2014.05/16 (Fri)
「恥ずかしい」の先には、きっと二通りの展開がある。
一つは憎まれ口から。
もう一つは叱咤から。
「恥ずかしい!」と思った瞬間は本当に「恥ずかしい」、だけだけれど、直後、このどっちかを選ぶことになる。この恥ずかしさをどう片付けるか。
そんなことを書いて、あざとく「次回へ」、とやったんですが。
さて、続きを。
憎まれ口。
「澄ました顔して書いている」「カッコつけて書いている」というのには、「嘘ついてやろう」、「詐欺ってやるぞ」、「捏造してやるんだ!」なんて悪意は全くない。
だからこそ気が付いた時は赤面して「バッカじゃねぇの」と自分を嘲り、すぐに落ち込む。
叱咤。
けど、そんな「悪意からではないカッコつけ」というのは、自分が「そのように在りたい」からであることに間違いはない。それはつまり、理想の自分を目指しているということだろう。
ならば、「バッカじゃねぇの」、じゃなくって一センチでも背伸びをしようとしている自分の姿勢を肯定すべきではないか。
そう思って、これまでに書いた日記を思い出すと、厭味ったらしい、目障りだなぁということよりも、却って、必死になって背伸びしている、その時の自分なりに精一杯それをやっていることが、なんだか微笑ましく思えてきたりする。
「書いて置かなきゃ」と思いながらも書かずに終わってしまった、そんな「別にどうでもいいこと」は言うまでもなく、「本当にどうでもいいこと」だって、もし実際に書こうと取り組んでいれば、それなりに背伸びして、カッコつけて書いていたんじゃなかろうか。
もしそうだったならば、僅かでも、間違いなく自身の生長の役に立っていた筈ではないか。(「成長」と書かず、敢えて「生長」と書くのは、人の精神も植物のように長ずることに際限はないからです。これも文章を書かねば意識することではない。表音文字だけの国ならあり得ないことです。)
「恥ずかしい」と言って、「バッカじゃなかろか、実力もないくせに。分不相応なんだよ」と、伸びることを自ら否定するか。
それとも赤面しながらも、「背伸びしたけど実力不足だったんだろ?じゃ、もっとやればいいじゃないか」、と、その前向きを良しとするか。
それで書かずじまいで(考えることをせず)忘れてしまったことを、「別段どうでも良いこと」というのは、「無責任。我儘が過ぎる」と言えるのかもしれない、と思ったのだ。
「そんなバカな。何でそれが『無責任。我儘が過ぎる』になるんだ」と言われるかもしれないけれど、その時、それなりに考えるべきであったのに、「面倒くさい」、「今、忙しいから」、「それどころじゃないよ、生きていくのに精一杯で」、と取り組みもしないで打っ棄って来たことはなかっただろうか。どこかの誰かの考えたことを、自分の考えのような気になって、そのままエンドレスのテープレコーダーよろしく繰り返して来てはいなかっただろうか。
もしそうだったとしたら、それは間違いなく自身の生長の機会を蔑にしてきてしまったということだし、その結果、周囲に好影響を及ぼす機会を捨てて来てしまったということだし、その機会を失った国は伸びる好機を・・・・・。
日記を書かずに(文章を書くことで考える、ということをせずに)、新しい情報を伝えるだけのことで、新しい観点を提示したり、自身なりの思考を深めること等をせず、事足れり、としてきてはいなかったろうか。
・・・・・・私だけ、だろうか。
「恥ずかしい」の先には、きっと二通りの展開がある。
一つは憎まれ口から。
もう一つは叱咤から。
「恥ずかしい!」と思った瞬間は本当に「恥ずかしい」、だけだけれど、直後、このどっちかを選ぶことになる。この恥ずかしさをどう片付けるか。
そんなことを書いて、あざとく「次回へ」、とやったんですが。
さて、続きを。
憎まれ口。
「澄ました顔して書いている」「カッコつけて書いている」というのには、「嘘ついてやろう」、「詐欺ってやるぞ」、「捏造してやるんだ!」なんて悪意は全くない。
だからこそ気が付いた時は赤面して「バッカじゃねぇの」と自分を嘲り、すぐに落ち込む。
叱咤。
けど、そんな「悪意からではないカッコつけ」というのは、自分が「そのように在りたい」からであることに間違いはない。それはつまり、理想の自分を目指しているということだろう。
ならば、「バッカじゃねぇの」、じゃなくって一センチでも背伸びをしようとしている自分の姿勢を肯定すべきではないか。
そう思って、これまでに書いた日記を思い出すと、厭味ったらしい、目障りだなぁということよりも、却って、必死になって背伸びしている、その時の自分なりに精一杯それをやっていることが、なんだか微笑ましく思えてきたりする。
「書いて置かなきゃ」と思いながらも書かずに終わってしまった、そんな「別にどうでもいいこと」は言うまでもなく、「本当にどうでもいいこと」だって、もし実際に書こうと取り組んでいれば、それなりに背伸びして、カッコつけて書いていたんじゃなかろうか。
もしそうだったならば、僅かでも、間違いなく自身の生長の役に立っていた筈ではないか。(「成長」と書かず、敢えて「生長」と書くのは、人の精神も植物のように長ずることに際限はないからです。これも文章を書かねば意識することではない。表音文字だけの国ならあり得ないことです。)
「恥ずかしい」と言って、「バッカじゃなかろか、実力もないくせに。分不相応なんだよ」と、伸びることを自ら否定するか。
それとも赤面しながらも、「背伸びしたけど実力不足だったんだろ?じゃ、もっとやればいいじゃないか」、と、その前向きを良しとするか。
それで書かずじまいで(考えることをせず)忘れてしまったことを、「別段どうでも良いこと」というのは、「無責任。我儘が過ぎる」と言えるのかもしれない、と思ったのだ。
「そんなバカな。何でそれが『無責任。我儘が過ぎる』になるんだ」と言われるかもしれないけれど、その時、それなりに考えるべきであったのに、「面倒くさい」、「今、忙しいから」、「それどころじゃないよ、生きていくのに精一杯で」、と取り組みもしないで打っ棄って来たことはなかっただろうか。どこかの誰かの考えたことを、自分の考えのような気になって、そのままエンドレスのテープレコーダーよろしく繰り返して来てはいなかっただろうか。
もしそうだったとしたら、それは間違いなく自身の生長の機会を蔑にしてきてしまったということだし、その結果、周囲に好影響を及ぼす機会を捨てて来てしまったということだし、その機会を失った国は伸びる好機を・・・・・。
日記を書かずに(文章を書くことで考える、ということをせずに)、新しい情報を伝えるだけのことで、新しい観点を提示したり、自身なりの思考を深めること等をせず、事足れり、としてきてはいなかったろうか。
・・・・・・私だけ、だろうか。