CubとSRと

ただの日記

「決めるのは自分」、なんだけれども。(後半)

2020年03月25日 | 重箱の隅
2014.05/16 (Fri)

 「恥ずかしい」の先には、きっと二通りの展開がある。
 一つは憎まれ口から。
 もう一つは叱咤から。
 「恥ずかしい!」と思った瞬間は本当に「恥ずかしい」、だけだけれど、直後、このどっちかを選ぶことになる。この恥ずかしさをどう片付けるか。

 そんなことを書いて、あざとく「次回へ」、とやったんですが。
 さて、続きを。

 憎まれ口。
 「澄ました顔して書いている」「カッコつけて書いている」というのには、「嘘ついてやろう」、「詐欺ってやるぞ」、「捏造してやるんだ!」なんて悪意は全くない。
 だからこそ気が付いた時は赤面して「バッカじゃねぇの」と自分を嘲り、すぐに落ち込む。
 叱咤。
 けど、そんな「悪意からではないカッコつけ」というのは、自分が「そのように在りたい」からであることに間違いはない。それはつまり、理想の自分を目指しているということだろう。
 ならば、「バッカじゃねぇの」、じゃなくって一センチでも背伸びをしようとしている自分の姿勢を肯定すべきではないか。

 そう思って、これまでに書いた日記を思い出すと、厭味ったらしい、目障りだなぁということよりも、却って、必死になって背伸びしている、その時の自分なりに精一杯それをやっていることが、なんだか微笑ましく思えてきたりする。
 「書いて置かなきゃ」と思いながらも書かずに終わってしまった、そんな「別にどうでもいいこと」は言うまでもなく、「本当にどうでもいいこと」だって、もし実際に書こうと取り組んでいれば、それなりに背伸びして、カッコつけて書いていたんじゃなかろうか。
 もしそうだったならば、僅かでも、間違いなく自身の生長の役に立っていた筈ではないか。(「成長」と書かず、敢えて「生長」と書くのは、人の精神も植物のように長ずることに際限はないからです。これも文章を書かねば意識することではない。表音文字だけの国ならあり得ないことです。)

 「恥ずかしい」と言って、「バッカじゃなかろか、実力もないくせに。分不相応なんだよ」と、伸びることを自ら否定するか。
 それとも赤面しながらも、「背伸びしたけど実力不足だったんだろ?じゃ、もっとやればいいじゃないか」、と、その前向きを良しとするか。
 それで書かずじまいで(考えることをせず)忘れてしまったことを、「別段どうでも良いこと」というのは、「無責任。我儘が過ぎる」と言えるのかもしれない、と思ったのだ。

 「そんなバカな。何でそれが『無責任。我儘が過ぎる』になるんだ」と言われるかもしれないけれど、その時、それなりに考えるべきであったのに、「面倒くさい」、「今、忙しいから」、「それどころじゃないよ、生きていくのに精一杯で」、と取り組みもしないで打っ棄って来たことはなかっただろうか。どこかの誰かの考えたことを、自分の考えのような気になって、そのままエンドレスのテープレコーダーよろしく繰り返して来てはいなかっただろうか。
 もしそうだったとしたら、それは間違いなく自身の生長の機会を蔑にしてきてしまったということだし、その結果、周囲に好影響を及ぼす機会を捨てて来てしまったということだし、その機会を失った国は伸びる好機を・・・・・。

 日記を書かずに(文章を書くことで考える、ということをせずに)、新しい情報を伝えるだけのことで、新しい観点を提示したり、自身なりの思考を深めること等をせず、事足れり、としてきてはいなかったろうか。 

 ・・・・・・私だけ、だろうか。
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「決めるのは自分」、なんだけれども。

2020年03月25日 | 重箱の隅
2014.05/15 (Thu)

