CubとSRと

ただの日記

分かっていたつもりだけど 前半

2020年03月15日 | 重箱の隅
2010.05/17 (Mon)

 暑かった。例によって食料の買出しに出ることにした。
 家でじっとしているのが嫌になるほどの好天で、出る時になって、黄砂で何だかすすけたみたいに見えるバイクをざっと水洗い。
 それも苦にならない「山笑う五月」だ。
 九時半ごろに出て、農協の直売店に向う。前に家畜を運ぶらしい大型のトラックが走っている。窓が二段になっていたから、牛でなく、豚、だろうか。

 今朝、一体どうした、というのだろう、新聞(アサヒ)には、「口蹄疫」の文字が、一面からそこら中に躍っていた。テレビ欄を見ても、朝のワイドショーで、「口蹄疫」の文字が載ってないところは、ない。
 「動きが出てくるのは、農水大臣が帰って来る9日以降。それから、政府が懸命になって大活躍、という筋書きがあるんじゃないか」と聞いていたが、農水大臣が27日の会合をキャンセルしたことも、それ以降の宮崎の涙ぐましい奮闘振りも、一切報道はなく、昨日官房長官が宮崎を訪れてから、テレビ、新聞、示しあわせたかのように、今日大々的に始めた。

 それはそうと、NHK。何で「口てい疫」と書くかねえ。
 難しい字は書かないようにしよう、小学校の「教育漢字」にあわせて表記しようとの文部省(文部科学省の前)の方針が出されたのは、何十年も前だ。その頃は、「体操」は難しいから、「体そう」。ひどいのになると「お水」。
 なに?「おみず?」。いや、これが「汚水」なんだ、と。
 それなら最初っから「よごれた水」って書けよ。こんなもの、「お水」で育った子は感覚、変になるんじゃないか?
 それを思い出した。「口てい疫」。「蹄(ひづめ)」くらい覚えなきゃ。
 「NHKは、変」。

 と、そんなことを思いながら、凪いだ海面を左に見て目的地に着き、虫に食われた穴のある野菜、不細工に大きく育った野菜等を買い込む。これが、ことの外、美味い。
 店を出て、パニアケースに買った物を入れる。いつものことながら、道路で擦れ違う車は、このパニアケースにじゃが芋や、高菜、青ねぎなんかが一杯入っている、なんて思わないだろう。どうでもいい、か。

 暑い。夏用のジャケットに薄手のシャツだけなのに、暑い。ほんの一週間前には、ちょっとためらうような格好だったのだが、今日はそれが暑い。

 さて。
 自分でも不思議な気がする。「思い込み」というやつだ。「思い込み」は「頑固」、だけではない。「頑迷」の方が多い。
 「迷」は、ただ「どうしたら良いか分からない」、みたいに見えるが、これ、自分が「困ってます」、という「求道的探究心」、えい、ややこしい、もっと簡単に言うと、「向上心」とか「前向き」とかいった意味が含まれているのだ、と何となくこれまで思っていた。ほら、「迷える子羊よ」などと言うから。
 でも、「迷う」ってのは前向きじゃないよ。「指針」がなくなって「迷ってる」わけだ。自分の方向、方針を失う、その裏に「意志」「聞こうとする気」等、外向きの筈のそれらの力が、内に向いてしまってだけ、「在る」。「聞こうとしない」のだ。
 耳を塞いで「わあ~っ、何も聞こえな~い!正しいのは自分だけえ~っ!」とやってる。謙虚さがないから、「頑迷」には何となく良い印象は持てない。

