2016.01/24 (Sun)
これまでに繰り返し書いてきたことの一つに「自分で考えなきゃならない」というのがある。
勿論、「自戒の意を込めて」、なんだけれども、世間に対しても思ってきたことだ。
何しろもう十年くらい前から、TVコマーシャルを見ていても必ず「詳しくは検索」と出てくるようになっていたし、この頃じゃそれも取っ払って検索の枠と指のマークが一緒に出てきて・・・。
パソコン持ってない人はあれ見てイラつくかも、と気を回すことはないんだろうか。生活保護費より少ない年金受給者が、高齢になってから高価なパソコン買って、わざわざテレビ以外に通信費を捻出して・・・なんてみんながみんな、すると思う?
あ、いきなり脱線した。
ネットでの検索、についてでした。TVコマーシャルで、あれ見ていらっとする人は置いといて。
ネット検索は便利です。何しろ最最新版の百科事典ですからね。それもどんなに詳細な説明の記載されている物にだって引けを取らない。とにかく新しいし詳しい。訂正も早い。(勿論、この辺が両刃の剣なんですが)
場所も取らないし、重量もない。何よりも一瞬で「検索」完了。調べものにかかる時間を劇的に、いやいや革命的に短縮した。良いことばかり。
・・・・と言いたいところだけれど、これこそ格言通り「好事、魔多し」。悪いことも革命的に増えた。
折角無駄な時間を減らすことができたのだから、その分を「検索で得た資料によって考える時間」に充てればいいのに、そうしない。
折角資料と資料を衝き合わせ、「自分の考え方で以て、考えを深める」ための時間ができたのに、それに使うことを惜しんで、ただ資料をぶちまけて、「自分の考え方で並べ替える」だけで事足れり、としている。俗に言うコピペ、というやつだ。
ネット検索で見つけた文献を証拠としてコピーし、「こう書いてあるからこうなのだ」と考えを深めることもなくまとめ(?)てしまう。
構成を考え(ただの並べ替えだけど)、結論を書いているのだから、「自分が考えた」みたいな気になっているけど、論の展開はコピーした文献がやってくれているわけで。そこに付けた「結論」なんて、所詮「ワシもそう思う」、でしかないんじゃないか。
それは「自分が考えを深め」てはいないのだから、野次馬・烏合の衆の一人、ということでしかない。
つまり当事者ではない、ということなのだが、意外にそのことに本人は気づいていない。というよりそれをさほど重要なことではないと思っている。「考えなど深める必要がどこにあるのだ?」、と。
結論のつもりで感想だけ書いて、ただの感想を「立派な自身の結論だ」と思っている。
これに比べれば、コピーではなくとにかく「一応は画面を見て、ノートに筆写した。その上で結論(?)を書いた」方が、結論っぽい締め方にはなる可能性は出て来る。
一度読んで概要を掴んだ上で、一字一句間違いのないように筆写する際に、「概要把握」の再確認をしているわけだから、論理展開(或いは文章の展開)の形をなぞっていることには、なる。すると、自然、「収束のために」という意識が、締めの文章作りに働きかけることになる。
これまでに繰り返し書いてきたことの一つに「自分で考えなきゃならない」というのがある。
勿論、「自戒の意を込めて」、なんだけれども、世間に対しても思ってきたことだ。
何しろもう十年くらい前から、TVコマーシャルを見ていても必ず「詳しくは検索」と出てくるようになっていたし、この頃じゃそれも取っ払って検索の枠と指のマークが一緒に出てきて・・・。
パソコン持ってない人はあれ見てイラつくかも、と気を回すことはないんだろうか。生活保護費より少ない年金受給者が、高齢になってから高価なパソコン買って、わざわざテレビ以外に通信費を捻出して・・・なんてみんながみんな、すると思う?
