CubとSRと

ただの日記

大森の町は今 (後)

2020年03月08日 | 心の持ち様
2015.03/28 (Sat)

 土産物屋がなくなっていた、と思ったら、開店して半年ほどしか経ってない喫茶店がどうしても見つからない。何しろ方向音痴なものだから見落としたのかも、と、往復した後、もう一度逆戻りして。でも、見つからない。

 諦めて家に帰り、ネットで再度、調べてみました。ネットには出ている。HPには引越しした、なんて書いてない。二回も三回もその前を通っている筈なのに、見つけられなかった。でも確かに地図には載っている。
 休みの日だったのか?でも、休業日はない、と書いてある。じゃ、やっぱり潰れたのか??

 結果としては、ありました。あの、潰れた土産物店に移転して。(土産物店は「潰れた」のではなく、正確には移転した、のだそうです)。
 何でも店が「古民家過ぎて」家が歪んでしまっていて、もう客の出入りに耐えられないので、やむなく閉めたのだ、とか。
 そりゃ怖いです。いきなり倒壊、なんてことはないのだろうけれど。
 以前能く聞きましたが、「想定外」ってこと、意外にありますからね。それどころか倒壊の恐れは「想定」して置かなくちゃならない。ということだから、閉めるしかない。

 このコーヒー会社は昔ながらの家族経営のようで、イタリアでは有名なところらしいんだけれど、日本には入って来てなかった。それがまた何で、いきなり日本総本社が「大森」、なんだ?
 店のマスターに話を聞いて、ちょっとびっくり。これがイタリア人のセンス、なのかもしれません。
 「大森はイタリアにはない街の色だ。こんなところに店を開きたい」。
 「町の色」、で進出を決める??? 何だか無茶苦茶のようだけど、何となく納得できるような気もします。
 フェラーリやドゥカティの、「イタリアンレッド」と言われる見事な鮮やかさは、他の色との絶妙な面積のバランスで成り立っているものです。イタリアの服飾もそうです。能く考えてみると、日本は彼らとは全く違う絶妙な色のバランスを持っている。これは以前に民族学博物館の展示物を見て感じたことです。(確か、飛騨高山の山車だったと思います。暴力的ともいえる、それでいて上品な装飾や彫刻に埋め尽くされた様は圧倒的な迫力を持っていました)

 赤味がかった黄色の土壁と、褐色の格子窓。やや暗いオレンジ色の石州瓦の屋根。周りは全て木々の緑で蔽われている。石見人にとってみれば何ということもない平凡な形と色、景色ですが、そこに、そのイタリアの社長は新鮮な驚きを抱いたらしい。
 自分では当たり前と思っていることや物を、他人が予想以上に高く評価してくれること、って意外に能くあります。
 戦後生まれの我々は何かにつけ「日本人はマネは得意だけど発明は苦手だ」とか「改良はするけど、独創性がない」とか「自分の意見を言わず、周りの評判ばかり気にする」「主体性がなくって、何考えてるか分からない」等々、何かにつけ後ろ向きな見方ばかり習ってきたようです。

 でも、紙に表裏があるように、一面だけで成り立つものなんて、ない。更に、物事は負の面ばかりが強調されるときはそこに何か意図的な力が働いているんじゃないか、とも考えてみるべきでしょう。「島国根性」などは、実は「進取の気風に富む、物事に固執しない性格」、というエネルギッシュな面の方が、本当は大きな力を持っているんじゃないか、なんてことは冷静になれば気づくものなんじゃないでしょうか。
 我々日本人は、島国の民であるが故に謙虚に学び、相手のことを尊重して何事も完璧に習おう(倣おう)とする。だから、早合点、早とちりを嫌う。自分勝手を言わず、協調性を以て物事を成し遂げようとする。
 大体、一人でできることってのは、滅多にないでしょう?それに個々人に「主体性がない」なんてことはない。良くないと思えば決して賛成しない。

