CubとSRと

ただの日記

「石見銀山から」 ⑤島津家久と温泉津(後)

2020年03月06日 | 重箱の隅
2013.09/01 (Sun)

 ここに至って、「朝鮮出兵の時の云々」という文は、日本の学者、或いは作家が、自身の主観で書いたものだ、と、やっと気が付きました。
 主観的な思い遣り、って、単に「悪女の深情け」、ですからね。相手のために良かれと思ってやっていても、ほぼ百パーセント相手を駄目にし、自分も深手を負ってしまう。けど、相手の方も、「これではいけない。これではお互いが駄目になってしまう!」、などと反省する気なんか欠片もなく、為にならない思い遣りに乗じて金をせびり取ろうとするなんてのは、それ以上に最低の国です。
 ん?何言ってんだろう。

 ま、まあ、少なくともあのままだったら、私は間違いなく日本嫌いになっていたことでしょう、日本人でありながら。
 戻ります。
 家久は、だからとんでもない猛将だったと言えるでしょう。そのせいか、家来で離反する者も多かったようで、朝鮮出兵時、軍の差配を巡って離反した家来が、朝鮮軍に投降、あろうことかそちらで侍大将みたいな立場になって戦い、日本軍を苦しめた、というような記録もあるそうです。

 では強いばかりの、荒くれ者みたいな、どうしようもない人物だったのでしょうか。
 全く逆の評価の証拠となるのが、示現流の免許皆伝である、という事実です。
 「たかが剣術の免許」、などと学者は思うんでしょうが、家久が真剣に取り組んだ結果、タイ捨流が主流だった島津藩の剣術が、示現流一色に塗り替えられるのです。
 ・・・なんてことを書くと「うそつけ。示現流以外にもいっぱいあるじゃないか」と言う人があるかもしれません。でも、ホントなんです。県史を見れば分かります。数流しかないんです。鞍馬楊心流とか、影流とか、くらいで、あとはみんな示現流の分かれです。
 当然でしょう。殿様が熱心に剣術の稽古をする、なんてのは普通あり得ないことです。それを、一流だけを心底気に入って、城から数百メートル離れたところにある稽古場の声を聞き分け、時に稽古場にやってくる、なんて力の入れようをされれば、示現流一色にならない方がおかしい。
 それに加えて、この流は免許皆伝までに長い年月がかかります。藩主と雖も十数年の稽古を真剣にやって来なければ免許とはなりません。実際、免許皆伝となったのは、藩主ではこの家久と、斉興くらいでしょう。

 朝鮮での戦いに関しても、いくさのない時は家来をねぎらい、酒宴に遊びに、と随分と気を配っていたそうで、それ故の島津軍の大活躍があったのでしょうが、帰国時も、高野山に参って、戦死者を弔ったりしています。
 名君揃いの島津家にあっても、特筆すべき一人ではないかと思います。

 さて、そうやって、帰国の途についたのですが、高野山に参った後、後学のために、と、今度は日本海に出て船に乗る。 
 そして、石見の国、島津屋(しまつや。島津氏とは関係ないようです)の海岸から上陸、徒歩で十里足らずの道を石見銀山に向かいます。
 既に秀吉の監視下に置かれていた銀山の採掘状況を見物し、銀山街道を下って、銀の積出港として知られていた沖泊(おきどまり)へ。

 沖泊は小さいながらリアス式の良港で、見た目以上の水深があり、外洋船も楽に碇泊できたようです。第三次の元寇に備えて入口に城が築かれたほどの、まるで隠し港のような場所でした。
 海にまで伸びた山の尾根が衝立のようになって沖泊を囲う、その尾根の反対側には、これまた狭いウナギの寝床のような細長い土地があり、一番奥まったところに温泉が湧いています。
 沖泊から上陸し、衝立のようになった小山を越えて、その温泉場に行き、疲れをとるのが普通に行われていました。
 鉄砲傷や矢傷に効くと言われるこの温泉と、沖泊港を併せて江戸時代頃にはこの土地を「温泉津(ゆのつ)」と呼ぶようになっています。

