CubとSRと

ただの日記

「日の丸は似合わない」

2020年03月03日 | 日々の暮らし
2014.02/24 (Mon)

 今年初めて、寒いながらも上天気だった一昨日。どうにも辛抱が出来ず、何か理由をつけて外に出ようと思った。
 で、「朝食用のパンと、トンカツを買いに行こう」、と大決心(!)
 昼過ぎにSRで出発した。

 今年の初乗りだ、二ヶ月振りだ。空気が痛い、とまでは言わないけれど、そこは二月のこと、やっぱり走り始めると快適というにはちょっとばかし無理がある。けれども車で出ることを考えると、不思議なくらい我儘な気持ちは起こらない。何より気持ちが良い。

 さすがに田舎の平日だ、バイクには全く出遭わない。
 首にはフリースの三角巾型ネックウォーマー、ジーンズの下には中綿のウィンドブレーカー、足元は電気工事技士もびっくりの防水帆布スパッツの完全装備。ジェットヘルだから、顔だけ寒さでちょっと痛いけど。

 というわけで、一言で言えば「あ~、出て来て良かったぁ~!」、だ。
 首尾よく、トンカツとパンを買い込んでサイドバッグに詰め込み、帰途に着く。
 海沿いの国道だが、今日は波飛沫も少ないようで、普段なら白っぽく見える景色が穏やかに遠くまで見える。

 前方の短いトンネルの中に、妙な車のシルエットが浮かんだ。ワゴン車みたいだが何となし、雰囲気が異常だ。「ん?」と思っているうちに車が近づき、全容が明らかになった。
 車は紺に塗られていた。何だか知らん、音楽をちゃんかちゃんか鳴らしながら近づいてくる。
 擦れ違う時にそれが軍歌だと分かる。車腹には団体名らしいものと、三十二弁の菊の紋らしいものが見え、日の丸も見えた。街宣車だった。こんな田舎に、ワゴン車とは言え、全く似つかわしくない紺の街宣車が何故に東進するのか。

 「街宣車でドライブゥ~!」、か???まさか!!!
 「それにしても似合わないなぁ~、何でだろうなぁ~」、と思った。
 日の丸が全く似合わないのだ。何でだろう。
 オリンピックの時に、日の丸をマントかストールのように両肩に掛けているのと同じくらい、似合わない。子供ならそれなりに可愛いけれど、大の大人が両頬に日の丸描いているのと同じくらい、似合わない。
 布地の割りに異常にデカい、旗全体を占拠しそうな日の丸は、カブいててカッコいいかも、と思うけれど、正しい比率の日の丸に、何だか一杯書き込んだのや、雨風に晒されて端がボロボロになったのと同じくらいに似合わない。
 日の丸の鉢巻きは何とも思わないんだけれど。

 バイクに日の丸のステッカー、貼ろうかと思ったことがある。
 でも、「どこに貼るかな?」「どんな大きさがいいかな?」と考えてみると、頭の中のSRはちっともカッコよくならない。で、貼るのをやめた。
 車に乗り始めてから三年が過ぎたけど、やっぱり、日の丸のステッカー、貼りたいなと思った。今度はクルマだ、面積は広い。
 で、頭の中で貼ってみるんだけれど、やっぱりちっともカッコよくならない。
 何でだろう。

 ・・・・ということで、帰って来てから気が付いた。
 他国はいざ知らず、日の丸は「理想」ではない。他国は「かくありたい」との思いで国旗をつくる。つまり、「象徴」、「胸の中の燃ゆる思い」だから、胸より高い場所にあればいいのだ。
 日の丸は違う。
 「かくありたい」、ではない。「日の丸」だもの、胸じゃいけないんだ、低くても「頭」だ。本当は「人間の思い」ではない、完成された旗だから、目の高さで翻っているものではない。「見上げる」もの、なんだ。胸の高さどころか、下手すると腰の高さに日の丸を、なんてただただカッコ悪い。

