2012.11/08 (Thu)
藤田嗣治という人はwikiで見ると、学者や役人を多数輩出している、かなり裕福な家の育ちだったようだ。
そんな中だからか、子供のころから絵が好きだった藤田を、やはり本人のためにということで、家人は彼を東京美術学校(現東京芸大)へ進学させている。
ところが当時の芸大の傾向は黒田清輝のような絵が主流で、藤田の肌に合わず、芸大のみならず、卒業してからの斯界も同様のことだった。
結局、藤田はフランスでの生活を決断し、離婚、渡仏。
さてそこからなんだけれど、藤田についてテレビや本などで聞きかじったところでは、例によってモンパルナスに住み、多くの新進の画家、音楽家等と交流を持ち、そこで多くの勉強をしたらしい。ピカソとの交流もその時からだということだ。
記憶に残っている藤田嗣治といえば、丸眼鏡におかっぱ頭。
初めは絵が売れるまでには至らず、貧窮の生活をしていたらしいのだけれど、貧しいなりに、先述の芸術家連中と芸術論を戦わせたり、飲み歩いたりする生活だったようだ。
まあ、言ってみれば、仲間うち全員が個性的な猛者揃い。「鬼面人を驚かす」は大袈裟だろうが、みんな、少しでも目立ち、他の者をびっくりさせたり感心させたりすることを楽しみとしている。
そんな連中の間で、藤田の腕は目立っていたらしい。絵の腕前も、だろうけれど、驚かす方では特に。
或る日、散髪をして来た。金がないから自分でやってきた。
周囲の人が驚いた。おかっぱ頭だった。丸眼鏡におかっぱ頭。何とも珍妙だったろう。
まず、三十前後の大の男がするようなヘアースタイルではない。
しかし、東洋人独特の黒髪。まっすぐな髪の毛を眉のあたりですっぱりと切り揃えた、そのすぐ下に丸い眼鏡。西洋人には決してマネのできない格好であったろう。十二分に驚かす、という目的は達成できた筈だ。
全く関係がないけれど、後に日本人のファッションモデルの化粧やヘアースタイルはというと、黒髪の美しさを際立たせるために直線に切り揃えた髪と、切れ長の目を強調するために目尻をより長く見せるように影をつけるのが基本のようになっていった。
藤田に倣ったわけではないのだろうけれど、西洋人から見たアジア人、特に日本人の美しさの理想の形、というのはそういうものだったらしい。
藤田はさしもの芸術家連中を感心させたわけだ。おそらくは彼らの誰一人として気づかなかった新鮮な感動のあることを知らしめた。
牽強付会に過ぎるかもしれないが、日本からの瀬戸物などの輸入品は浮世絵版画に包まれていたのだが、それにより西洋人はこれまで見たことのない新鮮な美を見せつけられた。
それに近いものを、彼ら芸術家仲間は藤田のおかっぱ頭と丸眼鏡に感じ取ったんじゃないかな、と思う。
晩年、日本を離れ、フランスに移住するが家の設計なども自分でしたらしい。それが、言ってみればドールハウスのような精巧な模型を自分でつくって示す、というやり方だったらしい。
テレビでそれを見た時は「よくやるよなあ、全く」としか思わなかった。
そんな細かい作業をしているよりも、絵を描きたかったろうに、と。
で、そうは思いながら、何だかどこかで見たような、いや、見たんじゃなくて感じた、似たような感覚があった筈だが、と思っていた。
今頃になってやっと気が付いた。「枕草子」だ。
「枕草子」といえば、「いとおかし」ばかりが頭に浮かぶけれど、これ、「いとおかし」、は「定番」ということじゃなくてこれまで見過ごしてきたものを見直した、新しい角度から見ることで、新鮮な驚きを「興味深いもの」として示したものでもある。
可愛らしいもの、鬱陶しいものなどについても「そうだよね。あるある!」で終わるんじゃなくて、少しずらした「そういえば」という枕詞のついたような新しい何かを、当時としては見せた筈だ。
それが新しい時代の「定番」の感覚となり、そしてその感覚は、文化となっていく。
学校で必ず習う「闇もなほ蛍の多く飛び違ひたる」なんてのは、それまで怪しいものと考えられていたのだ、と教えられた記憶がある。
藤田にとって模型作りは、彼の絵やおかっぱ頭と同じく表現手段だった、と考える方が納得できる。
つまり若い時から晩年まで、彼の姿勢は全く変わっていないんじゃないか。
人はそうそう変わるものではない。特に幼少期に倣い覚えたものは間違いなくその人の本質と直結している。
となれば民族性とか県民性なんていうものも、そう簡単に変わるものではないと言える。
妙な愛国教育を受けた者はそれを捨て去ることはなかなか大変で、そう考えたら石平氏が日本に帰化したことなどは、福沢諭吉の「脱亜論」ならぬ、「脱中共論」(脱シナではない)の現実行動でしかないのかもしれない。
当然、我々の受けてきた自虐史観(言葉に抵抗があれば青山繁晴氏の言う「思い込み」でもいい)を捨て去ることもなかなか大変なこと、となる。
また脱線したまま終わるわけにはいかないので、中締めに。
藤田は人を驚かすことを好んだ。それは注目されるためだった
と言っても「ああ~びっくりした」と言わせるためではない。何らかの感動を期待してのことだ。
初めは好奇心のままに絵を描き、それに衆目が集まるようになると、次は感心されるように、そして今度は感嘆されるように、と努力を惜しまないようになる。
しかし、その先に金とか名声を求めて、というわけではない。
とにかく
「人の心を揺り動かし、衝き動かすことができれば。そうするためになら何でもやってみよう」
そう思って一生を過ごした人と思われる。
そこで、「戦争画と芸術至上主義。その顛末」、となる。