 石見銀山を見物に、と言った時点で、これは並みの武将ではないなと思います。
 今のように「世界遺産だから見に行こう」、というようなものではありません。
 やはり、見聞を広めようという気持ちが見えます。
 逆立ちしたって、銀山を領地にできることはないし、銀山に行ったって、何の利益もない。しかし、その採掘精製等に係わる、人の流れを見て置けば、島津氏の領地で何らかの鉱石を採掘する機会があれば、必ず役に立つ。

 例によって長々と書いて来ましたが、家久と温泉津の話、なんて、ほんの一言なんですよ、実は。
 家久が沖泊 について、温泉津の宿に泊まったその日、宿の主人が「来客がある」と知らせてきた。
 「はて、こんなところで自分を尋ねてくる者など居らぬ筈だが」
 と訝しく思いながらも、宿の主人に
 「通せ」
 と言うと、しばらくして満面に笑みを浮かべた立派な身なりの男が数人やって来た。
 「実は鹿児島から商用でやって来ていたのですが、殿様がお泊り、とのことで、御挨拶に伺いました」
 と言う。
 聞くと、みんな鹿児島では名の知られた商人共だった、と。

 その情報の早さと確かさに驚いた、という話が記録に残っています。
 室町期の、盛んな貿易の様子が垣間見える話でしょう?
 海商らしい情報網を持っていて、商人とは言え、気に入らぬ人間なら知らぬ顔を決め込んで、挨拶なんかには絶対に行かない、となってもおかしくないのが当時の大商人。それが打ち揃って、急ぎ、挨拶にやってくる。
 ・・・なんてのを見ると、「なかなか、・・・だねえ。どちらも」と思いませんか?


 附)
 温泉津温泉は、傷ついた狸が入っているのを見て、猟師が温泉であることを発見した、と言われています。
 日記文中に書いたように、矢傷、鉄砲傷に能く効くということで、霊泉と言われ、一般には「元湯」と称しています。長命館という旅館が湯元になっています。

 これと違って、毛利氏が温泉津を支配した時のこと。
 まとめを命じられた者(内藤内蔵助?)が毛利氏より与えられた土地に、少量の湯が湧いていました。一族で使うほどしかなかったんですが、明治期、地震の後に湧出量が急激に増え、以降「地震の後の湯」と言う意味で「震湯」と呼ばれるようになりました。
「温泉津温泉」と言えば全国で5本の指に入る泉質の良さなんだそうですが、それはこの「震湯」の方だそうです。
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「石見銀山から」 ④島津家久と温泉津(前)

2020年03月06日 | 重箱の隅
2013.08/31 (Sat)

 石見銀山について、ということで、「神屋寿禎と朝鮮人技術者」、「大久保長安」、「井戸平左衛門」と続け、「大森町の人々」で終わるつもりでしたが、ちょっと脱線してでも書いて置こうと思うことがありました。
 ちょっと脱線、の方が本筋より長くなりそうな予感、というか不安、みたいなものもあるけれど。

 というわけで、島津家久のことを。
 島津家久、と聞いて、「ああ!あの人?」となるのは相当な歴史通、じゃないでしょうか。でも、「何?誰?それ」と言う人だって、彼の大活躍の話を聞けば「はいはい!島津家久!」、となる。
 豊臣秀吉の「唐入り」のために、まず朝鮮に出兵したのが文禄の役。和平が決裂して再度戦いとなったのが慶長の役。
 家久(当時は忠恒)はその慶長の役に、父義弘と共に出陣、僅か数千の兵で数万の明軍を打ち破っています。

 朝鮮出兵時の諸国大名の働きは凄まじいものだったけれど、その中でも群を抜いていたのが島津軍。「鬼石蔓子」と呼ばれ恐れられた島津軍の大将が、この島津家久です。
 なんでも一日に挙げる首の数が一番多かった者を、「首級」と言って賞したんだそうですが、大将自らがその日一番の首を取り、賞された、というのは、後にも先にもこの島津家久だけではないでしょうか。
 その数、およそ二百。家久二十二歳の時、です。

