CubとSRと

ただの日記

「和食が世界遺産!・・・・・。」  (上)

2020年03月25日 | 重箱の隅
2014.04/19 (Sat)

 世界遺産・・・・・。世界遺産、ねえ・・・・・。
 「人類の宝だから、残すべく努める。」
 ・・・・・う~ん。
 「和食は人類の宝」、かぁ~~~。日本もこの数十年で変わったというか何というか・・・・・。価値観が変わったんですよね。
 喜ぶべきか、悲しむ、いや、ともすれば暗澹たる気持ちになりそうなのを振り払うべきか。

 二年生までは寮だった。四年生になって純粋な自炊を始めたのだけれど、レパートリーはカレーライスのみ。いや、ライスはなかった。パンにつけて食べていた。あとは目玉焼きだけ。
 就職して二年ほどはやはり寮だったのだけれど、寮を出た二十四歳からは本格的に自炊をしなきゃならなくなった。それで、薄っぺらで、美味しそうな料理の写真がたくさん載っている「中華料理」の本を買ってきた。
 本と言うより「冊子」と言った方が良いくらいの本だったけれど、とても大事なことが書かれてあった。

 「初めは計量スプーンやカップを使って『これが最良』という味をつくり、覚えてください。初めから自分の覚えている味覚で料理を作ると美味しいものはつくれません」、みたいなこと。
 そのとおりですよ。何事もまずは「倣う」ところから始まります。
 全く違うことみたいですが「郷に入れば郷に従え」と言う言葉、これ、決して「長いものには巻かれろ」みたいな後ろ向きな言葉ではない。
 その地、その場、その風に合わせてやってみてこそ、これまでの自身を客観視できる、発展のヒントがあるのだ、と積極的に捉えるべきでしょう。

 「己の能力の範囲内でしか物事を把握することはできない」、というのを逆手に取っている、と言えることかもしれません。「自身の能力で以て『そこに合わせてみる』」というのは、自身を枠の中に置き、客観視しているということでしょう?
 不安に感じない分、得るものも多く、「郷」を把握することも確実にできるんじゃないでしょうか。

 計量スプーンと計量カップを両手に持って、一つ何かをすれば机の上の料理の本を見に戻り、一つ何かをすれば間違ってないか本とにらめっこをする、という生活が半年くらい続いたでしょうか。子供のころから台所の手伝いなどは全くして来なかったけれど、流石に「それなりに」慣れてきました。

 けど「中華料理」の本を買ってきただけ。当然のことながら慣れてくるのは「中華料理」ばかり。「世界の三大料理の一つ」なんて言われてても、やっぱり飽きてきます。できることなら「洋食」なんかもつくってみたい、カレー以外に。
 フランス料理だけじゃなくって、世界の料理には色々と美味しいものがあるらしい。

 結局は「煮る、炒める、焼く、蒸す、揚げる、漬ける」、なんだけれど、食い意地が張っているから色々食べてみたい。
 そんなことを思いながらもレパートリーは増えることなく、仕事で帰ることが遅い日が多くて、ちゃんとした料理を作るのは土、日くらい。
 ・・・・・・みたいな生活がさらに数年続いたでしょうか。
 或る時「料理の四面体」という本に出会った。衝撃を受けました、言い過ぎかもしれませんけど。

 「食は広州に在り(邱永漢)」とか「食通知ったかぶり(丸谷才一)」とか、「口八丁手包丁(金子信雄)」等の本を読んで、少しずつ色んなことを始めていたんだけど、この「料理の四面体」は将に「目から鱗」、でした。


 何が?ということは次回に。
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人もどきから人へ (育つチャンス)

2020年03月25日 | 心の持ち様
2014.04/13 (Sun)

 中学生の頃に読んだ雑誌だったと思うけれど、こんな話がありました。

 電車に乗っていると、母親と子供らしい二人連れが乗ってきた。
 その車両には他に乗客がなく、席はどこでも空いていたのだが、その二人は座ろうとしない。
 しばらくして電車が動き出すと、母親は持っていた鞄の中からビニール袋を取りだし、車内のゴミを拾ってはその中に入れ始めた。子供も同じようにゴミを拾っては母親に渡す。

 乗っていた車両の端から端までゴミを拾い終わると、ビニール袋を足元に置き、やっと席に座った。近くの席だったので、その人が鉄道の関係者かと尋ねると、そうではない、と言う。
 何か大事なものでも?と再び聞くと、いつも乗せてもらってるから、やっています、との返事。
 「折角、乗っているのだから、車内がきれいな方が気持ちが良いと思って。」

 勿論、乗車賃は払っているのだ。
 「金を払って乗ってるのに、何だ、この汚い車両は!」と思ったからゴミを拾う?
 そういうことはないだろう。
 「きれいな車両の方が気持ちが良い。汚れていたら掃除をしよう」
 おそらく、こっちだろう。

 「己の欲せざるところを人に施すこと勿れ」という言葉があるけれど、この言葉を積極的に捉えたら、この話のようになるのかもしれない。
 権利とか義務とかいうのではなく、飽く迄も良かれと思っての行動なんだろう。
 「金を払っているんだぞ!」というような傲慢な心ではこういう行動は思いつく筈もない。逆に「何だ、この汚い車両は」という、「きれいであって当然」との「思い込み」からの不満の方が先立つのが普通だろう。

 「謙虚」からの「思い遣り」か。
 それとも
 「傲慢」からの「思い込み」か。

 日本人はどっちだったか。
 そして、それはみんな本当に身に着けているのか。

 以前に書いた日記です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう何年も前のことだけれど、二輪雑誌だったろうか、こんな記事を読んだことがある。
 家族連れをターゲットに各地に作られたレジャーランド。
 特に変わったものがあるわけではないけれど、小動物に触れたり、遊び場があったり、と休日を楽しく過ごせるように色々なアイデアが詰め込まれていた。
 中には車で入り、好きなところで車を停めて、その場で食事をしたり、遊んだりできるという所もある。

 それが、あるところで、車は(当然)良いけれど、バイクは入園禁止ということになった。何故?

