CubとSRと

ただの日記

温泉郷神社

2020年03月06日 | 重箱の隅
2015.03/19 (Thu)

 温泉津温泉に向かう途中、龍御前神社という神社があります。名前で想像できる通り、海神である龍を祀る神社ですから、海上交通や、漁の豊かであることを祈るための神社でしょう。(今調べてみたら、大己貴命、少彦名命~とあって、阿蘇津彦命、阿蘇津姫命の名前も。八柱の神々です)
 小山の中腹がえぐったような崖になっていて、そこに神社の本殿があり、拝殿裏手から階段で登っていけるようになっています。ちょうど鳥取の三徳山の投げ入れ堂のようになっていると言えば良いでしょうか。

 ちょっとした奇観で、なかなか風情のある神社なんですが、実は、ここは元々足利高氏の弟である足利直義が全国に八幡宮の分祠を思い立ち、祀ることとした八幡神社の一つがあったのだそうです。それが八幡宮が移され、長い間空き家状態になっていた。海上交通が段々に盛んになってきた戦国期になって、そこに龍御前神社が鎮座します。
 八幡宮が移された理由は何か。また、八幡宮はどこに移されたのか。
 そう考えると、答えはきっとこれでしょう。
 「ここでは領地の支配が十分にできない。領地の中心として湯里に移り、八幡宮もそちらに来ていただこう」

 湯信濃守惟宗が温泉城(ゆのじょう)を湯里に築き、治めたという記述もあるそうですから、時系列が曖昧なのですが、少なくとも室町初期には、温泉津は室町幕府からも認められた土地ということでしょう。だから、それなりに有力な国人が支配し、湯里に本拠地を置いた、と思われます。
 そう考えたら湯も湧かないのに「湯湊」、温泉もないのに「温泉郷」、そして「温泉城」と名付けられる理由も分かります。

 それにしても、神社が空き家になって、後から別の神様が鎮座される、ってのはあまり聞きません。
 神社というのは、祭神が一柱だけということは、あまりない。普通は元々鎮座されている神様のところに、更に有力な神様がやってくる。
 元から鎮座されていた神様より更に強力な神威を発動する神様だから、当然主祭神となる。
 そうすると元から鎮座されていた神様は、席順が一つ後退する。それが次々と繰り返されるから、祭神は何柱にもなる。
だからと言って、弾き出される神様なんていません。仲良く鎮座しておられる。
 全ての神達を拝するというのは段々に大変なことになってくる。それで、まとめて、その神社の名前で「~の大神」とやっても別にかまわない。「~をはじめ、その他多くの神々」、なんていうよりよっぽどいいでしょう。

 まあ、神社が空き家に、なんて書きましたが、神様は一か所に長くとどまらずに宮を移されるというのも一方の在り方です。穢れを嫌うからです。
 定住すると、気が滞る。つまり気が澱む。清明正直を旨とする神道では、だから遷宮をする。その際はその神を奉ずる部族が、神を先頭にということで神の印を掲げて進む。
 明治初年、官軍となった薩長軍は錦旗を押し立てて、東進しました。その形は鏡を先頭に進められた伊勢神宮の遷御と重なります。

 足利直義が全国各地に八幡神社を祀ったのは、その地の御家人が八幡神を氏神としてその地を治めるように、という目的からであったと思われます。
 だから「温泉」と名乗った温泉津の支配者は、自らの領地の中心を「湯里」と称して住むことに決めた時、八幡神社を先頭に立てて住まわねばならない。
 初め、温泉津に八幡神社が置かれた時は室町期の初めですが、次に龍御前神社となったのは随分後のことで、その間、そこに神社はなかった。これはやはり、八幡神社の祭主の都合で移ったのであるから、空いた場所に勝手に新しい神社を、ということは誰も考えなかったということではないでしょうか。
 逆に言えば、龍御前神社が鎮座したのは、元の支配者が居なくなったから、ということではないか。

 湯里に温泉城があって、湯信濃守がいる。山一つ隔てた温泉津、串山城には温泉氏が居て~、となると、「山一つ隔てて、湯氏と温泉氏が??」となります。
 ということは、やっぱり、湯氏と温泉氏は同じなのではないかと思われます。

