CubとSRと

ただの日記

「敬礼 (敬意を表す「礼」)」  (分かる④)

2020年03月12日 | 重箱の隅
2017.03/06 (Mon)

 やっとここまで来た。
 結局は「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない、ということだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 前回、ここまでしか書けなかった。
 【「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない】
 これは何度も書いてきたことだった。
 何度も書いてきたということは、自身「書ききれていない」と思っているからなのだろう。

 つまり、やっぱり、言葉が足りない。けど、ともかく「形から入るしかない」ということは、間違いない。
 形から入る、と言っても、いきなり「絶対服従」みたいに何でもかんでも言いなりになって、ということではない。それは人間のやり方ではない。
 生長したいからこそ、習おうとする。言いなりになることではなく、「生長したい!」という意志が何よりも大事なんだと思う。その意志で以て、今はまだ僅かしかない理解力を駆使して、習おう(倣おう)とする。
 外見を懸命になって真似ようとするしか、最初にできることはない。内面(心、境地)は、まだ全く「分からない(見えない)」のだから。
 真似ること。そして、僅かしかない理解力を駆使すること。
 
 一例として。
 「敬礼」
 これ、標題の通り、「敬意をあらわすための『礼』」、ということなんだけれど、そんなこと、誰もわざわざ改めて考えようとはしない。
 だから、大方の人は「敬礼、って、あれだろ、あの警察や消防なんかがやるやつ。自衛隊もやるよな。あ、そうか、軍隊がやるんだ」と言う。
 じゃ、「最敬礼」ってのは?
 「?、何、それ。いや、何か聞いたことはあるんだけど。」

 一口に「敬礼」というけれど、書いた通りで、「敬意を表すための」礼なんだから、「見えないもの」である「敬意」、或いは「敬意を表す」ために、見えるものである「礼」を倣うんだと考えれば。

 孔子が研究したのは「礼」と「楽」。「礼法」と「音楽(琴の名手だったらしい)」だと言われている。
 「音楽」で心を平安にし、「礼法」で社会秩序を整える(社会を平安にする)。
 「礼法」とは「礼の法(きまり)」という意味だから、「礼」とは何か、と問われると何と答えたら良いだろうか。
 「礼、とは仕種、所作、動作のこと」というのが、一番分かりやすいんじゃなかろうか。

 「敬礼」とは敬意を表すための動作(所作)。そうなると「最敬礼」は最上の敬意を表す所作、ということになるから、「それって、身体を九十度くらいまで前に倒すやつ?」、となると思う。
 持っている理解力をフル稼働させたら、こんな答えになった。
 それで、では最敬礼以外の「敬礼」は何故あの形なのか、と考える。軍隊、警察、消防士の敬礼(挙手礼)は、何故あの形なのだろうか。

 右手を眉の高さまで上げる。「閃くように素早く」「肘を張って」、というのは鮮やかさを示すための後付けの動作で、基本は眉の高さに手を挙げること。
 これは「敬礼(敬礼に限らない)」という礼(という所作)をする時には、帽子を取る、というのが「礼式(決められた所作)」だからだ。
 観閲式で総理大臣がシルクハットを胸に当てる。(ハンチングや野球帽ではない。)
 これは壇上に上がるまで帽子をかぶっているという前提で、国旗に対して、或いは兵士に対して敬意を表すために、取り、胸の前に持ってくる、というのが「礼式」だからだ。つまり、本来は敬意を表するために、帽子は必ず取るもの、というのが社会通念となっているからだ。

 では、何故、軍隊、警察、消防士は帽子を取らないのか。
 軍人も、警察官も、消防士も、緊急の際の迅速な行動を要求される。常に緊急時に対応することを考えていなければならない。緊急事態は待ってはくれない。食事であろうが何であろうがもたもたしていると「自分」ではなく「他人の命」を守れない。
 だから、極力、簡略化を進めるしかない。帽子を取っている暇はない。でも敬意は示さなければ。
 ・・・ということで、敬意を示すために、帽子を取ろうという気持ちだけでも見せなければ、となって帽子のつば(前庇、ブリム)に指をあて、取ったことにする(取ろうという心持を示す)、という新しい「礼式」が作られた。
 当然、これは日本で発明されたものではないことは、総理大臣のシルクハットと同じだ。