 まとまりのないことをごちゃごちゃと書いています。
 暇を持て余している人だけ、腹立てないでご覧ください。

 日記を書いて置こうと思って、どういった順番で書いたらいいかとぼんやり頭に浮かべているうちに時間が経ってしまい、「ま、いいか」みたいな気になる。
 で、つけず仕舞いになってしまう。

 実際、書いて置かなかったから、といって別に問題が起こるわけでもない。
 些細なことをふと思いついて、「こういった見方も、あり、だよな」、程度のことなんだから、端から問題なんかあるわけもない。
 ふと「思いついた!」という、或る意味「名案」、みたいなことだってそうなんだから、本当に思いついた時点で既に「どうでもいいことだよな、こんなの」というようなことだった場合は、言うまでもない。即刻忘却の彼方、だ。

 そんなわけで、五月に入る前から全くと言って良いほど日記を書いてない。ブログに挙げたのは興味を持った記事に一言程度の感想をつけただけ。
 それどころか今ボールペン持って書いてるこの下書き用のノートなんか、A6の小さなものなのに、10月からつけ始めて、40枚のうちまだ10枚近く残っている。悪くても二ヶ月に一冊、普通は一ヶ月に一冊使ってたのに。

 問題はここからなんだけど。

 あまりにも酷い字なので、書いたら書きっぱなしで読み返すことなんて、まずなかった。それがブログとなると、打ち込んでしまえば誰だって読めるわけで。 
 それも他人に見てほしい、という気持ちもあって相当以上に澄ました顔(見えないだろうけど)で、カッコつけたこと、書いてる。
 それであんまり間隔が空くと小心者のこと、気になってつい見直してしまう。
 何か話の種を思いついて日記を書けるかも、と思うからだ。

 読み返す。
 すると、読み返しているうちに、ともすれば自分の書いたものであることを忘れてしまったりする。
 現実の自分はこんなカッコ良いこと考えてないし、もっとグダグダな人間だし。
 それに加えて、歳とってる割りに「昨日まで学生でした」、みたいな子供っぽい正義感でいつも物事を見ようとしているのに。

 そんなだから、何だか時に(しばしば?)明石家さんまじゃないけれど、全くの他人になって、ただ無責任に自分の文章を面白がって読んでしまっていたりする。
 「ふ~ん。立派なこと、書いてるなぁ~・・・。あ、自分が書いたんだっけ、はっ、恥ずかし~!」
 なんてこと、この四年余りで何度思い、赤面したか知れない。これは正真の話だ。
 だのに性懲りもなく同じことを繰り返している。
 「立派なこと、書いてるなぁ~・・・、あっ!はっはずかし~!」
 
 ・・・・・・・・。

 それで今日、ふと思いついた。
 この「澄ました顔して、相当以上にカッコつけた」こと、と「現実の自分」のズレに恥ずかしさを感じている、ということなんだけれど、これって、その先に何があるのかな、と思ったのだ。

 「恥ずかしい」の先には、きっと二通りの展開がある。
 一つは「何、カッコつけてんだ。できもしないくせに。バッカじゃねぇの」という憎まれ口。
 もう一つは「できなくて恥ずかしいんなら、やればいいだけのことじゃないか。そうありたいから、カッコつけて書いてんだろ?」という叱咤。

 じゃあ、どう片付けるか。

 ・・・・・・ということで、後半へ続く。
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「 I H I 」 (誇りと愛着)

2020年03月25日 | 心の持ち様
2014.04/25 (Fri)

 「IHI」というのが、「石川島播磨重工」の略だった、ということは能く知られています。
 けれど、じゃあ「石川島重工業」が東京の石川島にあることは知っていても、「播磨重工業」ってどこにあるの?」って人、意外に多いんじゃないでしょうか。
 「播磨重工業」、ではなく、これ、実は「播磨造船所」です。
 「石川島重工業」は重工業が6割で、造船が4割。播磨造船所は重工業が2割ほどで造船が8割だったそうです。
 その二社が合併して「石川島播磨重工業」となった。

