CubとSRと

ただの日記

足場(立脚点)

2020年03月04日 | 心の持ち様
2015.02/06 (Fri)

 日記に書いておこうというものがあれやこれやとあって、でも、いざ書き始めるとどうにも収拾がつかなくなってしまう。
 あれやこれやというのがいろんな方向から見た同じ問題だからだろう、書いているうちについ別の視点からのことを書き足そうとしてしまい、元に戻れなくなってしまう。
 何のことはない、独り井戸端会議をやってるようなもんだ。いつもの「脱線しました」、で誤魔化してしまえばいいのだが、なかなかうまくいかない。

 そういうことなら「書いておこうと思うあれやこれや」、ではないことを書けばいいじゃないか。やっとそんな気になった。

 勿論「書いておきたいあれやこれや」と、きっとつながっては、居る。「頭は一つ、人生は一度」です、つながってない筈はない。



 伝書にあった話です。

 或る時、師範代が流儀について門弟に問われ、こう説いた。
 「当流はとても高級な術であるから、ちょっとやそっとの稽古で深奥に至ることはあり得ない。また、いくら稽古をしても、よほどの天賦の才がなければ、この術を会得することはできない。私の見る限り、宗家以外にそれだけの才能を持っている者は見当たらない。だから我々はひたすら稽古をして、少しでも身につけようと努めるほかない」 

 ところが師範(宗家)は全く逆に、こう説いた。
 「当流は神教の打ちを伝えるものだから、誰でもそれを信じて稽古に励めば、必ず身に着けることができる。才能?そんなものは気にせずとも良い。神が示された自然そのものの技なんだからひたすら稽古をすれば必ず手に入れることができる」

 この二つの説明を聞いた門人達は
 「さすがに宗家の言葉は見事なものだ。師範代の話通り、宗家は師範代よりはるかに腕が上だという証拠みたいな話をされた」
 と言い合い、頷き合った、と。

 しかしこの伝書の作者は、
 「どっちが上、ということではない。それぞれが師範なり、師範代なりの立場で説明しているのであって、決して『さすがは師範!』ではない。師範は師範として当然のことを、また師範代は修行者として当然のことを言っただけのことである。仮に師範代が『誰にでもできる』と言えば、門弟は流儀を軽んずるようになり、師範が『誰にでもできるというようなものではない』と言えば、門人は修業を諦めてしまう」
 、と、まとめている。

 理に適った話だと思う。確固とした立場でものを言わねば徒になる。
 この、師範の門人を包み込む姿勢と、師範代の、自他に厳しく当たりながら、門弟にはちゃんと進むべき方向を示し続けるという姿勢があってこそ、門人も、ともすればうまくいかなくて自棄になったり、反対に、天狗になったりしてしまうのを自制することができるのではないだろうか。

 門弟は、自身の「立場」が未だ分からない。分からないからこそ、自棄になったり、増上したりする。
 だから道を外さないよう、師範も師範代も門弟の立場(足場)が定まっていないことを念頭に、教導しなければならない。
 これは何も剣術を含む武術の世界だけのことではないだろう。

 少しその事柄について学べば、いくらもせぬうちに何も知らない人に比べてはるかに物事が能く分かるようになる。その時、つい、もう一人前になったかのように思ってしまう。それを慢心(増上慢)という。
 勿論、「慢心」と「自信」は表裏を成していることがほとんどで、それが以降の上達にどうしても必要な時期は、ある。
 けれども先達から見れば、まだ足場(自分の確固とした考え方)がしっかりとしていないことは容易に分かる。
 だから、その定まっていないことについて適切な指摘をし、再考を促そうとする。

 しかし、修業者の方は、そのための理解能力(定見)はまだできていないことに全く気付いていない。だから苦言を、「煩い」ととる。
 それで終わればまだいい。大方はそこで自身の力(実力?)を信じて「是々非々」という甘言に囚われ、行動しようとする。結果、時には先達まで、ありもしない実力で(「是々非々」の怪しい物差しで)、バッサリと切り捨てる。

 ここで、「長上を敬う」とか「謙虚に対することを心掛ける」姿勢があれば、辛うじてこの「慢心」「或いは「近視眼的行動」から距離を置くことができるのだが。
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竹島のこと

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.02/21 (Sat)

 呉善花、黄文雄、石平、三氏による鼎談三部作の中、
 「日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の心の闇」
 と題する一冊で、呉氏がこんなことを話されています。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 P124より
 「中国も韓国も海洋・島には全く関心がなかった」

