CubとSRと

ただの日記

またまた、日記が書けない

2020年03月20日 | 心の持ち様
2011.05/26 (Thu)

 長い日記を書くのは、一面では疲れるけれど、一面随分楽です。
 体力的には疲れる。しかし、考えなくて済む。思いついたことをでれでれと書いているだけですから。
 ・・・・こういう書き方を自虐的、と言うんでしょうか。いや、偽悪趣味、ですね。

 或る高名な文学者は
 「今日は時間がないので、長い手紙になります」
 という書き出しで、実際長い手紙を書いたと言います。
 推敲する時間がないので書き散らしますよ、ということなんでしょう。
 そんな人と比べる気は、当然、ありません。

 実は、先日来、菅総理の動向について書きたいことが色々あったんです。
 それが書けない。どうしても書けない。
 ・「同じことの繰り返しになるだろう」と思うからか。
 ・「あんまりくだらないので、書くだけ時間の無駄」と思うからか。
 ・「ただの悪口雑言になるだろうことが見えている」からか。
 ・「書いた後に、充実感でなく倦怠感が残るだろう」と思うからか。
 ・・・・・なんて、これは今思いついたことを羅列して見ただけなんですけどね。

 本当のところは、この「色々ある書きたいこと」の糸を手繰って、それぞれのつながり具合から菅総理の本質に迫りたい、と思っていた。冗談じゃなくって。
 「身の程知らずめ!お前は一体何様だ!?」って?
 当然、「一人の日本人」です。
 おとといは一日ぼんやりと「物思いに耽る」中年晩期のおっさん。
 昨日は無力感に囚われ、酒を呑んで早寝をし、「夜中に喉が渇いて起きる」おっさん、になってました。
 そして今朝、ブログランキングを見て
 「あ!また転落してる!」と落ち込むことで日記を書く決心がつきました。
 ・・・・・・ウソです。(「また、転落した!」のはホントです。)

 しかし、もはや「ただのおっさん」ではない。
 「今が一番若い」、一人の日本人。
 自分がどうしようもない難問を抱えて「世界で一番不幸!」みたいな気になった人が山に登るとする。(山に登るか?そんな人が?)
 登ってみたら雄大な景色の中で、ちっぽけな「己」という人物を実感すると同時に、そのちっぽけな自分の不幸なんて、ちっぽけなものなんだと発見する。
 または、
 何もかも嫌になって海に行く。砂浜で海に向かって大声で叫ぶ。
 「ばかやろー」って。
 (勿論、こだまはありません。こだまって「谺」と書く。海に谷はない)
 そしてやっぱり、ちっぽけな自分を実感。
 「何もかも嫌だ、なんて。ちっぽけなことを」・・・と。

 中年晩期ですから、そういったようなことはしません。
 年の功です。狡猾になっています。
 だから、答えは既に出ています、これを書き始めた時には。

 答えはこれです。
 「『色々ある書きたいこと』を手繰って菅総理の本質に迫る」。
 これを棚上げする。
 今、本質に迫るのは無駄なんです。
 (さっき「任期一杯。あと二年やる」って、G8で言っていたそうですから。・・・やっぱり!!・・・「ばかやろーっ・・・」。あ、海に向かって叫んだんですからね。)
 原発事故収束のための、「工程表の時間設定」と同じくらい、意味のないこと。

 本質を掴むためにやらねばならないことは、一つ一つの事例を、「『本質を掴む』という目的を、『念頭に置きつつ解いていく』」、ということです。
 それによって、でしか構造に入れないし、構造論に入らなければ、本質論は絵に描いた餅、のままです。
 今、十分な件数の事例、その一つ一つを把握しているか。その上で手繰る糸を見出しているか。
 十分、と思われるほどの件数の事例を、把握している、とは言えない。ましてや、手繰るための糸はとなると、更に怪しい。それじゃ、テレビ、新聞をはじめとする菅総理の「辞めるやめない」の理由付けを切り捨てることができない。

 「身の程知らず」なんて、意地でも思わない。
 けど「身の丈」は知らなきゃならない。
 多くの事例を把握し、一つ一つ解いていけば、きっと「身の丈」も伸びるだろう。


コメント
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