 だから石川島(I)、播磨(H)、重工業なのか、石川島播磨(I)、重(H)、工業(I)なのか、なんてことも言われました。実際は合併と言っても(吸収合併、とまではいかずとも)、トップはほとんど石川島の方から出ていたそうだから、それこそ「併合」でしょうか。そんなことを中学生の頃、聞きました。

 さて、「播磨造船所」ってどこにあるのか。播磨造船所は兵庫県の西端(は赤穂)より一つ前の相生(あいおい)にありました。あまり知られていません。
 「ああ、新幹線の停車駅」と言う人くらいじゃないでしょうか。
 (IHIがあるから新幹線を停めるようにした、地元出身の政治家の力による、いわゆる政治駅だと言われています。)
 しかし一時期は一つの工場としての、船の建造トン数が日本一でした。
 当時は「造船王国日本」、です。日章丸や出光丸がつくられる頃です(相生でつくったわけじゃないんですけどね)。ということは、日本一、イコール世界一!
 でも既にその頃、船舶の建造に関しては猛追してくる国がありました。それもすぐ近くに。
 造船の受注、生産は十年以内にその国が世界一になるだろうということが連日のように新聞になっていました。その国は受注時の金額が日本に比べ格段に安い。性能は劣るけれども安価であることは大きな魅力だったと思われます。

 当時高校生だった私は日章丸の船首が戦艦大和のものと同じく球形に突き出しているのを見て、大変に驚きました。
 「何で戦艦でもないのにあんな形にしたんだろう?」
 あの形が水の抵抗を受け流すのに最適だ、と書かれてある新聞紙面を見て、ひたすら感心したことを覚えています。
 最新型の原潜が涙滴型と呼ばれていましたが、、考えてみれば昭和十年代後半には、日本は戦艦の船首にその形状を既に使っていたのです。それが昭和四十年代半ば、最新型とはいえ、一般のタンカーに採用された!

 日本を猛追してくる国の造る船の船首部は、明らかに日本の船のマネをしていました。ところが明らかに模倣しているのに、きれいな曲面になっていない。何だかごつごつした感じで、水の抵抗を受け流す、というより無駄に力比べをしに行ってるみたいだ。
これじゃ日本の技術に追いつくのはまだまだだろうなあ、と、その時、直感でそう思いました。
 しかし、新聞の予想通り、その国は受注件数世界一となりました。

 でも、今になって思います。「(追い越せぬまでも)日本に追いつけ」とがむしゃらにやってきたというけれど、また価格競争で優位に立って受注件数では日本を追い抜いたけれど、その基礎は全て日本が(資金から技術まで)提供したものではなかったか。
 技術で日本を追い抜いたのではない。価格競争で、受注件数で追い抜いただけ、ということは価格を上げざるを得なくなる時が来れば、今度は技術で勝負、となるのは言うまでもないこと。それなのに、追いつき、追い抜いたことになるのか。
 (これ、自動車は三菱から、インスタントラーメンは明星食品から同じように。)
 そして遂には、自国で建造するよりも技術の優れた日本の中古船を買って使う方が安上がりだからと・・・・・・。

 そんな発想から過積載、違法航行、をしてでも利益を上げようとする。
 これで一体何が「追い越した」と言えるのでしょうか。

 毎朝の通勤時、相生駅から造船所の浮桟橋までの道を、自転車が埋め尽くしていました。ほとんど一方通行状態で、車は小さくなっていたようです。みんな「造船日本一」の誇りを胸に働いていたのじゃないでしょうか。

 造船不況となり相生工場は三分の一に人員削減。新造船部門閉鎖。
 そうなると石川島播磨重工の企業城下町である相生です、関連の会社はみんなやっていけなくなります。
 相生湾と僅かな山間地域だけで成り立つ相生市の人口は4万から3万へ激減。相生の町も灯が消えたようになってしまいました。
 今昔を思うと、「栄枯盛衰」とか「無常」等の言葉が胸をよぎります。
 同時に今回の事故って、一体何だったんだろう、とも思います。