 呉善花氏)
 小さな島一つ防衛できないという以前に、最も大切な国土だという認識がまるで薄いわけです。
 (注。 「小さな島」→英国に占領された多島海諸島の巨文島のことを指す。) 
 韓国で最大の島である済州島についてもそうです。1876年に日朝修好条約が結ばれて対日開港となってからのことですが、古くからそうだったように済州島付近の漁場では日本と朝鮮の漁民が入り混じって操業していました。それに対して金玉均(キム・オッキュン)という高級官僚が抗議していますが、その時彼は「済州島はどこの道にも属していない」と述べています。済州島は行政的には全羅道に属している島の筈ですが、この金玉均の主張からすると、はっきりしていなかったんじゃないかと思います。
 そういうわけですから、朝鮮半島の諸国はずっと無人の小さな島なんか、まるで眼中になかったんです。韓国が竹島にあれだけ執拗にこだわるのは、竹島は「韓国が実力で日本から奪還した領土」だと位置付け、反日のシンボルにしているからです。
 北朝鮮は「対日武力戦争によって独立を戦い取った」と誇っていますが、韓国の独立は「日本から戦い取った」ものでないことが、韓国には悔しくて仕方がない。
 そこで一方的に李承晩ラインを引いて竹島を軍事的実効支配下に置くことで「日本から領土を戦い取った」実績をつくったわけです。
 ですから、竹島を領有していることは、韓国にとってはきわめて大きな誇りなんです。韓国の場合は中国とは違って、海洋への関心から竹島領有にこだわっているのではないんですね。

                     (転載了)

   ~日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」より~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「島を国土だという認識がまるで薄い。済州島にしても国土だ、という意識を強く持っては、いない。」
 なるほど。だからこそ済州島ほどの大きさだって「島」なんだから、「流刑地」としてだけ、「白丁の島」としてだけ認め、蔑視し、永らくほったらかしにしていたわけですね。
 それ以前に、実は以下のような、単純な理由からなんじゃないでしょうか。
 「半島は大陸の一部だ。しかし、島は島でしかない。大陸ではない。拠って国土とは言えない。」
 「事大主義」、「小中華思想」ならば、こうなってもちっとも不思議ではありません。
 日本なんかは「島の寄せ集め」でしかないんですから、「島『国』、だなんてちゃんちゃらおかしい。」・・・・・ということなんでしょうね、きっと。

 じゃあ、なぜ竹島に関してはあんなに拘るのか。
 それはシナからの独立を記念して建立した「独立門(ドンニンムン)」を、いかにも「日本からの独立を記念して」、みたいに言ってることと直接係わっているんじゃないでしょうか。「誇り高き独立国である」と言いたいのだけれど、シナ、ソ連ではなくアメリカが来てくれたおかげで、再び「自力」でなく、独立国に(成った、のではなく)、「なれた」。でもそれは口惜しくて言えない。
 何しろ二度が二度ともお人好しの日本が絡んでいるわけです。(絡むどころか、日本のおかげというしかない。)何しろただの「島」に住む「蛮族」の日本です。

 お節介で、お人好しな日本が、清からの独立を、わざわざ下関条約の最初の項に明文化してくれた。そして、二回目は日本が敗れることによって自動的に「独立できた!」でも、そんなこと、絶対に認めたくない。
 だから何とか「自力で独立した」という証が欲しい。それで、一回目の「清からの独立」は「迎恩門(ヨンウンムン)」を破壊し、「独立門(ドンニンムン)を「日本からの独立の証し」として新たに建てた、みたいな風に教え込んだ。
 二回目、「併合からの独立」でなく、「戦って独立を勝ち取った」と言いたい。
 だから、李承晩が「対馬は我が領土!」とアメリカに頼み込んだけれど、一蹴された、というか、一笑に付されてしまった。(第一次対馬侵攻作戦はこの時にあった、ということになります)
 それならば、と引いた、妙に折れ曲がった線が李承晩ライン。
 それで人の住まない絶海の島を、韓国領と宣言した。対馬は駄目だったけど、竹島は「自力で手に入れた(奪還した)」「領土」、というわけです。
 「自力で手に入れた(奪還した)のは、我が国が独立国だからである」。
 不自然に折れ曲がった線を引いて、対馬ははずして、竹島だけ引っ掛けている。こんな小さな島、朝鮮時代には見向きもしなかったのに。地図上の線をちょっと引き違えただけなのに「自力で奪還した!」線一本で「島を戦って取った」。
 中華思想の真骨頂ここにあり、です。「せこい」とか「姑息」という言葉で形容することすらためらわれる。
 でも、これ、
《「百人斬り」という名称が世に出た以上、その名の下で、一人でも死者が出たならば「百人斬り」は「あった」、ということであり、百人斬殺されたかどうかは大して意味はない。つまり(?)、「百人斬殺されたのである!」と似ています。
 「数千であろうが数万であろうが、虐殺という事実があったことが、問題なのであって、我々の心には三十万人が虐殺されたという記憶が事実となって残っているのだ。今は四十万人となっても、虐殺されたという事実(?)は消えない!」(2010年2月10日の日記) 》
 、と同じ理屈です。