 脱線の脱線、ですけど。
 「鬼石蔓子」というのは、決して褒め言葉ではないのだそうです。「鬼」というのは、日本では畏怖される存在で、「畏」の中には「敬」の念もあるのですが、シナでは、「死んだのにあの世に行けず、現世を彷徨っている者」、という意味しかないのだとか。
 だから日本の感覚から言えば、それは「鬼」と言うより幽霊とか亡霊とかいう意味になる。尊ぶとか敬う、なんて気持ちはこれっぽっちもない。
 けれど、恐れ慄いたこと自体は間違いなく、「鬼石蔓子(亡霊島津)」、とひたすら嫌がって、最低、最悪、とにかく敵として向かい合いたくないと言い継いだ。

 考えてみれば、敵に対する尊敬、とまではいかずとも「敵を同じ人間として認める」、という考え方が、昔から彼の国にはないのだから、当然のことかもしれません。
 「抜刀隊」の歌にある「敵の大将たる者は 古今無双の英雄で~」、なんていう考え方は、アジアでは日本だけかもしれません。
 ・・・・いや?敵を同じ人間と認めようとしないのは、アジアでも中華思想の数ヶ国だけ、かな?何しろ周囲は全て「蛮」。毒虫みたいな存在らしいですからね。

 脱線の脱線、その2、です。
 「朝鮮出兵時の日本軍の残虐非道振りは、目を覆いたくなるようなものだった。何しろ、敵兵を殺した後、鼻や耳を削ぐのである。その上で、自身の旗印をつけた串を鼻や耳に突き刺すのだ。」
 これを読んだ時は、「日本人というのは何と惨たらしいことをするのだろうか」、と、「同じ日本人であることが恥ずかしい」、と思ったものですが、段々色んなことを読んでいくうちに、これはシナ・朝鮮でも普通に行われていたこと、と知るようになります。大体がいくさで首級競争をするのは当たり前のことで、そのためには、その証拠を持っていなければならない。
 それで証拠品として鼻を削いだり、耳を削いだりするのです。あ、片耳だけですよ、右だけ、とか左だけ、とか。両方取ったら、ただの異常者。何人殺したか数えられればいいんですからね。
 でも、これじゃ誰の鼻や耳だか、分かりません。だから証拠の串を立てる。それが戦国末期の日本軍のやり方だった。
 首を刎ねて持って行くことを考えたら、軽便で良い、ということからだったのだろう、と思っていたけれど、今になってみると、この考え方も違うんじゃないかなと思うようになりました。
 首を刎ねて、腰にぶら下げて、というのはいかにも大変です。けれど、何よりもそれをしなかった理由。それはあちらの事情を鑑みてのことだったんでしょう。

 以前にろくろ首」の元になったと思われる、「飛頭蛮」のことを書きましたが、首を切られ、胴と別々にすると、永久にあの世(冥府)に行けず、彷徨い歩き、世に徒を為す、というのがシナの考え方。だから、首を刎ねても必ず一緒にして埋葬します。「同文同種」だなんてとんでもない。日本みたいに本人かどうか確かめる「首実検」、なんてことをすると、末代まで祟られると思っている。
 そんな、何もただ恨みを買うために出兵したんじゃないんですから。だから殺しても首は取らない。それが朝鮮出兵時の日本軍の思い遣り。

                   (後半へ続く)
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「石見銀山から」 ③井戸平左衛門正明

2020年03月06日 | 重箱の隅
2013.08/29 (Thu)

 (「石見銀山から」 ②大久保長安)の続きです

 大久保長安の手腕により、銀鉱石の採掘量はまた増えてきましたが、農作物や漁獲量と違い、鉱石は限りがある。いずれ掘り尽くす時が来ます。
 とは言え、江戸期を通じて銀は産出され続けました。

