2015.03/19 (Thu)
温泉津温泉に向かう途中、龍御前神社という神社があります。名前で想像できる通り、海神である龍を祀る神社ですから、海上交通や、漁の豊かであることを祈るための神社でしょう。(今調べてみたら、大己貴命、少彦名命~とあって、阿蘇津彦命、阿蘇津姫命の名前も。八柱の神々です)
小山の中腹がえぐったような崖になっていて、そこに神社の本殿があり、拝殿裏手から階段で登っていけるようになっています。ちょうど鳥取の三徳山の投げ入れ堂のようになっていると言えば良いでしょうか。
ちょっとした奇観で、なかなか風情のある神社なんですが、実は、ここは元々足利高氏の弟である足利直義が全国に八幡宮の分祠を思い立ち、祀ることとした八幡神社の一つがあったのだそうです。それが八幡宮が移され、長い間空き家状態になっていた。海上交通が段々に盛んになってきた戦国期になって、そこに龍御前神社が鎮座します。
八幡宮が移された理由は何か。また、八幡宮はどこに移されたのか。
そう考えると、答えはきっとこれでしょう。
「ここでは領地の支配が十分にできない。領地の中心として湯里に移り、八幡宮もそちらに来ていただこう」
湯信濃守惟宗が温泉城(ゆのじょう)を湯里に築き、治めたという記述もあるそうですから、時系列が曖昧なのですが、少なくとも室町初期には、温泉津は室町幕府からも認められた土地ということでしょう。だから、それなりに有力な国人が支配し、湯里に本拠地を置いた、と思われます。
そう考えたら湯も湧かないのに「湯湊」、温泉もないのに「温泉郷」、そして「温泉城」と名付けられる理由も分かります。
それにしても、神社が空き家になって、後から別の神様が鎮座される、ってのはあまり聞きません。
神社というのは、祭神が一柱だけということは、あまりない。普通は元々鎮座されている神様のところに、更に有力な神様がやってくる。
元から鎮座されていた神様より更に強力な神威を発動する神様だから、当然主祭神となる。
そうすると元から鎮座されていた神様は、席順が一つ後退する。それが次々と繰り返されるから、祭神は何柱にもなる。
だからと言って、弾き出される神様なんていません。仲良く鎮座しておられる。
全ての神達を拝するというのは段々に大変なことになってくる。それで、まとめて、その神社の名前で「~の大神」とやっても別にかまわない。「~をはじめ、その他多くの神々」、なんていうよりよっぽどいいでしょう。
まあ、神社が空き家に、なんて書きましたが、神様は一か所に長くとどまらずに宮を移されるというのも一方の在り方です。穢れを嫌うからです。
定住すると、気が滞る。つまり気が澱む。清明正直を旨とする神道では、だから遷宮をする。その際はその神を奉ずる部族が、神を先頭にということで神の印を掲げて進む。
明治初年、官軍となった薩長軍は錦旗を押し立てて、東進しました。その形は鏡を先頭に進められた伊勢神宮の遷御と重なります。
足利直義が全国各地に八幡神社を祀ったのは、その地の御家人が八幡神を氏神としてその地を治めるように、という目的からであったと思われます。
だから「温泉」と名乗った温泉津の支配者は、自らの領地の中心を「湯里」と称して住むことに決めた時、八幡神社を先頭に立てて住まわねばならない。
初め、温泉津に八幡神社が置かれた時は室町期の初めですが、次に龍御前神社となったのは随分後のことで、その間、そこに神社はなかった。これはやはり、八幡神社の祭主の都合で移ったのであるから、空いた場所に勝手に新しい神社を、ということは誰も考えなかったということではないでしょうか。
逆に言えば、龍御前神社が鎮座したのは、元の支配者が居なくなったから、ということではないか。
湯里に温泉城があって、湯信濃守がいる。山一つ隔てた温泉津、串山城には温泉氏が居て~、となると、「山一つ隔てて、湯氏と温泉氏が??」となります。
ということは、やっぱり、湯氏と温泉氏は同じなのではないかと思われます。
ついでながら。
湯氏は後、尼子について尼子の家臣、亀井の後を継ぎ、亀井と名乗ります。更に津和野の坂崎家の後に入って、津和野城主となるのだそうです。その亀井家の現在の当主が亀井久興氏で、その娘が亀井亜希子氏です。