 で、この「頑迷」は、だから「我儘」の別名みたいな側面があるわけだが、ちょっと待てよ、と、また思う。二つ目の問題。
 「頑迷」は「我儘」、だけじゃない。もう一つの面は、「本当に聞こえない」「本当に分からない」「本当に理解できない」ということだ。
 「聞こうとしない」のではなく、(聞く気があっても)「聞く能力がない」。理解しようとする意志はあっても理解「能力」が、そこに至って居らず、「理解できない」。
 単車に乗っている者でさえ、夏は冬の辛さを忘れ、冬は夏の熱さ(暑さ、でない)を忘れている。だから、出発するまでに時間がかかることも、転倒がコワくてなかなかUターンができないことも、車にしか乗らない人に分かってもらえないのは当然のことなんだ。

 テレビや映画に出て来るライダーは、たとえば、仮面ライダーでもいいか、ちょっと思い出してみるとヘルメット、持って出た、次の瞬間は、走ってる、でしょう?反対に、停まったと思ったら、次の瞬間、ヘルメット、取ってる。
 それほど極端でなくとも、ヘルメットをかぶるには、少々時間がかかるんです。かぶったら、今度は、顎のベルトをきちんと締める。それから、グローブをする。
 これだけのことを画面でやるのは時間が勿体ないから、そこはお約束、というわけで、カットしてるんだけれども、それ(カットしてること)が現実でも当たり前のこと、と、単車に乗らない人は思い込んでいる。

 実につまらないことを今日は(今日も、か)書いているわけですが、これ、今朝も相変わらずやっていた、例の
「ありえない転倒懲罰動議事件」の、当事者も同じではないか、と思ったからなんです。

 ところで、また、長くなりました。という訳で、後半へ続く。
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痛い思いをしたのに

2020年03月15日 | 重箱の隅

2010.05/15 (Sat)

 三宅雪子議員の名前は知っていました。小沢チルドレンの一人、美人だという評判でしたね、確か。(ということは、私の審美眼は大きく歪んでいるらしい・・・)
 
 今回は世間話です。
 びっくりしました。ニュースを見ていたら、転倒してしばらく立てなかった議員がいる。 助け起こされるまでにかなり時間がかかったから、「何、もたもたしてるんだ?」と「打ちどころが悪かったか?」という思いが交錯していました。それが、三宅議員でした。


 その転倒のシーンが、スローで流れましたが、ひどく突き飛ばされたようで、飛び込むように倒れ込んでいったわけですが、倒れた際、右腕を使って衝撃を和らげる、といった動作が全く見られず、顔面(右額付近)を強打。受け身が全くとれなかった様子です。
 顔面を強打した後、頭部から上半身にかけて、一度床から浮き上がっていますから、ひどくぶつかったか、或いは逆にとても受け身が上手だったか、のどちらかしか、考えられません。
 勿論、見た限りでは99パーセント前者です。演技ではありません。あんなダメージの大きくなる倒れ方を「演技で」できる、とすれば、三宅議員、只者ではない。

 翌日、ニュースで、まとめられた物を見たのですが、何故か、その転倒する瞬間がカットされている。
 で、自民党の甘利議員が突き飛ばしたから、転倒した、みたいになっている。その上、国会内は車椅子。
 「ええ~っ!?」といった感じでした。
 でも、その時議員は、「院内の廊下は長いので、体力を温存するためで。大丈夫です。歩けますから。」と応えていたんですが。
 包帯の巻き方がえらく大袈裟でいい加減だなあ、とは思いました。それより、とにかくカットされた所が気になって気になってしょうがない。

 それから数時間後、今度は「暴力行為があった。甘利議員は謝罪せよ」と本会議場で騒ぎになり、小泉進次郎議員が「暴力行為はなかった。あったのは強行採決だけだ」とやり返すシーン。
 何とも苛々する。やっぱりカットされたところが気になる。とにかく肝腎なところが分からない。

 その前に。甘利議員が通路に出ようとする。民主党の議員の一人が通路のところで立っていて出られない。出ようとして、その議員の上腕を押す。
 その議員は腕組みして、にやついたまま、腰を入れて押されまいとする。
 ムッとした甘利議員が、今度は両手で押す。一瞬、それでも押し返そうとするが、たまらず、体勢を崩して前方へ大きく右足を踏み出しながら体勢を立て直そうと甘利議員の方へ向き直ろうとする。(民主党の初鹿議員)
 
