はないんじゃないか、ということだったんです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 気付いたからって
 「何が、どう素晴らしいのか」
 「私には何ができるか」
 「私は、どう生きれば良いのか」
 なんてことを、考えようともしないんじゃ、「うちゅくちい国」って恥ずかしげもなく繰り返す、低劣な物まねとどれほど違うだろうか。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 で、またまた繰り返しなんですが。
 (これからは「やせ我慢」じゃなくって、恥も外聞も、勿論、見栄も体裁も関係なく、やります)
 「分かった」「覚醒した」「気付いた」って、それでOK、っていうペラペラの納得の中身に関して書いてみます。

 しつこく、しつこく「日本は素晴らしい!」って言ってたらね、「ああ、そんなもんかな」、なんて気になるでしょう?
 そりゃあ、中には「ああ!うるさい。日本マンセーッ!って鬱陶しいやっちゃなぁ!耳にたこができるわ!」なんて言う人もいるだろうけど、大概はあまり聞かなかった、公立学校ではまず習うことのなかった「日本って本当は良い国なんだよ」って話を優しく繰り返されると、日本人、根が素直だから「そう言われればそうかもしれないよなぁ。」となる場合が多い。

 自己暗示かも知れませんよ?
 「オレはできる。オレは選ばれた人間だ。オレの代わりはいないんだ!」
 「日本、サイコー!」
 そんな気になってくる。

 繰り返し繰り返し言い聞かせていると、気持ちが揺れなくなる。それどころか確固としたものになってくる。
 実体験がなくって、手触りなんかないもんだから、思い込みが徹すると良いことばかりになってくる。
 だから念仏行者がいるんだし、同じく「良い言葉の繰り返し」、ということで「南無妙法蓮華経!」と声高に唱えること、十万遍、百万遍、なんてことしてると、精神が統一されて気持ちの中から雑念が無くなっていく。

 でもね、「資本論」読まないで、一日中「なぁ~むぅ~しぃ~ほんろぉ~ん~」って繰り返してたらマルクス思想が分かるのか。冗談じゃあないよ、そんなバカなことあるわけない。それと同じでしょ?題目(題名。蓮華教という経品(きょうぼん))に、「お」をつけて「お題目を唱えなさい」、って。
 「南無妙法蓮華経(私は素晴らしいお経の蓮華経と一体である)」と百万遍唱えたら、「蓮華経」の教えが分かるのか?「南無阿弥陀仏」と唱えるのとは、全く質が違うのに???       

 これ、「創価学会の専売」、みたいに思っている人がいるけど、日蓮宗ですからね。創価学会は日蓮宗の中の、大石寺(たいせきじ)派の中の、「講」の一つなんだから。
 言ってみれば在家の信者団体でしかない立場なんだけど、参加者が一時期は一千万人と言われるほどにもなり、本山なんか比べられないほどの財力を持ち、政党までつくって、新興宗教として国に申請、認可され、独自の活動を始めたもんだから、どっちが上だか何だか分からなくなってしまった。

 で、本山の大石寺にああだこうだと口出しする。本山は本山で、献金は受け取りながら、「たかが『講』の分際で!やかましいわい!」、と湯気立てて怒る。
 お互い、日蓮上人の「日本の国を護る!」という誓願はどうなっちゃったんでしょうね。
 日蓮は自分の考える蓮華経の解釈を、国教として認めさせ、自身が国の精神的な柱になる、という彼なりの「やせ我慢」を貫いたんです。
 けど大石寺も、創価学会もホントにまあ・・・・。
 宗祖の心は、どこ行った。

 あ、とんでもなく脱線した。
 結局、こんなぺらっぺらの「納得した!」「分かった!」、のまま、って。
 日本の将来について考えられるのか、です。
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「やせ我慢、もう、や~めた」 (前)

2020年03月27日 | 心の持ち様
2014.06/11 (Wed)

 「日本という国は素晴らしい国だ」
 「日本人はその素晴らしい国を支える奇蹟の民族だ」
 「日本の文化は世界に冠たるものである」
 「もう、とにかく、『日本文化』というより、『日本文明』を持った、『世界の指導者たるべき国』だ。決してアメリカのような腕力で世界の秩序を守ろうとするのではない、『徳を以て世界に範を示す国』なのだ」


 ・・・・・・なんてぇことを、ちょいとばかし遠慮がちに、でも至極真面目に、ここ四年余り、日記に書いて来た。

 ああ・・・・・。
 でも、もうやめることにします。もう「素晴らしい国だ」とか「世界に冠たる文化」だ、なんてこと、言わない。
 いや、ウソを書いて来た、とか宗旨替えをした、とか、「これから『朝鮮人になりたい』とか『シナ最高!』、『やっぱ、アメリカだぜ!イェーィ
』などと言うぞ!!」
 ・・・・と言っているのではない。

