2017.03/06 (Mon)
やっとここまで来た。
結局は「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回、ここまでしか書けなかった。
【「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない】
これは何度も書いてきたことだった。
何度も書いてきたということは、自身「書ききれていない」と思っているからなのだろう。
やっとここまで来た。
結局は「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回、ここまでしか書けなかった。
【「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない】
これは何度も書いてきたことだった。
何度も書いてきたということは、自身「書ききれていない」と思っているからなのだろう。
つまり、やっぱり、言葉が足りない。けど、ともかく「形から入るしかない」ということは、間違いない。
形から入る、と言っても、いきなり「絶対服従」みたいに何でもかんでも言いなりになって、ということではない。それは人間のやり方ではない。
生長したいからこそ、習おうとする。言いなりになることではなく、「生長したい!」という意志が何よりも大事なんだと思う。その意志で以て、今はまだ僅かしかない理解力を駆使して、習おう(倣おう)とする。
外見を懸命になって真似ようとするしか、最初にできることはない。内面(心、境地)は、まだ全く「分からない(見えない)」のだから。
真似ること。そして、僅かしかない理解力を駆使すること。
一例として。
「敬礼」
これ、標題の通り、「敬意をあらわすための『礼』」、ということなんだけれど、そんなこと、誰もわざわざ改めて考えようとはしない。
だから、大方の人は「敬礼、って、あれだろ、あの警察や消防なんかがやるやつ。自衛隊もやるよな。あ、そうか、軍隊がやるんだ」と言う。
じゃ、「最敬礼」ってのは?
「?、何、それ。いや、何か聞いたことはあるんだけど。」
形から入る、と言っても、いきなり「絶対服従」みたいに何でもかんでも言いなりになって、ということではない。それは人間のやり方ではない。
生長したいからこそ、習おうとする。言いなりになることではなく、「生長したい!」という意志が何よりも大事なんだと思う。その意志で以て、今はまだ僅かしかない理解力を駆使して、習おう(倣おう)とする。
外見を懸命になって真似ようとするしか、最初にできることはない。内面(心、境地)は、まだ全く「分からない(見えない)」のだから。
真似ること。そして、僅かしかない理解力を駆使すること。
一例として。
「敬礼」
これ、標題の通り、「敬意をあらわすための『礼』」、ということなんだけれど、そんなこと、誰もわざわざ改めて考えようとはしない。
だから、大方の人は「敬礼、って、あれだろ、あの警察や消防なんかがやるやつ。自衛隊もやるよな。あ、そうか、軍隊がやるんだ」と言う。
じゃ、「最敬礼」ってのは?
「?、何、それ。いや、何か聞いたことはあるんだけど。」
一口に「敬礼」というけれど、書いた通りで、「敬意を表すための」礼なんだから、「見えないもの」である「敬意」、或いは「敬意を表す」ために、見えるものである「礼」を倣うんだと考えれば。
孔子が研究したのは「礼」と「楽」。「礼法」と「音楽(琴の名手だったらしい)」だと言われている。
「音楽」で心を平安にし、「礼法」で社会秩序を整える(社会を平安にする)。
「礼法」とは「礼の法(きまり)」という意味だから、「礼」とは何か、と問われると何と答えたら良いだろうか。
「礼、とは仕種、所作、動作のこと」というのが、一番分かりやすいんじゃなかろうか。
「敬礼」とは敬意を表すための動作(所作)。そうなると「最敬礼」は最上の敬意を表す所作、ということになるから、「それって、身体を九十度くらいまで前に倒すやつ?」、となると思う。
持っている理解力をフル稼働させたら、こんな答えになった。
それで、では最敬礼以外の「敬礼」は何故あの形なのか、と考える。軍隊、警察、消防士の敬礼(挙手礼)は、何故あの形なのだろうか。
右手を眉の高さまで上げる。「閃くように素早く」「肘を張って」、というのは鮮やかさを示すための後付けの動作で、基本は眉の高さに手を挙げること。
これは「敬礼(敬礼に限らない)」という礼(という所作)をする時には、帽子を取る、というのが「礼式(決められた所作)」だからだ。
観閲式で総理大臣がシルクハットを胸に当てる。(ハンチングや野球帽ではない。)
これは壇上に上がるまで帽子をかぶっているという前提で、国旗に対して、或いは兵士に対して敬意を表すために、取り、胸の前に持ってくる、というのが「礼式」だからだ。つまり、本来は敬意を表するために、帽子は必ず取るもの、というのが社会通念となっているからだ。
では、何故、軍隊、警察、消防士は帽子を取らないのか。