 ここで途切れ、次は倒れた議員そっちのけで、言い合いになっている。そして、夜には懲罰動議云々の話になっている。
 当然、甘利議員は「私は押してない。間に人がいた。『ひど~い』と言うのを聞いて、自分がやったことになっているのに気がついた」と言うが、民主党の松木謙公議員は「許せない」、と。

 夜遅くになって、ネットに挙げられた動画を見て、「これはひどい」と思った。
 多くの人が「あれは自作自演だ」とか「当たり屋そのもの」、とここにも書かれていた。しかし、挙げられた動画を見る限りでは、あれは演技ではない。勿論、当たり屋的所業でも、ない。
 吹っ飛んでいるように見えたのも、(もちろん冗談で書かれているのだが)「勁力(発勁)によって吹っ飛ばした」とか「秘拳をつかった」とか「本人がダイビングした」等色々あるけれど、吹っ飛んだわけでも自分からダイビングしたわけでもない。

 結論を先に言ってしまうと、
「これは、自損事故。ただし、間に立っていた民主党議員に1~2割の過失がある」。
 ①本来の所属でない委員会に、民主党の議員を応援するために参加していたこと。
 ②通路から委員長席に向おうとしていたこと。
 ③民主党議員と甘利議員が押し合いになった時、それを見て、確認していること。
 ④確認した時点で、擦り抜けにくい状態になっていたにも関わらず、民主党議員の左側を擦り抜けようとしたこと。
 ⑤左足から擦り抜けを開始。右足を前にもっていこうとした時右回転していた民主党議員の身体の一部にあたり、右足が抜けない状態で身体は前傾してしまい、前方にダイビングする形になってしまった。
 ⑥結果、右ひざから、打ちつけるような格好で倒れ込み、続けて右肩と顔面で受け身をとる形になってしまった(痛そ~!)。

 「ひっど~い」というのは、そんな状況の中でとっさに出た言葉で、甘利議員が直接突き飛ばした、という限定された表現ではない。
 強いて言うなら「私が通ろうとしてるの分かってたでしょ!あぶないじゃない!」の意味しかない。
 ところが、周囲の民主党議員が「ひどいじゃないか」と騒ぎ出したため、言うに言えなくなってしまった。
 実際に、自身のブログでは、「自分で勝手に転倒した」と、その晩、書いている。
 また、翌日登院した時も「車椅子なしでも大丈夫だ」と言っている。
 事故当日、病院にも行ってない。
 そして、これが一番の問題なのだが、車椅子に乗っていた日、本会議場で、慣れない松葉杖で階段を降りる途中、足がもつれ、二度目の転倒をしていること。
 見た限りでは、こちらのほうが前日の転倒より格段に大きなダメージを受けている。何しろ、階段を真っ逆さま、だ。
 一夜明けて、「全治三週間」。二回の転倒を、分けて診断したとは考えられない。

 鈍過ぎる。そして、民主党のやり方は、この件に関しても、卑劣である。

 「殺処分対象8万頭以上」は、この三日間、この騒動で目を逸らされた。
その点で言えば、見事な当たり屋、愛党精神の権化とも言える。
 ただ、彼女を含めて、民主党議員の、このやり方は余りにも賤しい。
 決して「代議士の執る行動」では、ない!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 先頃、議員は他界されました。謹んでお悔やみ申し上げます。
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タレント候補を一括り (後)

2020年03月15日 | 心の持ち様
2010.05/13 (Thu)