 ところで、脱線しますが、時代劇によく出て来る、「石見銀山(ネズミ取り)を盛られたようだな」という科白は、この大森銀山を中心とする銀鉱石とは違って、同じ石見でも西端の津和野、笹ヶ谷鉱山から出る亜砒酸のことを言うんだそうです。
 津和野と大森は随分離れています。大森は県中央部、石見の東の端で、石東ですが、津和野は西の端、石西。
 これは江戸時代、同じ石見銀山の管轄として、大森の代官所が支配していたため、銀は出ないけれども一括して「石見銀山領」と称していたからのことだそうです。
 今回調べるまで、ずっと、石見銀山ネズミ捕りって、銀鉱石と共に出る鉛でつくられているのだと思っていました。愚か者~。

 元に戻ります。
 一時期、世界の銀の三分の一を産出した、と言われる日本なのに、「黄金の国ジパング」とは言われても、「白銀の国ジパング」、と聞くことはありません。何故でしょうね。
 理由の最たるものは、黄金は大判、小判として製造されたものがそのままの形で貴重品として流通するのに対し、銀の場合は重さで値打ちが決まり、使用にあたっては切って使うことも多かったので、原型をとどめていないということにあるようです。
 切って使われた銀は、多くポルトガル船などによって海外(主に、明・清)へ持ち出されます。代わりに西洋の文物が日本に入って来た。
 何だか勿体ないような気もしますが、間違いなく日本の経済はこれで活性化します。

 さて、やっと、井戸平左衛門正明(まさあきら)のことです。
 初代奉行大久保長安は功績のあった人としてすぐ名前が出てきますが、不正蓄財疑惑を始めとして、色々な問題があったようで、遂には処刑されてしまいます。
 隣国では賄賂・不正蓄財、なんて平常運転、取るに足りない程度のものかもしれませんが、日本では大問題。
 以降、銀山奉行は廃止され、大森に代官所が置かれて代官が常駐することになりました。大久保長安の事件があって、不正蓄財や様々の問題を起こさぬように、ということから、代官の在任期間は一、二年から数年間という短期間のものになっていきます。
 蓄財のために袖の下(賄賂)を受け取る、
 「越後屋、そちもワル、よのう」
 「お代官様こそ」
 「むふふふ」
 「えっへっへ」
 「わはっはっは」
 、なんてことはほとんどなかったようです。
 
 実際、柳沢吉保だって、田沼意次だって、薩摩の調所笑左衛門だって、不正蓄財なんてしていなかったというのがホントのところらしいですからね、日本の役人ってのはえらいもんです。大久保長安だって、ホントのところは事件そのものがあったのかどうか。アヤシイもんです。

 井戸平左衛門は江戸からやって来た多くの役人の中の一人です。任期も、普通なら、まあ二年ってところでしょうか。実際には一年と八か月で任を解かれています。
 何でも八代将軍吉宗の時、大岡越前の推挙で、突如石見銀山代官となったのだそうです。大抜擢、ですね。江戸に在っては、井戸平左衛門はごく普通の、真面目一途の役人だったようです。
 元々紀州から連れて来た家来の少ない吉宗は、紀州浪人だった田沼意行や、伊勢、山田奉行をしていた大岡越前を重用して、幕政改革に尽力していました。そんな中での井戸平左衛門の登用です。
 既に六十近い。吉宗の治政でなければそのまま勤めを終えていたかもしれません。
 数え年なら六十歳。平左衛門は命を受けて大森に赴任。ほどなく岡山笠岡の代官も命じられます。

 大森に来てみると、「石見」の名の通り、平地が少なく、豊かな田畑を持たないこの地の貧しい生活に驚きます。度重なる飢饉で領民の生活は決して楽ではない。
 平左衛門は薩摩島津藩が藩外に持ち出すことを固く禁じていた薩摩芋(甘藷)の存在を薩摩出身の僧から聞き、飢饉で苦しむことの多いこの土地の領民に、救命用の食物として栽培させることを決心、苦心して種芋を入手し、領内の農民に配ります。赴任してすぐのことです。