(続く)
藤田嗣治という人はwikiで見ると、学者や役人を多数輩出している、かなり裕福な家の育ちだったようだ。
そんな中だからか、子供のころから絵が好きだった藤田を、やはり本人のためにということで、家人は彼を東京美術学校(現東京芸大)へ進学させている。
ところが当時の芸大の傾向は黒田清輝のような絵が主流で、藤田の肌に合わず、芸大のみならず、卒業してからの斯界も同様のことだった。
結局、藤田はフランスでの生活を決断し、離婚、渡仏。
さてそこからなんだけれど、藤田についてテレビや本などで聞きかじったところでは、例によってモンパルナスに住み、多くの新進の画家、音楽家等と交流を持ち、そこで多くの勉強をしたらしい。ピカソとの交流もその時からだということだ。
記憶に残っている藤田嗣治といえば、丸眼鏡におかっぱ頭。
初めは絵が売れるまでには至らず、貧窮の生活をしていたらしいのだけれど、貧しいなりに、先述の芸術家連中と芸術論を戦わせたり、飲み歩いたりする生活だったようだ。
まあ、言ってみれば、仲間うち全員が個性的な猛者揃い。「鬼面人を驚かす」は大袈裟だろうが、みんな、少しでも目立ち、他の者をびっくりさせたり感心させたりすることを楽しみとしている。
そんな連中の間で、藤田の腕は目立っていたらしい。絵の腕前も、だろうけれど、驚かす方では特に。
或る日、散髪をして来た。金がないから自分でやってきた。
周囲の人が驚いた。おかっぱ頭だった。丸眼鏡におかっぱ頭。何とも珍妙だったろう。
まず、三十前後の大の男がするようなヘアースタイルではない。
しかし、東洋人独特の黒髪。まっすぐな髪の毛を眉のあたりですっぱりと切り揃えた、そのすぐ下に丸い眼鏡。西洋人には決してマネのできない格好であったろう。十二分に驚かす、という目的は達成できた筈だ。
全く関係がないけれど、後に日本人のファッションモデルの化粧やヘアースタイルはというと、黒髪の美しさを際立たせるために直線に切り揃えた髪と、切れ長の目を強調するために目尻をより長く見せるように影をつけるのが基本のようになっていった。
藤田に倣ったわけではないのだろうけれど、西洋人から見たアジア人、特に日本人の美しさの理想の形、というのはそういうものだったらしい。
藤田はさしもの芸術家連中を感心させたわけだ。おそらくは彼らの誰一人として気づかなかった新鮮な感動のあることを知らしめた。
牽強付会に過ぎるかもしれないが、日本からの瀬戸物などの輸入品は浮世絵版画に包まれていたのだが、それにより西洋人はこれまで見たことのない新鮮な美を見せつけられた。
それに近いものを、彼ら芸術家仲間は藤田のおかっぱ頭と丸眼鏡に感じ取ったんじゃないかな、と思う。
晩年、日本を離れ、フランスに移住するが家の設計なども自分でしたらしい。それが、言ってみればドールハウスのような精巧な模型を自分でつくって示す、というやり方だったらしい。
テレビでそれを見た時は「よくやるよなあ、全く」としか思わなかった。
そんな細かい作業をしているよりも、絵を描きたかったろうに、と。
で、そうは思いながら、何だかどこかで見たような、いや、見たんじゃなくて感じた、似たような感覚があった筈だが、と思っていた。
今頃になってやっと気が付いた。「枕草子」だ。
「枕草子」といえば、「いとおかし」ばかりが頭に浮かぶけれど、これ、「いとおかし」、は「定番」ということじゃなくてこれまで見過ごしてきたものを見直した、新しい角度から見ることで、新鮮な驚きを「興味深いもの」として示したものでもある。
可愛らしいもの、鬱陶しいものなどについても「そうだよね。あるある!」で終わるんじゃなくて、少しずらした「そういえば」という枕詞のついたような新しい何かを、当時としては見せた筈だ。
それが新しい時代の「定番」の感覚となり、そしてその感覚は、文化となっていく。
学校で必ず習う「闇もなほ蛍の多く飛び違ひたる」なんてのは、それまで怪しいものと考えられていたのだ、と教えられた記憶がある。
藤田にとって模型作りは、彼の絵やおかっぱ頭と同じく表現手段だった、と考える方が納得できる。
つまり若い時から晩年まで、彼の姿勢は全く変わっていないんじゃないか。
人はそうそう変わるものではない。特に幼少期に倣い覚えたものは間違いなくその人の本質と直結している。
となれば民族性とか県民性なんていうものも、そう簡単に変わるものではないと言える。
妙な愛国教育を受けた者はそれを捨て去ることはなかなか大変で、そう考えたら石平氏が日本に帰化したことなどは、福沢諭吉の「脱亜論」ならぬ、「脱中共論」(脱シナではない)の現実行動でしかないのかもしれない。
当然、我々の受けてきた自虐史観(言葉に抵抗があれば青山繁晴氏の言う「思い込み」でもいい)を捨て去ることもなかなか大変なこと、となる。
また脱線したまま終わるわけにはいかないので、中締めに。
藤田は人を驚かすことを好んだ。それは注目されるためだった
と言っても「ああ~びっくりした」と言わせるためではない。何らかの感動を期待してのことだ。
初めは好奇心のままに絵を描き、それに衆目が集まるようになると、次は感心されるように、そして今度は感嘆されるように、と努力を惜しまないようになる。
しかし、その先に金とか名声を求めて、というわけではない。
とにかく
「人の心を揺り動かし、衝き動かすことができれば。そうするためになら何でもやってみよう」
そう思って一生を過ごした人と思われる。
そこで、「戦争画と芸術至上主義。その顛末」、となる。
(続く)