 繰り返しますが、我々にはどうってことのないものでも、他が認める、それも高評価を下す、ことはよくある。けど、それは我々が「どうってことはない」とは思いながらも、それをちゃんと大切にして磨き続けているからこそ、第三者の目に留まるんだ、ということを忘れてはならないんじゃないかと思うんです。

 我々が「どうってことない」と思い、「磨かないでほっといた」ことを、第三者が見出したとしたら、これは恥です。でもまあ、我々が軽視し、ぞんざいに扱っていたならば、第三者が見出すこともまず、ないでしょうけどね。そして我々がぞんざいに扱ってきたものを外から、それも完全な第三者から指摘されたってピンと来るはずがないし、ピンと来たって、これまでがこれまでなんだから、それを生かす力なんて持ってる筈がない。

 気づいては居なかったけれど、大切には、していた。一所懸命、磨き続けては、いた。だからこそ、他人はそこに感応した。「食は三代」、じゃないけれど、最初は志を持って「ここで仕事をしよう」というところから始まる。次に、「別にどこだっていいじゃないか。だったら、生まれ故郷でやったって、良いよな」。そしてそれが磁場となって、外の何かが惹きつけられ始める。

 「中村ブレイス」という擬装具の会社が始め、「ブラハウス」というブランド名で衣料品を中心に生活用品の販売展開をしている「群言堂」という会社が「故郷で自然な生活を」、と、流れを維持し、今度はいきなりイタリアの「カリアーリ(CAGLIARI)」というコーヒーの日本展開の一歩となる。
 文化を守る枠組みが作られ、文化を守る意識が育ち、文化を大事に思いながら展開していく。

 やはり一番大事なのは、この小さな町の、ここに名前の出なかった人々が、今に至るまで力を合わせ続けて来ているということなんじゃないかな、と改めて思います。

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大森の町は今(前)

2020年03月08日 | 心の持ち様
2015.03/26 (Thu)

 「大森の町の人々は、町を大切に思い、磨き続けている」
 と書きました。(「石見銀山から」 ⑨大森町の人々(後))
 「ただの廃鉱だ」となおざりにしないで保存に力を尽くし、「薄汚れた田舎町」であることを潔しとせず、旧来の形に戻そうと手を入れ続けてきた。

 でも、それはここ二十年ほどの事だと思います。昔、通りかかった時はゴーストタウンかと見紛うばかりでしたから。
 それが、以前の日記に書いた通り、住民の中から「見直そう、大切にしよう」という声が上がり、活動があって、それに住民が感化され、後押しを始めたのだと思っています。地味ながら意図的な働きかけがあってこそ、今に至る「自然な、無理のない変化」がある。尤も、大森の人々に言わせれば「何言ってるんだ。これまで大変だったんだぞ。今だって随分努力してるんだ」、というのがホンネなんじゃないかとは思いますが。

 ダイエットと一緒で、少々無理をしてでも断行すれば、誰にだってできることは色々あるでしょう。けれど、それだと必ずリバウンドがある。そうならないようにするのは地味で地道な働きかけが第一で、その結果「意識の変化」が生まれることが一番大事なことです。「改革」ではなく「変化」、です。無理矢理の「上意下達」ではなく、「意識」を育てる。
 「リーダーが」、ではなく、「みんなが」ほんの少し意識を変える。道端に雑草が生えかけたとき、ちょっと手を伸ばして引っこ抜く。たばこの吸い殻が落ちてたら拾って置く。大森の町中にはゴミ箱を置かない。肝腎な第一歩というのは、そういうほんの少しの意識づけ、のようです。

 初めは老朽化して取り壊すばかりになっていた「代官所」の建物。それを個人が買い取り、資料館とした。
 大森は明治初期、一年足らずながら「大森県」でした。(翌年には大森県から浜田県になるのですが)代官所は県庁となり、学校となって、のちには無人の遺構となりました。それを大事なものとして、修復し、再活用する。
 後、県ではなくなったとはいえ、明治23年には裁判所も置かれたのです。老朽化したその裁判所を今度は町民が支え、現在は交流センターとして使われている。そうやって街並みの保存に尽力し続けてきた。