 学校で習った覚えがありませんか?「青木昆陽が薩摩芋の栽培に成功した」、ということ。しかし、その三年も前に井戸平左衛門が、薩摩以外では初めてこれを行っていたのです。
 ところがその薩摩芋の栽培が軌道に乗る前に、大飢饉がやってきます。「享保の大飢饉」です。薩摩芋は間に合わない。このままでは大変なことになる。間違いなく多くの領民が餓死してしまう。
 平左衛門は幕府の許可を待たず、代官所内にある御蔵米を放出、更に年貢の減免措置を採り、必要に応じて金銭も与えて飢饉の害が広がらないように、と心を砕きます。

 天領というのは藩などに比べて、融通の利かないところなのですが、結果、近隣の藩と違って、一人の餓死者を出すこともなく、この大飢饉を乗り切ることに成功しました。
 しかし幕府の命が下される前に御蔵米を放出したこと、独断で年貢の減免措置を行ったこと等により、平左衛門は代官の任を解かれ、もう一つの任地である岡山、笠岡の代官陣屋で、追って沙汰のあるまで、謹慎することを命じられます。
 
 幕命に背いたこと。しかし一人の餓死者も出さなかったこと。
 この処分は大変に難しいことだったでしょう。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの処分以上に難しいことだったかもしれない。理、から言えば、当然「切腹」でしょう。けれども、領民の命を守り抜いた平左衛門を刑に処することで喜ぶ者は、一人もいません。

 あるのは幕府が「背かれた」という事実だけ。幕府への背任行為。幕府の面子。「掟」をどうする。
 笠岡陣屋に在って、平左衛門はほどなく病を得て急死した、と言われています。
 しかし、それを信じている者はほとんどありません。
 確かに、当時としては高齢ではある。けれど、幕府が難しい決断に苦慮している中にあって平左衛門は、これまでの二年足らずの善政からして、きっと自ら命を絶ったのであろう、というのが大方の意見です。
 平左衛門の一生、というのは、大森代官時代の一年と八ヶ月ばかりが輝いているようですが、これはそれまでの四十年近い役人としての実直な日々があってこそ、のことです。これがあったからこその「大抜擢」、です。特にこれといって目立つことのない、しかし、真面目にひたむきに仕事に取り組み続けて、突然の代官職任命、です。

 平左衛門は、それに有頂天になることなく、それまでと全く同じように仕事に取り組んだ。そして、領民のために、と、死を覚悟しての独断行政。こう考えたら、切腹しかありません。
 しかし、「切腹を公にすることはせぬように」と、平左衛門自身が言い残した、もしくは厳命したのではないでしょうか。波風を全く立てずに全てを収めてしまうには、これしか方法はない。
 
 「役人は公僕」、「公(おおやけ)」の「僕(しもべ)」だ、とは能く言われる言葉です。
 しかし、本当に身を捨ててここまでやる。将に、これこそ「命も要らず、名も要らず、地位も名誉も要らぬ」ということの典例でしょう。
 本当は今の世の中にだって、こんな人はいる筈です。
 要は為政者にそれを「見よう」とする姿勢、目、があるか否か、だけなのかもしれません。
  
 井戸平左衛門は、「芋代官様」として石見のみならず、中国地方全体で尊敬されています。大森には井戸神社が建てられて、勝海舟揮毫の「井戸神社」の扁額もあります。
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「石見銀山から」 ②大久保長安

2020年03月06日 | 重箱の隅
2013.08/19 (Mon)

     (「石見銀山から」 朝鮮の技術者)からの続きです。

 神屋寿禎、大久保長安、井戸平左衛門、の順で三人の人物について書き、最後に大森町の人々のことを書いたら、と思っているので、今回も含め、あと三回はかかると思いますが、実のところ、いつまでかかることやら、とも思っています。

 大久保長安という人物については、歴史に詳しい人ならみんな知っていることかもしれませんが、何しろあまり良くは言われない。それに何だか謎の多い人物のようですね。
 元々は猿楽の家の出で、父は猿楽師だったのに、どういう経緯からか父に連れられて行った武田家では武士として仕え、大変に重用されたらしい。武士ではなかったのに武士として大いに働いた、ということは、何らかの能力に長けた人物だったという事でしょう。