 これで「竹島(独島)は独立の象徴」という意味が分かります。
 領土であることに、なんら生産的な価値はない。ただ、あの島を、線を曲げて引いただけであっても、とにかく「自国の領土」と主張することで「独立国である」、と言える。
 
 「共同管理にしたら良い」「あんな島、くれてやったら?」なんて言うのは、実は彼らの持っている後ろめたさを嘲笑していることになるのです。そして、だから実際に領有権を放棄することは、何の解決にもなりません。それどころかそれに味を占めて、「次は対馬を」と言ってくるのは目に見えています。
 やはり「そんなやり方は、独立国として実に恥ずかしいことなのだ」と彼らに教え続けるべきだ、と思います。
 彼らに迷惑を掛けられ続けるのが嫌ならば、彼らを成長させるしか手はないのですから。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「我々は独立したのである。『独島』を『自力で奪還した』のが、その証拠である。」

 この大嘘の元には、当時朝鮮には存在しなかった(重慶にあった)「大韓民国臨時政府」を継承して、「大韓民国」が建国された、というさらに大きな嘘があります。
 「言ったもの勝ち」みたいなもんです、「~臨時政府」と言ったって、世界が認めたものではありません。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「大韓民国臨時政府」は、一九一九年に起きた三・一独立運動を契機として、李承晩、金九など、当時中国にいた反日独立運動家たちによって設立された政治団体です。この一政治団体に過ぎない「大韓民国臨時政府」を、正統政府として認めて継承した国家が今の韓国です。彼らは国内で活動していたわけではなく、長らく外国に住んでいた一握りの知識人たちですから、いうまでもなく韓国内で影響力をもっていたわけではありません。(呉善花氏)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「反日運動家の思想を基に建てた国が、日本から領土を奪い返し、独立国としての存在を示した。」
 事実はウソだけど、筋は通ってますよね。中華民国の資金援助により重慶で存続していた革命運動(?)懇話会が、日本の敗戦により帰国することができた。米国から保護領とされたが、三年間の内乱の後、その反日を主目的とする(いわゆる)「大韓民国臨時政府」が主導権を握ったので、米国はそれを「政府」として承認した。
 だから李承晩ラインは米国にお伺いを立てた結果のもの。
 でも日本から武力で奪還した、と言わなければ、独立国の証は何一つない。
 ウソにウソを重ねるわけですが、ちゃんと「避諱」の精神は守られています。

 彼らにとって竹島は、国の存亡に係わる大問題。手放したら「戦って領土を奪い返したから独立国となった」と主張するただ一つの根拠がなくなるわけです。
 ここは一番、腕によりをかけてウソを吐き続けなければ、ということになります。

  ・・・・・・寒い・・・・・。

 追・
 李承晩ラインは対馬のところで不自然に曲がってるでしょう?
 あの線、まっすぐに伸ばしていくと、竹島は・・・・。
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先崎彰容(せんざきあきなか)氏の評論文から

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.01/10 (Sat)

 昨日(2015・1・8)の産経新聞に
 【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】
 と題する東日本国際大教授・先崎彰容氏の評論文が載っていました。
 文全体は4ページということなので、例によって私が目を惹かれたところを転載します。
 氏は私が就職したばかりの時、まだ生まれたばかりみたいなものです。そんな人が今、還暦過ぎたおっさんに興味深いことを教えて下さっている。
 いい歳をして恥ずかしいと思う反面、この歳になって思いもよらず学べる、気づかせていただく、というのは何ともうれしいものです。つい、頬が緩んでしまう。「日本人の感性を私は持っている」と実感するからでしょう。

 無駄話はここまでにして、葦津珍彦(あしづうずひこ)氏のことについて書かれた、この評論文から。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  昭和40年代のことである。一人の在野思想家が時代と格闘していた。
              (略)
 当時、国際社会はアメリカとソ連の二極対立の時代が終わり、第三世界のさまざまな国家が自己主張を始めていた。日本国内でも多くの論客が処方箋を示し、自分こそ正しいのだ、こう主張して群雄割拠していた。

 時は昭和43年の、いわゆる「全共闘革命」前夜だった。網野善彦が、三島由紀夫が、そして橋川文三が、つまりこれまで取りあげてきた思想家たちが、時代を正確に見定めようともがいていた。

