2012.06/19 (Tue)
岩谷産業の創業者、岩谷直治のことで、「ごく当たり前のことに一所懸命に取り組む。それが人々の必要とすることならば、必ず受け入れられる」と考えた、その根底には少年期の家庭教育があり、その中できっと両親は直治少年に岩谷九十老のことを話して聞かせたに違いない、と書きました。
「思い込みが激しいな」と言われそうです。
けれども、西郷隆盛、大久保利通の人格はどのようにして成ったのだろうと日記に書いた時、折々に親の見せる「姿勢」、「諭(さと)し」、というものは、決定的な指針になる、と確信しました。
西郷の場合は「父の仕えていた上士の切腹」、「父による介錯」、「上士の形見となった血帷子(かたびら)を前にしての父の話」。
西郷の場合は、幼少期ではないけれど、この鮮烈な記憶は後の西郷の在り方を決定付けたと思われます。
岩谷九十老は武士ではありません。それに豪農ではあったけれども、彼が生まれた頃は名字帯刀も許されていない百姓です。しかし、百姓であろうが武士であろうが、育ち方によって、国を思う気持ちは芽生えます。
武士が命を投げ出す、百姓は切腹はしない。けれど、同じ日本人としてできることはある。「救世済民」、です。
「それぞれがそれぞれの立場で、世の役に立ち、一人でも多く人を救うこと」
これは日本国民なら、誰だってできることです。
九十老は母親の乳の出が悪く、小作農のところに預けられ、板の間に蓆を敷いて寝る。又、麦飯さえ食べられず、芋飯を食べて育ったという幼児期を過ごしています。
家に帰ってからも使用人と同じように働きながら、近所の医師の下で勉学に励みます。四男だったということなので、普通ならほとんど使用人のような状態で一生を終えるものですが、父親は九十老に家督を継ぐ器量があると見定め、学問をさせたようです。
ただし、繰り返しますが、使用人と同じ生活をしながら、学問をするわけです。
「百姓に学問なんか要らん!」と言われ、大学はおろか、高校だって行かせてもらえなかった、というのは昭和も40年頃までは普通のことでした。
九十老は豊かな生活が当たり前になった子供や孫に、「人間は働かなければ罰が当たり、豊かな生活も、人の上に立つこともできない」と言って、仕事の中でできた傷を見せながら、常々語っていたそうです。
岩谷産業の創業者、岩谷直治のことで、「ごく当たり前のことに一所懸命に取り組む。それが人々の必要とすることならば、必ず受け入れられる」と考えた、その根底には少年期の家庭教育があり、その中できっと両親は直治少年に岩谷九十老のことを話して聞かせたに違いない、と書きました。
「思い込みが激しいな」と言われそうです。
けれども、西郷隆盛、大久保利通の人格はどのようにして成ったのだろうと日記に書いた時、折々に親の見せる「姿勢」、「諭(さと)し」、というものは、決定的な指針になる、と確信しました。
西郷の場合は「父の仕えていた上士の切腹」、「父による介錯」、「上士の形見となった血帷子(かたびら)を前にしての父の話」。
西郷の場合は、幼少期ではないけれど、この鮮烈な記憶は後の西郷の在り方を決定付けたと思われます。
岩谷九十老は武士ではありません。それに豪農ではあったけれども、彼が生まれた頃は名字帯刀も許されていない百姓です。しかし、百姓であろうが武士であろうが、育ち方によって、国を思う気持ちは芽生えます。
武士が命を投げ出す、百姓は切腹はしない。けれど、同じ日本人としてできることはある。「救世済民」、です。
「それぞれがそれぞれの立場で、世の役に立ち、一人でも多く人を救うこと」
これは日本国民なら、誰だってできることです。
九十老は母親の乳の出が悪く、小作農のところに預けられ、板の間に蓆を敷いて寝る。又、麦飯さえ食べられず、芋飯を食べて育ったという幼児期を過ごしています。
家に帰ってからも使用人と同じように働きながら、近所の医師の下で勉学に励みます。四男だったということなので、普通ならほとんど使用人のような状態で一生を終えるものですが、父親は九十老に家督を継ぐ器量があると見定め、学問をさせたようです。