 その大久保長安。武田家没落前に武田を離れ、今度は徳川家康に仕えています。勿論、武士として、です。理由は諸説あるようですが、彼の用いられ方を見れば、武田氏に仕えていた頃の仕事ぶりを買われて、と見るのが妥当でしょう。
 武田家での仕事。それは財理面を仕切ることだったようです。
 御存じの通り武田氏の収入は金山。金掘り衆をまとめ、金を始めとする鉱山の産出量を上手く増やしていけば、武田軍は強大になれるし、国も豊かになる。
 大久保はこの経理・財理面で重用されたようですが、信玄の死後、武田を離れる。

 こういうところ、面白いなあと思うんですよ。何だか腕一本で生きる職人みたいです。一匹狼、なんていうのとはちょっと違うかもしれないけど、何らかの才能で重用されていた者が、ワンマン社長が死んだり、引退したりすると、次代の社長って先代の優秀な部下を疎んじるでしょう?

 大体が昔から、「士は二君に仕えず」、なんて言葉があるくらいです。疎んじられる前に、きれいに身を引く。先代であろうが、他家に渡ることであろうが、一度仕えたら、己が命は君に捧げたのだ、と。
 ところがここがまた面白いところで、『二君に仕えず』、だからといっても情が優先することもある。
 田沼意次は、浪人の父が徳川吉宗に仕えたとき、連れられて上府した。だから、吉宗が亡くなったら、元の浪人に戻る筈だった。それを次代将軍が、自分に仕えよと言ってくれた。それで感激して・・・という話があります。
 そして、この大久保長安のように自分の腕、才覚を買ってくれた家康に、本来なら「二君に仕えず」だけれど、喜んで仕えるというような場合もあるんですねぇ。
 豊臣秀吉は各大名の優秀な家来を自分にくれ、と言ったことが度々あったようですから、まあ、大久保長安のように平気で「二君に仕える」、なんてのも、あの当時では別に問題にはならないのかもしれません。

 家康に仕えて、「大久保」の姓を賜った大久保長安。
 佐渡金山、生野銀山も任されたのだそうで、こりゃあ大変な信頼を得ている、という事になるのですが、何よりものことは既に全国的に名を知られていた石見銀山の奉行となったことです。
 当時、「佐摩」と呼ばれていた現在の大森町を中心とする辺り一帯が大森銀山なんですが、多い時は世界中の銀産出量の三分の一が日本。
 石見銀山だけで世界中の産出量の四分の一だったんだそうですから、これはとんでもない量です。

 そのとんでもない産出量の石見銀山。
 前に書いた通り、銀が山頂に露出していたのを掘り尽くし、打っ棄られていたのを、神屋寿禎が再発見したというべき状態で脚光を浴びました。
 それからの戦国時代、壮絶な争奪戦が繰り返されていたわけで、秀吉が押さえ、関ヶ原の戦いに勝った家康が電光石火の早業で支配して、やっと落ち着きを見せ始める。けれど、その時、既に産出量は落ち始めていたのです。
 そこに大久保長安がやってきた。そして、減って来ていた産出量をまた増やすことに成功した。一体どんな手を使ったのか。

 経理・財務の才覚が遺憾なく発揮されたようです。将に「腕一本」で。職人の面目躍如、と言ったところでしょうか。
 どこの世界でもそうでしょうが、利益を生むためには「利益」に直接着目(執着)してはならない。結果として利益が生まれるよう、人心を変えていくことが何よりも大事です。
 ・労働条件を良くして「働かせる」か。
 ・収入を増やすことで「働く気にさせる」か。

 「銀の流出を厳しく制限する」のが普通です。ところが長安は入山料(採掘権料)を安くして、金掘りをし易くした。そうしておいて、産出量に応じて報酬も十分に支払った。
 砂金ならともかく、銀は鉱石そのままでは使えません。掘り出したものを、坑道の持ち主が奉行のところに持って行く。産出量に応じた報酬を受け取る。頑張って産出量を増やしたもの勝ち、です。
 そんなやり方だから、各自坑道の持ち主ごとに、より効率的な採取法を考案し、競い合いが盛んになる。高くなった技術を持って、銀山から佐渡の金山へ出稼ぎに行き、住み着く者も出てくる。今でも佐渡には「石見(いわみ)」を名乗る人がいるそうです。勿論、先祖が石見からやってきたという事です。


