CubとSRと

ただの日記

石見尊徳(岩谷九十老)

2020年03月07日 | 心の持ち様
2012.06/19 (Tue)

 岩谷産業の創業者、岩谷直治のことで、「ごく当たり前のことに一所懸命に取り組む。それが人々の必要とすることならば、必ず受け入れられる」と考えた、その根底には少年期の家庭教育があり、その中できっと両親は直治少年に岩谷九十老のことを話して聞かせたに違いない、と書きました。

 「思い込みが激しいな」と言われそうです。
 けれども、西郷隆盛、大久保利通の人格はどのようにして成ったのだろうと日記に書いた時、折々に親の見せる「姿勢」、「諭(さと)し」、というものは、決定的な指針になる、と確信しました。
 西郷の場合は「父の仕えていた上士の切腹」、「父による介錯」、「上士の形見となった血帷子(かたびら)を前にしての父の話」。
 西郷の場合は、幼少期ではないけれど、この鮮烈な記憶は後の西郷の在り方を決定付けたと思われます。

 岩谷九十老は武士ではありません。それに豪農ではあったけれども、彼が生まれた頃は名字帯刀も許されていない百姓です。しかし、百姓であろうが武士であろうが、育ち方によって、国を思う気持ちは芽生えます。
 武士が命を投げ出す、百姓は切腹はしない。けれど、同じ日本人としてできることはある。「救世済民」、です。
 「それぞれがそれぞれの立場で、世の役に立ち、一人でも多く人を救うこと」
 これは日本国民なら、誰だってできることです。

 九十老は母親の乳の出が悪く、小作農のところに預けられ、板の間に蓆を敷いて寝る。又、麦飯さえ食べられず、芋飯を食べて育ったという幼児期を過ごしています。
 家に帰ってからも使用人と同じように働きながら、近所の医師の下で勉学に励みます。四男だったということなので、普通ならほとんど使用人のような状態で一生を終えるものですが、父親は九十老に家督を継ぐ器量があると見定め、学問をさせたようです。
 ただし、繰り返しますが、使用人と同じ生活をしながら、学問をするわけです。
 「百姓に学問なんか要らん!」と言われ、大学はおろか、高校だって行かせてもらえなかった、というのは昭和も40年頃までは普通のことでした。

 九十老は豊かな生活が当たり前になった子供や孫に、「人間は働かなければ罰が当たり、豊かな生活も、人の上に立つこともできない」と言って、仕事の中でできた傷を見せながら、常々語っていたそうです。

 三十前に家督を継ぎ、河合村の総年寄りとなり、浜田、福山、因幡の御用達となります。安政の大飢饉での働きにより、幕府から名字帯刀を許され、福山藩からは米五百俵を与えられましたが、全て河合村の村方に寄附してしまう。
 そのため、以降「米安様」とか「米安大明神」と敬慕されるようになる。
 十年後、幕末の世情不安の折、近隣の鳥井村から一揆が起き、河合村にまで迫った時には石見一宮国造の金子氏と共に一揆の前に立ちふさがり、「こんなことをしても何もならん。私に任せてくれ。それでも、と言うのなら、私を殺して行け」と一揆を説得。資産家を説いて回り、米を供出させ、衆人に分配して一揆を収めさせることに成功した。

 殖産に励み、養蚕のために桑の木を一千株自費で購入し、但馬から職人を招いて技術の伝播に努めたり、用水路の整備をしたり、と、それこそ休む間もなく働き続け、更に重ねて学問にも励み、宅野村から井上恭安を招いて自宅に「洪愛義塾」を開く。塾生は数百人に上ったといいます。
 これらの働きのため、人々は九十老を二宮尊徳になぞらえて、「石見尊徳」と称えるようになったそうです。
 そんな働きの間に既出の荒廃の進んだ石見一宮物部神社の改築のため、私財を投げ出し、資金集めに奔走し、これを果たす。
 (今、調べてみたら、物部神社の社家、金子氏は全国に14しかない社寺の華族(男爵)の一つだそうです。島根には三社家があって、あとの二社家は出雲国造の北島家と千家家。)
 物部神社にある顕彰碑を見れば、そのあたりのことが詳細に書かれているようですが、今回どうしても書いて置きたいことがもう一つあります。
 それは「新嘗祭への稲穂献上」のことです。