 その同じ場所で、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)はまなざしを明治にむけ、自分の生きている時代を冷静にとらえようとしていた。
              (略)
 戦後日本を診るためには、葦津にならって戦国時代から明治、さらには昭和までを広く学ぶ必要があるのだ。
              (略)
 たとえば中江兆民と聞いて、人は何をイメージするだろうか。「東洋のルソー」と呼ばれ革命と自由民権を擁護した兆民は、フランス社会思想を紹介した左翼だと思われている。だが一度でよいから、兆民の生涯と著作に接してほしい。すると兆民が頭山満と親交をもち、幸徳秋水を弟子とし、何より西郷隆盛と勝海舟を尊敬していた事実に出くわすではないか。彼が漢文を使いこなし、『孟子』を愛読してやまなかった事実があるではないか。
              (略)
 終戦から70年を迎える今年、本屋を歩いて気づいたことがある。
 それは周辺諸国を批判する本が売れているという事実であり、反原発や東電批判といった分かりやすい権力批判があふれていることだ。前者のアジア批判は「右」に、後者の権力批判はかつての「左」に分けることができる。だがしかし葦津や頭山を参照すれば、そう単純に人間の思想が一つの色に染まるわけがないことに気がつく。彼らに比べ、いまの私たちは、異常なまでに単純化していないか。

 世間が混沌(こんとん)の度合いを深め、世のなかが見えにくくなるほど、出来合いの価値観・世界観に飛びつきたくなる傾向を、私たちはもっている。本屋に渦巻くはげしい言葉のほとんどは、「不安」が原因としか思えない。

              (以下略)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 昭和43年、「革命前夜の日本」を正確にとらえようとして多くの思想家が悪戦苦闘している中、葦津珍彦は「明治」を見詰めることによって「今」をとらえようとした。
 これ、物差しを明治に置いた、基準を明確にした、ということですよね?これこそが「是々非々の基準を明らかにする」ということなんじゃないでしょうか。

 変動する「今」、だけをいくら凝視したって、「基準」・「物差し」は見つからない。「基準」・「物差し」が見つからなければ、把握すること、括ることはいつまでたってもできない。その都度の己が理解能力の範囲内で浅薄な判断をするだけで、以降の大いなる判断、遠慮を生むことができるでしょうか。
 葦津は「今」を見る(捉える)ために、確定した過去である「明治を見詰める」、という方法を取った。
 意外にやってないことですよ。我々はつい目の前の出来事に心を奪われてしまい、気持ちが揺らいでしまう。
 「こういう時はこんな風にする。先人はこうやっていた」と知る。そして覚え、反芻する。
 これだけだって簡単にはできない。でも、たとえば、警察、消防士、自衛隊、武術等の習い事で、これは当然のこと、必須のことですよね。

 だったら、なぜ、「今」を捉まえようとする思想家、評論家、そして今を生きる我々は「こういう時はこんな風にする。先人はこうやっていた」と知り、覚え、反芻し、習練しようとしないんでしょうか。
 まあ、少なくとも私はそれをしていませんでした。
 だから中江兆民が「頭山満と親交をもち」、「幸徳秋水を弟子とし」、「西郷隆盛と勝海舟を尊敬していた」、などということを全く知らなかった。
 中江兆民の思想を、その背景を全く分かろうともしていなかった。学校の教科書で習った一片の知識だけで、これまで考えることもなく来てしまった。
 その結果、彼の考える「革命」、「自由民権」、の本旨は分からないままだったどころか、とんでもない誤解と浅薄な決めつけをしていたのではないか、いやきっとそうなのだろう、と思い始めています。

 《葦津や頭山を参照すれば、そう単純に人間の思想が一つの色に染まるわけがないことに気がつく。彼らに比べ、いまの私たちは、異常なまでに単純化していないか。》

 「異常なまでの単純化」。
 兆民の交友関係、弟子への影響、尊敬する人物等、思いを馳せるだけでも、浅薄な是々非々には陥らないのではないでしょうか。




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風が吹く

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.01/09 (Fri)

 今日の≪渡部亮次郎の「頂門の一針」3561≫に面白いことが書かれてあったので、部分転載させていただきます。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2015/01/08 (木) 12:49

 ━━━━━━━━━━
 第47回総選挙の捉え方
 ━━━━━━━━━━

     加瀬 英明

             (略)

 静かな選挙は結果も落ち着きがある
 今回の総選挙では、久し振りに“風が吹く”ことがなかった。一部で「熱意を欠いた選挙」だったと批判しているが、私は日本国民がそれだけ成熟したと、高く評価したい。
 日本の民主政治には、周期的に“風”が吹いてきた。この30年以上、“風が吹く”ことが、際立った特徴となっていた。
 前回の総選挙では、橋下徹大阪市長の“大阪維新の会”が全国に旋風を引き起し、「政界再編の目だ」といわれた。私は異常な“維新の会”のブームに、深い不安を覚えた。
 前回はみんなの党も“風”を起したが、みんなの党は今回、泡沫のように消えてしまった。

 前回の総選挙直後に、みんなの党の浅尾慶一郎議員と会った時に、社民党が全国で獲得した票を、関東圏だけでとったと自慢したので、私が「党名がコミックのようで、不真面目だ」といったところ、「いや、党名のお蔭で、これだけとれたんです」と、蒙を啓かれた。