あ、いきなり脱線した。
ネットでの検索、についてでした。TVコマーシャルで、あれ見ていらっとする人は置いといて。
ネット検索は便利です。何しろ最最新版の百科事典ですからね。それもどんなに詳細な説明の記載されている物にだって引けを取らない。とにかく新しいし詳しい。訂正も早い。(勿論、この辺が両刃の剣なんですが)
場所も取らないし、重量もない。何よりも一瞬で「検索」完了。調べものにかかる時間を劇的に、いやいや革命的に短縮した。良いことばかり。
・・・・と言いたいところだけれど、これこそ格言通り「好事、魔多し」。悪いことも革命的に増えた。
折角無駄な時間を減らすことができたのだから、その分を「検索で得た資料によって考える時間」に充てればいいのに、そうしない。
折角資料と資料を衝き合わせ、「自分の考え方で以て、考えを深める」ための時間ができたのに、それに使うことを惜しんで、ただ資料をぶちまけて、「自分の考え方で並べ替える」だけで事足れり、としている。俗に言うコピペ、というやつだ。
ネット検索で見つけた文献を証拠としてコピーし、「こう書いてあるからこうなのだ」と考えを深めることもなくまとめ(?)てしまう。
構成を考え(ただの並べ替えだけど)、結論を書いているのだから、「自分が考えた」みたいな気になっているけど、論の展開はコピーした文献がやってくれているわけで。そこに付けた「結論」なんて、所詮「ワシもそう思う」、でしかないんじゃないか。
それは「自分が考えを深め」てはいないのだから、野次馬・烏合の衆の一人、ということでしかない。
つまり当事者ではない、ということなのだが、意外にそのことに本人は気づいていない。というよりそれをさほど重要なことではないと思っている。「考えなど深める必要がどこにあるのだ?」、と。
結論のつもりで感想だけ書いて、ただの感想を「立派な自身の結論だ」と思っている。
これに比べれば、コピーではなくとにかく「一応は画面を見て、ノートに筆写した。その上で結論(?)を書いた」方が、結論っぽい締め方にはなる可能性は出て来る。
一度読んで概要を掴んだ上で、一字一句間違いのないように筆写する際に、「概要把握」の再確認をしているわけだから、論理展開(或いは文章の展開)の形をなぞっていることには、なる。すると、自然、「収束のために」という意識が、締めの文章作りに働きかけることになる。
勝海舟は、借りた本をただ読むのではなく、返す際に二部筆写して置いて一冊は売って本購入の資金にするといったことをしていたと言われるが、それは小知恵が利いたというところではなく上記のことを繰り返して考えを深めた、という部分を注視すべきだろう。
「資料を筆写し、論理展開を自身が複数回なぞることによって考えを深める」。
でも、これはコピペよりはるかにまし、というだけのことであって、最善、ということではない。「筆写した部分の展開は本人の展開ではない」からだ。
だから結局は「自分で考えなきゃならない」。そうしなければ応用は利かないわけで、全く物の役には立たないということになる。
それで自省のために、自戒の意を込めて「自分で考えなきゃならない」と書いてきた。
それが先日散歩をしている途中、ふと思った。
「自分で考えなきゃならない、と書いてきたけど、『考える』というのはどういうことなのか、分かっていたのだろうか」。
並べ替えて置いて「結論だ」と強弁する感想をつけることではない、とは分かってるんだけど。
(続く)
「資料を筆写し、論理展開を自身が複数回なぞることによって考えを深める」。
でも、これはコピペよりはるかにまし、というだけのことであって、最善、ということではない。「筆写した部分の展開は本人の展開ではない」からだ。
だから結局は「自分で考えなきゃならない」。そうしなければ応用は利かないわけで、全く物の役には立たないということになる。
それで自省のために、自戒の意を込めて「自分で考えなきゃならない」と書いてきた。
それが先日散歩をしている途中、ふと思った。
「自分で考えなきゃならない、と書いてきたけど、『考える』というのはどういうことなのか、分かっていたのだろうか」。
並べ替えて置いて「結論だ」と強弁する感想をつけることではない、とは分かってるんだけど。
(続く)