 別に、このフェリー、相生でつくったわけではありません。
 石川島播磨重工には全く関係のないことです。でも、造船マンにとっては決して他人事ではないんじゃないか。
 船は何年もかけてつくられます。五階建て、八階建てという船は長さも二百メートル以上ですから、段々に向こうの景色を隠していって、出来上がる頃には向こうの景色がどんなだったか忘れてしまうほどです。
 進水式を終えて、向こうの景色が見えるようになると、今度は逆に何だかぽっかりと穴が開いたようになって妙な寂しささえ覚えます。景色の一部、どころか景色の大部を成していた巨大な建造物がなくなってしまうのですから。
 
 彼の国は造船大国となった筈なのに。何故、自国の誇りである筈の新造船を就航させようと思わず、廃船となる日本の船を、新造船の1、2割と言われる値で買い、危険な改造を
し、運航をさせて・・・・・。揚げ句に建造時の設計に問題があったのではないか、とまで言い始める。

 ひとり、あの会社の体質だけのことなんでしょうか。
 日本は、日本の企業は、一番になるためにいつも全力を尽くしてきた。一番になってからも最善を尽くし、自社の製品には責任以上に愛着を持って向かい合って来た。そんな企業が人々からも支持をされ、存続している。

 亡くなった人々は本当に気の毒だと思います。
 そして、同じように元フェリー「なみのうえ」、現「セウォル号」の非業な沈没も気の毒でたまりません。

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「和食が世界遺産!・・・・・。」  (下)

2020年03月25日 | 重箱の隅
2014.04/21 (Mon)

 「和食は二流の料理である」

 その理由。
 ・コースになってない。
 ・料理人の腕より食材が優先する。
 ・きれいだけれど「華」がない。
 ・味が薄い。

 読み返してみれば変ですよね。正直、今なら、そんな理由を書いた人のことを、「あほか」と思う。
 だって、これ、ちっとも理由になってないでしょう。それに「事実誤認」がある。

 事実誤認はある、「理解力不足」はある、「理解しようという謙虚さ」は持ち合わせていない。そんなのが評論家として大きな顔してたんですよ、三十年ほど前までは。
 これ、江戸前の握りずしを「材料の新鮮さだけだ。刺身を載せてるだけじゃないか」なんて言ったら、大多数の日本人から軽蔑されるでしょう。
 「握り」、として目前に供されるまでの下拵えをちょっと想像しただけでも容易に理解できることです。それがあって、尚且つ鮨飯の加減、握り加減、山葵の加減、と来る。
 加えて、以前に挙げた日記(タレント候補を一括り (前))の川柳の心持ち、
 「水加減  火加減  心配加減」、なんてのが来た日にゃあ、料理人の「食材の味を引き出す」「細かな気遣い」というものは技術としても大変高度なもので、並大抵の修業では一人前になれないということがすぐ見えてくるでしょう。
 特筆すべきは家庭料理にだってそれは受け継がれているということです。

 素材の味を活かすためにどれだけの技術が必要なのか。ソースではなく、「出し」で素材の味を引き出す。「調味料」、ではなく、まず「下味」をつける。それから全体を纏め上げるために調味料を使う。まとめるためであって、捻じ伏せるためではない。

 こんな料理、他にあるでしょうか。
 「一見しただけでは自然のままの物にしか見えない」
 ・・・・・、とまで言うと言い過ぎですけどね。
 でも、できるだけ食材の形を崩さないようにするのが基本です。