 ついでながら。
 湯氏は後、尼子について尼子の家臣、亀井の後を継ぎ、亀井と名乗ります。更に津和野の坂崎家の後に入って、津和野城主となるのだそうです。その亀井家の現在の当主が亀井久興氏で、その娘が亀井亜希子氏です。
 (島根県選出の有力議員でした)


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温泉銀山(銀山温泉、ではありません)

2020年03月06日 | 重箱の隅
2015.03/20 (Fri)

 「温泉郷神社」を祀っていた温泉氏は、時の大勢力となっていた尼子氏の支配下にあって、銀山からの銀鉱石を輸出する温泉津港(沖泊)を治め、収入を得ていたのでしょう。銀山を所領とする山吹城城主本城(本庄)常光と組んで安全に輸出ができるように尽力したと思われます。
 今の感覚で見れば、貴金属の産出鉱山を持っているというのはオールマイティーみたいな感じですが、銀鉱石が出るからと言って、それを精錬するために必要なものは別途調達しなければならないわけですから、色々と準備が大変です。
 この時期には銀山でも精製まではしないでしょうし、港の方も銀鉱石を安全に積み出すまでが仕事の中心だったのではないでしょうか。今でいえば港の貸倉庫業みたいな。

 考えてみれば、「砂金」は出ても「砂銀」、なんて聞きませんよね。銀鉱石というのは別に銀色に輝いているわけではないのですから、見つけること自体大変だし、見つけても銀そのものを採り出すのには、相当の技術が必要です。そう簡単に収入にはならない。(勿論、一発当たれば大きいんですが。)
 銀鉱石や金は別格として、国人、地侍はみんなそれぞれ米以外の安定した大きな収入源を持っていなければ生き残れない。
 吉川(きっかわ)氏などは元々中国山地の山奥にいた国人ですが、分流が今の大田市の西の端、福光(ふくみつ)で石見吉川氏となります。収入源は江の川を利用しての木材の輸送、販売だったそうです。本流の吉川氏と連携していなければ成らぬ仕事だったと考えられます。

 さて、銀山の争奪戦が派手に行われていたことは聞いていましたが、何度聞いてもごちゃごちゃしていてなかなか覚えられません。ちょっと端折っていますが、大体はこんな感じ。
 ↓
 大内氏が支配→小笠原氏が奪取→大内氏が奪回→尼子氏が奪取→大内氏が奪回→小笠原氏、奪取に失敗→尼子氏が奪取(小笠原氏と組んで、小笠原氏の四男刺鹿長信が入城、支配)→刺鹿(さつか)氏、吉川元春に敗れ支配下に。→尼子氏に敗れ、尼子方の本城(本庄)常光が支配→毛利の謀略で本城氏から毛利氏の支配へ。
 これ、三十五年足らずの間に起こったことです。ややこしいでしょう?
 私の頭ではとても覚えきれない。
 取り敢えずは、これまでに書いてきた温泉英永は上に書いた一番最後の辺りになって突然出てくる、ということになります。

 ・尼子方が石見に勢力を伸ばしていたところに毛利が入って来る。
 ・戦いの末、尼子が破れ退却。温泉英永は、その時尼子軍と共に出雲に。
 ・体勢を立て直し、尼子軍反撃に出る。
 ・毛利元就は身代わりを立て、隠れて難を逃れ、這う這うの体で退却。
 ・再度、毛利氏が入り、支配。

 初めに尼子が敗れ、退却した時、温泉英永の支配していた串山城は毛利氏が入城、整備した、と思ったのですが、どうもほったらかしにしたようです。
 確かに地図を見ると温泉津湾の入り口の突端、東側にあるわけですから、侵入してくる船は監視できても、東側(出雲側)、つまり背後から攻められたら袋のネズミ、で、ひとたまりもない。
 ということは、東から攻めてくると思われる尼子の軍勢を防ぐ役には立たないわけで、ここには兵を置く必要も、整備する意味もない。温泉津の八幡神社ではないけれど、串山城、またも空き家となります。