 「名師」ではなく、「明師」を。
 これは政治家にも言える、と思うのです。
 「党の力で、運良く当選した」。
 「親の票田を譲り受けたので、当然のように当選した」。
 「国のために燃えるような思いで選挙活動を行い、当選した」。
 色々な当選があるでしょうが、初当選ということ自体は何も変わりません。
 ここの時点では「発願」状態。
 ここから、「師」と目する人の下で、政治家として色々なことを学び始めるわけです。
 政治家の場合の「名師」とは、「名の知れた、強い発言力を持つ人」、でしょう。
 そして、「明師」とは、「政策に明るい政治家」「将来を見通す政治家」「国の行く末を真剣に案じている政治家」などでしょう。

 「民主党で、師匠となる政治家は誰か」「自民党では」「みんなの党では」「たちあがれ日本では」「日本創新党」「新党改革」公明、社民、共産・・・・。
 名師はどこにいるか。明師はどこにいるのか。容易に判断できるでしょう。
 
 「谷亮子という選手は、国民的な人気がある。だから、トップ当選の可能性がある。いくらなんでも、オリンピックは次回が最後だ。以降は議員に専念するだろうから、問題はない」。
 O幹事長は、そう考えたでしょう。
 嗤うべきです。何故か。彼女は「発願」の時点で間違っている。
 「私利私欲を捨てよ」と求める政治家と、オリンピックで金メダルを「取ろうとする私利私欲」とは、矛盾するのです。
 オリンピックの後、政治家への道を進む。師匠は当然幹事長。言うまでもない、日本一の「名師」、です。
 新人議員が命懸けで勉強をする時期を、彼女は柔道の方に力を注ぐ。平気でそれができるのならば、金メダルは取れるかもしれない。国民の心を裏切るわけですから。
 でしょう?この時、彼女を当選させた国民は、金メダルをとって欲しいから、彼女に投票したわけじゃない。
 金メダルを取ってほしかったら、柔道の練習に専念して欲しいから当選なんかしないようにするでしょう。出発点で間違った彼女は、間違ったまま、政治に取り組むことになる。

 「向こう意気ばかりが強くて、生意気なだけの、怖い物知らず」。
 これは、どこの世界でもいます。
 そして、「矢でも鉄砲でも持って来い」という、そんな世間知らずに、「正しい道」、「在るべき道」を示すのが師匠です。
 「厳しく叱りつける」のも一法。「殴りつける」のも一法。
 でも、本当に良いのは「正しい在り方」を、無言の姿勢で、身の引き締まるような身捌きで、常に見せてやるのが師匠、明師、でしょう。

 中畑清氏の「たちあがれ日本」への参加表明会見での、「実践力、行動力では、絶対の自信がある」という言葉、「絶好調男、未だ衰えず」、みたいな表情でしたが、
たとえば、平沼代表の、大病を乗り越えて、声も半分出なくなって、それでも正論を吐き続ける姿を、間近に見続けるうち、自身の「絶好調!」とは質的に違うものに、必ず気がつきます。
 既に、与謝野氏の「意気に感じて」いるのだから、分かれば早い、と思います。

 ついでながら。
 杉村泰蔵氏も入党するようなことを聞きましたが、彼は依然として、初当選した時のままの「ただのお調子者」、なのでしょうか。
 私はそうは思いません。
 重宝がられて、色々と使い回され、揚げ句に、昨夏公認から外された。
 彼を育てる筈の師匠は誰だったでしょうか。彼は宝くじに当たったみたいにして議員になったけれど、ちゃんとした師匠がいたでしょうか。
 要は、師匠です。彼に事を分けて教えてくれる師匠がいたなら、何とかなったと思いませんか。少なくとも、あの時(公認から外れた時)、彼の「発願」は本物でした。
 要は師匠です。そして、その師匠だって、我々が選んでこそ、師匠となれるのです。
 やっぱり、「タレント候補を一括り」では、テレビと同じレベルになってしまいます。
・・・・・・・・・
 そして、2020年の今日・・・・。
 与謝野氏は鬼籍に入り、中畑氏は議員になることなく、杉村氏に至っては、すっかりテレビのいじられ役。
 でも、「生々流転」の一言で終わらせたくない。