 貝原益軒や太宰春台の本を読み、「実用の学」を学ぶ中に、国民としてできることは、と考えたのが「新嘗祭への稲穂献上」だったようですが、この願い出は九十老が三十歳の時から始まっているのです。明治の代になる三十年も前のことです。
 初めて出願した場所は地元の大森代官所。石見銀山のある大森町に設けられていた代官所です。
 勿論、先例のないことですし、新嘗祭が行われる朝廷に、ではなく幕府の出先機関である代官所ですから、断られます。1837年のことです。
 しかし、国民のできること。「感謝の念を朝廷に捧げたい」との思いは止むことがなく、1844、1845、1868(明治元年)、1870、1872、と願い出は繰り返されます。その間、幕府の大森代官所、大森県、浜田県と出願場所は変わりますが内容は同じです。
 そして、1882年(明治15年)岩倉具視が明治政府へ伝え、翌年侍従がそれを聞き入れ、更に三年後、1886年(明治19年)、遂に稲穂の献上が適います。
 初めての願い出から、実に50年近い年月が経っています。

 「石見尊徳」と仰がれたことといい、この稲穂献上といい、表面だけ見れば、ただ「偉人」、「初志を貫いた人」で括られるだけのことかもしれません。
 でも、忘れてならないことは、優秀ではあったとしても、畢竟どこにでもいる一人の日本人であるということです。
 そしてその一人の日本人が、倦まずたゆまず、「働かなければ罰が当たる」と寸暇を惜しんで働き、学問に励み、国を意識し、皇恩に感謝し、何かできることは、と考え続け、行動し続けたことです。
 「働かなければ罰が当たる」
 それは「コワいから働く」、なんてことじゃ、ありません。
 「罪悪感から」、とか「恐怖から」とかいったものではない。「働かなければお天道様に申し訳ない」と言った方がいいんじゃないかと思うような素朴な勤勉さです。

 「何故だか分からないけれど、人の喜ぶ顔を見たい。」
 「笑う顔を見たい」、ではありませんよ。
 「何故だか分からない」けれど、国のため、人のために何かをしたい。
 この気持ちは一体何処から来るのでしょう。

 やはり、両親に倣い、長じてはそこで培われた心持で以って、学問に取り組んだから、でしょう。


 (註 井上恭安は井上豊太郎の祖父です)
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岩谷某に関して

2020年03月07日 | 心の持ち様
 以前に、石見一之宮である物部神社を参拝した時のことを。
 ・・・・・・・・・・・・・
2012.01/18 (Wed)

 物部神社は石見の国一ノ宮です。と言っても市内なんですけどね。
 だけど、何しろ交通の便が悪い町外れにあります。だから、これまで、バイクでは行けず、過ごして来たんですが、今年から、タイヤが二つ増えたもので、普通の格好をして行けます。

 銅版で葺かれた立派な拝殿を持つ妻入りのお社。
 いつもそうなんですが、二拝二拍手をして、一拝をする、一拝の終わり頃になって、何も考えていなかった、お祈りをすることを忘れていたことに気がつきます。
 今日もそうでした。で、慌てて「国家安寧」の四文字を心に浮かべ、お参りを終えました。おみくじも引かず、賽銭も出さず。手水だけはちゃんと使いましたが。
 ツーリングに出た時には、必ずと言って良いくらい、その地の神社に参拝しています。今思っても不思議なくらいです。「神社めぐりツーリング」というわけではないんですが、何故か参拝に行っている。

 昨年末、この神社に古い神札を納め、新しい神宮の大麻と、この神社の神札をお受けした帰り際に、境内に大きな石碑があることに気がつきました。
 戦没者の慰霊碑なんだろうか、と思いながら見に行ってみると、これが顕彰碑。
 何でも、この神社は石見の国一ノ宮ながら、この顕彰碑に書かれた人物が相当に力を注ぎ守って来た、といったようなことが書かれているような気がするのですが、何分大きな石碑で近視眼プラス乱視眼、下半分辺りを拾い読みする程度だから、どうもはっきりしない。ただ、「岩谷」とあったから「そうか!岩谷産業の初めか!」と早合点。(早とちりだったことは前回の日記の通り)