 浮き足立った選挙は一過性で空しい

             (略)
 小泉首相が平成13年に「自民党をぶっ壊す」といって、郵政改革を訴えた総選挙で、自民党が圧勝した。
 5年前に、民主党が「政権交替」を叫んで、鳩山由紀夫内閣が登場した時、マスコミが「風が吹いた」といって、盛んな拍手を送った。
 昭和64年の総選挙では、日本社会党が土井たか子委員長のもとで、議席を倍以上に増した。マスコミが「マドンナ旋風」と呼んで囃し立てたが、土井氏が「山が動いた」といって小躍りした。

 なぜか、日本国民は内容がよく分からない新しいものに、憧れる性癖がある。これらの“風”は、みな一過性のものだった。
 平成13年に誕生した“小泉チュルドレン”は、その後の“風”によって、芥(あくた)のように散ってしまった。5年前にバッジをつけた“小沢チルドレン”も、“風”とともに散った。

 天下の公党が候補者を公募するのも、日本だけのものだ。日本だけの、独特な奇観だ。
 橋下市長が大阪維新の会をつくって、塾生を公募したところ、国会議員を含む3326人が応募した。あの時点では、みんなの党もまだ人気が高かったが、もし塾を開設していたとしたら、維新の会によってはねられた者が、殺到したにちがいなかった。
 “風”が周期的に吹くのは、日本の民主政治が国民のあいだにしっかりとした根を、降ろしていなかったためである。

 欧米の政治の日常性を学ぶ必要がある

            (略)
 私はマスコミが、どうして「風が吹く」のを、良いことにしてきたのか、分からない。本来、日本語で“風”といったら、思わしくない言葉だった。
 よい言葉といったら、「そよ風」ぐらいのものだろう。

 「風の吹回(ふきまわ)し」「風任(まか)せ」といえば、定見がないことである。  男や女が心変わりするのを、「風吹き」といった。「痛風」「中風」もある。
 江戸時代には、「かぜを負うた」というと、物怪(もののけ)に取り憑かれたことをいった。「あの人は風に当たった」といえば、人に災いする魔風のことだった。風は疫病神であり、「風の神払い」といって、仮面をかぶって太鼓を打ち鳴らして、軒々、金品を貰い歩く辻乞食がいた。

 日本国民の国民性

 地方では風の神に見立てた人形を作って、鉦や、太鼓ではやしたてて、厄除けを行った。いまでも農村へ行くと、風害を免れて豊作になるように祈願する、風神祭が行われている。
 マスコミは、“風の魔神”なのだ。マスコミは政治屋と一緒になって、風袋をかついで、風害を撒き散らしてきた。
 これまで、政界で“風”はよい言葉になっていたが、“風”は政治を不安定なものにしてきた。
 “風頼り”で当選した若い1年生議員が、国会から追われると、きっと落魄して、“風”を恨むことになろう。

 日本国民には、熱しやすく、冷め易い欠点がある。
 煽ることが、ジャーナリズムの生業(なりわい)であることは、戦前から変わらない。マスコミは何であれ、騒ぎを好む。劣情を刺激するポルノと変わらないが、そうすることによって、紙数が増え、視聴率が上がる。
 江戸時代には、流行神(はやりがみ)現象があった。ある祠(ほこら)に詣でると、治病とか金運とか、大きな御利益があるという噂がひろまる。すると、群集がそこに殺到する。ところが、長続きしない。いつも、一過性のものだった。
 しばらくすると、ちがう祠か、寺か、社に詣でると、福運がつくという風聞がひろまる。人々が、そこへ集まる。流行神は花が咲いてぱっと散るから、「時花神」とも呼ばれた。
 マスコミは、流行神だ。そのたびに、賽銭箱が満たされてきた。

 お蔭参りは、江戸時代におよそ60(年)周期で起ったが、伊勢神宮に参詣すると大きな御利益があるという噂がひろまって、老いも若きも日常生活の規範を離れて、街路に飛び出し、奔流のように踊り浮かれて、伊勢へ向かった。

 幕末のお蔭参りと現代のお蔭参り

 最後のお蔭参りは、幕末の慶応3年に起ったが、当時の日本の人口の1割
に近かった200万人以上が、全国から伊勢を目指した。路々で周辺の家に土足であがり込み、饗応を強いるなど、狼藉を働いた。
 平成に入っても、日本ではお蔭参りが続いている。反原発デモが、その類である。
 日本では政治が国民生活から、浮き上っていた。国民が日常、政治にかかわろうとしないからだ。

 日本国民は日頃、ゲルマン民族のように規律を守って地道に生きると思うと、周期的にラテン民族のように浮かれて、空ら騒ぎする。
 アングロサクソンや、ゲルマン民族であれば、新しいものに警戒心をいだく。 かりに多少の欠陥があっても、多年使い慣れたもののほうが、安心できるものだ。ところが、日本国民は政治の場にまで、「女房と畳は新しいほうがよい」という感覚を持ち込む。