 こうやって「大枠」ができたと言えるでしょう。でも、それは観光客のために、町民が日々の暮らしの不便を少しずつ辛抱する、ということです。
 町民の大半には観光客が増えたからと言って金銭的な収入があるわけではない。それどころか観光客は一般家庭とは知らずに個人の庭にまで入ってくる。家の中を覗こうとする。これでは不満が出ない方がおかしいでしょう。

 ここで町の在り方を考えた。今度は空き家の利用です。ここにしかない店を置く。チェーン店は置かない。「ここにしかない景色」を守る。
 これでは発展はない、でしょうね。でも、「町の発展」って何でしょう。「人々の生活が快適」であれば良いわけで、「町の発展」って、実はそれを目指すものなんじゃないでしょうか。つまり「発展」って「青い鳥」探しでしょう?
 「昨日の便利は今日の当り前。今日の当り前は明日の不便」、です。きりがない。

 不足は常にある。「足るを知る」なんて夢のまた夢。大森の人々だって、別に仙人なわけじゃない。
 「その時」の不足を補うものは「でも、ここ好きだから」の一言でしょう。「誇りを持っている」「住みやすい」「生まれたところだもの」等々、いろいろあっても結局は「好きだから」の一言。「好きだからこれくらいは許せる」。

 昨年、ローカルニュースで、「大森の町に、また新しく喫茶店ができた」というのが流れました。古民家の喫茶店。
 「食べ物の持ち込みOK。畳の部屋でコーヒーを」
 また何だ?あざといことやるのか?俗にいう外連(けれん)、際物か?
 「日本進出は初めて。その日本総本社が大森のこの店」。
 ・・・・ますます怪しい。

 私ごとながら。
 私はコーヒーが好きなので、喫茶店には滅多に行きません。買ってきて、家で挽いて淹れて飲みます。
 ・・・・・なんですが、何しろここは田舎なものですから、豆が手に入らない。それで神戸に戻った時に2,3種類、1,5キロ前後送ってもらうように頼んでおいて、届いたら冷凍保存をする、といったことを、ここ七年ほど繰り返してきました。
 なので、逆に一度は行ってみなきゃ。

 年が明けて大森の町に行くと、銀山遺産センターに行くシャトルバスの駐車場にあった土産物屋がない。
 「ああ、土産物屋はここまでだったか・・・・・」
 客足の激減で成り立たなくなったんでしょう(後に理由を聞いて、早合点だと分かりましたが)。気を取り直して喫茶店を探しに行きました。

 「・・・・ない!」
 ほんの半年前にニュースでやってたのに。ここも早くも撤退してしまったのか!


                   (続く)
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冷ます 冷める

2020年03月08日 | 心の持ち様
2014.01/21 (Tue)

 熱が出るくらいに根を詰めて何かに取り組んでいる時というのは、少々無理をしても身体は何とかなるものです。その取り組みが本人の何らかの事情で中断したとしても、ここぞとばかりに疲れがどっと出てきて、・・・ということはない。

 しかし、その中断が外部からのもので、それなりの日数・時間を奪い取り、本人は熱が出るくらいに、いや、本当に頭に血を逆上せてやっていたのが、その間に徐々に冷めて来ると、妙に冷静になって(頭に血が上っていたわけですからね、熱くなっていた。)、
 「あの熱は何だったんだろう」
 とか
 「あの興奮は我を忘れていただけだったのか」
 とか
 「単に空回りしていただけなんじゃないか」
 「ただの傍迷惑だったんじゃ?」
 などと思ってしまう。
 そうなると、急にやる気が失せて、どっと疲れが出てくる。一気に調子も悪くなる。
 世間では「緊張の糸が切れる」などと言いますが、普通は、この糸、一見弱弱しそうだけれど、そう簡単に切れるものではない。けれど、弛緩が本人の意志に反して行われ続けると、いつの間にか糸そのものが消滅してしまっている。
 自己嫌悪感、というんでしょうか、ひどい時には「何、バカみたいに必死になってたんだ、オレは」「Mか?自虐嗜好症か?」などと思ったりする。