 で、今日、参拝の後、何となく思っていたことが形になってきました。
 この神社は、創建は継体天皇の頃、ということで大変に古く、戦国期には石見銀山の争奪戦の結果、二度、三度と焼失してしまった社殿を、吉川元春が再建したものの、幕末にはやはり荒廃が進んでしまっていたのだそうです。
 それを、この「岩谷」某が私財を投げ出し、更に寄付を募るために奔走して、立派に改修したのだとか。
 まあ、これだけの石碑を建てられるだけの大人物だったんでしょうね。

 私はこの石碑を見るまで、この川合(かわい)という土地に、一ノ宮があることは知っていたけれど、岩谷某という篤志家がいたことを全く知らなかった。
 そして、この人物の奔走がなければ、もしかしたら、一ノ宮は消えていたかもしれない、ということを考えることもなかった。

 何んとなく思っていたこと。
 目に見えない高度な考え(思想)は、なかなか他者に伝わらないし、伝わったとしても後世に伝えられるかどうか。その保障はない。
 けれど、伝わらなくても、また、伝わったけれど、以降伝えられなかった(途絶えてしまった)場合でも、こういった社殿や石碑のような何らかの目に見える手掛かりがあれば、必ずそれに目を留める者が出て来るのではないか、と思ったのです。

 考えてみれば我々の一生というのは、大半の人が無名のまま、市井に埋もれて消えていくだけです。
 だから、私自身、「何の変哲も取り柄もない、何をやっても中途半端なただのおっさん」と何度か書いて来ました。そして、「そんなおっさんが日本人の大半である筈だ」、と。でも、それ、ちょっと早計だったのかもな、と思いはじめました。

 有名無名の基準なんていい加減なものです。「笑ってコラえて!」じゃないけれど、分母を何にするか、で状況は大いに変わって来る。
 何かに一所懸命に取り組んでいたとする。その姿勢が関係者に多大な影響を与えるだろうことは想像に難くないでしょう。
 そうなると、関係者にとって、その人は中途半端でもなんでもない、「一所懸命生きた人」「見習うべきすごい人」になります。
 関係者の中で、その人の生き方、志は残り、規範とされていく。「死して死なず」、です。これが「魂は不滅である」ということでしょう。

 「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」「~骨を断たせて命を取り、命を取らせて名を残す」等も同じことを言っているのだと思います。
 日本国民の大半は「中途半端な、何の取り柄もないただのおっさん」であることに変わりはないけれど、一所懸命に何かに取り組んでいる姿勢から、何かを読み取る人はきっといる。
 人間は意図的にしか物事を見ることができないものですから、必ず何かを見つけ出し、己が物にしようとする。そういうごく小さな物事への取り組みからだって積み重ねられれば、その人の認識能力は高まり、それらが民度の向上へとつながっていくのは間違いのないことだと思うのです。民度の向上は、当然、国力、あらゆる面での国の力の向上に直結します。

 「中途半端な何の取り柄もないただのおっさん」。これを「どうせ」「中途半端な~」とするのでなく、「中途半端な~」「だけど」としたら。
 「中途半端な~」は謙虚。「だけど」からは、「やせ我慢をする」、です。


 追記
 日記を書こうとして「岩谷某」のことをネットで調べたら「岩谷九十老」の名前で出ていました。何と、「国民学校修身書」に載っている人物でした。「修身書」はそれまでの「国語読本」ですが、国民学校とあるので、戦時中のものということになりますね。
 第十が「岩谷九十老」。第十一が以前日記に書いた「松阪の一夜」でした。
 郷土の人物が教科書に載っていたことを知って、またびっくり。