ただし、繰り返しますが、使用人と同じ生活をしながら、学問をするわけです。
「百姓に学問なんか要らん!」と言われ、大学はおろか、高校だって行かせてもらえなかった、というのは昭和も40年頃までは普通のことでした。
九十老は豊かな生活が当たり前になった子供や孫に、「人間は働かなければ罰が当たり、豊かな生活も、人の上に立つこともできない」と言って、仕事の中でできた傷を見せながら、常々語っていたそうです。
三十前に家督を継ぎ、河合村の総年寄りとなり、浜田、福山、因幡の御用達となります。安政の大飢饉での働きにより、幕府から名字帯刀を許され、福山藩からは米五百俵を与えられましたが、全て河合村の村方に寄附してしまう。
そのため、以降「米安様」とか「米安大明神」と敬慕されるようになる。
十年後、幕末の世情不安の折、近隣の鳥井村から一揆が起き、河合村にまで迫った時には石見一宮国造の金子氏と共に一揆の前に立ちふさがり、「こんなことをしても何もならん。私に任せてくれ。それでも、と言うのなら、私を殺して行け」と一揆を説得。資産家を説いて回り、米を供出させ、衆人に分配して一揆を収めさせることに成功した。
殖産に励み、養蚕のために桑の木を一千株自費で購入し、但馬から職人を招いて技術の伝播に努めたり、用水路の整備をしたり、と、それこそ休む間もなく働き続け、更に重ねて学問にも励み、宅野村から井上恭安を招いて自宅に「洪愛義塾」を開く。塾生は数百人に上ったといいます。
これらの働きのため、人々は九十老を二宮尊徳になぞらえて、「石見尊徳」と称えるようになったそうです。
そんな働きの間に既出の荒廃の進んだ石見一宮物部神社の改築のため、私財を投げ出し、資金集めに奔走し、これを果たす。
(今、調べてみたら、物部神社の社家、金子氏は全国に14しかない社寺の華族(男爵)の一つだそうです。島根には三社家があって、あとの二社家は出雲国造の北島家と千家家。)
物部神社にある顕彰碑を見れば、そのあたりのことが詳細に書かれているようですが、今回どうしても書いて置きたいことがもう一つあります。
それは「新嘗祭への稲穂献上」のことです。
貝原益軒や太宰春台の本を読み、「実用の学」を学ぶ中に、国民としてできることは、と考えたのが「新嘗祭への稲穂献上」だったようですが、この願い出は九十老が三十歳の時から始まっているのです。明治の代になる三十年も前のことです。
初めて出願した場所は地元の大森代官所。石見銀山のある大森町に設けられていた代官所です。
勿論、先例のないことですし、新嘗祭が行われる朝廷に、ではなく幕府の出先機関である代官所ですから、断られます。1837年のことです。
しかし、国民のできること。「感謝の念を朝廷に捧げたい」との思いは止むことがなく、1844、1845、1868(明治元年)、1870、1872、と願い出は繰り返されます。その間、幕府の大森代官所、大森県、浜田県と出願場所は変わりますが内容は同じです。
そして、1882年(明治15年)岩倉具視が明治政府へ伝え、翌年侍従がそれを聞き入れ、更に三年後、1886年(明治19年)、遂に稲穂の献上が適います。
初めての願い出から、実に50年近い年月が経っています。
「石見尊徳」と仰がれたことといい、この稲穂献上といい、表面だけ見れば、ただ「偉人」、「初志を貫いた人」で括られるだけのことかもしれません。
でも、忘れてならないことは、優秀ではあったとしても、畢竟どこにでもいる一人の日本人であるということです。
そのため、以降「米安様」とか「米安大明神」と敬慕されるようになる。
十年後、幕末の世情不安の折、近隣の鳥井村から一揆が起き、河合村にまで迫った時には石見一宮国造の金子氏と共に一揆の前に立ちふさがり、「こんなことをしても何もならん。私に任せてくれ。それでも、と言うのなら、私を殺して行け」と一揆を説得。資産家を説いて回り、米を供出させ、衆人に分配して一揆を収めさせることに成功した。
