CubとSRと

ただの日記

褒められなくても良いけどね、未来を拓くのは誰かというと、それは我々なんだから。

2020年03月24日 | 心の持ち様
2014.04/04 (Fri)

 現政権が発足して、一年と三ヶ月余り。喧しい。何とも喧しい。
 いつから喧しくなったのかな、と思って日記を見たら、半年ほど経った頃に、 《「バランス感覚」と言う浅慮》と題して、こんな日記を書いていた。
 6月12日と書いてあるから、その時既に相当に喧しかったわけだ。

 例によってブログを閉じられた「夕刻の備忘録」を読んで思ったことだった。

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   都合のいい批判
                   ~夕刻の備忘録より~

 悪夢の三年三ヶ月が過ぎて、自民党に政権が戻ったことに安堵した人も多いはずである。「これでしばらくは安心だ」と胸を撫で下ろした人もいるだろう。
 安心かどうかはともかくとして、少なくとも「あの得体の知れない不安感」は無くなったのである。素直に喜びたいところである。

 ところが、ここに「堂々の是々非々論者」が待っていた。手ぐすねを引いて待っていた。自民党政権、安倍政権は支持しても、その「全ての政策を支持するわけではない」と当たり前のことを殊更に言う。
 良い政策もあれば、悪いものもある、それ故に、悪いものに対しては批判していく、と高らかに宣言する人達である。
 「当たり前のことを声高らかに宣言する人」は、困った人である。そして、その段階で、それは「当たり前ではなくなってしまう」のである。

                 (略)

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 「50褒めたら50批判する。」
 いますよね、こう言う人。そして本人はこう思っている。
 「褒め過ぎはいかんよ。調子に乗るから。貶し過ぎてもいかん。拗ねるから。50褒めて50叱る。これでバランスが取れるってもんだ。日本人はバランス感覚が優れているんだから。」
 そして、そういう人はこんなことも言う。
 「あれ、ちょっとほめ過ぎちゃったかな?勘違いしないでよ、信者じゃないからね。」
 でも、思いっきり信者なのである。「バランス教」、又は「中庸教」の。
 自分の考えでなく、そういうものだと「信じているだけ」なのだから。

 備忘録氏はこの人々の根っこは「是々非々論者」であって、「困った人だ」と断言する。
 「50褒めたことを5にし、50批判したことを95に捏造する、そして褒めた部分は無視し、批判した部分を針小棒大に記事にする」のがマスメディアの得意技である。
 なのに、50の批判を95に捏造されているかも、と全く考えることもなく、「是々非々だ、中庸だ」と喋りっぱなしにする「是々非々論者」の無責任さ。
 だから彼らは「困った人」でしかない。
 勿論、本当の無責任はマスメディアなのだ。50を5にし、50を95に捏造報道して、後は知らん顔をしているのだから。
 でも、「是々非々論者」の発言がなければ、捏造報道もできない。「是々非々論者」は、責任感など感じてないし、批判対象者にもならない。だから彼らは、ただただ「困った人」だという事になる。

 本当に困ったもんです。テレビや新聞だけを情報源とする人だけじゃない。
 そういう問題じゃない。自分の考えがあるかないか、です。あると思ってるだけで他者の受け売りになってることに気付いてない人も、でしょう?
 つまり、テレビ、新聞だけの人々を「情報弱者」とラベル貼りした時点で、ネットを主な情報源とする人も、同じ「困った人」の仲間入り!

 もう少し転載します。

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 権力闘争は、宗教化させた方が勝つ。「完全無欠のリーダー」を演出した勢力が勝つ。そこに是々非々はない。実に気持ちが悪い。
 従って、「一言の批判もできないなんて信者と同じだ」と言われた程度のことで怯んでいては、気持ちの悪い集団には絶対に勝てないのである。
 気持ちの悪い集団に勝つには、自分達も多少の気持ち悪さには耐えねばならない。それが世の道理である。

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 「気持ちの悪い集団に勝つには、自分達も多少の気持ち悪さには耐えねばならない。」
 いやこれは。絶妙な表現だけど。

 早い話、以前に出ていた「政治家は腹黒い」「何食わぬ顔をして、今日もまた妥協する」等というやつですね。合理主義でなく、合理思想で事に当たる。
 一党独裁の国に対するに「是々非々で」、建前を信奉するしかない国に「本音で話し合おう」、なんて言ったって、そりゃ勝負にならないでしょう。

(後註 一党独裁の国→シナ 建前を信奉するしかない国→米国)
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 本当なら、備忘録氏のエントリーのURL、貼り付けて置かなきゃならないんですが、ブログ自体が無くなっていますので、貼りません。

 この日記にいただいたコメントに、
 「是々非々の最たるものは『工作員』との安易なレッテル貼り」であり、それは「物事の推移をきちんと見ていないからこそ起きる」のだというのがありました。
 また「冷静に考えてみると、是々非々って、究極の二分論ってことなんですねぇ・・」、というのも。

 文中に「合理主義と合理思想は違う」と書いたんですが、これ、「現実主義と現実容認主義」の違いみたいなもので、ホントに全く違うものです。
 「是々非々」というのは「合理思想」とは正反対にある「合理主義」そのもの。
 「合理主義」というのは「『合理』を主とする考え方、生活の仕方」
 であって、
 「合理思想」は「物事の仕組みを理合いから解こうとする考え方」
 です。
 早い話が、「主義」とつけば生き方そのものに関わり、「思想」とつけば「考え方」、でストップ。

 既に答えの出てしまっていることを「思想」とするのは、「考えを深める」、「学問として捉える」からですが、「主義」とすれば、もはや、考えを深めることに価値を見出すのではなく、応用実践することで実益を得る方に舵を切っている(価値を見出そうとしている)、ということになる。
 となれば、「合理主義」というのは、問題に対するに、その都度、判断を迫られるということになります。考えを深める意味はないわけですからね。
 つまり「これは是か非か」、と常に事毎に自問自答し続けなければならない。
 「是々非々論者」、でしょう?
 考えは深まってるんでしょうか?深まってませんよね、是々非々論者だから。深まらない考えで、己が理解能力の範囲内で、その都度物事の是非を問う。バカにしているマスメディアと同じことしかやってないんですが。

 剣術の師範が弟子から、別の弟子の腕前について問われた時、「うん。あれは強くなったが、品がないな。いや、品はなくともかまわんがな」と答えたそうです。
 何だか矛盾しているような答えです。品がなくとも構わんのなら言わなきゃいいのに、何故、この余分な一言を言ったのか。
 
 強くなったのは事実。品なんか勝負に関係ない。けれど、です。「品」も、つくる物です。つくろうと意識しなければ備わらない。自然に備わるものではありません。
 そういうものの工夫を意識しない者が、工夫、習練の最たるものである剣「術」の腕だけはつくろうと意識するだろうか。
 稽古をしていたらいつの間にか強くなった、という者は、どうやって強くなったか分からないから、自分を伸ばすことができない。自分を伸ばせないのだから、後進を育てることなどできない。
 「品がない」という一言は単に「品」を指すのではなく、向上心を持って生きようとしているか否かを評したものと思われます。

  是々非々論者、合理主義者に共通する話ではないかと思います。
 
コメント
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