 ところが退却した尼子氏、隠岐で軍勢を立て直して、また攻めかかってきます。今度は本当に大戦です。毛利としては拠点になる城を作っておかなきゃならない。
 海からの攻撃には強い串山城ですが、陸路、東から攻めてくる軍勢に対しては全く役に立たないのですから、毛利氏は沖泊を挟んで対岸に城を築くことにした。それが鵜の丸城で、毛利氏の家来である(と思われる)内藤蔵之丞等数名に築城を命じます。
 急な坂を少し登ったところにある城址からは、対岸の串山城が驚くほど近くに見えます。そこに人がいれば姿もはっきり見えるだろうし、話し声だって聞こえるのではないかと思われるほどです。
 この城を内藤らは、何と、僅か一ヶ月で作ってしまった。勿論土塁だけで、建造物はなかったんでしょうが、それにしてもここの縄張り自体は、相当な規模のものです。

 このあたりからは、もう、尼子と毛利の戦いの話になって、温泉氏のことは一切出てきません。そうなるともう「温泉津」という地名がどうこうという話とは別になりますから、この辺で置こうと思います。

 毛利氏の残した記録の中に、石見銀山のことが書かれたものがいくつかあるのですが、毛利氏はその中で石見銀山のことを「温泉銀山(ゆのぎんざん)」と記しています。
 勿論、繰り返しますけど銀山から湯が湧いているわけではない。「温泉氏」の、或いは「温泉のあるところ」の銀山、という意味でしょう。この「温泉銀山」という言葉は、毛利氏よりも前の大内氏が既に使っていたようです。

 「平成の大合併」で温泉津町は大田市の一地域となりました。
 新しい市名をどうするかととなった時、旧来の大田市民は「大田市のままでいい」、と言います。しかし、邇摩郡である温泉津町、仁摩町は名前がなくなるわけですから不満足です。
 「昭和の大合併」で大田市になった大森町だって、元々は邇摩郡です。大森と温泉津、そして初期の積出港があった馬路(まじ)や、採掘工具を作っていた宅野は仁摩町です。つまり、銀山がらみのところは全て邇摩郡で、大田市は関係がなかった。だから「石見銀山市にしよう」という意見が出ました。
 当然、冷笑する市民もいます。「今は銀なんか採れもしないのに。ばかばかしい」
 「過去の栄光に縋るなんて恥ずかしい」、ということなのか、「世界遺産候補になってるからって。ホントに石見の『のぼせもん』が」、ということなのか。
 いずれにしても紛糾したようです。そして、「世界遺産に決定でもすれば、もう一度考えようじゃないか」、となった。

 ・・・・で、大方の予想を覆して世界遺産に認定、登録されることになったから、さあ大変。
 でも、結局はご存じの通り「石見銀山市」という失笑されるか、感心されるか二つに一つ、の名前が採用されることはありませんでした。
 何でも、「表記を全て書き直すのに5000万円かかるから。そんな無駄遣いはやめよう」とか「『大田(おおだ)』と違って『銀山』という字が難しくて、子供や年寄りが大変だから」とか。
 正直、それを聞いた時は、頭に血が上りました。そんなふざけた理由で通ってしまう。それが大田の民度なんだ、と思ったら、また腹が立ってくる。
 私個人としては「温泉銀山市だったら良かったのにな~」と今でも思ってます。これだったら温泉氏のことも自然と話ができるだろうし、そこから郷土の歴史について目を向ける人も増える。

 「何もない田舎の過疎地だ、自慢するほどのものなんか何もないつまらない町なんだ」と、我が町を見ることが、その延長線上にあるのが、「我が国は資源も土地もないつまらない国だ、周囲の国の顔色ばかりうかがって生きる『島国根性』の三流国なんだ」という考えです。

 ここまで書いて、以前に石見銀山について書いた時に考えたことを思い出しています。
 「もう銀も出ない、ただの廃坑」「僅かしか客の泊まれない田舎の小さな温泉街」「時間がゆっくり流れている。ほっとするところ」

 「ただの廃坑」→「今は何もないんだから、調べたって無意味だ」
 「小さな温泉街」→「客も泊まれない、採るに足りないところ」
 「時間がゆっくり流れて」→「たまになら良いけど、生活するようなところじゃないな」。後ろ向きの典型です。

 「そのものの光るところを見つけよう。良いところを学ぼう」。そうは言いながら、現実には光るところを目を凝らして見つけよう、なんてしない。良いところなんかほっといて悪いところばかりあげつらう。
 そこからは何も生まれないでしょう。

 大森の人々は、その「何もない」と周囲が軽視したあの土地を、「大切な我が郷土」として見詰め直し、磨き続けています。温泉津町はどうだろうか。石見の人々はどうだろうか。日本人はどうだろうか。
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