CubとSRと

ただの日記

「吉之助は青二才でござる」(頑固爺①)

2020年03月18日 | 心の持ち様
2010.06/12 (Sat)

 先日、或る日記で「若者組の復活を」という題の文章を拝見しました。
 で、その時、何故か私の頭に浮かんだのは、この題、「吉之助は、青二才でござる」
 でした。
 本当にこんな感じの言葉だったのかどうか分かりませんから、どうもいい加減な始まり方なのですが。
 幕府からだったか、島津家に向けて問い合わせのあった、「『西郷隆盛』という人物についての藩内での評価」に対する回答でした。
 世間を知らぬ、鹿児島の上級士(重職にある老人たち)の言です。
 「あれは、まだ子供です。藩政に於いてさえ、取るに足らぬ存在。ましてや国政、など」と。
 昔の老人というのは、みんなこんなものでした。いや、考えて見れば、老人は頑固で、物もよくわからぬもの。
 長い間生きてくれば、身体も頭もいうことを聞かなくなる。そうなると、良く言えば精神力で、悪く言えば頑なな我儘で生きていくようになる。当たり前のことです。
 そうしないと、頭も身体も言うことを聞かないのです。「騙しだまし使う」のでなく、無理矢理、命令して動かす。
 ということは「頑固」というのは強い意志を持っている、ということでもあります。持久力、体力の衰えで意志が維持できないのであって、往々にして、意志(の強さ)だけなら若者より強くなっている。

 相手が「西郷隆盛」だからこそ、我々はこの老人たちを「頑迷な世間知らず」と評しますが、どうですか?身の周りでは。
 西郷隆盛ほどの人物が、そうそう居るわけではない。我々を「~は青二才でござる」と評する老人がいたら、それは「頑固爺」というよりも、「精神力、気骨のある御老人」と、言うべきなのかもしれません。

 「若者は年寄りをバカにしている。年寄りは若者をバカだと知っている。」
 軽く考えていましたが、これは含蓄のある言葉です。
 若者は物を知らず、年寄りをバカにする。年寄りは、若者が、物を知らぬが故の言動をしている、と分かっているから、大人の対応をする。
 その結果、若者にも「物を見る目」が段々に養われて行く。そして、今度は、その若者が後生(こうせい)に同じことを教えていく。
 この一連の流れの中で、決して欠かしてはならぬこと、と言えば、「若者は、老人を面と向ってバカにしてはならない」ということです。
 正面で言うのではなく、年寄りの居ないところで、不平不満を言い、悪口を言って憂さを晴らす。そうです、新前の若い会社員が居酒屋で上司の悪口をいうパターンです。(最近は減っているようですが、これ、問題ですね)
 実は、これ、大事です。
  
 「人は己の(現)能力の範囲内でしか、物事を把握できない。」
 「考える力」「レベル」というのは、あります。会社の上司の中には変なのもいるでしょうが、大半は実直に、こつこつと仕事に取組んだ結果、分別のある人間になっています。また、そういう人間でないと、会社は、(問題が起きると困りますから)役付きにはしない。そんな上司に、まだ経験の浅い新人が、何かを言われて把握できること(読み取れること)など、高が知れています。
 「一を聞いて十を知る」、なんて夢のまた夢。「十を聞いて一を『する』」程度の者だっている。でも、そんな新人も、いつまでもそんな風ではない。段々に育って行き、いずれは上司に追いつき、時には追い越して会社を動かすようになる。
 問題はそれまで、で、そこに至るまでに「己の能力」を、大きく高く育て続けなければならない、ということ。
 その過程では、悪口を言って憂さを晴らすことが必要です。時には、その悪口大会の中に、能力を高めるヒントが転がっていたりするのですから。
 正面切って言ったら、これはそこで「ゲームオーバー」、でしょう?間違ったことを主張して「受け入れろ!」とやるわけです。会社が受け入れる筈がない。