 車に日の丸は似合わない(バスなんかのフロントグリルに本物の国旗、は別)。街宣車には、特に似合わない。
 何故なら、日の丸は「個の主張」をせず、国の象徴として高く掲げるものだけれど、街宣車は己が団体(個)の主張をするための車であるからだ。
 日の丸は我が国の象徴。だから黙って高く掲げるもの。
 我が国は「言挙げせぬ国」なのだから。


 補)
 夕方、ニュースでやっと気が付きました。翌二月二十二日は「竹島の日」。
 だから、山口、北九州から、松江目指して街宣車は東進していたのでした。
 紺の戦闘服の背中には「天皇陛下万歳」だとか「大日本帝国万歳」とか書かれていて、マスクをして顔を見せない隊員(?)が、静かな松江の街に大音響で軍歌を流すのが、テレビの画面に流れていた。
 そんな街宣車が集結すれば、島根県民は勇気を鼓舞されるでしょうか。


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「引き受ける」ことと「攻め立てる」こと

2020年03月03日 | 重箱の隅
「引き受ける」ことと「攻め立てる」こと
2014.03/05 (Wed)

 以前の日記「大手新聞を読まれている方へ」のコメントに対して、こんなのを書きました。
  ↓
《シナでは「嘘」、という概念がないのだそうです。
以下の通り。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この嘘をつくという中国人の伝統的DNAは、かれらが生き残るためのものでもあり、朝起きてから寝るまで、生まれてから死ぬまで嘘をつくのです。生き残る智恵です。だから「嘘は美徳」、妥協は悪徳。
そもそも漢字の「嘘」には「しーっ」「お黙り」という意味しかありません。皆が嘘つきですから、嘘を意味する語彙は不要というわけです。拙著『オレ様国家、中国の常識』(新潮社)でも繰り返し指摘しております。(読者の声に対する宮崎氏のコメント)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 生き残るためにできることなら何でもする。ウソを吐くなんて容易いことだ。
それがシナのつくってきた特性。(日本人の謙虚と思い遣りの、正反対です)
 何しろ朝鮮は大中華の属国でありながら、小中華と自認しているのですから、基本同じことを、徹底してやること自体が目的化されているんでしょう。
 だから、「併合時、日本人と同じ教育を受」けようと何をしようと、「息を吐くようにウソをつく」、小中華の国ですから、どうにもならない、道徳なんてとんでもない、という事になりましょうか。》
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以上のようなことです。

 それが、読者子と宮崎氏のやり取りの続きがまた載っていて、それを読んではっとさせられました。
 という事で、まずは続けて部分転載です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成26(2014)年3月1日(土曜日)貳
                   通巻第4166号
    ~読者の声より~

 (読者の声4)
 中韓の反日活動に対処するには我々がまず『避諱』(ひき)を知らずしてはならない)
 「日中戦争」(北村稔・林思雲?、PHP研究所)を要約すれば以下の説明になります。
 「儒教の中で『避諱』(ひき)という重要な徳目がある。・・・彼らの伝統的な儒教に裏付けられた道徳観では、他人のために嘘をつくことに反対せず、むしろ他人のために嘘をつくのを励まし誉め讃える。
 中国人は子供の頃から、偉人と国家の為には避諱し虚言を弄せ、と教育されて育つため、虚言を弄する事が不道徳だと感じなくなり、虚言を弄する習慣が身に着いてしまう。
 人々は偉大な人物の醜い出来事をできる限り隠さなければならず、高尚な人物の過ちもできる限り覆い隠さなければならない。
 こうしてこそ、道徳的なやり方なのである。逆にもしも偉大な人物の醜い出来事を暴き出したりすれば、非常に不道徳とされる。
 ・・・中国人は現在では、国家を偉大な人物と同様に見なしており、国家の醜い出来事を隠し、国家の過ちを覆い隠すことが、中国人の“義務”のようなものとなった。国家のために虚言を弄し、国家の威信を守るために嘘をつくのは、称賛に値する。
 真実を話すと国家の体面を損ないかねないと判断すれば、多くの場合中国人は真実を隠そうとするであろう。
 このような避諱文化を背景にしているので、中国では多くの場合事件の真相・u梛・セは困難であり、中国政府が組織的に事実を隠蔽するからだけではなく、民衆が自発的に避諱し、事件の真相を失わせる」
 (引用止め)

