2015.02/06 (Fri)
日記に書いておこうというものがあれやこれやとあって、でも、いざ書き始めるとどうにも収拾がつかなくなってしまう。
あれやこれやというのがいろんな方向から見た同じ問題だからだろう、書いているうちについ別の視点からのことを書き足そうとしてしまい、元に戻れなくなってしまう。
何のことはない、独り井戸端会議をやってるようなもんだ。いつもの「脱線しました」、で誤魔化してしまえばいいのだが、なかなかうまくいかない。
そういうことなら「書いておこうと思うあれやこれや」、ではないことを書けばいいじゃないか。やっとそんな気になった。
勿論「書いておきたいあれやこれや」と、きっとつながっては、居る。「頭は一つ、人生は一度」です、つながってない筈はない。
伝書にあった話です。
或る時、師範代が流儀について門弟に問われ、こう説いた。
「当流はとても高級な術であるから、ちょっとやそっとの稽古で深奥に至ることはあり得ない。また、いくら稽古をしても、よほどの天賦の才がなければ、この術を会得することはできない。私の見る限り、宗家以外にそれだけの才能を持っている者は見当たらない。だから我々はひたすら稽古をして、少しでも身につけようと努めるほかない」
ところが師範(宗家)は全く逆に、こう説いた。
「当流は神教の打ちを伝えるものだから、誰でもそれを信じて稽古に励めば、必ず身に着けることができる。才能?そんなものは気にせずとも良い。神が示された自然そのものの技なんだからひたすら稽古をすれば必ず手に入れることができる」
この二つの説明を聞いた門人達は
「さすがに宗家の言葉は見事なものだ。師範代の話通り、宗家は師範代よりはるかに腕が上だという証拠みたいな話をされた」
と言い合い、頷き合った、と。
しかしこの伝書の作者は、
「どっちが上、ということではない。それぞれが師範なり、師範代なりの立場で説明しているのであって、決して『さすがは師範!』ではない。師範は師範として当然のことを、また師範代は修行者として当然のことを言っただけのことである。仮に師範代が『誰にでもできる』と言えば、門弟は流儀を軽んずるようになり、師範が『誰にでもできるというようなものではない』と言えば、門人は修業を諦めてしまう」
、と、まとめている。
理に適った話だと思う。確固とした立場でものを言わねば徒になる。
この、師範の門人を包み込む姿勢と、師範代の、自他に厳しく当たりながら、門弟にはちゃんと進むべき方向を示し続けるという姿勢があってこそ、門人も、ともすればうまくいかなくて自棄になったり、反対に、天狗になったりしてしまうのを自制することができるのではないだろうか。
門弟は、自身の「立場」が未だ分からない。分からないからこそ、自棄になったり、増上したりする。
だから道を外さないよう、師範も師範代も門弟の立場(足場)が定まっていないことを念頭に、教導しなければならない。
これは何も剣術を含む武術の世界だけのことではないだろう。
少しその事柄について学べば、いくらもせぬうちに何も知らない人に比べてはるかに物事が能く分かるようになる。その時、つい、もう一人前になったかのように思ってしまう。それを慢心(増上慢)という。
勿論、「慢心」と「自信」は表裏を成していることがほとんどで、それが以降の上達にどうしても必要な時期は、ある。
けれども先達から見れば、まだ足場(自分の確固とした考え方)がしっかりとしていないことは容易に分かる。
だから、その定まっていないことについて適切な指摘をし、再考を促そうとする。
しかし、修業者の方は、そのための理解能力(定見)はまだできていないことに全く気付いていない。だから苦言を、「煩い」ととる。
それで終わればまだいい。大方はそこで自身の力(実力?)を信じて「是々非々」という甘言に囚われ、行動しようとする。結果、時には先達まで、ありもしない実力で(「是々非々」の怪しい物差しで)、バッサリと切り捨てる。
ここで、「長上を敬う」とか「謙虚に対することを心掛ける」姿勢があれば、辛うじてこの「慢心」「或いは「近視眼的行動」から距離を置くことができるのだが。