 子供の頃、「お前は熱しやすく冷めやすい」と、能く母に小言を言われたものです。実際、何か気に入ったものがあると、もうすっかり夢中になって、他のことが疎かになってしまう。
 あんまり夢中になるものだから、口元まで緩んでしまって、涎が出て慌てて袖口で拭う、なんてことはしょっちゅうでした。

 似たようなことで、子供が何かに気を取られ、口をぽかんと開けているところを見たこと、ありませんか?子供はそんなこと思わないんだけれど、或る程度の年齢になると、誰かに声を掛けられて、はっとして我に返ることがある。そんな時、異口同音に投げ掛けられる言葉。「何、ぼんやりしてんの」。

 時には含み笑いで、時には怒気を含んで。時には心配そうに。
 演劇の世界などでは何か考え事をしているといった風な演技の後に、その言葉を投げ掛けられると場面が進展するのだけれど、現実の世界では、言われた者はおおかた我に返る。「ホントだ。何してたんだ」となる。それも自身の行動を恥ずかしさや嫌悪感、時には「しっかりしろ!自分!」なんて心の言葉で締めくくる。本当は「心、ここにあらず」、の「ぼんやり」ではなく、何かを夢中になって考えていただけかもしれないのに。

 「熱しやすく冷めやすい」。
 だから、この言葉をあまり良い意味では捉えて来ませんでした。
 ところが、昔々、太気至誠拳法の澤井健一師範が「(なんでも)熱が出るくらいに一所懸命になってやる時期というものが必要だ」、みたいなことを言われていたというのを読んだことがあって、それも心に引っ掛かっていました。
 寝食を忘れて一つことに取り組む。取り組んでいる間に急激な進歩があるかというとそういうものでもない。それどころかその後に無理がたたって体調を崩したり寝込んだりすることもある。
 けれども、熱が出るくらいに一所懸命取り組んだことで、又体調を崩したり寝込んだりした後で、ふとそれらを振り返ってみると、間違いなしにそれらが向上、飛躍のきっかけとなっていたことに気付かされます。
 反対に「何ぼんやりしてんの」と言われ続けているうちに、夢中になって何かを考えることまでも否定的に捉えるようになってしまって、何だか一心不乱、一所懸命に何かに取り組むことが、いつしか「カッコ悪いこと」、みたいに感じるようになってきたんじゃないのかな、なんて思ったりもします。

 地道な努力をしたってなかなか成果が上がらない。だからと言って熱が出るくらいに一所懸命に取り組んだって同じく効果が出ない。それを「何ぼんやりしてんだ」とか逆に「何無駄なことを目、吊り上げてやってんだ」、「これ見よがしに、あてつけか」なんてからかわれ、ひどい時には「お前は何にも知らないんだから黙っとけ。バカの考え休むに似たり、だ」、なんて嘲笑される。
 で、熱が冷め
 「オレは一体、何やってんだ」
 、と。

 でもね、一所懸命やっている者に、冷水浴びせるような言葉を投げ掛けることで、何かが好転するんでしょうか。
 「オリンピック、辞退すると言ったら総理の名声が各段に上がる」
 かもしれないけど、それが日本復興につながるんでしょうか。
 青島都知事が都市博を中止したからって、東京は発展したんでしょうか。
 美濃部亮吉都知事が外環や首都高速建設を「一人でも反対があったら建設しない」とした結果、経済が停滞し、慢性交通マヒにより環境汚染が進んだということと、現在の原発停止と重ならないでしょうか。