 以上からすれば、ベースとなる倫理観・価値観が日本や欧米諸国のそれとはあまりにもかけ離れている事が解るとおもいます。
 この「避諱」の概念を知った上でどう中韓に対応するかが必要なのです。
 不思議な事に、日本のみならず諸外国でもこのような肝心要の避諱文化について言及した形跡はないのではないでしょうか。
 儒教文化が色濃く残っている中韓は上記のように「ウソをつくことが美徳であるという世界がびっくりするような事」をまず諸外国に紹介することからはじまりましょう。
 (足立)

 (宮崎正弘のコメント)
 この嘘をつくという中国人の伝統的DNAは、かれらが生き残るためのものでもあり、朝起きたから寝るまで、生まれてから死ぬまで嘘をつくのです。生き残る智恵です。
 だから「嘘は美徳」、妥協は悪徳。
 そもそも漢字の「嘘」には「しーっ」「お黙り」という意味しかありません。
 皆が嘘つきですから、嘘を意味する語彙は不要というわけです。
 拙著『オレ様国家、中国の常識』(新潮社)でも繰り返し指摘しております。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
  成26(2014)年3月4日(火曜日)
              通巻第4170号

      ~読者の声より~

 (読者の声2)
 「間違っていないか反日への対応策―効果的な価値観外交を」
 止まらない中韓の反日運動にたいして、多くの反発が国内でも見られますが、慰安婦・尖閣・竹島・南京虐殺等々の諸問題に対する日本側の反論は、まじめな人ほど個別の史実を事細かに検証して彼らの主張を正そうとするものであり、どう見ても“毎日忙しく暮らしている”世界中の人達に訴えるには効果的ではありません。
 
 世界中の人達は細かい事など耳に入りません。特に“誤解を解く”という日本人の姿勢はナンセンスです。
 なぜなら3月1日の当欄でも申しましたが、社会を構成している基本的倫理観が日本では「ウソをつくのは悪」ですが中韓では儒教の避諱(ヒキ)の教えから、国民のほとんどが共有する文化として国のためには「ウソをつくのは善行」なのです。
 それにもかわらず日本人が「ウソをつくな!」と彼らに言っても、彼らからすれば「ウソをつくことこそ自分は自国に貢献しているんだ」と確信しているのですから、議論の隔たりどころではないのです。
 彼らの主張は本当は日本へと言うより、自国民と日本以外の国に向けられています。
 そこで日本も自国の主著は無駄な中韓への反証などはほどほどにして、中韓以外の世界への訴えに注力すべきです。
 曲がりなりにも欧米は、ワシントンの桜の木ではありませんが、ウソは悪という社会倫理が一応は確立しています。
 他アジア諸国も同じ筈です。
 中韓は儒教の避諱の教えから“国のためにはウソをつくのが善である”と言うびっくりするような文化を政権の一部だけではなく、国民が共有している事実を諸外国は知らないのです。
 自由・民主・平等以前のこの驚くべき価値観の相違を諸外国に知らしめる努力を外務省などはまず先行させねばなりません。
  (足立)

 
(宮崎正弘のコメント)
 ですから反論でも「嘘と真実」とか「虚像と実像」とかは、日本でしか通用しない比較法。
 「嘘の塊」である人々を相手にするには、もっと大きな嘘をつくというのも一つの方法かも。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《シナでは「嘘」、という概念がないのだそうです。》
 最初にこう書きましたが、どうも私はまともに理解が出来ていなかったようです。
 「シナには『嘘』という概念がない」のではなく、「『嘘』は必要不可欠な国民性」だったんです。
 というより、『嘘』は、「避諱」という徳行の実践のために身に着けていなければならない「能力」だという事です。
 日本は島国であるが故に日本人は、外からの物を謙虚に学び、我が物にしていきます。その謙虚さから、思い遣りの心をも発現させ、身に着けていく。
 日本人の特性である「謙虚さ」「思い遣り」は、こうして作られました(能力、です)。