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まずは岩谷直治から

2020年03月07日 | 心の持ち様
 前回、【以前に岩谷直治のことを日記にした時、《大田の同姓の偉人「岩谷九十老(くじゅうろう)」の話が、両親によって直治少年に伝えられていたに違いないと思えて仕方がないのです。》と書きました。】
 なのに、ここにはまだ転載していませんでした。
 ・・・ということで、岩谷直治のこと、岩谷九十老のことを遅まきながら転載しようと思います。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「岩谷直治(いわたになおじ)という人」

 2012.06/11 (Mon)

 先日、或る人の日記で、岩谷産業の「ミルサー」という家電のことが採り上げられていました。話はここから始まって、岩谷産業の挙げた広告のことへ。
 岩谷産業の創業者は私の地元出身です。それで、折角(?)のチャンスだから、ちょっと調べてみようかと思いつきました。
 以前に少し触れた、岩谷九十老(くじゅうろう)と親戚関係にあるのかどうかは分かりません。

 先日、この岩谷産業の挙げた広告が話題になり、何だか不買運動が起きそうな気配です。内容は早い話が以下のようなところ。
~~~
 「資源のない日本が、今突然原発を全停止するなんて無茶だ。資源のない日本こそ、これまでに培ってきた技術力で、原発の安全性の維持・向上のために貢献しなければならないのではないか。そして、段階的に再生可能エネルギーへの移行を。」
~~~
 将来のことを考えるなら、至極当然の考え方が載せられていただけなんですが、脱原発・反原発が声高に叫ばれている中で、敢えてこの広告を掲載した。それが故に不買運動に発展するかもしれないのに。まさかそこまで考えなかった、なんてあるわけがない。言ってみれば確信的行動でしょう。物議を醸し出すであろうことを承知の上で。
 この会社の覚悟に、ちょっと感動しました。

 地元の図書館に行ったら、郷土の偉人伝がありました。そこに創業者である岩谷直治のことが書かれていました。
 岩谷産業は昭和に入ってからの会社です。新しい。今で言えば、「先端産業」の会社ということになります。
 何しろ、日本で初めてプロパンガスの販売体制を作った(昭和27年)会社です。「マルヰプロパン」がそれです。

 いきなり脇道に逸れますが、「何で『岩谷産業』なのに『マルヰ』って言うんだ?」とずっと思ってました。キャンプや野外でのバーベキューなどをする人なら、誰でも知っている「Iwatani」の名ではなく、「マルヰ」。
 気がついてみれば簡単なこと。「イワタニ」の「ヰ」を丸で囲っただけでした。
 (「いわたに」の「い」は本来「ゐ」。「わゐうゑを」の「ゐ」。だから片仮名ならば「ワヰウヱヲ」で「ヰ」。)
 東京オリンピックの聖火台の火はマルヰプロパン。岩谷産業が次世代エネルギーとして開発した液体水素は、初めてH1ロケットに使われた。

 我が国には資源としての燃料がない。しかし、海水ならば無尽蔵にあり、液体水素ならば空気も汚さない。液体水素を安価に作れるようになれば、燃料の心配も有害物質の心配もなくなる。
 なるほどと思う、ごく当たり前のことで、これ随分昔から言われてきたことでした。でも、そのための装置、生産コストがまだまだ高いから、大企業であっても、なかなかそれをやろうとはしません。

 岩谷直治が、神戸に出て郷里の先輩の下で商売を習い、大阪で独立したのは昭和5年(1930年)。世界恐慌の年です。こんな時に商売を始めるというのは、普通の人なら二の足を踏むところ。
 それを「不況の後には好況が来る。不況の時こそ地固めをする」との信念で開業したのだそうです。
 これだけならば、「一か八か」、みたいなところがあります。実際、いつ好況になるか、誰にも分からなかったんですから。
 しかし、当時扱っていた酸素・溶接材料・カーバイト等は重工業には欠かせないものです。これは好況、不況に関わらず必要なものであり、工業が発達する際には必ず需要が伸びる。つまり、一見、「背水の陣」なんだけれど、腹を据えたら、これ、鉄壁なわけです。腹据えなきゃ、早々に浮き足立ってアウト、でしょうけどね。根性据わってるなと思います。