 ん?若者のことばかり書いてしまいました。肝腎の老人に戻します。
 今、頑固爺は一体どこに行ってしまったのか。
 居る筈です。居なきゃ爺様つかまえて「頑固爺になって下さい」と御願いしてもいい。そして、頑固爺が居ないところで悪口を言いましょう。
 そこでは、頑固爺の言ったことを、理屈で打破するのでなく、「何故、頑固爺は自分を叱ったのか」、その道筋(頑固爺の歴史)を辿ってみましょう。
 
 おや、また若者に戻ってしまいました。
 頑固爺の手本を、一人あげてみようと思います。その人物の、若い頃から、頑固爺になるまで、の軌跡を駆け足で辿ったら、日本を愛する若者を立ち上がらせるきっかけの一つになるかもしれません。

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「戦闘力」は足枷になる時もある

2020年03月18日 | 重箱の隅
2010.06/11 (Fri)

 国民新党亀井代表、遂に辞任。しかし、国民新党自体は、そのまま連立に残る。
 これを聞いてどう思われたでしょう。
 テレビでは「やっぱり政権中枢から離れたくないんだ」とか「ただの小政党になってしまうから、と亀井代表、言ってたよ」とか言ってましたが。
 亀井代表及び国民新党を、そんなにせこい見方しかしないようでは、テレビは、カン総理と同じです。
 「外国人に地方参政権を与えるか否か」、「夫婦別姓を認めるか否か」。
 外からの運動がいくら大きくても、ごり押しされたら、この法律は疾っくの昔に成立していた筈でしょう?
 何しろ、これはニュースでも流されたから、テレビしか見ない人も、知っていることですが、強行採決は、民主党、既に10回もやってるんですよ。60分しか審議してないのもあるんです。
 それに対してテレビは「自民党だって強行採決、やって来たじゃないか」という民主党議員の声だけは採り上げて、
 ①「自民党はそこまでに100時間以上かけてきたのに」
 ②「民主党が欠席やら退席を繰り返して成立させなかったからじゃないか」
との反論を、①②と分けて、どっちか一方しか流さない。
 「同じじゃないか。同じことをしているのに、何を言うか」というわけです。
 これこそ「月とすっぽん」「雲泥の差」。
 なのに、事の軽重が全く分からないようにして報道している。
 
 郵便局の票が国民新党を支えている。民営化に反対して自民党を出た、亀井静香、亀井久興氏らがつくった国民新党です。が、今、郵便局は民主党につく、と約束した。この新たな改革法案を民主党が成立させる、と約束したからです。国民新党だけでは永久に不可能です。でも、これこそ、国民新党が民主党と組んだ理由だったでしょう?

 国民新党は、この法案が成立すれば、存在意義はなくなってしまう。
 リアリストカンが、存在意義のなくなってしまった政党と、連立を維持すること。一体どんな益を見出したら、そうするのでしょうか。
 もう、カン民主党には不要な政党なのです。切り捨てたってかまわない。
 だから、昨晩、亀井代表の辞意がはっきりした時、総理は得意の「居眠り」でなく、ぐっすり「寝」ていた。ちょっと信じられない非情さです。小沢氏とは違う、「乾いた冷たさ」、でしょうか。「見せしめ」でなく「粛清」、かも。
 いずれにしてもリアリストカンの面目躍如、です。法案は今回成立しなくたって、郵政票は手に入れた。国民新党はもう要らない。もう、お荷物でしか、ない。
 法案が成立すれば、郵政票に対し、約束は果したことになる。しかし、「早期の成立を期す」、だ。「期限をきる」、などという、前総理みたいなバカな約束はしてない。
 それに後々まで面倒を見る気などさらさらない。国民新党と違って、思い入れはない。欲しかったのは票だけだ。

 最初に書いた、売国法案を、与党内で抵抗して成立させないようにしてきたのは間違いなく国民新党です。これから先も、亀井氏は「私も国民新党も反対」と言って来た通り、筋を通して反対をし続けるけど、仮に離脱すれば、党は存続できなくなり、当然反対の声など無視されるわけだから、いずれ国民新党は消滅します。
 「なんだ、やっぱりしがみついているだけじゃないか」
 そうです。しかし、もう一度言いますが、しがみついていなければ、あの法案は通ってしまいますよ?民主党にとって、国民新党は邪魔なんです。しかし、直前のあの約束です。いくらリアリストだって、民主党から切り捨てることはできない。
 それをやれば、全国民を敵に回すことになる。

