2012.01/24 (Tue)
平安末期、源平の争いが繰り返されていた頃、武者は戦の前に兜に香を焚きこめて合戦に臨んだと言います。こうすれば、敗れ、或いは組討となって首を取られた時、敵に汗臭さを感じさせない。
平安末期、源平の争いが繰り返されていた頃、武者は戦の前に兜に香を焚きこめて合戦に臨んだと言います。こうすれば、敗れ、或いは組討となって首を取られた時、敵に汗臭さを感じさせない。
「天晴れ!見事な心がけ」と賞されたいがため・・・・ではない。「むさ苦しい奴」「卑しい武者」と嘲笑されぬため、のようです。「首を取られた時に笑われないように。」
どこまで見栄っ張りなんでしょうかね。
どこまで見栄っ張りなんでしょうかね。
いやいや、見栄っ張りなんかじゃない。やはりこれは「恥を知る」武士。「もののふ」。それに自らの身嗜みのいい加減なことを笑われるだけではない。妻子供をはじめとして一族郎党、果ては先祖代々までが、後世の物笑いの種にされては心外だ、と。
身綺麗にして置くというのは、己の評価にとどまらないのだと、身にしみて知っていた、或いは教えられていたのでしょう。勿論、そんな武者ばかりではなく、いつの世にもそういうことを全く考えない、いい加減な者もあったでしょう。いい加減というより、底抜けに楽天的な武者。ただ、そんな大拍子な生き方をする武者は、長くは生きられなかったでしょうけど。そんな武者には、当然、武術の稽古を地道にやる、合戦について知恵を絞ってみる、等の深謀遠慮はないでしょうから。
いきなり大脱線をしましたが、この武者気質、後の世にもちゃんと形を変えて受け継がれているのではないか、と思っての、今日の日記です。
「伊達者」という言葉があります。
伊達政宗は相当な「カブキ(傾き)者」だったそうで、自身は言うまでもなく、家来にも、「当時でも」特に派手な目立つ格好をさせて、京の街を連れ歩いたのだとか。
それが、派手で目立つだけでなく、ファッションリーダー、なんてものじゃない、桁違いにカッコいい。
ご存知、戦国末期から秀吉の頃までは、伊達政宗のみならず、「お洒落」なんてのは何でもあり、の華やかさ。変わり兜の派手派手しさはいうまでもなく、陣羽織なんかは秋葉山の大天狗かと思うような羽根のついたものや、ラッコ(?)の毛皮の陣羽織を真夏に汗だくになりながら着て歩いていたり、歌舞伎の「暫く」に見られるような大袈裟な髷や、とんでもなく長い刀を反りを打たせて腰に差し、或いは地面に引きずっても良いように鐺(こじり。鞘の先)に車をつけたりする。
武張っているんだか、お洒落なんだか、ただの目立ちたがりなんだか、もう何が何だかわけが分からない状態。混沌としている。
意識はあるんだけど、何でもあり、何が何だか分からないもやもやとした形。
物事のはじまり、というのはいつもそうなんでしょう。未分化の状態です。
身綺麗にして置くというのは、己の評価にとどまらないのだと、身にしみて知っていた、或いは教えられていたのでしょう。勿論、そんな武者ばかりではなく、いつの世にもそういうことを全く考えない、いい加減な者もあったでしょう。いい加減というより、底抜けに楽天的な武者。ただ、そんな大拍子な生き方をする武者は、長くは生きられなかったでしょうけど。そんな武者には、当然、武術の稽古を地道にやる、合戦について知恵を絞ってみる、等の深謀遠慮はないでしょうから。
いきなり大脱線をしましたが、この武者気質、後の世にもちゃんと形を変えて受け継がれているのではないか、と思っての、今日の日記です。
「伊達者」という言葉があります。
伊達政宗は相当な「カブキ(傾き)者」だったそうで、自身は言うまでもなく、家来にも、「当時でも」特に派手な目立つ格好をさせて、京の街を連れ歩いたのだとか。
それが、派手で目立つだけでなく、ファッションリーダー、なんてものじゃない、桁違いにカッコいい。
ご存知、戦国末期から秀吉の頃までは、伊達政宗のみならず、「お洒落」なんてのは何でもあり、の華やかさ。変わり兜の派手派手しさはいうまでもなく、陣羽織なんかは秋葉山の大天狗かと思うような羽根のついたものや、ラッコ(?)の毛皮の陣羽織を真夏に汗だくになりながら着て歩いていたり、歌舞伎の「暫く」に見られるような大袈裟な髷や、とんでもなく長い刀を反りを打たせて腰に差し、或いは地面に引きずっても良いように鐺(こじり。鞘の先)に車をつけたりする。
武張っているんだか、お洒落なんだか、ただの目立ちたがりなんだか、もう何が何だかわけが分からない状態。混沌としている。