 私は商売のことは(ことも)よく分かりませんが、岩谷直治の考え方は分かります。
 ・社会に必要なものは栄える
 ・創業の苦しみは繁栄のための投資である
 ・義務を果たせば権利は必ずついてくる

 これらのこともまた当然のことです。しかし、やっぱり腹を据えなきゃ出来ません。
 「腹を据えるったって据えたことないから分からない」?
 これ、「実直に取り組む」ということとあまり変わらないのではないでしょうか。脇目も振らず一所懸命、です。一所懸命だから、ばたばたする余裕はない。側から見れば「腹が据わっている」と見えるし、「敵千万人と雖も我征かん」に見える。
 逸話を一つ。
 値上がりしそうな商品、値上がりすると分かっている商品を、岩谷は値が上がる前に得意先を回り、「今、買っておいた方が良い」と勧めたそうです。
 普通なら、もうちょっと待ってそれから大儲け、でしょう?株の売買なんて、法律の網にかかるかどうか、というぎりぎりのところでそれをやる。
 けど、岩谷直治は、まず、安いうちに売ってしまう。それを繰り返すことで信用が出来るし、当然利益は別にして、売り上げは間違いなく上昇する。典型的な「薄利多売」、です。「商人道」のセオリー通りですが、なかなかできることではないでしょう。「出血大サービス!」とは根本的に違う。
 この創業者の信念あってこそ、の先日の広告ではないか、と思ったのです。

 では、この創業者岩谷直治の信念はどうやって培われたのか。
 今、地元の図書館で「大田市人物伝」というのを見ながらこれを書いているのですが、そこには「少年時代の家庭教育」、「大田農学校の校風と先生」、そして「神戸での店員時代の苦労」などが挙げられています。
 言うまでもなく「三つ子の魂百まで」、です。「少年時代の家庭教育」がよほどしっかりしていなければこうはいかないでしょう。
 岩谷の成功自体、奇跡的なものだと言えるでしょうが、人間というもの、後にやったことを見ると、少年時代、「立派な生き方」というものをしっかりと教えられてきたか否かが何よりも大きく関わっている、影響を与えている、ということがよく分かります。
 私はどうしても、この大田の同姓の偉人「岩谷九十老(くじゅうろう)」の話が、両親によって直治少年に伝えられていたに違いないと思えて仕方がないのです。
 人の生き方を敬し、その生き方を倣いするうちに、立派な大人になっていく。
 今度はそれを後生が倣い、勉学に励む。気がつけば、国が立派になっている。
 いや、そんな国民が支える国が立派にならない筈がない。

 間違っても「我が国はつまらない国」「極東の何一つ資源のない夷人の国」
「猿真似しか出来ない創造力のない国」などと、ただ自国を卑下し、他国を羨んで過ごすようなことをしてはならない。
 ・・・・・・と思いませんか?

 あ、また脱線した。 
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「石見銀山から」 ⑨大森町の人々(後)

2020年03月07日 | 心の持ち様
2013.09/07 (Sat)

 初めは「ただの廃坑だ」と、その価値を認めようとしなかった大森町の人々も次第に考えが変わり、「町を守らねばならない」と思うようになってきた。
 それで何を始めたか。
 「まずは、環境整備だ」、と。町並み保存の援助金が出るという事になった時、大森町は町を挙げて景観保存のための行動を始めました。
 いくら援助金が出るから、と言っても、その分、日常生活が便利になるというわけではない。それどころか景観保存のために行うことは、家の外観を旧来の物に戻すことであり、ガレージなどを道路に面したところにつくれない、ということでもあります。つまり、却って生活するには不便になる。何より、いくら援助金が出るから、と言っても自分の懐からも、相当なお金が出ていかざるを得ない。
 「でも、それが町のためになるのだから」。

 銀精製のための燃料として常に植え続けられてきたものの、人手不足で今は手を付けられず荒れ放題になっていた里山を、年に何回も町民総出で手を入れる。仕事の合間、休日を使って、です。
 「でも、それが町のためになるのだから」

 「大森は大事な町なんだ」と聞いて育ち、会社を興したその人は、老朽化が進み解体が検討され始めていた無人の役所跡の建物(元代官所の建物)を買い取り、補修して銀山資料館としました。