 国民の1人ひとりが、日本の持ち主であるはずだ。大事な政治の選択を、
“風”に委ねてはなるまい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《日本の民主政治には、周期的に“風”が吹いてきた。この30年以上、“風が吹く”ことが、際立った特徴となっていた。》
 《私が「党名がコミックのようで、不真面目だ」といったところ、「いや、党名のお蔭で、これだけとれたんです」と、蒙を啓かれた。》
 《私はマスコミが、どうして「風が吹く」のを、良いことにしてきたのか、分からない。本来、日本語で“風”といったら、思わしくない言葉だった。よい言葉といったら、「そよ風」ぐらいのものだろう。》
 《マスコミは、“風の魔神”なのだ。マスコミは政治屋と一緒になって、風袋をかついで、風害を撒き散らしてきた。》

 上記は転載文中から改めて抜き書いたものなんですが、「風」、ということに関して、私はこれまでずっと何だか釈然としないものを感じていました。
 南洲翁が言われるような「命も要らぬ、名も要らぬ、~というようなものでなければ国のことはできぬ」という認識の中に、「風」、なんて曖昧なものがあったろうか。それこそ「状況の変化は風次第」、なんて、南洲翁が聞いたら激怒するんじゃないか。
 「神風」云々を言う人もいる。鎌倉武士の勇猛果敢な戦いぶりに八百万の神達が感応し、吹かせたのだ、と捉えられている。
 けど、神様ってのは「人智を超越した存在」なんだから、そんなチマチマした発動はないんじゃないのかな、と思います。「大魔神」見たって分かることです。魔神の暴れる時(本当は全て「神」、で「魔神」なんていないんだから、「暴れる」、じゃなくて「神威の発動」です)は、善人だとか悪人だとか関係なしに滅ぼしてしまう。
 靖国神社に鎮まる英霊達が神風を吹かせたというのなら納得もできるけれど、鎌倉時代は、まだ靖国神社、ありませんから・・・ねえ。

 神風が吹くことによって侵略軍の船は沈んだけれど、選挙、政治の場で風が吹いて背中を押されて当選する、そんな当選の仕方でできる政治って一体何なんだと思います。
 そんなあやふやなもので前出の南洲翁のいう公平無私の政治ができるのか????

 
 そうそう。「風に立つライオン」なんて題名の映画ができたんでしたっけ。
 風に立ち向かう、ってのは何だか雄々しくてカッコいいですよね。
 それに比べ「風が吹いた!」「我が党に追い風が吹いてる」なんて軟弱に見えます。
 どうも「風を頼りにしている」のはいけません。同じく「風を読む」、なんてのも心根が卑しく見える。
 大自然の中で、自分がちっぽけなものだと自覚して、謙虚に学ぼうというんなら良いんですが、「風を頼りにしている」のや「風を読む」なんてのは、「大自然」ではなく人の作った社会のことなんでしょうからね、どんなにカッコつけたって、卑しくなるんでしょう。

 敬神の念の篤い人が神社に参拝すると、拝殿の方から実に心地よい風が吹くことがあるそうです。そんなそよ風に包まれることが一度でもあれば、「風が云々」なんてことは言わなくなるんでしょうけど、「風の魔神」「流行神」たるマスコミ関係者は、そんな参拝なんかはきっとしないんでしょうからね。

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目の付け所

2020年03月04日 | 重箱の隅
2015.02/28 (Sat)

 《渡部亮次郎の「頂門の一針」》2015(平成27)年2月27日(金)3583
 より、部分転載します。

 ━━━━━━━━━━
 河野の加齢断定症候群
 ━━━━━━━━━━

 杉浦 正章

 自らの大失政を顧みるべきだ
 
 慰安婦強制連行の朝日大誤報のほとぼりが冷めたと思ったのか、血が騒ぐ のか元衆院議長・河野洋平が78歳にして意気軒昂だ。その発言も安倍を 「右翼政治」よばわりして、はばからない。

 人間年を取って気を付けねばならぬことは「短絡」である。深く思考する 余裕がなくなるのか右か左かととかく断定したがる傾向が出てくる。これを「加齢断定症候群」と名付けたい。河野発言を分析するとこの症候群の深刻な症状が見られる。
 自民党を離党 して新自由クラブを結成したときから、「左翼政治」とは言わないが「左 傾化政治の欺瞞(ぎまん)性」があって好きになれない政治家だった。
 「夢よもう一度」も理解できるが、ほどほどになさった方がよいと思う。
 
 河野の24日の名古屋発言はまず首相・安倍晋三が村山談話を継承するのか どうかについて「歴代内閣が継承してきた日本の歴史認識が10年刻みで変わることはありえない。どういう文言で談話を書くかは決まり切ったことだ」と「植民地支配と侵略」「痛切な反省」「心からのお詫び」の“キー ワード三点セット”をそのまま受け継ぐべきだと主張。