日記に書いておこうというものがあれやこれやとあって、でも、いざ書き始めるとどうにも収拾がつかなくなってしまう。
あれやこれやというのがいろんな方向から見た同じ問題だからだろう、書いているうちについ別の視点からのことを書き足そうとしてしまい、元に戻れなくなってしまう。
何のことはない、独り井戸端会議をやってるようなもんだ。いつもの「脱線しました」、で誤魔化してしまえばいいのだが、なかなかうまくいかない。
そういうことなら「書いておこうと思うあれやこれや」、ではないことを書けばいいじゃないか。やっとそんな気になった。
勿論「書いておきたいあれやこれや」と、きっとつながっては、居る。「頭は一つ、人生は一度」です、つながってない筈はない。
伝書にあった話です。
或る時、師範代が流儀について門弟に問われ、こう説いた。
「当流はとても高級な術であるから、ちょっとやそっとの稽古で深奥に至ることはあり得ない。また、いくら稽古をしても、よほどの天賦の才がなければ、この術を会得することはできない。私の見る限り、宗家以外にそれだけの才能を持っている者は見当たらない。だから我々はひたすら稽古をして、少しでも身につけようと努めるほかない」
ところが師範(宗家)は全く逆に、こう説いた。
「当流は神教の打ちを伝えるものだから、誰でもそれを信じて稽古に励めば、必ず身に着けることができる。才能?そんなものは気にせずとも良い。神が示された自然そのものの技なんだからひたすら稽古をすれば必ず手に入れることができる」
この二つの説明を聞いた門人達は
「さすがに宗家の言葉は見事なものだ。師範代の話通り、宗家は師範代よりはるかに腕が上だという証拠みたいな話をされた」
と言い合い、頷き合った、と。
しかしこの伝書の作者は、
「どっちが上、ということではない。それぞれが師範なり、師範代なりの立場で説明しているのであって、決して『さすがは師範!』ではない。師範は師範として当然のことを、また師範代は修行者として当然のことを言っただけのことである。仮に師範代が『誰にでもできる』と言えば、門弟は流儀を軽んずるようになり、師範が『誰にでもできるというようなものではない』と言えば、門人は修業を諦めてしまう」
、と、まとめている。
理に適った話だと思う。確固とした立場でものを言わねば徒になる。
この、師範の門人を包み込む姿勢と、師範代の、自他に厳しく当たりながら、門弟にはちゃんと進むべき方向を示し続けるという姿勢があってこそ、門人も、ともすればうまくいかなくて自棄になったり、反対に、天狗になったりしてしまうのを自制することができるのではないだろうか。
門弟は、自身の「立場」が未だ分からない。分からないからこそ、自棄になったり、増上したりする。
だから道を外さないよう、師範も師範代も門弟の立場(足場)が定まっていないことを念頭に、教導しなければならない。
これは何も剣術を含む武術の世界だけのことではないだろう。
少しその事柄について学べば、いくらもせぬうちに何も知らない人に比べてはるかに物事が能く分かるようになる。その時、つい、もう一人前になったかのように思ってしまう。それを慢心(増上慢)という。
勿論、「慢心」と「自信」は表裏を成していることがほとんどで、それが以降の上達にどうしても必要な時期は、ある。
けれども先達から見れば、まだ足場(自分の確固とした考え方)がしっかりとしていないことは容易に分かる。
だから、その定まっていないことについて適切な指摘をし、再考を促そうとする。
しかし、修業者の方は、そのための理解能力(定見)はまだできていないことに全く気付いていない。だから苦言を、「煩い」ととる。
それで終わればまだいい。大方はそこで自身の力(実力?)を信じて「是々非々」という甘言に囚われ、行動しようとする。結果、時には先達まで、ありもしない実力で(「是々非々」の怪しい物差しで)、バッサリと切り捨てる。
ここで、「長上を敬う」とか「謙虚に対することを心掛ける」姿勢があれば、辛うじてこの「慢心」「或いは「近視眼的行動」から距離を置くことができるのだが。