CubとSRと

ただの日記

17/8/05 (2605年8月17日)

2020年03月30日 | 心の持ち様
2015.05/10 (Sun)

 産経新聞の論説委員氏が書かれたものです。全文転載します。
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 【一筆多論】

 「日本紀元2605年」インドネシア独立宣言書が西暦を使わなかった理由

 「17/8/05」

 これは、ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣言書の日付である。「05年8月17日」を意味する。
 05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年である。
 宣言書に署名したのは独立運動のリーダーで、インドネシア共和国の初代大統領と副大統領になったスカルノとハッタの2人だ。

 日本が大東亜戦争に敗れた翌日、スカルノら建国準備委員会はジャカルタ在勤の海軍武官、前田精(ただし)海軍少将の公邸に集まり、インドネシア人だけで17日未明までかけて宣言書を起草した。前田は後に、インドネシア共和国建国功労章を授与された。

 スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。西暦は植民地支配への反発から避けたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。

 大東亜戦争で日本は、インドネシアを350年もの間、植民地支配してきたオランダを駆逐し、軍政を敷いた。愚民化政策をとったオランダとの違いは、日本が官吏育成学校、医科大学、師範学校、商業学校など、国づくりに必要な教育を推進したことだ。

 特に、祖国(郷土)防衛義勇軍(略称PETA)をつくり、3万8千人ものインドネシアの青年に訓練を施した意義は大きかった。彼らが、植民地支配に戻ってきたオランダ軍や援軍となったイギリス軍との間で、独立戦争を戦う中心となった。80万人の犠牲を払って独立を勝ち取ったのである。

 日本へ引き揚げず、インドネシア独立戦争に身を投じた日本軍将兵は1千人から2千人もいたとされる。相当数が戦死し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に葬られた人もいる。

 インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席した安倍晋三首相は先月22日、カリバタ英雄墓地を訪ね、祈りをささげた。その際、首相は英雄墓地に葬られた残留日本兵の墓前に献花した。

 第1回バンドン会議(1955年)では、日本代表団は、アジア独立を掲げて戦ったことを感謝され、歓迎された経緯がある。

 今回のバンドン会議での演説で、安倍首相は第1回会議の逸話にも、日本がアジア独立を掲げて大東亜戦争を戦ったことが有色人種の国々の独立につながったことにも触れてはいない。
 そこには日本流の謙虚さがあるし、当時は敵国で今は盟邦となったアメリカや友好関係にある西欧諸国への外交上の配慮がある。

 首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉でなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。

 いつの時代でも戦争は避けるべき悲劇だ。それでも、日本が国を挙げて戦った戦争に、当時の日本人がどんな理想や意義を見いだしていたのか。外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。それがバランスのとれた歴史観につながる。 (論説委員・榊原智)

http://www.sankei.com/politics/news/150509/plt1505090015-n1.html

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 「05」年、皇紀2605年としたのは、西暦を使いたくなかったから、というのは能く分かります。
 ・・・・と言いたいんですが、どうなんでしょう、「植民地支配されていたからと言ったって、世界で一番使われているんだから、別に西暦でもいいんじゃない?そんな『江戸の仇を長崎で~』みたいなこと言わなくたって」、なんて思いませんか。
 「良いものは良いんだよ。平和憲法だって、AIIBだって。押し付けられたとか中国の都合で作られたとか、細かい事言ってんじゃないよ。そんな狭量なこと言ってたらバスに乗り遅れるよ。もっとグローバルな見方をしなきゃ」?
 英語は何で世界中に広まっているのか。優れた言語だから?