殖産に励み、養蚕のために桑の木を一千株自費で購入し、但馬から職人を招いて技術の伝播に努めたり、用水路の整備をしたり、と、それこそ休む間もなく働き続け、更に重ねて学問にも励み、宅野村から井上恭安を招いて自宅に「洪愛義塾」を開く。塾生は数百人に上ったといいます。
これらの働きのため、人々は九十老を二宮尊徳になぞらえて、「石見尊徳」と称えるようになったそうです。
そんな働きの間に既出の荒廃の進んだ石見一宮物部神社の改築のため、私財を投げ出し、資金集めに奔走し、これを果たす。
(今、調べてみたら、物部神社の社家、金子氏は全国に14しかない社寺の華族(男爵)の一つだそうです。島根には三社家があって、あとの二社家は出雲国造の北島家と千家家。)
物部神社にある顕彰碑を見れば、そのあたりのことが詳細に書かれているようですが、今回どうしても書いて置きたいことがもう一つあります。
それは「新嘗祭への稲穂献上」のことです。
貝原益軒や太宰春台の本を読み、「実用の学」を学ぶ中に、国民としてできることは、と考えたのが「新嘗祭への稲穂献上」だったようですが、この願い出は九十老が三十歳の時から始まっているのです。明治の代になる三十年も前のことです。
初めて出願した場所は地元の大森代官所。石見銀山のある大森町に設けられていた代官所です。
勿論、先例のないことですし、新嘗祭が行われる朝廷に、ではなく幕府の出先機関である代官所ですから、断られます。1837年のことです。
しかし、国民のできること。「感謝の念を朝廷に捧げたい」との思いは止むことがなく、1844、1845、1868(明治元年)、1870、1872、と願い出は繰り返されます。その間、幕府の大森代官所、大森県、浜田県と出願場所は変わりますが内容は同じです。
そして、1882年(明治15年)岩倉具視が明治政府へ伝え、翌年侍従がそれを聞き入れ、更に三年後、1886年(明治19年)、遂に稲穂の献上が適います。
初めての願い出から、実に50年近い年月が経っています。
「石見尊徳」と仰がれたことといい、この稲穂献上といい、表面だけ見れば、ただ「偉人」、「初志を貫いた人」で括られるだけのことかもしれません。
でも、忘れてならないことは、優秀ではあったとしても、畢竟どこにでもいる一人の日本人であるということです。
そしてその一人の日本人が、倦まずたゆまず、「働かなければ罰が当たる」と寸暇を惜しんで働き、学問に励み、国を意識し、皇恩に感謝し、何かできることは、と考え続け、行動し続けたことです。
「働かなければ罰が当たる」
それは「コワいから働く」、なんてことじゃ、ありません。
「罪悪感から」、とか「恐怖から」とかいったものではない。「働かなければお天道様に申し訳ない」と言った方がいいんじゃないかと思うような素朴な勤勉さです。
「何故だか分からないけれど、人の喜ぶ顔を見たい。」
「笑う顔を見たい」、ではありませんよ。
「何故だか分からない」けれど、国のため、人のために何かをしたい。
この気持ちは一体何処から来るのでしょう。
やはり、両親に倣い、長じてはそこで培われた心持で以って、学問に取り組んだから、でしょう。
(註 井上恭安は井上豊太郎の祖父です)
「働かなければ罰が当たる」
それは「コワいから働く」、なんてことじゃ、ありません。
「罪悪感から」、とか「恐怖から」とかいったものではない。「働かなければお天道様に申し訳ない」と言った方がいいんじゃないかと思うような素朴な勤勉さです。
「何故だか分からないけれど、人の喜ぶ顔を見たい。」
「笑う顔を見たい」、ではありませんよ。
「何故だか分からない」けれど、国のため、人のために何かをしたい。
この気持ちは一体何処から来るのでしょう。
やはり、両親に倣い、長じてはそこで培われた心持で以って、学問に取り組んだから、でしょう。
(註 井上恭安は井上豊太郎の祖父です)