2010.06/12 (Sat)
先日、或る日記で「若者組の復活を」という題の文章を拝見しました。
で、その時、何故か私の頭に浮かんだのは、この題、「吉之助は、青二才でござる」
でした。
本当にこんな感じの言葉だったのかどうか分かりませんから、どうもいい加減な始まり方なのですが。
幕府からだったか、島津家に向けて問い合わせのあった、「『西郷隆盛』という人物についての藩内での評価」に対する回答でした。
世間を知らぬ、鹿児島の上級士(重職にある老人たち)の言です。
「あれは、まだ子供です。藩政に於いてさえ、取るに足らぬ存在。ましてや国政、など」と。
昔の老人というのは、みんなこんなものでした。いや、考えて見れば、老人は頑固で、物もよくわからぬもの。
先日、或る日記で「若者組の復活を」という題の文章を拝見しました。
で、その時、何故か私の頭に浮かんだのは、この題、「吉之助は、青二才でござる」
でした。
本当にこんな感じの言葉だったのかどうか分かりませんから、どうもいい加減な始まり方なのですが。
幕府からだったか、島津家に向けて問い合わせのあった、「『西郷隆盛』という人物についての藩内での評価」に対する回答でした。
世間を知らぬ、鹿児島の上級士(重職にある老人たち)の言です。
「あれは、まだ子供です。藩政に於いてさえ、取るに足らぬ存在。ましてや国政、など」と。
昔の老人というのは、みんなこんなものでした。いや、考えて見れば、老人は頑固で、物もよくわからぬもの。
長い間生きてくれば、身体も頭もいうことを聞かなくなる。そうなると、良く言えば精神力で、悪く言えば頑なな我儘で生きていくようになる。当たり前のことです。
そうしないと、頭も身体も言うことを聞かないのです。「騙しだまし使う」のでなく、無理矢理、命令して動かす。
ということは「頑固」というのは強い意志を持っている、ということでもあります。持久力、体力の衰えで意志が維持できないのであって、往々にして、意志(の強さ)だけなら若者より強くなっている。
相手が「西郷隆盛」だからこそ、我々はこの老人たちを「頑迷な世間知らず」と評しますが、どうですか?身の周りでは。
西郷隆盛ほどの人物が、そうそう居るわけではない。我々を「~は青二才でござる」と評する老人がいたら、それは「頑固爺」というよりも、「精神力、気骨のある御老人」と、言うべきなのかもしれません。
「若者は年寄りをバカにしている。年寄りは若者をバカだと知っている。」
軽く考えていましたが、これは含蓄のある言葉です。
若者は物を知らず、年寄りをバカにする。年寄りは、若者が、物を知らぬが故の言動をしている、と分かっているから、大人の対応をする。
その結果、若者にも「物を見る目」が段々に養われて行く。そして、今度は、その若者が後生(こうせい)に同じことを教えていく。
この一連の流れの中で、決して欠かしてはならぬこと、と言えば、「若者は、老人を面と向ってバカにしてはならない」ということです。
正面で言うのではなく、年寄りの居ないところで、不平不満を言い、悪口を言って憂さを晴らす。そうです、新前の若い会社員が居酒屋で上司の悪口をいうパターンです。(最近は減っているようですが、これ、問題ですね)
実は、これ、大事です。
「人は己の(現)能力の範囲内でしか、物事を把握できない。」
「考える力」「レベル」というのは、あります。会社の上司の中には変なのもいるでしょうが、大半は実直に、こつこつと仕事に取組んだ結果、分別のある人間になっています。また、そういう人間でないと、会社は、(問題が起きると困りますから)役付きにはしない。そんな上司に、まだ経験の浅い新人が、何かを言われて把握できること(読み取れること)など、高が知れています。
「一を聞いて十を知る」、なんて夢のまた夢。「十を聞いて一を『する』」程度の者だっている。でも、そんな新人も、いつまでもそんな風ではない。段々に育って行き、いずれは上司に追いつき、時には追い越して会社を動かすようになる。
問題はそれまで、で、そこに至るまでに「己の能力」を、大きく高く育て続けなければならない、ということ。
その過程では、悪口を言って憂さを晴らすことが必要です。時には、その悪口大会の中に、能力を高めるヒントが転がっていたりするのですから。
