2014.04/10 (Thu)
渡部亮次郎の「頂門の一針」
2014(平成26)年4月9日(水)第3271号
吉川正司・元都城歩兵第23連隊中隊長の手記、後半です。今回は標題の通り、下の下。最終の四回目です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の頭は日記のことでいっぱいだった。万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。本裁判よりも日記の保全が第一と考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。
舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。
裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を見せろとの判決を下した。
ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。
翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。
昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。
私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。
それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。
実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。
高齢に加えて、金銭上の問題もあった。老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。本裁判となれば10年はかかるだろう。それまで我々の余命があるかどうか。
あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。私は一件の終息を考えざるを得なくなった。私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。
「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」
朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。
年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。
■もう一つの「戦史」
昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。
一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。
そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。
《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》
2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。決して上々の結果ではない。むしろ甚だ不本意な終戦である。
しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。
「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。
問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久に残る。
連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「事実だ」と、資料を「衝き付け」られたら、即座に(反射的に)「そんなバカなことあるもんか!」って言い返せる日本人って、あんまりいないんじゃないでしょうか。
就職したての時、職場の先輩に、「車で事故起こしたら謝ったらアカン。『どこ見て走っとんねん!』、て先にかましとかな」と教えられました。
私は、その時免許を持ってなかったのですが、元々取る気はなかったものの、その話を聞いてすっかり嫌になり、以降二十年近く車の免許を取ろうとは思いませんでした。
車の免許と戦中日記とどこが関係あるんだ、と言われそうですが、ほんのちょっとしたことで、人の行動って大きく変わってしまうということから、思いついたことです。
このアサヒの支局長は連隊会の中山氏に、「『お詫び』だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になり ます」と頼み込んでいます。
対して中山氏は、「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」と返答しています。至極真っ当な返答です。
すると支局長は「首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。」という。
「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
一家族の生を守るのか。それとも戦友の慰霊を採るか。
後生のために、先人が命を捧げて国を護ってくれたことを我々は知っています。我々に「生きよ」と言って死んでいった先人達は今を生きる者を大切にせよと言ってくれているに違いない。
そう思うからこそ、「私の家族のために助けて下さい」と言われたら、「お前は憎いけれども、家族に罪はない」と許してしまう。
けど、家族に罪はないけれど、この「お前」は罪を全く反省していない。当然、また同じようなことをやる。
渡部亮次郎の「頂門の一針」
2014(平成26)年4月9日(水)第3271号
吉川正司・元都城歩兵第23連隊中隊長の手記、後半です。今回は標題の通り、下の下。最終の四回目です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の頭は日記のことでいっぱいだった。万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。本裁判よりも日記の保全が第一と考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。
舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。
裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を見せろとの判決を下した。
ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。
翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。
昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。
私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。
それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。
実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。
高齢に加えて、金銭上の問題もあった。老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。本裁判となれば10年はかかるだろう。それまで我々の余命があるかどうか。
あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。私は一件の終息を考えざるを得なくなった。私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。
「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」
朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。
年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。
■もう一つの「戦史」
昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。
一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。
そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。
《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》
2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。決して上々の結果ではない。むしろ甚だ不本意な終戦である。
しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。
「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。
問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久に残る。
連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「事実だ」と、資料を「衝き付け」られたら、即座に(反射的に)「そんなバカなことあるもんか!」って言い返せる日本人って、あんまりいないんじゃないでしょうか。
就職したての時、職場の先輩に、「車で事故起こしたら謝ったらアカン。『どこ見て走っとんねん!』、て先にかましとかな」と教えられました。
私は、その時免許を持ってなかったのですが、元々取る気はなかったものの、その話を聞いてすっかり嫌になり、以降二十年近く車の免許を取ろうとは思いませんでした。
車の免許と戦中日記とどこが関係あるんだ、と言われそうですが、ほんのちょっとしたことで、人の行動って大きく変わってしまうということから、思いついたことです。
このアサヒの支局長は連隊会の中山氏に、「『お詫び』だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になり ます」と頼み込んでいます。
対して中山氏は、「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」と返答しています。至極真っ当な返答です。
すると支局長は「首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。」という。
「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
一家族の生を守るのか。それとも戦友の慰霊を採るか。
後生のために、先人が命を捧げて国を護ってくれたことを我々は知っています。我々に「生きよ」と言って死んでいった先人達は今を生きる者を大切にせよと言ってくれているに違いない。
そう思うからこそ、「私の家族のために助けて下さい」と言われたら、「お前は憎いけれども、家族に罪はない」と許してしまう。
けど、家族に罪はないけれど、この「お前」は罪を全く反省していない。当然、また同じようなことをやる。
この「お前」にとって、この懇願は家族を守るための正義、真実なんでしょう。彼はこうやって生きてきた。こうやって支局長になった。ならば、これから先もそうでしょう。
ということは、アサヒ新聞自体もそうなんじゃないでしょうか。
産経新聞は飛ばし記事が多い。
「あ~あ、またやっちまったなぁ~」みたいなことがしょっちゅうあって、訂正、お詫びが目につく。記事だってがさつで生硬だ。
けど、それは積極的な姿勢のあらわれでもあるし、考えようと努力している結果でもあるわけだ。訂正、お詫びが多いということは、「間違いが多い」ということではない。素直に謝ろうとしているだけのことだ。
逆に訂正、お詫びが少ないのは間違いがないのではなく、なかなか謝ろうとしないだけ、ということだ。この支局長を見れば分かるだろう。
その目で、辺りを見渡せば・・・・・・?
ということは、アサヒ新聞自体もそうなんじゃないでしょうか。
産経新聞は飛ばし記事が多い。
「あ~あ、またやっちまったなぁ~」みたいなことがしょっちゅうあって、訂正、お詫びが目につく。記事だってがさつで生硬だ。
けど、それは積極的な姿勢のあらわれでもあるし、考えようと努力している結果でもあるわけだ。訂正、お詫びが多いということは、「間違いが多い」ということではない。素直に謝ろうとしているだけのことだ。
逆に訂正、お詫びが少ないのは間違いがないのではなく、なかなか謝ろうとしないだけ、ということだ。この支局長を見れば分かるだろう。
その目で、辺りを見渡せば・・・・・・?