温泉津温泉に向かう途中、龍御前神社という神社があります。名前で想像できる通り、海神である龍を祀る神社ですから、海上交通や、漁の豊かであることを祈るための神社でしょう。(今調べてみたら、大己貴命、少彦名命~とあって、阿蘇津彦命、阿蘇津姫命の名前も。八柱の神々です)
小山の中腹がえぐったような崖になっていて、そこに神社の本殿があり、拝殿裏手から階段で登っていけるようになっています。ちょうど鳥取の三徳山の投げ入れ堂のようになっていると言えば良いでしょうか。
ちょっとした奇観で、なかなか風情のある神社なんですが、実は、ここは元々足利高氏の弟である足利直義が全国に八幡宮の分祠を思い立ち、祀ることとした八幡神社の一つがあったのだそうです。それが八幡宮が移され、長い間空き家状態になっていた。海上交通が段々に盛んになってきた戦国期になって、そこに龍御前神社が鎮座します。
八幡宮が移された理由は何か。また、八幡宮はどこに移されたのか。
そう考えると、答えはきっとこれでしょう。
「ここでは領地の支配が十分にできない。領地の中心として湯里に移り、八幡宮もそちらに来ていただこう」
湯信濃守惟宗が温泉城(ゆのじょう)を湯里に築き、治めたという記述もあるそうですから、時系列が曖昧なのですが、少なくとも室町初期には、温泉津は室町幕府からも認められた土地ということでしょう。だから、それなりに有力な国人が支配し、湯里に本拠地を置いた、と思われます。
そう考えたら湯も湧かないのに「湯湊」、温泉もないのに「温泉郷」、そして「温泉城」と名付けられる理由も分かります。
それにしても、神社が空き家になって、後から別の神様が鎮座される、ってのはあまり聞きません。
神社というのは、祭神が一柱だけということは、あまりない。普通は元々鎮座されている神様のところに、更に有力な神様がやってくる。
元から鎮座されていた神様より更に強力な神威を発動する神様だから、当然主祭神となる。
そうすると元から鎮座されていた神様は、席順が一つ後退する。それが次々と繰り返されるから、祭神は何柱にもなる。
だからと言って、弾き出される神様なんていません。仲良く鎮座しておられる。
全ての神達を拝するというのは段々に大変なことになってくる。それで、まとめて、その神社の名前で「~の大神」とやっても別にかまわない。「~をはじめ、その他多くの神々」、なんていうよりよっぽどいいでしょう。
まあ、神社が空き家に、なんて書きましたが、神様は一か所に長くとどまらずに宮を移されるというのも一方の在り方です。穢れを嫌うからです。
定住すると、気が滞る。つまり気が澱む。清明正直を旨とする神道では、だから遷宮をする。その際はその神を奉ずる部族が、神を先頭にということで神の印を掲げて進む。
明治初年、官軍となった薩長軍は錦旗を押し立てて、東進しました。その形は鏡を先頭に進められた伊勢神宮の遷御と重なります。
足利直義が全国各地に八幡神社を祀ったのは、その地の御家人が八幡神を氏神としてその地を治めるように、という目的からであったと思われます。
だから「温泉」と名乗った温泉津の支配者は、自らの領地の中心を「湯里」と称して住むことに決めた時、八幡神社を先頭に立てて住まわねばならない。
初め、温泉津に八幡神社が置かれた時は室町期の初めですが、次に龍御前神社となったのは随分後のことで、その間、そこに神社はなかった。これはやはり、八幡神社の祭主の都合で移ったのであるから、空いた場所に勝手に新しい神社を、ということは誰も考えなかったということではないでしょうか。
逆に言えば、龍御前神社が鎮座したのは、元の支配者が居なくなったから、ということではないか。
湯里に温泉城があって、湯信濃守がいる。山一つ隔てた温泉津、串山城には温泉氏が居て~、となると、「山一つ隔てて、湯氏と温泉氏が??」となります。
ということは、やっぱり、湯氏と温泉氏は同じなのではないかと思われます。
ついでながら。
湯氏は後、尼子について尼子の家臣、亀井の後を継ぎ、亀井と名乗ります。更に津和野の坂崎家の後に入って、津和野城主となるのだそうです。その亀井家の現在の当主が亀井久興氏で、その娘が亀井亜希子氏です。
(島根県選出の有力議員でした)