 まあ、手が入っていることは当然のことで、見た目はきれいだから、それは「包丁遣いが上手い」とか「芸術品だ」とか言われ、褒められても不思議はないのだけれど。ところが問題はその先。
 その「芸術品」を、口に運ぶと、そこに細やかな下拵えをした、修業の結果の香りと味がいきなり広がる。なのにそれを外国人は「薄味だ」、と言う。酷いのになると「味がついてない」とまで。「こんなの、料理してる、と言えるのか?」、と。
 「辛くないから物足りない」と言う人もいるでしょう。(そんな人って、大概、山葵食べて引っくり返ってますけど)
 
 今も見た目だけなら、誰だって「和食はきれいだ」「芸術品みたいだ」と言います。
 けれど、肝腎の「味」に関しては「美味しい!」とまでは言っても、その先の「下拵え」まで一瞬にして感じ取る、そこまではいかずとも、「どうやってこの味を出したのだろう」という風に思う人が、一体どれだけいるでしょう。そんな人々の認定した「世界遺産『和食』」、です。 理解の度合いは・・・・?
 そして、では我々日本人は・・・・???

 「和食はきれいだ。芸術品みたいだ」、と思うばかりで、肝腎のその下拵え、細やかな心遣い、優れた技術を感じ取れているんでしょうか。

 「和食」ということで書いて来たんですが、実は「和食」の代わりに、「日本」、「日本文化」という言葉を置いて考えてみました。
 ここに至るまで、どれだけの下拵えがあったのか。
 細やかな心遣いはあったのか。
 優れた日本の文化は一朝一夕につくられたのか。
 その高い文化性を学び取るための大変な修業(日本を知る、そして、分かる)を、我々はホントにして来たのか。

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「和食が世界遺産!・・・・・。」  (中)

2020年03月25日 | 重箱の隅
2014.04/20 (Sun)

 「『料理の四面体』という本には将に目から鱗が落ちた気分にさせられた」
 と書いたんですが、一体何がそんなに衝撃だったのか。

 そこまで書いて、あざとく「続きは次回」とやったものだから、視線が痛いような。何だか突き刺さってくるような感じです。気のせい、・・・かな?
 まあ、そういうわけで、この思わせぶりな「続きは次回」の中身を書くんですが。
 これ書くと料理好きの人に冷笑、いやいや、蔑笑されるような気もする。でもまあ、引っ張った手前もありますからね、恥を忍んで書きましょう。

 前回に書いた通り、調理法というのはそんなにたくさんあるわけではない。
 焼くか、炒めるか、煮るか、蒸すか、揚げるか、漬けるか。
 で、要は味付けの違いが各種の料理を生み出す。
 (食材の味を生かす、ということに関しては、ここでは置いときます)

 で、実に簡単なことを教えられたんです。
 味噌や醤油を使えば和食になり、胡麻油を使えば中華料理、オリーブ油やトマトを使えばイタリア料理、唐辛子、山椒だらけの四川料理、色んな唐辛子を使って、見た目ほど辛くなければ朝鮮料理。結局はそれぞれの調味料の働き如何で料理が決まる。
 だからまず、「味の『基』(味乃素、じゃなく)を、どこに置くか」。
 「風味」という言葉通り、「和風」「洋風」「中華風」等の「風」。根っこにあたる「風」。 
 「香り」になる調味料と食材のバランスで、「~風」の料理になるんだと教えられたわけです。あ!やっぱり冷笑したでしょ!
 「そんなこと知ってらぁ」、って聞こえたような・・・。とにかく自炊を始めてしばらくの間はそんなことも気付かなかったわけですよ。

 それで料理のレパートリーが増えたのは言うまでもありません。
 とは言え、男一人の、半分以上「酒の肴」の料理です。とにかく「~風」で良いんですからね、名前も付けられない、とにかく訳のわからない、二度とつくらない(つくれない)料理です。
 一味唐辛子と、「コショー」くらいしか使わなかったのが、黒胡椒、白胡椒、バジル、山椒、トマトの湯剥き。挙句の果てにセロリ、玉葱、ニンジン等を使ってペースト(みたいなもの)を作ったりもしました。
 だからみんな「~風」。早い話が「なんちゃって料理」。グッチ裕三氏の料理も大いに参考にしましたよ。

 そんなことをしているうちに、たまたま立ち読みした本の中に「『和食』なんて大したことはない。決して『世界の三大料理』みたいな一流の料理ではない」みたいなことが書かれてあったんです。
 ということはつまり、今でいえば「和食なんて『世界遺産』なんかに指定する価値はない!」ってことですよね?