意識はあるんだけど、何でもあり、何が何だか分からないもやもやとした形。
物事のはじまり、というのはいつもそうなんでしょう。未分化の状態です。
後世の人がこれを分類することは、それだけではあまり意味がない。けれど、はっきりと分化したものと、この未文化の状態をつないでみると、そこに意志、方向性が見えて来る。「人間の解剖は猿の解剖の鍵である」と言うそうですが、全く全く、です。
「伊達者」という言葉には、「傾(かぶ)いている」、普通から外れているけれど、その凛とした「潔さ」故に、奇を衒った嫌味な部分があっても気にならない「カッコいい奴」といった雰囲気があります。だから、「伊達者」は男に決まっている。
ところが後になると「伊達男」という言い方が流行って来る。だからと言って「伊達女」という言い方は聞かないでしょう?わざわざ「男」、とつけた辺りで、「伊達者」に流れていた武張った雰囲気が薄れ、「カッコばかり気にする」といった用い方になっていく。
そして、「伊達の薄着」、です(やっと来た)。
「カッコばかり気にする伊達男」が、でも、カッコつけるためにやせ我慢をする。
「やせ我慢するだけえらいじゃないか」
半分からかいながら、笑いながら、でも、伊達男の薄着、やせ我慢を、温かい目で、好意を持って見ている。その(伊達男の)「稚気」を周囲は愛している。
それが後に「伊達の薄着」に付け句ができた。「風邪を引く」の一言。
続けると「伊達の薄着で風邪を引く」。
こうなると「やせ我慢を半分からかいながら、でも温かい目で~」とは言い切れなくなる。「それ見たことか」という意味合いが付いて、全体に批判的になり、「伊達の薄着に良いことなんかひとつもない。やせ我慢なんて愚の骨頂だ」、と断ずることになる。
「ヘーゲルの弁証法を批判的に取り入れ~」なんて言い回しはこれと同じ考え方から、と思われます。「弁証法というのは社会主義思想と同じ」なんて思っている人がいるようですが、とんでもない早合点。「批判的に」の一言を見落とすと、何とも頓珍漢なことになる。「ヘーゲル=社会主義の元祖。マルクスの恩師」などと。全くもう、とんでもないことを・・・・。あれ?何書いてたのかな?
「伊達者」は認められていた。「伊達の薄着」は、困った奴だと思われながらも、周囲から愛されている。けれど、「伊達の薄着で風邪を引く」となって、伊達を気取ること自体、否定されてしまった。
物の見方が定まってきて、更に詳細が分かるようになる(重箱の隅までが能く見えるようになる)と、確かに、結果出された答えは正しいかもしれない。(薄着をしてたら、風邪を引いてしまう)
けれど、「伊達者」の「潔さ」「カッコ良さ」も、十把ひとからげにしてしまって、否定的に見てしまう。
何でそうなるのか、と見てみると、否定する側(評価する側)に「現時点」という基準があるだけで、歴史も、そこにある人の意志(目立ちたがり、名誉欲、向上心等)も、重要視されない、取るに足りないこと、と思われるから、のようです。評価する者の能力の低さと、「現時点」という基準の頼りなさ故に、評価が矮小化されてしまう。
もうひとつ、実例。「伊達の素足」。
石田純一の、「素足にローファー」、ですかね。好みもありますが、それも潔さ。お洒落の一つの形、でしょう。それがこうなる。
↓
「伊達の素足もないから起こる」
(持ってないんだろ?靴下。という発想。からかいが半分入って来ましたね。)
↓
「伊達の素足もないから起こる あれば天鵞絨(ビロード)の足袋を履く」
これ、完全に伊達(お洒落)を嘲笑してます。
物事は、まずは思いつき。けれど、それを見詰める時、見詰め方次第で宝物にもゴミにもなる。さほどの努力もせず落ち込んでいる者に対して「オンリーワンじゃないか。あなたはあなたのままでいい」などと言う。そうやって気づかず、努力も、その結果高まる能力も否定してしまう。
逆に「初めてなんだから、そうそう上手くいく訳はないよ。もう少し辛抱して見てやろう」などと上手くいかないことを受け入れて、結局みんな駄目にしてしまう。
そんなことを言ってる人々は決まって、現時点を基準にして、努力していない自分をも肯定し、「これまでのことは過ぎたこと。今が大事なんだ」と歴史を軽んじ、「みんな、オンリーワンなんだよ」と言いながら、舌の根も乾かないうちに、「(やっぱり)才能がないから云々」。
ちっとも首尾一貫してません。
ということで、「恥を知る」日本人。今は「やせ我慢」を貫き通すしかないか、と。