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タレント候補を一括り (前)

2020年03月15日 | 心の持ち様
2010.05/13 (Thu)

 随分昔のことになるが、何年間か通った居酒屋があった。
 そこの壁に色紙が一枚。
 「水加減  火加減  心配加減」
 と書いてある。

 店主は俳句をやっているということで、「うちの板さんにもやってみろと勧めたら、あの句ができた。なかなかいいでしょう。で、こりゃ、ちゃんと壁に飾ろうと、ああやってるんですよ」。
 目の前で、当の板さん、照れくさそうに笑っている。ほめられるのはうれしいけれど、もうこりごり、みたいな顔だ。
 店主は、大学を出て、いきなり商売の道へ踏み込んだ。右も左も分からない者が、怖いもの知らずで、店を借金して始めた。板さんは、中学を出て、地元では知られた料理人の弟子に入った、叩き上げだ。

 俳句の体裁ではないけれど、何とも味のある句だ。勿論、最後の「心配加減」が利いている。
 何でも、弟子入りして料理の修業をした人は、その当時でもほとんど居なかったそうで、大概は調理師学校を出ている。だから、仕事に就く時点では、みんな調理師の免許を持っている。

 「調理師学校出たのは、駄目なんですよ」と店主が言う。
 「何でもやるけど何にもできない」
 一通りは知っているけれど、客に出せる物は作れない、ということらしい。
 それは、味は言うまでもなく、下拵え、更には、基本中の基本である、食材の扱い方まで、全てなのだそうだ。
 その叩き上げの料理人を、店の料理は全てやってもらう、全責任を任せる、と説き伏せて来てもらったんだと自慢する。

 そういえば、武術の世界では、「名師よりも、明師に就け」と言われます。有名な師ではなく、武術(自流)に明るい師に就け、ということです。
 当然のことだ、と、誰でも思うでしょう。名前だけ知られていたって意味がないから、と。
 いやいや、ことはもうちょっと奥行きがあるのです。「名師」は「有名な師」。有名なだけあって、実力もあるのです。時代劇に出て来る、強そうだけど実は弱い、という悪役の道場主みたいなのは、まず、現実には存在しないのです。悪役でも何でも、強そうなのは実際強い。
 やはり、凡庸な人は「名師」にはなれない。けれど、「明師」の方は、凡庸な人だってなれる場合がある。人間社会の素晴らしさです。

 武芸、遊芸など、諸々の芸事というものは、その道の理に精しい人(師)に、有言無言を問わず、形通りに習うことで、身につきます。
 「身につく」というのは、目に見えない形ですから、その芸を表現するための頭脳も、師について教えられ、倣って作っていかねばなりません。教科書は、ない。何しろ教えることが多過ぎて書ききれないのです。
 さらに大事なのは、どんな「明師」でも、「同時期に教えられるのは三人。多くても五人が限度」ということです。「名師」は忙しいから駄目、なわけです。 
 日常の諸事全般、から入って、最終的には、それら全てを操る頭脳をつくり上げねばなりません。教える方も決して気が抜けない。三人同時に教えられたら名人、五人も教えられたら達人の域です。
 
 さて、何で、タレント候補の話なのに、職人の弟子入り話、みたいなのを長々としたかというと、政治家だって、或る意味職人なのだ、と言いたかったからなんです。
 今回の参院選では、標題の通り、毎度ながら、タレント候補が濫立しています。
 そして、テレビなどでは、それを「タレント候補」として一括りに報道する。(私もしたけど)