 理由は、バイクは不安定だから、停めていても子供がさわって、倒れたり下敷きになったりする。マフラーやエンジンに触れると火傷をする。
 だからだ、という。危険なのだ、と。

 何だかありそうな話だけれど、「あったから」ではない。
 どこかしら、おかしい。
 「起こるまで待つべきだ」と言っているわけではない。それでは、人が犠牲にならなけりゃ、と言っている事に等しい。

 電車の中で子供が騒ぐ。「静かにしなさい」と子供を叱る。
 本来なら、
 「他のお客さんに迷惑だから静かにしなさい」
 と言うのは親の仕事です。ところが全く知らん顔をしている親が増えて来た。
 で、見かねて注意をする。
 そこで、親は初めて子供を諭(さと)す。
 「おじちゃんに叱られるからやめようね」

 最近では
 「お金払って乗ってんのよ。何よ少しぐらい!」なんてのも。

 全く正反対のこともある。
 「車が居ないから、横断歩道を渡ろうとしたら、『ママ、信号が赤でしょ』と子供に言われた。反省しなけりゃ」
 という「負うた子に浅瀬を教えられ」の典型みたいな話。
 また、
 「子供は自由にのびのびと育つのが一番。しつけなんて。大らかな方がいいでしょう?」 
 「小さなおとな。同じ人間なんだから。話せば分かるんだから」
 「子供の時、よく叩かれた。とても嫌な思いをした。だから、子供には手を挙げない。」
 
 状況も事由も違うものをズラズラと書き並べたけれど、実はこれ、共通していることがあります。
 全て、これまでの日本文化にはなかったもの。日本人の特性とは違った発想と意思からのものだ、ということです。
 ここにあるのは「傲慢」と「思い込み」。

 「お金を払ってるんだから」「赤信号なんだから」「子供だって同じ人間」「私はよく叩かれたから」
 これ、みんな「自分の思い込み」が判断基準です。
 そして、相手のこと周辺のことを、全く「思い遣って」いない。

 ここにあげた中で、「?」と思われるだろうことを一つ。
 「赤信号で渡ろうとしたこと」も傲慢?社会ルールを守ってるのに?
 
 バイク乗りは思います。(歩行時ですよ、飽く迄も)
 「赤信号で車は停まる。青信号で車は走る。青信号で横断歩道を歩いて、車にはねられた。悪いのは車だ。その通り。でも、死んだ人は生き返らない」
 大事なのは、青信号でも車が来ないかどうか確かめることです。
 制限50kmの道を70kmで車が流れている。頑なに50kmで走行するとどうなる?悪いのは70kmで流れている車全体だ。みんな交通違反で検挙する?
 そのやり方は実社会で可能か?

 車道は危なくて仕方がないから、歩道を自転車で走る。違反で検挙する?極力スピードを抑えれば、日本では道を譲ってくれますよね?「ありがとうございます」の一言で笑顔だって返って来る。
 ルールというのは、みんなのために良かれと思って作られたものだから、その基本には「思い遣り」があるはずです。(他のために良かれと思う)

 二十代の頃、伊丹十三のエッセイをよく読んだのですが、「イギリス人は忍耐強くよく並ぶ。全く文句を言わない。日本人はどうだ」みたいなことが書いてありました。
 少なくとも「北京の五十五日」が作られた頃の日本人というのは、今の、隣国ほどではないにせよ、並ぶということがあまり得意ではなかったようです。つまり、行儀が悪かった。
 最近は団体でやって来て電化製品(主に電気釜?)をいくつも買い込んでいく大陸旅行団が有名ですが、同じように数十年前は、札束持って小旗を先頭にゾロゾロやって来てブランド品を買い漁る日本人を、西欧の人々は「ノーキョー」と呼んで冷笑していたことをご存知ですか?
 今は昔、の話です。あの頃より今の人々の方がよっぽどルールを守るし、マナーもエチケットもある。けれど、「謙虚さ」とか「思い遣り」となると、どうだろうか、と・・・・・。

 初めの「バイク入園禁止」の話に戻ると、「倒れて来るかもしれない」「下敷きになるかもしれない」「マフラーで火傷するかもしれない」だから禁止?それ、「思い遣り」でしょうか?ということなんです。
 子育ての段階で、「思い遣り」という感性は、教えていくものです。言葉で、とは限りません。感性(感受性)、感情ですから。
 「思い遣り」は日本人の国民性。そして、教えられなければ「国民性」というものは身につくものではありません。「国民性」というのは感性を基盤とする文化そのものです。

 子供がバイクに近づこうとしたら、いきなり「危ないよ!下敷きになるかもしれない」「危ないよ!やけどするよ」などと言わず、まず、子供を安全な所に留め、それから一緒に眺めることをすればいい。そこで子供が手を伸ばしたら、初めて何らかのアクションを起こす。
 そういうことをしない親。クレームを回避したい経営者。結果、バイク入園禁止。
 引き換えに多くの教育チャンスを無にしてしまっている。

    「ツーリング考(謙虚と傲慢)」      
                   2011年08月07日

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは子供と大人の間だけではなく、外国人と日本人の間でも成り立つ話ではないか。
 食事マナーを知らず、フィンガーボウルの水を飲んだ賓客に合わせて、自らもフィンガーボウルの水を飲んで平然としていた国王のような態度を、日本は誰でも取ることができる国であると同時に、正しいマナーを無言で示せる国だった筈です。
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