 実際、その頃(三十年余り前)はそう言われていたのです。
 勿論北大路魯山人みたいな人もいたわけだし、分かっている人は「和食なんて大したことない」なんて言う者を、相手にもしなかったでしょう。
 けど、一般大衆はエライ(?)評論家センセの言うことに、「なるほどそういうものか」、って素直に頷いていた。何しろ「文化人のセンセイ」なんて言葉が、まだ生きてましたからね。

 「『和食は目で食べる』というくらいに見た目はきれいだけれど、味付けに工夫がない。本来の素材にほんの少し手を加えただけで、そこには料理人の見事な味付けなんてない。料理人の腕より、食材の新鮮さで食べさせているだけだ。
 それにフランス料理のようなルール、マナーに則った一連の食事の流れもないし、中華料理のような『華』もない。
 大体が和食にはメインディッシュが存在しない。延々と『酒肴』が供されるばかりだ。あんなのは『食事』ではない。」
 そんな風に言われて、それに重ねて「家庭料理は和食ではない」とバッサリ。

 実際、平安時代の、宮中の料理や貴族の食事は品数が多いばかりで、それも保存食や冷えた物ばかり。当時は御飯だって玄米でしょう?
 後に会席料理、なんてできるけれど、元を糺せば懐に温めた石を、という禅宗の「懐石」からの発展でしょう。
 茶の席か、連歌の会の席か、で質素なものと豪華なものに変わりはしたけれど、たらふく食って食い散らかして終わり、みたいな食事の基本的なところが、「和食」には、ない。
 「和食なんて大したことない。世界の一流料理にはなれない」

 料理に関しても、「我国は誇りを持てるほどのものではない」と自らの文化を卑下していたんですよ、戦後は。これもまた見事な自虐。
 追い打ちをかけるために「米なんか食べてるから、戦争に負けるんだ」「あんな面倒な調理法が、日本人に無駄に時間を使わせた」とか。
 それこそ今から見れば噴飯ものですけどね。

 さて。一流になれるか否かはともかく。
 考えてみれば、世界遺産として登録されるということは、栄誉でも何でもないでしょう?いやそれどころか、却って恥、と言えるかもしれない。
 何故って、「世界が手を差し伸べて、絶滅しないように守りましょう」ということなんだから。「絶滅危惧種扱いに決定!」ということです。

 勿論、今世界中で「和食ブーム」が起きてるけど、「和食風」、「なんちゃって和食」、「何だこりゃ和食」ばかりで、こんなの和食だと言って供されちゃ困るというくらい酷いことになってるから、守ろう、ということが本意です。
 そして、当然のことながらそうすることによって世界中の目が和食に向けられ、必ず、和食は大きな市場を獲得することになるとの計算があります。でも、やっぱり、栄誉ではない。

 で、今回の〆なんですが。
 何故、「大したことないよ、和食なんて」と、外国人にならともかく、自国の評論家にバカにされるような「和食」が、「世界遺産に指定して世界中で守ろう」と言われるまでにその評価を高めたのか。ほんの三十年ほどの間に、ですよ?

 「二流だ」「見た目はきれいだけど、味、薄い」「工夫が足りない」「新鮮さだけが命」「切って並べるだけで、料理とは言えない」
 そんな風に散々に言われていたのが。
 「ヘルシーだから」、だけで、こんなに評価が高くなるはずがない。

 誰かが、何かを、したのか。それとも世界が変わったのか。

                    (今度こそ、次で終わりです)

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