 「収入増加のために、人をやる気にさせる」
 大久保長安の才覚、「腕」、というのは、自身が金掘りの腕を持っているということではなく、「人をやる気にさせる腕(才能)」、そして効率よく銀鉱石を回収する腕だったと考えて良いでしょう。
 そのやり方は当時の人々に歓迎され、長安自身、多くの鉱山を任されていたのだけれど、石見銀山には何度も訪れ、自身、生前につくる「逆修塚」という墓も建てたそうです。逆修塚は領域内に何か所もあり、顕彰碑もあります。
 
 経済再建のやり方って、いつの時代も同じみたいですね。
 まずは「その気になる」こと、です。
 それで「使わないで儲けるだけにすりゃいいんだ」と「財布のひもを固く締めて、物を買わない。とにかく働く」と一大決心をする。
 ところが、これで何とかなる、と思っても実際はそうはいかない。

 建て直し、ってのは、買うのを辛抱するのではなく、欲しいものを手に入れようと小さな目標を次々に設定して、がむしゃらに働くのが一番、みたいです。
 初代石見銀山奉行大久保長安。
 彼の開いた大久保間歩(まぶ)は、石見銀山最大の坑道で、「手掘りでここまでやるのか」と感心するくらいのものです。
 それを「欲のかたまり」と見るか、
 それとも「やる気、努力の夢のあと」と採るか。 



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「石見銀山から」 朝鮮の技術者

2020年03月06日 | 重箱の隅
 温泉津のことを転載し始めて気が付いたんですが。
 これ、まずは「石見銀山」のことを書かねばならなかったようです。

 温泉津は石見銀の積出港として世界遺産群の中に入っていると思われていますが、実は「積出港」としての期間は意外に短く、銀山争奪戦の終わった江戸時代以降、銀は温泉津を通らず、中国山地を越えて陸路搬出されるようになります。
 それで、温泉津港は専ら物流の拠点として機能するようになります。前に書いた北前船の寄港地になっていたということでそれが分かります。
 大内氏が支配していた頃は、最短コースの馬路(まじ)の友ヶ浦(鞆ヶ浦、と書くことも)、続いて古龍(こりょう、こりゅう)、と来て、最後が温泉津の沖泊。
 三つの港の中では素人目に見ても天然の良港だったことがわかるのが沖泊です。

 では、また、しばらくお付き合いください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝鮮の技術者2013.08/09 (Fri)

 石見銀山のことを書こうと思えば、必ず井戸平左衛門のことを書かねばならない。
 石見銀山のことを書こうと思えば、必ず大森町の町民の志の高さについて書かねばならない。
 そして本当ならば、まずは大久保長安のことを書かねばならない。
 でも、みんな違う話ですからね、なかなか一纏めにできるようなことではない。
 と言うわけで、「一度書いて置かなければ」、と思ってから3年も。

 さて。
 石見銀山を発見したのは博多の商人、神屋寿禎だということになっています。
 神屋が商用で出雲に行ったとき、夢に仏のお告げがあったのだ、とか、その出雲への航行中、石見の山中に霊光を見たのだ、とか。

 以前に、入院中の日記で書いたのですが、陸から見れば日本海は夏でも青く、よっぽど晴れている時でなければ、静かで少し沈んでいるような感じさえする海です。
 それに比べ、太平洋はいつも陽光が波間に照り返して、明るく輝いて見える。

 しかし、それは当然のこと。太平洋は陸から見れば南の海。照り返しがあるんだから、明るい。対して日本海は陸から見れば北の海です。陽光を背にして海を見れば海は暗く沈んで見える。雲一つない時は、素敵なんですけどね。