軍人も、警察官も、消防士も、緊急の際の迅速な行動を要求される。常に緊急時に対応することを考えていなければならない。緊急事態は待ってはくれない。食事であろうが何であろうがもたもたしていると「自分」ではなく「他人の命」を守れない。
だから、極力、簡略化を進めるしかない。帽子を取っている暇はない。でも敬意は示さなければ。
・・・ということで、敬意を示すために、帽子を取ろうという気持ちだけでも見せなければ、となって帽子のつば(前庇、ブリム)に指をあて、取ったことにする(取ろうという心持を示す)、という新しい「礼式」が作られた。
当然、これは日本で発明されたものではないことは、総理大臣のシルクハットと同じだ。
とは言え、こんなことは言われずとも、一般庶民だって昔から(おそらくは江戸時代以前だって)ごく自然にやってきている。・・・なんて言って、昔は笠、だけど。
挨拶する時は帽子を取るものだ。手抜きをして、片手で帽子を持ち上げるだけの人もいれば、帽子に手を当てるだけで挨拶する人もいた。
けれど、帽子に触りもしないで挨拶、などすると、必ず「横柄な人だ」と顰蹙を買ったし、室内で帽子をかぶったままなどというのは「お里が知れる」と軽蔑されたそうだ。それがあるからか、最近でもネットではどこかの国の外相や、同じくどこかの県知事に向けて「無礼だ、と言うんなら、お前こそ室内では『帽子』を取れ!」なんて揶揄う書き込みがあったりする。
「脱帽」には降参の意味もあるけれど、本来相手に敬意を表するためにすることだから、「あなたの言うことが正しい。すっかり脱帽だ」などという表現には、「負けた!という口惜しさより清々しさの方が能く見える。
あら?脱線した。
孔子が研究したのは「礼」と「楽」。「礼法」と「音楽(琴の名手だったらしい)」だと言われている。
「音楽」で心を平安にし、「礼法」で社会秩序を整える(社会を平安にする)。
「礼法」とは「礼の法(きまり)」という意味だから、「礼」とは何か、と問われると何と答えたら良いだろうか。
「礼、とは仕種、所作、動作のこと」というのが、一番分かりやすいんじゃなかろうか。
「敬礼」とは敬意を表すための動作(所作)。そうなると「最敬礼」は最上の敬意を表す所作、ということになるから、「それって、身体を九十度くらいまで前に倒すやつ?」、となると思う。
持っている理解力をフル稼働させたら、こんな答えになった。
それで、では最敬礼以外の「敬礼」は何故あの形なのか、と考える。軍隊、警察、消防士の敬礼(挙手礼)は、何故あの形なのだろうか。
右手を眉の高さまで上げる。「閃くように素早く」「肘を張って」、というのは鮮やかさを示すための後付けの動作で、基本は眉の高さに手を挙げること。
これは「敬礼(敬礼に限らない)」という礼(という所作)をする時には、帽子を取る、というのが「礼式(決められた所作)」だからだ。
観閲式で総理大臣がシルクハットを胸に当てる。(ハンチングや野球帽ではない。)
これは壇上に上がるまで帽子をかぶっているという前提で、国旗に対して、或いは兵士に対して敬意を表すために、取り、胸の前に持ってくる、というのが「礼式」だからだ。つまり、本来は敬意を表するために、帽子は必ず取るもの、というのが社会通念となっているからだ。
では、何故、軍隊、警察、消防士は帽子を取らないのか。
軍人も、警察官も、消防士も、緊急の際の迅速な行動を要求される。常に緊急時に対応することを考えていなければならない。緊急事態は待ってはくれない。食事であろうが何であろうがもたもたしていると「自分」ではなく「他人の命」を守れない。
だから、極力、簡略化を進めるしかない。帽子を取っている暇はない。でも敬意は示さなければ。
・・・ということで、敬意を示すために、帽子を取ろうという気持ちだけでも見せなければ、となって帽子のつば(前庇、ブリム)に指をあて、取ったことにする(取ろうという心持を示す)、という新しい「礼式」が作られた。
当然、これは日本で発明されたものではないことは、総理大臣のシルクハットと同じだ。
とは言え、こんなことは言われずとも、一般庶民だって昔から(おそらくは江戸時代以前だって)ごく自然にやってきている。・・・なんて言って、昔は笠、だけど。
挨拶する時は帽子を取るものだ。手抜きをして、片手で帽子を持ち上げるだけの人もいれば、帽子に手を当てるだけで挨拶する人もいた。
けれど、帽子に触りもしないで挨拶、などすると、必ず「横柄な人だ」と顰蹙を買ったし、室内で帽子をかぶったままなどというのは「お里が知れる」と軽蔑されたそうだ。それがあるからか、最近でもネットではどこかの国の外相や、同じくどこかの県知事に向けて「無礼だ、と言うんなら、お前こそ室内では『帽子』を取れ!」なんて揶揄う書き込みがあったりする。
「脱帽」には降参の意味もあるけれど、本来相手に敬意を表するためにすることだから、「あなたの言うことが正しい。すっかり脱帽だ」などという表現には、「負けた!という口惜しさより清々しさの方が能く見える。
あら?脱線した。