 色んなことを言うのは自由だと思います。だから、天皇陛下を「天ちゃん」と言ったからって別にかまやしないし、総理大臣呼び捨てにしたって逮捕されることはない。
 ただ、それを言うことで、己の品性、人格というものを他者から批判される、或いは非難されることも受け入れなければならない。
 となれば、それなりの覚悟はいつだって必要なわけで、信念持って(確信犯、ですかね)言った場合には批判されたって耐えられるけれど、唯の思い付きで調子に乗って迂闊なことを口走ってしまった時には、もう落ち込むしか手はない。
 「東南アジアの人々には酷いことをした」、と謝罪しろ、って。このインドネシアの人々は「東南アジアの人々」じゃないのか。
 ・・・・なんてことを、考えない人はやっぱり考えないんでしょうね。
 「細かいこと、言ってんじゃないよ!」
 って、一喝してやっつけた気になってるのは幸せでいいだろうけど・・・・。
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「鈍機翁のため息」より

2020年03月30日 | 心の持ち様
2015.05/04 (Mon)

 標題「鈍機翁のため息」、というのは産経新聞に連載されているコラムです。

 何でもドン・キホーテについていろいろ思うことを、心に浮かぶままに書きつけてみたいということで始まったものだそうで。
 予告の段階から読み始めたんですが、初めはあまり熱心に読むこともなく、読み飛ばしてきました。

 それが時たま脱線して時事問題を直接語る、みたいな感じで話が大きく広がっていき、なかなか元に戻らない、なんてことが起こり出す。これが妙に面白い。ドン・キホーテの話から離れてるんだけど、物の考え方、見方はそのままだから、時事問題がきちんと筋の通った、それでいて軽妙な解説で見事に解(ほぐ)される。


 言ってみれば「針の穴から天、覗く」、です。
 ん?ことわざでは「針の穴から広大な天は見ることができない」っていう意味ですよね。
 ほんとですかね、やってみたんでしょうか。ちょっと考えれば「そんな筈はない、頭を巡らせば見えるじゃないか」となりませんか。
 私が馬鹿の一つ覚えみたいにして言う、「一事が万事」「木を見て森を忘れず(森を見ず、ではなく)」と同じで、いきなり正当な知識として受け入れるのではなく、まずは見詰めよう、と。

 実際見詰めてみたら、筋道が見えることもあるということを、筆者は「間奏」という形で時々書かれます。
 ということで、今回初めて転載を、と思いつきました。

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 【鈍機翁のため息】

 (278)間奏 I ある人生相談

 【相談】
 30年前に運転する車で同じ町内の人をはね、けがをさせてしまいました。
 その事故は100%が私の責任ではありませんでしたが、私は被害者に心から謝罪し、自分の財産を処分して慰謝料などもきちんとお支払いしました。

 しばらくは平穏な日々が続き、私は懸命に働いて生きてきました。
 ところが、10年ほど前から被害者は私の言動に目を光らせるようになり、ことあるごとに私に対して文句を言い、近隣にも根も葉もない私の悪口を触れて回るようになりました。
 さらに、顔を合わせれば執拗(しつよう)に謝罪を求めてきます。
 その裏には「もっとカネを払え」という無言の圧力を感じます。本当は引っ越したいのですが、それはある事情で絶対にできません。
 私はどうしたらよいのでしょう。    (70歳男性)

 【回答1】
 その事故の細かい事情はわかりませんが、あなたがけがをさせてしまったことは事実なのですから、被害者が「もういいよ」と言うまで謝り続けるしかないと思います。(有名作家)

 【回答2】
 戦いなさい。それは殴りかかれということではありません。
 あなたを信用してくれる人たちに、事実をふまえて被害者の言動がいかに常識から外れているかを訴え続けるのです。
 絶対に要求に屈してはいけません。屈すればあなたは死ぬまで、さらにあなたの子供までつけ込まれます。
 長期戦を覚悟してください。人生に戦いはつきものです。

                            (桑原聡)

 http://www.sankei.com/life/news/150504/lif1505040012-n1.html

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 私は、(有名作家)というのは、ノーベル賞をもらった世間に相当程度以上の影響力のある、あの丸メガネの小説家かな?と思ったり、同じく世間に相当程度以上の影響力のある、あの大手マスメディアの事かな?と思ったりしながら読んでみましたが、どんなもんでしょう。
 (それに「同じ町内」というのが、つい「近所の国」に見えてしまって。事情あって、引っ越しはできませんから、ね。)

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