 県の後援が決まったから、と相当な覚悟で登録申請に動き出したことがあります。登録決定の十年以上前です。
 ところが、処々の情況から、国の後援を得るのは困難と判断した県は、「見込みなし」と手を引いてしまった。梯子を外された形の大田市は何もできなかった。計画は頓挫した。「プロジェクトX」ならぬプロジェクト「✖」。
 けれど大森町民は諦めなかった。もう一度申請の準備をしようと町並みの整備、里山の手入れを続けていった。

 きれいになった町並みと、登録申請の話題が呼び水となって観光客は段々と増えていきます。
 そして六年前の夏、大方の予想を覆して世界遺産登録が決定したのは御存じの通りです。文化遺産の中でも、「産業遺産」という、一般には分かりにくい世界遺産です。観光地として見るべきものはほとんどない「人類の歴史」遺産です。
 掘るだけではなく、精製までする。そのための燃料も植林により自給する。そんな世界に類を見ない、ほぼ完成された形の産業形態を持つ鉱山です。

 以前に岩谷直治のことを日記にした時、
 《大田の同姓の偉人「岩谷九十老(くじゅうろう)」の話が、両親によって直治少年に伝えられていたに違いないと思えて仕方がないのです。》
 と書きました。
 石見銀山も同じことと思います。

 親が「ここは世界的な銀山だったんだ」と、折に触れ子供に話していれば、子供は目を輝かせてそれを聞くでしょう。そして大人になって、周囲の人々にそれを語って聞かせる。「私も聞いた」「オレも知ってる」との声が広がれば、それは確かな町の誇りとなり、連帯の始まりとなるでしょう。
 逆に親が、「ここには昔、銀山があったんだが、今は何もない山村だ。こんなところに居たって、良いことは何もない。昔のことを振り返ったって何の役にも立たん。一円の儲けもないんだからな」と、郷土を軽視し、歴史を無駄と切り捨てて子供を育てれば、子供も郷土を軽視し、「歴史なんて勉強したってしょうがない。僕らは未来に生きるんだから」、と、歴史から学ぼうとせず、郷土を愛する気持ちなんて芽生える筈もない。
 親が、大人が、国をバカにして子供を育てれば、子供も・・・・。

 大森町の人々は、世界遺産登録されたことを、みんな、喜んでいるか。
 大半の人は喜んでいるそうです。
 我が町が世界にその名を知られる、というだけでもうれしいものです。
 でも、反対の人もいるそうです。喜んでいる人がほとんどだから、口にはしないけれど「景観整備をしたのは観光客に来て欲しいからではない。町が、郷土が美しさを保っていてほしいからだ。我が町が好きだからだ」、と。

 反対の意見は持っていても、郷土に誇りを持ち、郷土を愛していることは同じです。だから協力してこれまでやってきた。だからこれからも協力してやっていこう。
 文句があるなら出ていけ、なんて言わない。文句があるから論争して論破してやろう、なんて思わない。郷土に誇りを持ち、郷土を愛しているから、いつだって協力してやっていく。その中心となっているのは「石見銀山への思い」です。


 ついでです。
 大森町は現在は本当に小さな町です。それならそのような何かをしようじゃないか、という町民の発案で、カレンダーをつくることにしたんだそうです。
 変わったことではありません。住民全員が集まって集合写真を撮るんだそうです。それをカレンダーにする。毎年、です。いくら小さな町だって、全員が集まる、それを毎年カレンダーにする、って、どれだけ協力し合ってるんだ、って思いません?