 「無用の用」という言葉があります。「伝家の宝刀」は同じ心を含んでいます。「抑止力」もそうです。これらは実感しやすいものです。見ただけでは「0」だけれど、有事の際は「10」とか「100」の力を発揮する。「ドラゴンボール」で一般的になった「戦闘(能)力」みたいなものですか。
 けれど、政党、特に、国民新党や、先日までの社民党のように、考えの違う政党が、与党の中に連立という形で入っている場合は、「無用」「0」どころか「有害」であったりする。
 そりゃそうでしょう。国民の「代表」として「党(集まり)」をつくります。
 それぞれの(国民の)利権のぶつかり合う最前線に立って戦うのが、政党なんですから。
 一方から見れば、「民主党と組んでいるから悪」、となるのですが、その「悪」が、相当に大きな働きをしている。重い足枷となって民主党の動きを封じていることを見逃してはならない。
 「我が身可愛さに、やっているだけ」と、単純に切り捨てるのではなく、その働きの「有用性」は冷静になって認めなければならないのではないか、と思うのです。

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感激してました・・のに。

2020年03月18日 | 心の持ち様
2010.06/09 (Wed)

 感激してましたよ。感極まって、声が震えていたもの。
 でも、わりとこまめにテレビ、見てたんだけど、ニュースでも特番でも、「菅副総理の声が震えていた」とか「涙ぐんでいた」とか、誰も言わなかったような気がするんですが。何故でしょう。

 翌日には、早速、小学校の卒業式からの半生記、やってましたね。新総理を持ち上げるミッション、忠実に実行中のようです。
 「末は博士か大臣か」じゃないですが、菅氏自身、小学校の卒業式の頃、「僕は総理大臣になりたい」と宣言している。そして、地盤、かばん、看板、3ない状態から、政党の旗挙げにも係わり、遂に今、総理大臣に「上り詰めた」わけです。感激しないほうがおかしいですよ。

 でも、ぐっとこらえた。泣いちゃいけない。今、泣くところではない。なぜなら、この政権交代は、雌伏八ヶ月、辛抱して、何もできない何もしない、「次はお前が総理だ」と言われながらの副総理からだから。
 総理の次は副総理。ですよ、確かに。でも、総理がいる間は副総理だけど、「居なくなったら、自動的に総理」、とはならない。総理のスペアは、いつまでたってもスペア、です。「二番」じゃないんです。一番になる可能性は、みんなと同じく持っている、「何も仕事のない仕事」。それが、副総理。何もさせてもらえない窓際、という面もあったんです。
 急転直下で、いきなり幹事長が約束を実行した。ただ、表面上は選挙の形を採らざるを得ない。とにもかくにも立候補だ。約束どおりなら、対抗馬は出されても、自分が勝つようにお膳立てしてくれる筈だ。一芝居、打たなきゃならん。対立している格好を見せなければ。

 で、こう言った。
 「しばらく静かにしていただきたい」。
 おっ、カッコいい。ちょっとえらそうだ。これなら、敵対しているように見えるだろう。
 と、まあ、ここら辺までが、幹事長の脚本。最後の決め科白は、ちょっとアドリブも入っている。