正面切って言ったら、これはそこで「ゲームオーバー」、でしょう?間違ったことを主張して「受け入れろ!」とやるわけです。会社が受け入れる筈がない。
ん?若者のことばかり書いてしまいました。肝腎の老人に戻します。
今、頑固爺は一体どこに行ってしまったのか。
居る筈です。居なきゃ爺様つかまえて「頑固爺になって下さい」と御願いしてもいい。そして、頑固爺が居ないところで悪口を言いましょう。
そこでは、頑固爺の言ったことを、理屈で打破するのでなく、「何故、頑固爺は自分を叱ったのか」、その道筋(頑固爺の歴史)を辿ってみましょう。
おや、また若者に戻ってしまいました。
頑固爺の手本を、一人あげてみようと思います。その人物の、若い頃から、頑固爺になるまで、の軌跡を駆け足で辿ったら、日本を愛する若者を立ち上がらせるきっかけの一つになるかもしれません。
そうしないと、頭も身体も言うことを聞かないのです。「騙しだまし使う」のでなく、無理矢理、命令して動かす。
ということは「頑固」というのは強い意志を持っている、ということでもあります。持久力、体力の衰えで意志が維持できないのであって、往々にして、意志(の強さ)だけなら若者より強くなっている。
相手が「西郷隆盛」だからこそ、我々はこの老人たちを「頑迷な世間知らず」と評しますが、どうですか?身の周りでは。
西郷隆盛ほどの人物が、そうそう居るわけではない。我々を「~は青二才でござる」と評する老人がいたら、それは「頑固爺」というよりも、「精神力、気骨のある御老人」と、言うべきなのかもしれません。
「若者は年寄りをバカにしている。年寄りは若者をバカだと知っている。」
軽く考えていましたが、これは含蓄のある言葉です。
若者は物を知らず、年寄りをバカにする。年寄りは、若者が、物を知らぬが故の言動をしている、と分かっているから、大人の対応をする。
その結果、若者にも「物を見る目」が段々に養われて行く。そして、今度は、その若者が後生(こうせい)に同じことを教えていく。
この一連の流れの中で、決して欠かしてはならぬこと、と言えば、「若者は、老人を面と向ってバカにしてはならない」ということです。
正面で言うのではなく、年寄りの居ないところで、不平不満を言い、悪口を言って憂さを晴らす。そうです、新前の若い会社員が居酒屋で上司の悪口をいうパターンです。(最近は減っているようですが、これ、問題ですね)
実は、これ、大事です。
「人は己の(現)能力の範囲内でしか、物事を把握できない。」
「考える力」「レベル」というのは、あります。会社の上司の中には変なのもいるでしょうが、大半は実直に、こつこつと仕事に取組んだ結果、分別のある人間になっています。また、そういう人間でないと、会社は、(問題が起きると困りますから)役付きにはしない。そんな上司に、まだ経験の浅い新人が、何かを言われて把握できること(読み取れること)など、高が知れています。
「一を聞いて十を知る」、なんて夢のまた夢。「十を聞いて一を『する』」程度の者だっている。でも、そんな新人も、いつまでもそんな風ではない。段々に育って行き、いずれは上司に追いつき、時には追い越して会社を動かすようになる。
問題はそれまで、で、そこに至るまでに「己の能力」を、大きく高く育て続けなければならない、ということ。
その過程では、悪口を言って憂さを晴らすことが必要です。時には、その悪口大会の中に、能力を高めるヒントが転がっていたりするのですから。
正面切って言ったら、これはそこで「ゲームオーバー」、でしょう?間違ったことを主張して「受け入れろ!」とやるわけです。会社が受け入れる筈がない。
ん?若者のことばかり書いてしまいました。肝腎の老人に戻します。
今、頑固爺は一体どこに行ってしまったのか。
居る筈です。居なきゃ爺様つかまえて「頑固爺になって下さい」と御願いしてもいい。そして、頑固爺が居ないところで悪口を言いましょう。
そこでは、頑固爺の言ったことを、理屈で打破するのでなく、「何故、頑固爺は自分を叱ったのか」、その道筋(頑固爺の歴史)を辿ってみましょう。
おや、また若者に戻ってしまいました。
頑固爺の手本を、一人あげてみようと思います。その人物の、若い頃から、頑固爺になるまで、の軌跡を駆け足で辿ったら、日本を愛する若者を立ち上がらせるきっかけの一つになるかもしれません。