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「石見銀山から」 ⑧大森町の人々(前)

2020年03月07日 | 心の持ち様
2013.09/06 (Fri)

 石見銀山のことを書けば長くなる。大久保長安、井戸平左衛門、と来て、大森町の人々、とすれば最低でも三回。いやいや神屋寿禎のことも書かねばならんぞ。それに島津家久のことも、一言書いて置きたいし。

 ということで、四、五回のつもりが、家久は二回、井戸平左衛門も二回、とここまで既に七回になってしまいました。でも、大丈夫!(何が?)
 これが最終「話」です。
 最後は「大森町の人々」のことです。文学的に表現すれば、「名もなき人々」。

 世界遺産登録が為されて今年で六年です。ここに至るまでの、これまでに挙げた人々と違って、世界遺産登録のための全ての御膳立てをしたのは、大森町の住民でした。
 当たり前だろ?いいえ、ちっとも当たり前ではないのです。感心しない方がおかしいくらいの大活躍をしたのです。それも新聞に載るような目立つことではなく、住民の一人一人が数十年にわたって積み重ねた努力の結晶が世界遺産登録に直結していたのです。

 二十数年前、帰省した時に大森の町を「通り過ぎた」ことがあります。人影のない山間の細い道の両側に、息をひそめているかのように家が建ち並んでいます。
 古ぼけた、明らかに空き家と分かる家を含めて、とてもではないけれどこれが銀山のあった町、最盛期にはここに二十数万人もの人が住んでいたところだなんて絶対に信じられない風情です。
 最盛時には言葉通りの「屋上屋を架す」町並みだったそうです。
 住民のほとんどが銀山の採掘工なのだから、それなりの元手を持って、坑道に入る権利を得たならば、あとは腕次第、運次第、そして努力次第。上手くいけば普通の仕事の何倍も儲かるけれど、大方は鉛毒にやられるか、塵肺になって、三十まで生きられたら良い方。
 でも、そこには囚人を働かせるような刑罰的な色合いは全くなく、親方が上前を撥ねるというような、下に行くほど貧しくなる悲惨さもなかったそうです。

 昭和になってからも細々と採掘は続けられていたそうですが、坑道が地下に伸びていくと出水等の問題で採算が取れなくなり遂に廃坑となりました。だから、後に残ったのは産業のなくなった、ただの山間の寒村です。
 それでも街道沿いにまるで宿場町のように家がひしめき合って建ち並ぶ様子は、往時の賑わいを容易に想像させてくれます。
 何よりも山間の寒村には全く似つかわしくない立派な寺や、東照宮の分祠、そして代官所の建物まで残っている。それらが本当に絵に描いたような「捨てられた町」の雰囲気をつくっている。
 しかし、それは外の人間の感想でしかありません。住んでいる人は数十年前のことを、更にもっと昔の賑わいのことを、聞いて育っているのです。

 さて。
 世界遺産登録のような衆目を集めること、何かみんながびっくりするような大きなこと、等の計画というのは、どんな場合でも、最初言い出してみんなに笑われ、呆れられる、という役回りの人があります
 けれど、そんな人の変わらぬ熱心さに、人々が一人、また一人とできる範囲内での協力をするようになる。気が付くとそれが大きなうねりになっていく。
 言い出した人はえらいけど、多くの人々の協力がなければ、ただの夢物語で終わってしまいます。協力した人々も同じく偉いという事ですね。
 特に日本人はこの「盲信ではなく、理解した、或いは納得した上で協力する」というところ、世界的にも一目置かれているんじゃないでしょうか。
 
 大森町の場合もそうでした。
 一人の子供が親から銀山のことを詳しく聞いて育ちました。
 長ずるにつれて、愛着のある地元に会社をつくり、住み続けようと思い立ちます。
 併行して、子供の頃に能く聞いていた銀山のことについて調べるようになり、色々と聞かされていたことが全て脚色なしの本当の話で、それどころか室町、江戸期にかけては世界有数の鉱山であったことが分かってくる。
 分かってくるとこれは放っておけない。事あるごとに地元の人にそれを話す。
 けれど・・・・。お分かりですね、この先の展開。

 「何を一銭の得にもならんことを。廃坑が何の役に立つんだ」と笑われるばかり。
 それでも懲りることなく話を繰り返していく。
 「役に立つ、立たん、じゃない。歴史上、ここは世界的に重要な鉱山だったんだ」
 そのうちに、笑い、呆れていた町の人々の心に、段々地元への愛情が湧いてくる。
 「一銭の得にもならんこと」から、「土地への誇り」に思いが変わっていく。

 「大森町を守らねばならない」



                         (後半へ続く)
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