 「日本がどうのこうの、ということは、や~めた」と言うだけで、別にウソついていたわけでも、心変わりしたわけでもない。
 いくら言っても、いくら「美しい国、素晴らしい国」と言っても、「ああ、そんなもんかい」、で誰も考えることをしなければ、言うだけ野暮なんじゃないかな、と思ったんです。
 「今は危急の時だ。そんな能天気なこと言ってる場合か!」ってね。
 反対に端から「日本は素晴らしい」、だなんて思ってもいない人にいくら言ったって聞きゃしないでしょ?松尾貴史をごらんよ。
 安倍総理のマネして「ウチュクチイ国、うちゅくちい国」と散々に言ってた。
 今の二次安倍政権になってからはあまり言わないのは、今言ったら顰蹙を買うばかりで、誰も笑ってくれないからだ。
 いずれにしても「なるほどそうだ。日本は美しい国だ」と思ったら、決して口まねはしなかったろう。それくらい低劣な、悪口そのもののような口まねだった。

 「思ってない奴はそんなもんだろう。でも『美しい国』と言われて気付く人もいる筈だ」。そう思ったからこそ、細々と日記を続けて来たけれど。

 けど、気付いたからって「何が、どう素晴らしいのか」、「私には何ができるか」、 「私は、どう生きれば良いのか」、なんてことを、考えようともしないんじゃ、「うちゅくちい国」って恥ずかしげもなく繰り返す、低劣な物まねとどれほど違うだろうか。


                        (続く)
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「こうやってさらわれました」

2020年03月27日 | 心の持ち様
2014.06/09 (Mon)

 いつもの通り、アクセス状況を見たら、どうしたことか今日に限ってこの時間(午後8時)で既に60件以上のアクセスがある。
 滅多にないことです。年に一回、あるかないか、です。

 記憶にあるのは「万理一空」、ですかね。琴奨菊が大関になった時、「カッコいい言葉を」、ということで「万里一空」と言った。
 それが「いや、あれは万理一空だ」とか「いやいや、巨人の桑田選手が万里一空、と言ったんだからそれでいいんだ」とか随分喧しいことでした。
 おかげで、毎日2、30件しかアクセスのない私の日記に二日間ほどで300件余りのアクセスがありました。
 
 それに味をしめてというか、うれしいもんだから調子に乗ったというか、
 「アクセスを増やすにはどうしたらいいのか」、
 「やっぱり、時事ネタをそれと分かるように採り上げるのがベストだろ?」
 なんて考えたりして。
 実行はできないことが分かって諦めましたけどね。
 何しろ、「そこら辺にいるただのおっさん」、です。当意即妙に時事ネタを、とやるには引き出しが少な過ぎる。
 だから相変わらずコツコツと思ったことを書いたり、はっと思わされたブログの一文を拝借したりで、今日になりました。

 それが「万里一空」ほどではないけれど、明らかにいつも来て下さる人とは違うアクセスが昼過ぎから夕方にかけて集中している。
 検索ワードを見て合点がいきました。
 「ぬすまれた町」の著者、古田足日氏が亡くなったんですね。
 私の忘れられない、強く印象に残っている作品の一つ。
 意識するしないにかかわらず、この作品は、敗戦後、「日本の革新」を主張したものと思います。

 戦前の「子供にも芸術性の高い、良質なものを」という、「赤い鳥」をはじめとする「芸術運動」と違って、敗戦で戦前の日本を全否定する、新しい日本をつくるための思想教育。「少国民」でなく「少市民」による「革新行動(革命運動)」のススメ、みたいなものを感じさせるような本でした。

 戦後の「児童文学」と言われるものには、大なり小なり、社会主義思想が、濃く大きな影を落としています。
 だから、それらの本を夢中になって読んだ本好きの子供たちは、気付かず 
 「革新こそが大事なんだ。日本を作り替えなくちゃいけないんだ」
 なんて事を思うようになる。

 転載しますので目を通していただければ幸いです。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

        「ぬすまれた町」
                            2011年3月20日


 (これも陰謀論の発生する根の一つなのかもしれません。「ファンタジー」と言われるものも、捉え方次第でそうなります。)

 もう四十年近い昔。
 受験勉強をする、という名目で、高校三年生の夏は市立図書館に入り浸っていました。
 それが本当に名目だけで、図書館に行っては本を数冊借りて帰る。
 帰ったら、それを読んでいるうちに日が暮れる。夜になっても読んでいる。
 大概、一日に二冊は読んでしまう。
 全部子供向けの本ですからできる芸当です。