 バカも休み休みに言え、と言いたい。
 そりゃあ、時には熱を「冷ます」ことは必要です。主体的に、ですよ。
 けど、「冷め」てしまったら。それも、すっかり冷え切ってしまったら、どうなりますか。
 「鞍上人なく鞍下馬なし」は当然のこと、「手綱をとる」ことだってとても難しいことなのに、馬にまたがろうとしたら、「お前は何にも知らないんだから黙っとけ。大人しく言われるようにしてりゃいいんだよ」、と端から否定されてしまう。これじゃ、何も進展はない。とにもかくにも一所懸命に取り組もうという意志を以ての具体的な発案があるならば、まずは掛からねば。始めなければ始まらないんですから。

 妙に「冷め」てしまって、己が日記を「書かない」ことを「書けない」として日を過ごしていただけなのに、大袈裟に都知事選のことまで引っ張り出してしまいました。
 けど、都知事選だって理屈は同じなわけです。国のことも世界のことも。
 「冷め」てしまったら、先はない。


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社報「靖國」~より ③  (《社報「靖國」創刊七百号を祝して》~より)

2020年03月08日 | 心の持ち様
2013.11/13 (Wed)

 中條高徳(なかじょうたかのり)氏(氏は英霊にこたえる会会長)
 の寄稿文の転載は今回で終わりです。

 第一章は
 靖國神社が廃され、日本は永久に占領されたままで、決して立ち直らせないというのが占領軍の目論見であったけれども、「朝鮮動乱」がそれを覆す神風となった、というのが大まかな内容でした。
 続く第二章は
 「国事殉難者」を祀ることから近代日本が始まったこと。
 そこで「戦争とは何か」「軍人とは何か」について説かれ、「自身ではなく、国・国民のために軍服を着て戦う事」は、相手国民もまた同じなのだという思いを惹起させられました。

 では最終章の転載です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (三)靖國神社といわゆるA級戦犯

 今から六十一年前の昭和二十七年四月二十八日、六年余の占領から独立を果たした日である。

 その間、常に戦争の歴史が語るように「勝者が必ず正義に廻り、敗者が悪者となる」占領が続いた。
 占領軍は「極東国際軍事裁判」を開き、いわゆるA級戦犯とされる二十八名を昭和天皇の御誕生日に捕え、陸軍士官学校出身の戦犯とされた者たちが学んだ講堂を法廷に使い、七名の戦犯の絞首刑を今上陛下の御誕生日に執行するという残酷さであった。
 
 その勝ち組のうちインド代表のパール博士は全裁判官中、最も国際法に長じた学者であった。
 「東京裁判は裁判の名を借りた復讐であり、占領政策のプロパガンダにすぎない。真の平和と人道を確立する絶好の機会でありながら、それをなさず、法的根拠もないのに日本を侵略者と決めつけ、多数の個人を処刑することは二十世紀文明の恥辱である」
 と主張され、
 「時が熱狂と偏見を和らげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面をはぎ取ったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら過去の賞罰(東京裁判の罪科)の多くに、その所を変えることを要求するであろう」
 と、堂々とわが国を裁く裁判官が発言されているのを、立法府にある国会議員たちの全てがご存知だろうか。
 裁く側の法の権威の発言だけに言葉の持つ力の重さは計り知れない。

 主権回復した翌年、当時社会党右派の堤ツルヨ議員の提案で、サンフランシスコ講和条約に従っていわゆるA級戦犯の名誉回復の立法が圧倒的多数で可決され、法治国家日本には現在A級戦犯は存在しない。
 関係十一ヶ国に堂々交渉した上での国会決議であったればこそ、A級戦犯終身禁固刑の賀屋興宣も池田内閣の法務大臣、同じく禁固刑七年のA級戦犯であった重光葵も鳩山内閣の副総理・外務大臣を堂々と勤めたのである。
 (『子々孫々に語り継ぎたい日本の歴史』二七三頁参照 渡部昇一・中條高徳共著)

 絞首刑にされた七人は「法務死」となり名誉回復した。国民の納付した税金から遺族年金もお払いしてきた。立法府の諸君よ、「法は、法自身が常に正義を追い求め、又秩序を求める本質であること」を忘れることなく二四六万余柱の英霊にこたえるべく誇りある国造りに邁進していただきたい。