 とは言え、こんなことは言われずとも、一般庶民だって昔から(おそらくは江戸時代以前だって)ごく自然にやってきている。・・・なんて言って、昔は笠、だけど。
 挨拶する時は帽子を取るものだ。手抜きをして、片手で帽子を持ち上げるだけの人もいれば、帽子に手を当てるだけで挨拶する人もいた。
 けれど、帽子に触りもしないで挨拶、などすると、必ず「横柄な人だ」と顰蹙を買ったし、室内で帽子をかぶったままなどというのは「お里が知れる」と軽蔑されたそうだ。それがあるからか、最近でもネットではどこかの国の外相や、同じくどこかの県知事に向けて「無礼だ、と言うんなら、お前こそ室内では『帽子』を取れ!」なんて揶揄う書き込みがあったりする。

 「脱帽」には降参の意味もあるけれど、本来相手に敬意を表するためにすることだから、「あなたの言うことが正しい。すっかり脱帽だ」などという表現には、「負けた!という口惜しさより清々しさの方が能く見える。

 あら?脱線した。
 

 
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「見えないものを見る(感じる)」 (分かる③)

2020年03月12日 | 重箱の隅
2017.03/05 (Sun)

 枕が長過ぎた。
 「門外漢」も「初心者」も、「本当のところ」には全く触れることのできない者で、それは修業者(取り組んでいる者)も主観的には同じで、それでも、取り組んでいる者(修業者)はどうにかして「本当のところ」に、まずはとにかく触れたいと思い、苦しんでいる。けど、門外漢や初心者には、その苦しみすら分からない。

 と言っても、取り組んでいる者だって、魔に魅入られてその苦しみから目を背けようとすることは往々にしてある。慢心もその一つで、増長(増上)するのも、己を卑下するのも、同じ慢心(増上慢。卑下慢)。
 その典型的な証拠となる言葉が門外漢や初心者に対する「~のくせに、えらそうに」、という絶望的な一言だった。一体どうしたら良いのだろう。

 そう考えた時にすぐ頭に浮かぶのが西行法師の「何ごとのおはしますかは知らねども 忝さに涙こぼるる」、という歌だ。神もまた、見えない。しかし「感じる」ことはできる。
 同じように「本当のところ」も、見えずとも、「感じる」ことはできるのではないか。
 「感じる」、は「本当のところに触れる」、ということだ。「感じる」ことができたら、その感触を手掛かりに「本当のところ」、「高い境地」に近付ける筈だ。

 これまでに「『見えないもの』や『高い境地』は、見えないのだから形から入るしかない。それが武術や華道、茶道等の所作(形式)を習う(倣う)理由だ。外側を作ることで中身の形を分かるしかない」、というようなことを何度か書いてきた。
 神道の拝礼のための一連の所作も、まさしくそれで、「外見ではない。要は中身だ」、と拝殿の前で賽銭を投げ入れ、拍手もせず、合掌して願い事をする、などというのからは敬神の念は湧いてこない。
 昔、小泉総理が紋付羽織に袴姿で靖国神社に詣で、拝殿で一礼だけして帰った、というのなどは、まさしくそれだろう。chinaへの当てつけに参拝をした、靖国神社を政治利用した、としか思えない。
 穢れを祓い、清く直き心で、神前でただ拝礼をする。それで初めて「敬神の心」を感じるのだから。

 繰り返しになるけれど、武術や華道、茶道などの「高い境地」は心の中のことだから目には見えない。それでも修業者はそこに至りたいわけだから、習おうとする。
 「見えない」のだから習えない。で、外見を真似するように、と教えられる。「習う」ために「倣え」と言われるわけだ。
 ほんの数ミリのずれ、一瞬の緩急の間違いを口喧しく注意される。
 「このぐらい、許容範囲だろ?」なんて思っていると見事なくらいに腹積もりを見透かされて叱責される。
 煙たいなあと思いながら、でも、言われる通りになぞっていくと、「あ、そういうことか。これ(この動作)は、そういう心積もりなのか」、と実感する時が来る。
 「型(形)から心の形を「感じ」取った瞬間、と言えるだろう。
 マニュアルでも裏技でも何でもない。こうするしか「見えないもの」を見る(手に入れる)ことはできないのだ。