 「避諱」の「諱」、という字は「隠す」という」意味なんだそうです。
 「避」は文字通り、「避ける」。延長線上に「大事なものを守る」という意味があります(回避、避難の意味)。
 ということで、「避諱」は「国、貴人、賢人、長、親を守る、庇う」という意味になる。そのために「嘘を吐く」。

 あの「論語」に出てくる正直者の話です。
 「親が盗みをしたのを子が正直に届け出た。それを聞いた孔子が、『正直とは父が子を庇い、子が父を庇う事を言う』と言った」
 一度は聞かれた話ではありませんか?
 これが元になった徳目が、「避諱」なんだそうです。
 そうやって「(事実を)隠す」ことで守るのだから、「嘘」は「悪行」どころか「善行」ということになる。何だかとんでもない話ですね。

 でも、ここで気が付いたんですが、この、「避諱」という考え方、自身のためには使わないんですね。飽く迄も、他のために、それも、敬する者のためにウソを吐く。結果、自身がどうなるか、なんて考えない。
 「国のため(国益のため)にウソを吐く。会社のために、上司のために嘘をつく。その際、自らのことは省みない」。
 大中華がこれだったら、小中華は形式だけは徹底させるから、例えば「嘘のために命を捨てる」こともする。
 大中華としては「お前、それはやり過ぎだよ」という事になるんだけれど、小中華には、それが苦言ではなく褒め言葉にしか聞こえない。
 ・・・・・と、ここまで書いたら、「やっぱり、オレ様国と火病国じゃないか」と思われるかもしれませんね。

 で、この言葉なんですが。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
 御存知、西郷南洲の言葉です。
 「何も要らない人でなければ公のことはできない。」
 命を惜しみ、名を惜しみ、金を惜しむのが通常の人です。それを全て要らぬという人は、どんな悪いことでもできるし、どんな汚名でも着る、どんな恥だってかける、餓死したって構わない、という人です。
 公のために命を捨てる。ゴミのように扱われても、八つ裂きにされようとも、未来永劫極悪人と言われ続けようとも構わない。
 つまり、嘘だって、「公、国のためなら」平然としてつける、ということですよね?
 じゃ、「避諱」とどこが違うんでしょう?

 なのに、彼らの国の「避諱」や「ファンタジー」を我々は受け入れることができない。
 同じ仕組み(自分の為じゃなく、みんなのため)なのに、何だか根本的に違うんじゃないか、と直感的に思ってしまう。それが故の標題になりました。

 我々日本人は、時に大義のためにウソを吐き、その責を負って、一命を投げ出す。
 彼の大小中華の国は常に大義のためにウソを吐き、相手が黙るまでやめない。
 そうなると、投稿者氏の言通り、「“誤解を解く”という日本人の姿勢はナンセンス」
 です。誤解も何も、初めっから知っててやってるのですから。
 
 ならば、採るべき方法はただ一つ。事実を明らかにし、淡々と提示するだけです。そして「だから~」という論証はするだけ野暮。
 「事実を明らかにする」のは、彼らに対してではなく、世界に対してという事です。彼らは事実なんて端からどうでも好いことと思っているんですから。
 論証も彼らに新しい嘘を吐くネタを与えるだけで、骨折り損です。けれど、世界は事実をのみ、認めます。
 世界のほとんどは「避諱」という徳目を永久に理解しないでしょう。そこから生まれた日常「ウソを吐く」という攻撃法を受け入れようともしないでしょう。
 反対に緊急の際にウソを吐いてでも公を守ろうとし、責を負って命を捨てる、という在り方は、続けることで信頼されるようになる。

 ここで曲者、海舟の言を。
 「外交の極意は、「正心誠意」にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
 ~~、ただ知ったことを知ったとして、知らぬことを知らぬとし、~~たものだから、~つまり、その誠意に感じて、のちには向こうから気の毒になり、相欺くに忍びないようになったのさ。」
 「正心誠意は全世界に向けて」、ですよ、勿論。
  (近隣三ヶ国は除く)
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