 安倍がこれだけでカチンとくるのは必定だが、さらに加えて「自民党にはリベラルな議員もいると思うが、目立たない。これ以上「右」に行かないようにしてほしい。今は保守政治と言うより右翼政治のような気がする」とまで言い切った。これで安倍はカンカンだ。

 時の自民党政権を「右翼」呼ばわりする発言を初めて聞いた。
 さらに自民 党から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われている自らの談話について「官房長官談話は誠心誠意作り上げた。はっきりとした裏付けのないものは書かなかったので「強制性」という言葉は入っていない。強制性についての文書は見つからなかったからだ。しかし、強制性が全くなかったかと言えば、 いくつか具体的なものはある」とあくまで強制性にこだわった。

 それでは、反論すれば、父親河野一郎より政治力はかなり落ちるが「輝か しき」河野洋平の政治家としての人生の中で、日本をおとしめた大失政が 2例ある。
 一つは小選挙区制の導入であり、他の一つは「河野談話」のあとの河野発 言である。現行の小選挙区比例代表制は、「政治家が小粒になり劣化する」と筆者は政治部長時代、自民党に意見を聞かれて反対論を述べた。
 しょせんは蟷螂(とうろう)の斧のような発言であり、当然河野はこれを無視して推進。その揚げ句が今になっての大反省である。
 河野は「私は大きな間違いを犯しました」とまるでISILの人質のように語る。
 「私は大きな間違いを犯しました。今日の日本の政治は、劣化が指摘さ れ、信用ができるか、できないかという議論まである。そうした一つの原 因が小選挙区制にあるのかもしれない」と述べ、衆院選に小選挙区制を導入した自らの判断は誤りだったと認めたのだ。
 しかし時既に遅しだ。選挙制度改革など圧倒的多数を占めた自民党がやる わけがない。 謝って済む問題ではない。政治家の劣化は国の劣化につなが りかねないのだ。

 次にこれに勝るとも劣らないのが「河野談話」とこれに伴う「河野発言」 である。
 朝日の「強制連行」や「女子挺身隊」の大誤報が大きく影響を与 えた1993年の官房長官・河野洋平談話は「軍による強制連行は確認できな い」が基調であり、事実強制連行を示唆する文書類は一切発見されていない。
 しかし問題はこれを発表した後の河野の明らかに意図的とみられる発言に ある。
 記者会見で「強制連行の事実があったという認識でよいか」と聞か れて、「そういう事実があった。結構です」と明白に認めてしまったのだ。
 この発言が慰安婦問題の全てとなった。韓国のみならず欧米諸国にまで、 「韓国女性を狩り出してレイプしながら連行した」との戦後史に残る大誤報の発端となった。

 この「性奴隷」説は国連人権委員会のクマラスワミ報告にも下劣な表現で 引用され、米リベラル系マスコミが報道し、米政府内にも誤認の風潮が生 じて消えない。
 朝日が強制連行の誤報を認めても、いったん染みついたイメージは消えないのだ。
 一政治家の判断が、これほど日本をおとしめた例を知らない。いくらノーバッジで隠居の身でもせめて現状認識だけはしっかりしてもらいたいと思うが、河野は現政権を「右翼政治」と一言で断ずる。
 しかし、安倍政権が3回の国政選挙で圧倒的な国民の支持を受けたことは 何を物語るのだろうか。それは有権者が河野らが「左傾化」させた政治を、正常な姿に「復元」しようとしているからに他ならない。
 河野が喜々として訪中するのは自由だが、中国の海外膨張主義に対して、 国の領土をいかにして保全するのか分かっていない。
 集団的自衛権で日米 同盟を固めることに共産党と同じように反対なのか。

 跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するテロリストから邦人を救出するのに 自衛隊の海外派遣が不要だというのか。
 「自民党にはリベラルな議員もいると思うが、目立たない」と発言したが、目立たなくしたのは国政選挙に よる時代の淘汰(とうた)だ。 時の政権への「右翼政治」呼ばわりも小選 挙区制と同様に「私は大きな間違いを犯しました」と早く気付くことを渇 望する。

                (転載了)

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 一つ目の「小選挙区制導入」に関しての無責任発言はここでは置く。
 小粒の政治家ばかりになるのと、決められない政治が続くのと、どちらがいいかということで、後者を採る。これはこれで見識のあることではないか。政治は舵を取るためにあるのだから。船頭ばかりでは船は進まない。