 逆に、こうやって一つが感じられれば、他のものが一気に(霧が晴れるように)見えてくることがある。

 やっとここまで来た。
 結局は「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない、ということだ。

 

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「~くらいで、エラそうに・・・」 (分かる②)

2020年03月12日 | 重箱の隅
2017.03/03 (Fri)

 「やりもしないでエラそうに言うな」「ちょっとかじったくらいでエラそうに」。
 本当に彼らが言いたいのは「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」、ということだ。「エラそうに」、という言葉には、実は大した意味はない。
 でも、そんなこと言ってたら、誰も向上は望めないじゃないか。

 ・・・・といったような終わり方を、前回は、したのだけれど。
 例によって言葉が足りなかった。

 「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」
 これ、あながち間違っているとは言えない。
 門外漢は対象に取り組んだことがないのだ。取り組んでいないのだから、そのこと(対象)について、地道に取り組んできた者の作ってきた「目(見方)」を持ち合わせていない。
 ということは、取り組む過程で作り上げてきた(或いは完成しつつある)考え方を全く知らない、ということで、そんな把握能力を持たない者の言を聞くことに何の意味があるのか。
 裏返して言えば、「門外漢の言」というのは、何の裏支えもない、単に無責任な発言そのもの、ということになるのではないか。寝言、世迷言と言ってもいいかもしれない。(補。テレビのニュースショーのコメンテーターが好例)
 同様のことが「初心者の口出し」にも言える。「考え方」を知り始めた程度、であって、決して「考え方」を「遣える」段階には至ってない。(大阪市長の文楽への発言とか)
 ただ、そうは言っても物事には必ず例外がある。「一芸に達すれば諸芸に通ず」などが、それだ。
 全くの門外漢であっても、何らかの(別な)対象について長年月真剣に取り組み続けた者の場合、一つの「考え方」を身に着けている可能性は高い。そして、それを用いて他の対象を解析することはできる。そして、それは大きく的を外すことはない。
 感情に左右されない考え「方」が、あるからだ。

 「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」
 見識のある者がそうでない者に言うわけだから、取りつく島のない酷い言い方ではあるが、そういうわけで間違いではない。けど、それでは例外的なものまで否定することになるし、やっぱり、上手くいかず、苦しみ、工夫し、失敗し、を繰り返すことで初めて向上がある筈の修業者(修行者)全てを否定することになる。

 さて。
 「例によって、言葉が足りなかった」ということについて、なのだけれど。
 「『エラそうに』というのには、実は大した意味はない」、について、だ。
 実際、大した意味はない。「感情的な一言」、なだけだ。
 ただ感情的に、相手(門外漢、初心者)に嫌悪感を持っているが故の発言だろう。
 ところがそうなると、これは反面「大した意味はない」どころか、とても重要な意味を持つ言葉だ、とも言える。それどころか発言者の「立場」を考えたら、決して看過できない、看過すべきではない言葉だ。

 「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」というだけなら、「考え方」に関して、少なくとも門外漢、初心者より、上の境地にある者の(ちょっとストレート過ぎるけれど)至極、真っ当な発言だ。
 しかし、「エラそうに(言うな)」という場合、これは感情からだけ、の発言であって、そこに門外漢や初心者に道理を説く姿勢は欠片も見られない。道理を説こうとしない、感情的な(それも嫌悪感)一言を、「上の境地にある(筈の)者」が発する。
 それは、自身が、実は「上の境地」に至ってないから、道理を説くことはできない、と告白しているのと同じだ。感情的な一言だから、何も説かない。感情的な一言だから、何も説けない。
 「エラそうに言うな」と言った途端、「思ったことを口にする」門外漢や初心者に対する、ただのやっかみに陥ってしまう。自分も同レベルの境地にしか至っていないと、白状したことになる。

 勿論、「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」等の言葉でさえ、理解することのできない(把握能力ができていない)のが、門外漢、初心者なのだから、彼らは「エラそうに言うな」の心の裡を感じることはおろか、理解することだって不可能だろう。


 今回こそは「拝礼」、「敬礼」のことを書こうと思ってたのに・・・・・。

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「『水は冷たい』ということが分かった」 (分かる①)