                  第三章(最終章)転載了


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最終章は
 その「軍人の行為」を、ただ彼個人の犯罪として裁くことの愚を考えていかなければならないのではないか。靖國神社とは犯罪者を祀る場所なのか。それとも「国事殉難者」を祀る場なのか。
 そのようなことを見詰めよと、諭されているようです。

 一国民が軍服を着ることで、軍人として国(国民)のために命を捨て、国(国民)のために敵の命を平然として奪う。それは軍命であって、決して自分の意志ではない。
 軍人という仕事は、飽く迄も国(国民)のために敵を倒し、国(国民)のために平然と命を捨てることで国を護る聖職である。
 それは「個人」の犯罪であろうか。また、勝者によって敗者が「悪」とされることは正しいことなのだろうか。
 勝者も敗者も、それぞれの国(国民)のために命を捨てようとしたこと、国(国民)を護るために相手を倒そうとしたことは全く同じではないか。

 社会党議員の提案でA級戦犯の名誉回復の立法が可決されたことは、恥ずかしながら知りませんでした。私が物心がついた時は既に社会党は「何でも反対党」の色が濃厚になっていました。

 パール判事の高い志。日本の議員ほとんどが賛成したA級戦犯の名誉回復の為の立法。
 対するにアメリカを中心とする連合国の、何とも賤しい処刑計画とその執行。
 社会主義革命遂行者の「目的のためには手段を選ばない、敵を人間と認めない」という考え方に比べれば、マシではあっても、戦争に私怨を持ち込み、憎しみを以て処刑をするようなやり方は、到底「戦争は政治の延長」とは言えないものです。

 そう考えていくと、自国の国事殉難者(英霊)を祀る、という事は、同時に相手をも敬している、という事になります。自国の殉難者を丁重に祀れば祀る程、相手国の殉難者をも讃えることになる。
 特に、日本では殉難者を「英霊」と言います。「英霊」。「秀でた、英邁な」御霊、と呼んでいます。

 脱線するように見えるかもしれませんが、西南戦争で逆賊とされ、城山に散った西郷隆盛は、政府軍の勇敢さを歌った「抜刀隊」という歌の中で、「敵の大将たるものは古今無双の英雄で~」と讃えられています。
 西郷は決して国家転覆を図ったのではありません。
 却って、逆賊となった私学校兵を引き連れ、壊滅することで、近代国家日本を確固としたものにしようとしたのです。
 「命も要らぬ、名も要らぬ~」を実行し、敢えて逆賊の汚名を一身に受けて国を護ろうとした。西郷もまた、近代日本のために命を捨てたのです。彼もまた、護国の英霊ではありませんか。会津の藩士だってそうではありませんか。

 国のために命を捧げた英霊達のことを明治二年の「招魂式」まで遡ってみるともっともっと色々なことが見えてくるのではないでしょうか。
 決して「大東亜戦争」でとどめてはいけないと思います。

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社報「靖國」~より ②

2020年03月08日 | 心の持ち様
2013.11/12 (Tue)

 前回は中條氏の寄稿文の(一)を転載しました。
 靖國神社が廃され、日本は永久に占領されたままで、決して立ち直らせないというのが占領軍の目論見であったけれども、「朝鮮動乱」がそれを覆す神風となった、というのが大まかな内容でした。
 そんな折に発刊された社報「靖國」は、英霊を祀り続けることで日本の独立の心を忘れないようにすることの大切さを伝え、又、教えてくれた、と理解して良いでしょう。

 今回は(二)を転載します。
 ここでの重要な事柄は、「戦争とは何か」「軍人とは何か」を考えることです。
 大方の人は、わざとのように見過ごしていますが、「戦争はイケナイ」「軍人は人殺しだ」との当たり前過ぎる決めつけをする前に、「戦争とは何か」「軍人とは何か」を考えることをしているのか、と問い掛けられているようです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (二)靖國神社の誕生