もう、「民主党が悪い。」「いや、自民党も悪かった」などと言っていてもはじまりません。「新しい政党を!」、「地方主権だ」「大阪都構想だ」などと言っても同じこと。所詮あなた任せ。
我々日本人が日本の評者たる自身の能力を高める努力をしていかねば。
「伊達者」という言葉には、「傾(かぶ)いている」、普通から外れているけれど、その凛とした「潔さ」故に、奇を衒った嫌味な部分があっても気にならない「カッコいい奴」といった雰囲気があります。だから、「伊達者」は男に決まっている。
ところが後になると「伊達男」という言い方が流行って来る。だからと言って「伊達女」という言い方は聞かないでしょう?わざわざ「男」、とつけた辺りで、「伊達者」に流れていた武張った雰囲気が薄れ、「カッコばかり気にする」といった用い方になっていく。
そして、「伊達の薄着」、です(やっと来た)。
「カッコばかり気にする伊達男」が、でも、カッコつけるためにやせ我慢をする。
「やせ我慢するだけえらいじゃないか」
半分からかいながら、笑いながら、でも、伊達男の薄着、やせ我慢を、温かい目で、好意を持って見ている。その(伊達男の)「稚気」を周囲は愛している。
それが後に「伊達の薄着」に付け句ができた。「風邪を引く」の一言。
続けると「伊達の薄着で風邪を引く」。
こうなると「やせ我慢を半分からかいながら、でも温かい目で~」とは言い切れなくなる。「それ見たことか」という意味合いが付いて、全体に批判的になり、「伊達の薄着に良いことなんかひとつもない。やせ我慢なんて愚の骨頂だ」、と断ずることになる。
「ヘーゲルの弁証法を批判的に取り入れ~」なんて言い回しはこれと同じ考え方から、と思われます。「弁証法というのは社会主義思想と同じ」なんて思っている人がいるようですが、とんでもない早合点。「批判的に」の一言を見落とすと、何とも頓珍漢なことになる。「ヘーゲル=社会主義の元祖。マルクスの恩師」などと。全くもう、とんでもないことを・・・・。あれ?何書いてたのかな?
「伊達者」は認められていた。「伊達の薄着」は、困った奴だと思われながらも、周囲から愛されている。けれど、「伊達の薄着で風邪を引く」となって、伊達を気取ること自体、否定されてしまった。
物の見方が定まってきて、更に詳細が分かるようになる(重箱の隅までが能く見えるようになる)と、確かに、結果出された答えは正しいかもしれない。(薄着をしてたら、風邪を引いてしまう)
けれど、「伊達者」の「潔さ」「カッコ良さ」も、十把ひとからげにしてしまって、否定的に見てしまう。
何でそうなるのか、と見てみると、否定する側(評価する側)に「現時点」という基準があるだけで、歴史も、そこにある人の意志(目立ちたがり、名誉欲、向上心等)も、重要視されない、取るに足りないこと、と思われるから、のようです。評価する者の能力の低さと、「現時点」という基準の頼りなさ故に、評価が矮小化されてしまう。
もうひとつ、実例。「伊達の素足」。
石田純一の、「素足にローファー」、ですかね。好みもありますが、それも潔さ。お洒落の一つの形、でしょう。それがこうなる。
↓
「伊達の素足もないから起こる」
(持ってないんだろ?靴下。という発想。からかいが半分入って来ましたね。)
↓
「伊達の素足もないから起こる あれば天鵞絨(ビロード)の足袋を履く」
これ、完全に伊達(お洒落)を嘲笑してます。
物事は、まずは思いつき。けれど、それを見詰める時、見詰め方次第で宝物にもゴミにもなる。さほどの努力もせず落ち込んでいる者に対して「オンリーワンじゃないか。あなたはあなたのままでいい」などと言う。そうやって気づかず、努力も、その結果高まる能力も否定してしまう。
逆に「初めてなんだから、そうそう上手くいく訳はないよ。もう少し辛抱して見てやろう」などと上手くいかないことを受け入れて、結局みんな駄目にしてしまう。
そんなことを言ってる人々は決まって、現時点を基準にして、努力していない自分をも肯定し、「これまでのことは過ぎたこと。今が大事なんだ」と歴史を軽んじ、「みんな、オンリーワンなんだよ」と言いながら、舌の根も乾かないうちに、「(やっぱり)才能がないから云々」。
ちっとも首尾一貫してません。
ということで、「恥を知る」日本人。今は「やせ我慢」を貫き通すしかないか、と。
もう、「民主党が悪い。」「いや、自民党も悪かった」などと言っていてもはじまりません。「新しい政党を!」、「地方主権だ」「大阪都構想だ」などと言っても同じこと。所詮あなた任せ。
我々日本人が日本の評者たる自身の能力を高める努力をしていかねば。
・・・・自分に言ってるんですからね~~。