2020年03月12日 | 重箱の隅
2017.02/28 (Tue)

 昨年、次のような日記を書いた。

 ・「30年近い昔のことだけれど、毎朝水をかぶっていた。4年ほど続けた」
 ・「つまらないことでも、とにかく繰り返し続けてみることで、何か変化があるかも、と夢想して始めたことだった」
 ・「何も変わらなかった。悟りを開いた(分かった)わけでもない、ましてや超能力が身についたわけでもない」
 ・「分かったことは『水は冷たい』ということだけだった」
 
 この「『水は冷たい』ということが分かった」の一言だけならば、「分かった」の中身がちっとも明らかになってない。
 「自動販売機の下に百円玉が落ちていました。さて、どうでしょう」
 というダウンタウンの漫才ネタと同じで、「だから何やねん!」と突っ込むしかない。

 冷水で顔を洗った時の「冷たい!」、と冷水に手を突っ込んだ時の「わっ、冷たい!」、と水を被った時の全身で感じる「冷たい!」、はそれぞれ違う。
 繊細な冷たさ、衝撃的な冷たさ、ダイナミックな冷たさ。
 「そんな色々な冷たさなんていらない。どれか一つの冷たさを感じたなら、それでよい」と世間は言うだろうか。
 「それではあまりにも薄っぺらだ。社会経験は乏しいより豊かな方が良い、と言うじゃないか」こう考えるのが大勢を占めるのじゃないか。
 ということで、普通、「冷たい、さえ分かれば、あとは推して知るべし」、とはならない。
 で、今になって思うのだが、その時は「『水は冷たい』ということが分かった」だけだ、と思っていた。
 とにかく「分かった」のだ、と「分かる」だけに目が向いていた。
 それがどうもそうではないらしい、ということに、昨年、日記を書いていて気が付いた。「認識の厚みが違う」ということを、頭ではなく、身体で感じ取ることに、どうもその時(30年ほど前)、気が付いたのではないか。
 もっと言えば「感じ取る」自体に厚みがあるのだ、「分かる」の中身自体が、薄っぺらな「分かる」から分厚い「分かる」まで、色々あるのだ、と気が付くきっかけがこの時だったようだ。
 勿論、以前に書いた
 「分かったつもり(記憶)」→「頭で分かる(理解)」→「身体で分かる(納得する)」→「身体が分かる(身につく)」
 の順番が正当に辿られて後、の話なんだけれど。

 振り返ってみれば、そうなるべく剣術の稽古をしてきていたのではないか、と思えて仕方がない。
 いくら立木に切り込んだって、ちっとも思い通りに打てない。手の内がちょっとでも甘くなると、一撃で手が痺れてしまう。握りが緩まぬように細心の注意を払って、(でも、必死になって)切り込みを繰り返さなければならない。
 そうやっていても目に見えて上手くなるわけではない。「思い切りぶっ叩いていればストレス発散くらいにはなるだろう」、と言われるけれど、発散どころかストレスはたまるばかりだ。思い通りにいかないんだから当然のことだろう。
 それでも、(目に見えて上手くならなくても)とにかくやるしかない。

 能く「何も考えずに無心に取り組むのが大事だ」、なんて言うけれど、そんな馬鹿なことはない。色々できないなりに工夫して、失敗して、悩んで、の繰り返しをしてこそ上手くなる。何故って、技を使う頭も、初心者のままではなく、上達していかなければならないのだから。

 「やりもしないでえらそうなこと言うな」
 御尤も。そして、
 「ちょっとかじったくらいでえらそうに言うな」
 というのも、これまた御尤も。

 「じゃ、しっかりやったら、えらそうに言っていいのか?」
 「そうだ」、と即答する人は滅多にいない。
 大方は「あ、あ、うん。いやいや。それでも色々な条件が付く」と応える。
 そりゃそうだ。「えらそうに」というのには、実は大した意味はない。彼らが本当に言いたいのは「門外漢は黙ってろ」「初心者は口出しするな」ということだ。
 でも、それで向上(国民としても、一個人としても)はあるのか。

 「拝礼」とか、「敬礼」について書こうと思っていたのに・・・・。
 今回は前置きだけで終わります。

 
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歩いて買い物に

2020年03月12日 | 日々の暮らし
2017.02/08 (Wed)