 小学校高学年から中学一年くらいまでを対象にした、「児童文学」「少年少女小説」という部類のものです。
 高校の三年生が読むようなもんじゃないと言われても、中学生頃から読み始めるには、大人の本は早過ぎる。
 今でも、「吾輩ハ猫デアル」なんて、中学生の時に読むものじゃなかったなと、ちょっと後悔しているし、「坊ちゃん」だって、いくら早くても十八歳くらいからだろう、と思っています。

 「良いものは良い」なんて、少なくとも、小説に関しては乱暴な決め付けです。何事にも加減というものがある。
 (それにしても、高校三年が児童文学なんて、という気もしますが。)

 大正時代、それまでの「お伽噺」から、「子供にも本物の文学を」という風潮が生まれ、鈴木三重吉という作家が編集人となって、「赤い鳥」という雑誌が創刊されました。
 大人と同じく子供にも、一流の作家の子供向けの作品をということで、当時の文壇の、(と言っても大家は無理ですから)気鋭の作家の作品が載せられました。
 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」「魔術」などは、その時のものです。

 子供向けの作品を「童話」と呼ぶようになったのはこの頃からです。
 「童話」「童画」「童謡」などが多く作られるようになり、同じような雑誌もいくつか創刊されました。
 こう書いてみて、改めて見ると「わらべ向けの話」「わらべ向けの絵」は分かるけど「わらべ向けの謡い」ってのはちょっと・・・・。
 
 脱線しました。
 ただ、これらは全て、「大人の目で見た子供の世界」で、芸術作品としての評価は高いものの、多くの子供が喜んで見た、というわけではなかったようです。

 敗戦後、全てを変えることになった日本では、子供向けの読み物にも、思想色が見えるようになります。道徳の教科書のように、社会について、戦争について、などを考えさせる物が多くなっていきます。
 勿論、社会主義的な考え方を持った人が、次代を担う子供のために、と書くのですから、どんな形になるか、容易に想像できるでしょう。

 見習うべき「立派な大人」の話は、決して書かない。それを書くことは戦前、戦中の大人を肯定することになります。世界の象徴である大人を否定しなければ、新しい世界は描けない。
 だから、まずは、大人は描かず、子供の今を中心に物語りを展開させざるを得ない。
 そう言うわけで、偉人伝が消えていくことにもなるわけです。

 「燃える湖」「ぴいちゃあしゃん(筆架山)」の名前は、今でも覚えています。

 中でも忘れられないのは、古田足日(ふるたたるひ)の「ぬすまれた町」。
 印象的な場面が、最初にあります。その印象が強くて、後に続く話が褪せてしまっている。
 
 誰もいない部屋で、テレビのニュースを見ていたら、子供がさらわれたことを言っている。
 ん?と思って耳をそばだてると、その子供の名前が自分と同じだった。
 え?と思って画面を見ると、「○○くんは、このようにしてさらわれました」とアナウンサーが言うと同時に、テレビの画面から手が出て来て、その子をテレビの中に引きずり込む。

 気がつかないうちに一人、また一人と、人の心がテレビの向こうにさらわれて行き、いつしか町には見ず知らずの人ばかりが住んでいる、といった題名どおりの「ぬすまれた町」。心をぬすまれた町、です。
 時間泥棒に時間を盗まれた、ミヒャエル・エンデの「モモ」と似たところがある。

 全体に流れているのは、隣の人は本当に同じ人間か、という言いようのない不安感と不信感。

 戦争に負け、誰も信じられなくなった。良い人、みたいに見えていた人も、本当はどうだか分からない。疑ってかからねばならない。
 そして、子供同士、手をつないで戦う覚悟をしなければならない。
 けど、その子供同士にも、実は底に不信がある。
 私の日記にそんなことを書いていたのを、思い出して下さった方。
 そうです。70年安保の頃の学生の心象風景です。「ぬすまれた町」は、60年安保の翌年に出版されています。

 小学生の頃に読んでいたら、不信感と、「戦わなければ」、という気持ちが芽生えていたことと思います。
 高校の三年だったから、幼稚なりに実に嫌な気分が残り、その原因が、あの頃の日本を否定しているような話の内容にあった、ということだけは分かりました。

 大正期の児童文学(童話)と、戦後のそれが、全く違ったものであること、そして、それを本好きの子供は読んで、育ったのだということを考えれば、70年安保も、またもっと皮膚感覚で分かるのかもしれません。

 大震災への対応を受けて、菅内閣の支持率35,6パーセント。
 報道により、ここまで知らないうちに人心が盗まれている、のかも。
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木鐸は迎合しない