 ペルーの来航で二百六十年の太平の夢を破られた我が国は、井伊直弼による尊王攘夷派の弾圧や、「戊辰戦争」の犠牲となった「国事殉難者」を祀ることから始まった。
 明治二年六月二十八日の夕刻、戊辰の役の戦歿者(官軍)三五八八人の招魂式が行われたという。
 
 明治七年一月二十三日、近衛歩兵第一聯隊が江戸城跡の現在の北の丸公園・日本武道館の近くでスタートした。我が国創軍の日である。
 その日に明治天皇は聯隊長を皇居に召され、軍旗一旈(リュウ)を親しく授けられた。
 その四日後、明治天皇は東京招魂社に親しく行幸され「我が國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉がき」と御製を詠まれ、そのご宸筆は、今靖國神社の本殿内の真正面に掲げられている。
 明治天皇からは、このほか本殿の大鏡や釣灯籠一対を賜っている。

 国家の安全保障の任に当たる「軍隊」は相手国を撃破する実力集団だけに常に国家転覆の可能性を持つ危険集団でもある。
 従って明治天皇はこの創軍に当り「軍人ニ賜リタル勅語(通称軍人勅諭と呼んでいた)で「我国ノ軍隊ハ世々天皇ノ統率シ給フ所ニゾアル」と御親政を宣言された。
 従って陸軍の行事には陸軍の、海軍の時は海軍の大元帥陛下の軍服を召されておられたのである。

 そもそも人類は、古代ローマの「カルタゴの戦い」で見る如く戦争を繰り返してきた。どれだけ多くの人間がその犠牲になったか判らない。
 昭和三年、アメリカのケロッグ国務長官、フランスのブリアン外相が平和への提案を試みた。歴史は「ケロッグ・ブリアン協定」とも「不戦条約」とも呼び、世界の多数の国々の合意を得て現在も生きている法律である。
 この二人も国家の役割を①領土②国民の生命③国民の財産とし、これが侵される時は「自衛の戦争」を認めている。
 だから『戦争論』のクラウゼヴィッツは「戦争は形を変えた政治の延長」と説いているのだ。

 人類にとって戦争程残酷なものはない。
 通常の国々では殺人を犯せば無期懲役か死刑となる程の重い罪を科すのに、戦いが始まるや一刻も早く敵を殺せ、遅れをとったらお前が殺されるという残酷な場なのである。
 従ってこの理(ことわり)を弁えた近代国家は、いさゝかも戦争など賛美するのではなく、自国が敵に侵された時は、国民自らが命を懸けて自国を守る気概で生き抜いているのが常識なのである。

 その戦う時、国家、国民の命を守る役割の人を「軍人」と呼ぶ。
 その軍人も人の子であり、親でもあり、妻持つ身でもある。国家が敵に襲われ、戦雲急を告げれば、妻子や恋人と袂(たもと)を分かち死の迫る前線に赴かねばならない。「軍人」とは極めつけの悲しく切ない職分であり、極めつけの重い役割なのである。
 人殺しでもある戦争が一端起こると、その惨禍が市民に及ばないよう「軍人」には戦場での軍服着用を国際法は義務づけてある。戦場で一刻も早く殺せという課題は、飽く迄、軍服を着た「軍人」に対してのみ適用する論理であり、戦争で背広の市民を撃ったらその罪は極めて重い。