 家にいて、炬燵に潜っていても寒いばかりだ。それなら買い物に行こう。歩けば暖かくなるだろう。というわけで、買い物に行く。

 帰り。歩きながら思った。
 バイクに乗ってたら、それがカブだって前を注意して見てなきゃ危険だ。当然のことだ。車だって同じだ。
 軽自動車も普通車も変わらない。同じく、ぼーっとしてたら危険だ。
 前を見てるだけじゃいけない。左右も頻繁に見る必要がある。バイクなら、それに加えて路面も見なきゃならない。ちょっとした障害物だって、気づかず乗り上げてしまうとバランスを崩す。車とは比べ物にならない大事故になる。

 何でこんな当たり前のことを思ったんだろう。
 歩いている時は、前方の景色は当然のことながら、歩く速度のままにゆっくりと開けてくる。当然、左右を頻繁に見たり足元を度々見る必要がない。何となく前を見ているだけで、左右上下の景色は同じくゆっくりと視界に入ってくるんだから、意識なんかしなくたって、ただぼんやりしてさえいなければ、別段困ったことは起こらない。

 車やバイクの場合は危険回避のために意識して行わなければならない「周囲の安全確認のための諸動作」が、歩いている時はほぼ無意識にできてしまっているため、わざわざ「安全確認のため」と常に注意などせずとも周囲の情報は流れ込んでくる。それを受け入れるだけでいい。
 とにかくゆっくりだから、慌てふためくことはない。歩きながら考えることもできるし、ゆっくり入ってくる情報のおかげで、いろいろな思い付きや考えが生れ易い。

 早い話が、今歩いているこの道だ。六甲山の稜線上をほぼ直線に走っている。稜線だから坂の連続だ。道に抑揚がある。
 坂を上るときは空が広がり、上り詰めれば視界が開ける。開けた視界の一方には瀬戸内海が輝き、もう一方には別な山系の山並みが、建ち並ぶ家々の屋根越しに連なっている。
 歩いてみて、改めて「こんな町に住んでいるんだ」と寒風の中で思う。この景色、まんざらでもないじゃないか。
 バイクや車での往来だけなら決して「まんざらでもないじゃないか」なんて思わないだろう。「寒風の中で」に至っては、「何を物好きな」、の一言で終わりだ。

 早い進展、展開のために情報を取りに行く。無駄なく確実に、或いはより合理的、効率的に情報を集めることに力を注ぐ。けど、それは、早さを得ることと引き換えに多くの情報を切り捨てるということでもある。得るものは大きいけれど、それ以上に多くの物を入手し損ねているということだ。
 それで、どこかで障害物に当たった時、果たして本当に危険回避ができるだろうか。

 その都度「切り捨てる」のでなく、ネットの情報(~速報、みたいな)に書かれてある「あとで読む」、みたいなのをクリックするだけでも違う。ツーリング日記に一言、「寄れなかった」、「気になる」とメモしておくだけでも違う。けれど、勿論、それでは十全、というわけにはいかない。結局は「急いては事を仕損じる」、だ。目的地に向かうことに全力を注ぐあまりに、見逃してしまったことが、後でブレーキになってしまうこと、って結構ある。
 まあ、だからと言って寄り道をしていると、つい目的を忘れてしまったり、目先の問題と本来の目的との軽重が分からなくなって一喜一憂の繰り返し、ってことになってしまうんだけれど。

 今、「駐韓大使を『いつ』戻すのか」と時期にばかり目が向けられているけれど、本当は「駐韓大使をどんな『情況』になったら戻すのか」。
 駆け引きという直線勝負(一喜一憂に近い)ではなく、囲碁、もっと言えば千変万化する将棋の盤面に近い形での情況勝負(目的を忘れない)。
 全面勝利、完勝(まるがち)とは相手を消し去ることではない。追い詰めて、一ヶ所逃げ道を作り(でも、逃げられないように監視する)降伏を促す。
 降伏させて頭が揚げられないようにする。有形無形の「迎恩門」を作らせる。
 日本には「日本国憲法」という名の迎恩門があるから、いつまで経っても頭が揚げられない。

 ・・・?どこで脱線したかな??
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