2020年03月27日 | 心の持ち様
2014.06/09 (Mon)

 産経の「新聞に喝!」という論評で思い出したこと。

 「国民は三流だけれど、政治は一流」
 、なんてことはあり得ない。
 逆にテレビでは能く
 「日本は国民は一流だけれど政治は三流だ」
 、なんてこと言うけど、これまた、そんなバカなことはあり得ない。
 一流の国民が選び出した政治家が三流なわけ、ないじゃないか。独裁国家は知らんけど。
 まあ、独裁国家に一流の国民は存在しないわな。国家のことを考えたら粛清されるんだから。当然独裁者も一流たり得ない。
 日本は民主国家だから、国民はちゃんと考えたら、一流になれるし、政治家だって一流の者を選び出せる筈だ。
 問題は考える手助けをする筈の新聞等のマスメディアの姿勢にある。

  以下は転載です。 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 国会では集団的自衛権の行使容認に向けた解釈変更をめぐり論戦が続いている。各紙の社説を読み比べると、朝日、毎日、東京が反対し、読売、日経、産経が賛成ないしは容認と色分けできる。最近では原発問題や秘密保護法でもおなじみの布置状況である。
 国論を二分する問題であれば、新聞すべてが一色に塗り込められるより健全なことだ、とひとまずは言えよう。
 しかし、各紙が発表する世論調査の結果が、社論の布置状況と重なるとすれば、それは健全といえるだろうか。
           (略)
 世論調査が科学的でないと言いたいのではない。むしろ、逆である。世論調査の最大の危険性は、それが正確であるところから生じてくる。自社が行った世論調査の数字、つまり世論に社論が引きずられる危険性である。

 すでに80年前、満州事変から国際連盟脱退へと続く危機状況の中で、時事新報編集局長の伊藤正徳がこれを厳しく批判している。『昭和九年 新聞総覧』に掲載された「社説の失地恢復(かいふく)に就いて」は今も価値を失っていない。

 「読者大衆の感情を察し、なるべく之(これ)を損しない範囲内に於(おい)て立論するといふ筆法」を、伊藤は「新聞の大衆的転化」と名付けた。それは「衆論を排して敢然と指導の正論を草するのが新聞人の天職であるのに」、「経済的には大部数の維持、思想的には輿論(よろん)構成の安易、といふ二つの観点から、社説を以(もっ)て読者大衆を代弁するに至る現象を指す」。その結果、「最も多く部数を売る為(ため)には、紙面を読者の好むやうに作る必要があることは言ふまでもないが、それが其新聞社の社論の上にまで影響し来るのである」と記す。

 こうした社説の「大衆心理への投合」こそ、「言論に対する抑圧」とともに不幸な時代を招くというのだ。
 リベラルな新聞人として伊藤は、戦後も共同通信社や日本新聞協会の初代理事長、産経新聞論説主幹などを歴任した。歴史に学べと読者に説くジャーナリズムこそ、自らの歴史に学ぶべきではあるまいか。

 「世論調査が社論を引きずる危険性」 2014.6.8

        京都大学大学院教育学研究科准教授・佐藤卓己
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140608/stt14060812310002-n1.htm
  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「衆論を排して敢然と指導の正論を草するのが新聞人の天職」って、
 「新聞は社会の木鐸たれ!」と言ってるんですよね?
 「国論(世論)を正論で以て導くのだ」、との大志を持って然るべきである、と言ってるんでしょう?
 であるのに、「経済的には大部数の維持、思想的には輿論(よろん)構成の安易、といふ二つの観点から、社説を以(もっ)て読者大衆を代弁するに至る」などという現実が展開されているではないか、と、80年前、伊藤正徳氏、怒ってます。

 けれどそんなことは知らぬこととして、自社内の支局からWSJに記事を送って掲載されたものを「米国でも記事になってる!大変なことだ!」と逆輸入して自社の新聞に載せる。そんな新聞社もある。
 こんな姑息なマネは「国論(世論)を正論で以て導く」とは言わないでしょう。
 情報の捏造、誤誘導でなければ良いとばかりに、早合点するように仕向け、印象操作を仕掛ける。結果出てきた数字を基にプロパガンダを読者にかける。そして「国論(世論)を正論で以て導くのだ」と大見得を切る。

 しかし、「衆論を排して敢然と指導の正論を草するのが新聞人の天職」という中の、「衆論を排して敢然と」の部分が見事に欠落させて、ただ「指導の正論を草す」るのだと強弁しているだけではないか。
 印象操作で出した数字の裏付けなんかを正論の裏付けにするというやり方、姿勢の姑息さを恥ずかしく思わないのだろうか。


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