 要は例によって、制度を生かすも殺すも国民の見識に拠るところが大なんだということだろう。
 何故って政治家は国民の一票で選ばれるのだ。
 岩手の小△氏だって大阪の辻×女史だって小選挙区制や比例名簿がどうこういう問題ではない。国民が大して考えもせずに、政党、候補者に安易な民が一票を投ずること自体がおかしいだけだ。いや、深く考えもしないで彼、彼女に一票を投ずる、というのが今の国政(じゃないですね、国会ですね)の体たらくを生んでいるのだ。

 無駄話が過ぎた。問題は二つ目だ。
 《「河野談話」とこれに伴う「河野発言」》 。
 「目の付け所」はどこか。「河野談話」か。それともこれに伴う「河野発言」か。
 これまた言うまでもないことで、目の付け所は「河野発言」ではないか。

 談話については「河野談話」の名の通り、「『軍による強制連行は確認できな い』が基調であり、事実強制連行を示唆する文書類は一切発見されていない」というものだ。
 「強制連行は確認できない→なかったとしか考えられない」本意ではないか。
 ここに於いて河野談話の、「検証」に意味はあっても、「談話見直し」に、意味はないに等しい。
 「確認できなかった」の発展形として「河野発言の徹底否定」ならともかく、「談話撤回」などするのは単に世界から不信を招くだけのことになる。それは偽史を作ることで自国を正当化しようとする国共と同じ扱いを甘んじて受けるということだ。

 また、「河野談話」とは「河野氏の談話」ではなく、「河野氏が責任を持つ談話」なのであって、外務省なりの緻密な計算と韓国政府のごり押しとのぎりぎりのせめぎ合いの結果に作り上げた典型的な外交文書なのだ。それも、狐と狸の化かし合いで、ポイント制で言えば51対49で日本の勝ち、みたいな文書だ。
 つまり、河野談話自体は問題どころか、あの時としては、「外務省、GJ!」と言われてもいいほどのものだったとさえ言える。

 それを「河野発言」が一遍にひっくり返してしまった。杉浦氏は「意図的に」とまで書かれている。つまり、確信犯だった、と言われている。この時を待っていた、ということだろうか?
 《記者会見で「強制連行の事実があったという認識でよいか」と聞かれて》
 間、髪を入れずに、
 《「そういう事実があった。結構です」と明白に認めてしまったのだ。》

 確信犯、というより、周りが見えない人間ではないのか。折角作った「談話」を全く理解していないのではないか。外務省の苦心惨憺を、ちょうど加藤紘一が佐々氏の苦心の下工作を踏みにじったように、一顧だにせずひっくり返してしまったのではないか。
 思い込みの強すぎる、山◇太郎と同じ、浅薄な知識、思い込みの強さ、聞く耳を持たない、という人物で、一見、「自己の信念に従って正しい道を邁進する」魅力的な政治家、と国民は捉えていたのではないか。それが証拠に未だに「サンデーモーニング」に出ているのは、まだ相当数の国民の支持があるからではないのか。

 ならば、我々は叩き続けるべきだろう。「引退したから云々」は言うべきではあるまい。発言を続ける限り、彼は「元官房長官」なのであって、決して過去の人ではない。

 そんなことを思って、以前の日記を見たら、今回とほとんど変わらない内容の日記が・・・・。あんまり進歩してない、というか・・・退行してるような気もしますが。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
           (略)

 河野談話だって、摺り合わせ自体は見事な攻防だったと思いますよ、問題は色々あったけれど。
 でも、当時の、後ろ向きの外務省にしてはホントに見事な玉虫色の表現にしたんじゃないか。
 今、朝鮮語のことを知るようになるにつれ、談話の本文の見事さは、朝鮮文字だけで書かれた文章に比べて格段に意味が深く、言ってみれば韓国は日本の文章技術に翻弄されていたような気もします。
 それを記者会見で河野洋平氏が発した不用意な発言が全てを引っ繰り返してしまったのではないか。
 記者の度重なる質問に対し、「強制連行(拉致)があったと。(そういうことで)結構です。」みたいなこと、言ったでしょう?あれで玉虫色が全て引っ繰り返されて、思いっきりのオウンゴールにしてしまった。あれを何故糾弾しないのか、不思議に思います。 

            (以下略)

      「日中関係改善の文書」    2014年11月11日

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 繰り返しますが「引退した人だから云々」、などということは決して言うべきではないと思います。
 政治に関して発言する限り、彼の発言は元「国会議員」ではなく、それよりはるかに重視される元「官房長官」なんです。
 その功績(?)は「河野談話」であるべきで、決して「河野発言」ではない。
 それが「河野発言=河野談話」と認識されている。とんでもないことです。
 あんな浅薄な「河野発言」如きと、弱腰とはいえ精一杯の努力をした結果、辛勝する筈だった外務省(作出の「河野談話」)を一絡げにしては、いくらなんでも外務省が可哀想です。
 いくら「是々非々」って言ったって、結局は切り捨てていくだけ、じゃあ最後には誰もいなくなります。

コメント
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