 先の大戦では、各地の前線でB・C級戦犯に問われ、ろくな裁判も受けられず非業な死刑を命ぜられた犠牲者の多くは、この国際法を適用されたものである。
 だからこそ全ての近代国家は「軍人」に最高の栄誉を与え、(叙勲制度なども主たる対象は「軍人」であった)ましてや戦死者に対しては国を挙げて手篤く弔うのである。
 世の教えに「ノーブレス・オブリッジ」つまり「地位高き者には聖なる義務あり」とある。英国のウィリアム王子も空軍に所属されており、戦前の我が国でも昭和天皇の弟君、秩父宮・三笠宮は陸軍士官学校、高松宮は海軍兵学校に進まれ軍役を果たされたのは、「軍人」を一命をなげ打って国家の安全保障に当る「聖なる職」とご確認を重ねられた尊い歴史の教訓である。
 従って憲法上「軍」と認めていない自衛隊でも、「英霊の鎮魂顕彰はすぐれて国防問題であり、防衛基盤の柱石となし」、一旦緩急あるときには全隊員に「事に臨んでは危険を顧みず、責務の完遂に努める」と服務宣誓をしているのである。
 現今の国会議員の中でも、口に安全保障を論じながら、靖國の英霊を祀る国家的意義が理解出来ていない者が多すぎる。
 このまゝで軍を作れば、ローマが辿ったように傭兵に移らざるを得まい。傭兵は報酬には忠実であるが、敵が襲ってきたら市民を捨て、逃げることを歴史は教えている。

           (ここまでが第二章です)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いきなりですが、我が国の近代国家としての歩みは
 《「国事殉難者」を祀ることから始まった。》
 とあります。
 「国難に殉じた人々を祀る」ことが近代国家日本の始まりだ、と。
 「そういえば・・・」と思います。
 何となく始めた(始まった)ことに、或る日、気が付く。
 その時に人は「ま、いっか」と言うか。
 それとも「えっと・・・いつからだったっけ?」と考えるか。
 その時に「ま、いっか」と言った人も、実は以降何度もそれを思うようになるんですね、普通。

 「始まりをはっきりさせる」という事は、言い方を変えれば「立ち位置」「スタンス」を明らかにしよう、つまり考え方をはっきりさせようとすることです。それで今後の道を拓こうとする。指針を決める。
 日本は《「国事殉難者」を祀ること》で、これから「国民が国を支える」、という国の在り方を採用する、という事を宣言した、ということです。
 これは「天壌無窮の神勅」を言挙げすることで、日本の国の始めを明らかにしたことと同じです。
 何事も「何となく」、では発展はない。何となく始まっても途中で冷静に振り返り、来し方を凝視し、「今」とつないで理想の未来像を描き、ということを繰り返さなければ、「何となく」消滅してしまう。

 招魂社の設立は近代国家日本設立の具体的行動の一つ、ということになります。これが国家神道という事もできるでしょう。やはり単純に「宗教」という枠で考えるべきものではないと思います。

 さて、「国事殉難」。国事、国難に殉じた者。
 「国難」は何者かによる侵攻がその主なものだから、国難とは、まあ、戦争が全て、と言っても良いでしょう。
 「国民が国を支える」のだから、侵攻に対し、それを阻むものは「国民」である「軍人」。
 文中にあるように、だから、「軍人」とは国民の一つの「役割」と考えると、国民でありながら一般国民には絶対にさせられない仕事を行うために「軍服」を着用しなければならない。相手国側も同じです。

 「一般国民には絶対にさせられない仕事」
 というのは、
 国を護るために「他人を殺傷し」
 国を護るために「他人に殺傷される」
 ことです。
 自分のために、ではない。飽く迄も、「他(国・国民)」のため、です。

 だから、軍服を着る。
 だから「便衣兵」というのは決して許されない。
 それは国と国、人と人、社会と社会の対立ではなく、全面的に相手を否定するやり方だからです。相手の社会を否定する、その存在を全く認めないやり方だからです。

 戦争は相手を人と認めるからこそのものです。その究極が「軍服」の着用です。
 しかし相手を人と認めない、だから「殲滅」させる、そのためには手段を選ばない、便衣兵だって条約破棄だって何だって使う。そういう国が新しく立てる世界秩序とはどんなものか。ここから見えてきます。
 社会主義革命はそれまでの社会を否定し、便衣兵は相手を人と認めない。

 これ、今に始まったことでしょうか。
 ありますよね、他の社会を否定し、
 「人間というのは我々だけだ。周囲に居るものは人間もどきだ、虫以下だ。」
 と言い切る、「中華思想」というのが。
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