 大概、否定的な意見ですね。
 でも、ちょっと待って下さい。政治家というのは、いや、代議士というのはどういう人だったのか。「代議士」というのは、我々の代わりに(代表として)、政治の場で、言葉という武器を以って命懸けで闘う「士」だったはずです。
 そこに、私利私欲が混じってはならない。理想は「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ、始末に困る人」、でした。「政治に詳しい人」「世の中のことをよく知っている人」「リーダーシップの執れる人」「頭の良い人」などは、代議士の条件だったでしょうか?
 「最初から名人」、なんていません。「こいつは天才だ」と天才を見抜かれても、師に就いて学ばなければ、単なる「異能の人」、で、終わりです。仁和寺の法師を引き合いに出すまでもなく、何事につけても、「先達」は必要なのです。

 つまり、最初に求められるものは、どんな分野だって、「発願(ほつがん)」の二文字だけではないだろうか、と言いたいのです。「発願」とは、「やろう!」と思い立つことです。そして、それから、(始まってから)努力、辛抱、工夫、などの順不同の繰り返しが続くのです。お祖父さんが政治家だからといっても、「教えられ方次第」で、麻生太郎にも、鳩山由紀夫にもなります。
 お父さんが政治家であっても、「習い方次第」で、中川昭一にも河野太郎にもなるのです。要は「発願」以降の取り組み方、ではないでしょうか。

 タレント候補はそれぞれ「発願」したのです。その時点で、「タレントだから」とか「政治のこと、知らないくせに」とか「人気取り」などと決め付けるのは、ただのレッテル貼りと変わらない、上から目線の傲慢な態度です。それでは谷亮子に投票する人と同じ。
 何だって、どんなことだって、「始めた時が始まり」、です。
 四十が五十になったって、今回の中畑氏のように、五十代も半ばを過ぎて突然政治家に、というのだって、別に何の問題もない。勉強はそこから始まったっていいじゃないですか。
 「政治の名人」とか「政治の達人」なんて、いません。居てはならないのです。
 私利私欲を捨ててかかるものだから、「名人」、「達人」などという認め方を、されるべきではないのです。ただひたすら「国のため、国民のために良かれ」と思うことを実現させるために命を削る。それだけが求められる。

 そういう見方をすれば、「心意気」が見えて来ます。「心意気」が見えて来れば、「タレント候補」、と一括りにするのは、些か乱暴だったかな、と思うのではないでしょうか。

 「名師」ではなく「明師」を。
 これは政治家にも言えることでしょう。


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ひと雨降れば

2020年03月15日 | バイク 車 ツーリング
2010.05/11 (Tue)

 連休中一度も雨が降らなかったのは、50年振りだ、とか。
 で、しかし何故だろう、好天も続くと何だか妙に物足りない。物足りないというより、何だか煤けたような気がしてくる。埃っぽいと言ってもいいのかも知れない。
 雨が続くと気が滅入るけれど、晴れてばかりだと、何だか神経が鈍磨したような気がする。随分と身勝手なものだ。
 とは言え、「雨が三日続くのと、晴れが三日続くのとどっちがいい?」と聞かれたら、当然、質問が終わらないうちに「晴れ!」と言うに決まっている。

 連休が終わって、買い置いていた食料が底をついた。
 で、今日、買出しに行こうとした。出掛け、ポツポツと降り出した。けど、高を括って、出た。
 屋根のない乗り物だから、この見切り発車、後でいつも後悔する。
 降らなきゃ「見切り発車して良かったな」どころか、見切り発車したことさえ忘れ、当然、と思ってしまう。ボケているからではない。身勝手なのだ。
 本当に、出発して降り止めば、何にも思わない。

 出発して雨足が強くなると途端に「ああ、めんどくさい」という気が入道雲の如くに湧き立ち、そのくせ「やめ、やめ!帰ろう!」という気にはならず、深みにはまる。Uターンして帰ることは、まずない。
 Uターンが下手くそだから、時機を逸してしまうのではない。Uターンが下手なのではない。道幅が狭いのだ。それに、田舎のくせに交通量は多いし、ずっと工事をしているし、車の流れは速いし・・・・・。墓穴を掘っている。
 