 でも、海から見れば。
 南に海を臨むと、海は明るく輝き、その向こうの緑の山々には陽光が降り注ぎ、低山は穏やかに連なっている。
 そんな山々の中に、霊光が立ち上るような感じのする山があった。それが石見銀山の中心となる「仙ノ山」、だった。
 「霊光」、だなんて神秘思想みたいですが、満更の法螺話、とも言えないことかもしれません。

 大内氏が山口を支配する大名だという事は能く知られていますが、その勢力は中国地方全体に広がっており、石見の国は当然その支配下にありました。
 銀山は室町初期か、もしかしたら鎌倉末期には発見されていたのではないか、と言われています。当初は(信じられないことですが)銀が山頂に露出しており、露頭掘りでの採取が行われていたようです。大内氏は当初から、ここを抑えていた。
 粗方を掘り尽くした後、銀山は打ち捨てられていたのですが、そこに神屋寿禎が新しい鉱脈を山腹に発見、効率の良い最新の銀の精製法を持ち込んだため、急激に銀山としての名前が広まったのだそうです。それが室町末期、ちょうど戦国時代。

 新しい精製法は、朝鮮の技術者二人によって伝えられた「灰吹き法」と言われるものでした。
 (灰吹き法についての詳しいことはWikiでどうぞ)
 冷静に見ると、その頃の朝鮮というのは、こういう技術や製陶に関すること等、決して日本に劣るものではなかったのです。
 問題はそういった職人を、日本は重用し、優遇する気質を培ってきたけれど、彼の国は儒「教」の階級思想の故に、職人を蔑視するのが当たり前、となっていたことです。
 だから神屋も、この職人たちを優遇し、大事にして日本に留まるよう頼んだし、彼らも意気に感じ、重用されることを喜んでますます働いた。
 脱線しますが、後の朝鮮出兵(秀吉の唐入り)の時、陶工を連れ帰った、と言うのも同じです。
 日本に連行された彼らは、各領主の下で思いもよらぬ厚遇を受けた。
 中でも「鬼石蔓子(おにしまづ)」と呼ばれ、恐れられた島津氏によって連れて来られた「沈寿官」などは、「領内のどこでも良い。気に入った良質の陶土の地があれば申せ」と言われ、実際に広い土地を拝領しているのです。後の「薩摩焼(白薩摩)」は
こうして始まっています。
 だから朝鮮通信使が連行された彼等、職人を連れ帰る目的で来日した時、ほぼ全ての者が、帰ることを拒否しています。
 一概に(一律に)「朝鮮人は~」と言えないのはこういったことが多々あるからです。(李氏)朝鮮は足利義満の頃、建国されたようですが、それからは儒教一色。
 仏教は下賤のものとされて廃仏毀釈が行われ、仏像も寺と共に焼かれ、野に打ち捨てられたりする。
 その仏像を日本に持ち帰り、寺を建てて本尊仏としていたら、「金になる」と踏んで盗み出し、「日本が盗んだのを取り返したんだから返却する必要はない」、なんてことを。・・・・なんてことだ!

 まあとにかく儒「教」の階級思想、畏るべし、です。
 結局、朝鮮は儒学を「学問」として探究することなく、「教」として国民に周知することしか行わなかった。つまり「国の支配」の手段としてしか儒学を見なかった。
 また、「国力の増強」に関する展望も持たなかった。

 朝鮮は、明治期日本によって、千年近くシナの属国であった状況からやっと解放されます。
 しかし、独立国となったものの、昭和20年以降、遂に「自主独立」の苦労と真っ向から対峙しようとはせず、恩人とも言うべき日本に、千年の「恨み」をなすりつけようとした。これは他人ごとではありません。
 しかし、日本もまた「一時期、彼の国は恩人であった」という事実を、無視乃至軽視すれば、彼の国と同じところまで堕してしまいます。


 「まずは大久保長安から」と思っていたのですが、長安の活躍の礎石の話だけで終わってしまいました。
 銀山のハード面はここまで。大久保長安の話はソフト面です。

(「石見銀山から」 ②大久保長安 へ続きます)
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