 ここで、私は思いました。菅氏、欲張ったな。ここぞとばかりに、クーデターを起こそうとした。そして、対抗馬であり、表面上は小沢氏の部下ではない樽床氏を国対委員長にした。で、出来上がった新しい内閣は、というと・・・・・。
 党三役は変わったものの、他は何が変わったのか。
 口蹄疫事件の責任者は、これ幸いと辞退した。みんな嫌がってなり手がないから、副大臣の昇格だ。宮崎県民は最悪の気分だろう。何故って、まだ何にも終わってないのだ。昇格した大臣は、報道規制の中、自分の選挙区だけ、注意のビラを撒いている。
 蓮舫議員を少子化担当に、と言っていたのが、行政刷新担当に抜擢。言うまでもなく「仕分けの華」、だったからだ。つまり、「行政刷新」というのは、仕分けレベルのことなのだ、と民主党は捉えている、ということだ。
 仕分けが大衆受けをねらうパフォーマンスでしかないことを、国民は気付いている。よしんば、気付いてなくとも、「あれ、強制力、ないんだよ、初めから」の一言で、「えっ、何それ!」となること、請け合いだ。
 「行政刷新とは、ただのパフォーマンスなのだ」、と民主党自身が認めたことになる、とは思わないのだろうか。自分たちはその程度の理解力しか持っていない、と宣言していることになる、とは思わないのだろうか。数時間の下見、数日間の書類検討、1,2時間の質疑で処分する。しかし、強制力は、ない。それをやって来たから、担当大臣。おかしい、と思わぬ方が、おかしい。

 さて、支持率は急上昇した。煽りを受けて低下したのは自民党・・・でなくって、みんなの党。「民主の受け皿、みんなの党」。
 うまくいけば、複数立てたところも当選する。うまくいけば、過半数を取るかもしれない。準備をしたのは、前幹事長だ。手柄は小沢前幹事長のもの。
 発言力、強まる。
 
 「なあんだ。やっぱり、頭のすげ替えか。何も変わらないよ」と支持率が低下すれば、勝てない。すると、9月の代表選までの命。大負けしたら参院選後、直ちに「引責辞任」だ。
 「勝てば小沢氏、負ければ辞任。長く持っても9月まで」

 で、結局被害を最少に止めるため、「最少不幸政策」を採ったら、大方の予想通り「居抜き内閣」になってしまった。クーデター失敗!だ。
 そうなると、めざすは「勝ち過ぎず~、負け過ぎず~」。下手をすると、前任者の「八ヶ月」を圧倒する、「四ヶ月」、大敗すれば「二ヶ月」なんて大記録を打ち立てることになるかもしれない。
 うまくいけば、小沢氏を追い出せる。ただ、白刃の上を素足で歩く以上に危うい。

      「奇兵隊内閣」に、できるだろうか。
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絶対にコロナと書くな

2020年03月18日 | 日々の暮らし
こんな記事が・・・・。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和二年(2020)3月17日(火曜日)  通巻6407号 
 
「そこら中の電気をつけて、人が居なくてもコンピュータを稼働させよ
  死亡診断書に絶対にコロナと書くな」

 「武漢コロナは沈静化した。感染者数が減り、死亡者が激減した」と中国はへんなキャンペーンを始めた。くわえて工場の再稼働が始まり、サプライチェーンは回復しつつあり、労働者が戻ったそうな。その証拠は電気消費が上向いてきたではないか。

 欧州の観測衛星が中国上空からの観測データを公表し、電気が付いていない地図を公開したことがよほど堪えたらしい。中国共産党は「伝染病は抑え込んだ」ことにして、感染封じ込めに成功したという、でっち上げ嘘放送を大声で流しはじめた。
 地方からバスを仕立てて戻る風景や工場再開現場の映像を、さかんにニュース番組で放送し、国民に安心感を与え、ひいては世界にも、中国は感染の押さえ込みに成功という偽造された印象をあたえようと必死だ。

 ところが実態はといえば、オフィスビルの電気を灯し、誰もいなくともパソコンを稼働させ、工場は生産再開のフィルムを撮り終えると解散、電気だけは煌々とつけているのだ。
 まして武漢コロナの死者が激減した???。
 実態は医師に「死亡診断書の死因は絶対にコロナウィルスとするな」として別の病名を記させている。そうすれば確実に死者の数は減ったことになるという、例によってフェイクの製造にかけては世界一の技量を誇るくにだけあって、芸が細かい。しかし笑って済ませられるのかな。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そこまでする?
 ・・・・と思うのは日本だけ?
 でも、或る意味からいえば、実に合理的な風評被害封じ法でもある。「天安門事件なんてなかった!」と言い張るのと同じ手段だけど。
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