 二輪に乗っている奴は、大概、こうやって深みにはまるのだ。それがいいのだ、二輪というやつは。
 そして、というわけで、今日もびしょ濡れになった。
 でも、「何でこんなみじめったらしい思いをして、乗ってんだろう」とは、ならない。
 「くそ~、腹の立つ!何でこんな日に限って天気予報見なかったんだあ!」と思いながら、「よっしゃ、帰ったら速攻で風呂だあ!」なんて能天気なこと、思ってる。

 ・・・・結局、風呂に入らず、日記をつけ始めた。
 どうして、「雨は嫌い」なくせに、雨を待つのだ?
 言うまでもない。雨上がりの澄明さがうれしいからだ。
 早い話が「すっきり」したい。我々は「神州清潔乃民」なのだ。
 清々しさを何よりも大事に思って生きてきた。

 こういった気候の中での、数千年の暮らしが、日本人の心性をつくって来たんだ、と思う。この心地良さを知ってしまえば、埃っぽいのがたまらない。汚れることを心底嫌う。身体が汚れたら、きれいに洗う。心が汚れたら常に祓う。
 「自民党の政治は汚れていた。それが嫌でたまらなかった。だから、民主党に投票した。」
 そんな人が多かった。民主党はきれいだろうと思っていた。
 白河藩主は、きれいにやろうとした。みんな息が詰まった。だから「もとの濁りの田沼恋しき」となったけれども、正面きって、の反抗はしなかった。できなかった。
 しょうがない。「白河」は本当に清かったんだから。 

 けど、今度はどうだ。民主党は「白河」じゃなかった。それに、「もとの濁り」と言われた田沼は、決して幕政を私することなどなかった。収賄品は幕府の金蔵に律義に納めていた。浪人の父を吉宗は用いてくれた。吉宗の死後、浪人に戻る筈の自分を、新将軍は父以上に重用してくれた。
 だから、恩義に感じて身命を賭して仕えようとする。重用してもらったのを良いことに、自らの蓄財に励む、など、人の道に外れたことは、しない。

 「でも、自民党は、大方は汚れていた」。汚れていたから、嫌だった。
 きれいにしよう。穢れを祓おう。「政権が移ればきれいになる。内閣が替われば世の中は変わる」つまり、「雨が降ったらすっきりする」。
 日本人のもう一つの顔。
 自分ではやらない。「誰かが、きっと、損得抜きでやってくれる」「風が吹いたらきれいになる」「ひと雨降ればすっきりする」等々。滑稽なほどに他人を信用する。

 きれいな筈だった。民主党は。
 「あなた方に言われたくない」は熟成され、「ジミンガー」になった。臆面もなく「杭一本打てなかったじゃないか」と言い続けて、「5月末」の大見得はフェイドアウトしようとしている。
 大問題である口蹄疫の発症に、何の手もうたず、会議参加をキャンセルして、外遊に出てしまう農水大臣。
 長崎五島の「自分の選挙区」だけは、と報道規制の布かれている中、5月1日付けで「南九州への旅行自粛を求める」ビラを一万七千枚つくり、地元にだけ、配布した副大臣。
 9日に戻って来た大臣は、秋田行きを延期、慌てて宮崎に行く。手筈通り、「畜産農家に全額補償を」とぶち上げる。(約束、ではない。検討、だ)
 
 10年前は、750頭の殺処分に35億円かかった。
 4月27日のドタキャンからの2週間で6万数千頭の殺処分。もう埋却する場所がない。自衛隊の演習場も全てつかった。いくら深く埋めても、あまりの量の多さ。翌日にはガスが発生し、地面はボコボコになるという。
 
 5月11日現在、殺処分対象、累計7万4千頭。
 単純計算で、3500億で済むのか!?


 だめだ。やっぱりこうなってしまう。
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