CubとSRと

ただの日記

「今日のアサヒ一面」

2020年06月01日 | 重箱の隅
2010.11/19 (Fri)

 昨日の柳田法務大臣の件を筆頭として、失言がズラリ。
 勿論、「暴力装置」も出ています。

 先に結論を書きます。
 「暴力装置」を失言、と採り上げてはいるものの、アサヒでは、「暴力装置」という語句を、字面通り(言葉通り)の捉え方で、思いの外、小さく扱っています。
 今となってみると、あの、ハト首相の言が懐かしい(・・・?)。

 「私は愚かな総理大臣かもしれません。しかし、愚直に取り組むことが・・・・」とやったのを、阿比留記者だけが、「言葉のすり替えをした!」と、自身のブログで糾弾した以外、メディアは全て、前半の「私は愚かな総理大臣かもしれない」、だけを採り上げ、後半はカット。後から気づいたかもしれないけれど、知らん顔、してた。

 「自らが『愚かな総理』とのたまうとは・・・(呆れてものが言えない)」
 で、見事に統一戦線を組んでいたことと、全く変わっていないではないか。

 ある人の日記に「柳田法務大臣のことより、こっちの方がひどい」、と書き込んで、その後、そこらをうろついていたら、「暴力装置というのは・・・」との説明を書かれている日記や、「そんな言葉は高校で習ったろう。怒るような事じゃないぞ」といったことの書かれた日記などに目が留まりました。
 wikiで見たら、なるほど。マックス・ヴェーバーという社会学者が「他者を押さえ込むための組織だった力」を、「暴力装置」と定義した、とある。

 確かに、石破前大臣が、この言葉を遣って説明をし、誤解が生じ、再説明したことがあった、ということも思い出しました。
 実際、石破前大臣の言を見ると引っ掛かりはあるけれど、専門用語、として、この語句の定義を、併せ、説明されているため、二度も読めば納得は、できる。
 「高校で習った」というレベルが当たり前、としたら、ここで怒っちゃいけない。というより「ここで怒る奴は、物知らずのバカですよ」、ということになる。
 「丸川議員が知らぬ筈はない(わざと知らない振りをして咬みついた?)」ともあったけど、反対に「今の国会議員の大半は、そんなことも知らないんだねえ」みたいなことを書いていた人も居た。
 時間が経つにつれて、「暴力装置」という言葉が、専門用語として存在しているらしいと、気づいてのコメントに流れが変わっていきました。

 さて、数十年前、怠け者で、出来の悪い高校生だった私も、今頃になって、ではありますが、おかげさまで「暴力装置」という言葉の定義を知ることとなった。

 そこで、次の問題。
 官房長官は弁護士でもあるわけだから、社会学用語としての、この「暴力装置」という言葉の定義は十分に理解している筈で、結構多用していたことでしょう。
 そこで、考える。
 なのに、何故、すぐ、言い換えたのか。
 「お前ら、こんな言葉も知らんのか。いいか、『暴力装置』というのは、だな。マックス・ヴェーバーが・・・・」と、得々として語り、委員会を煙に巻く、くらいのこと、これまでのやりたい放題の官房長官だ、朝飯前でやれるだろうに、何故・・・・・?

 考えられるのは、テレビなどでも言っていたように、「つい、ポロッと昔の感覚で」ということでしょう。
 この「暴力装置」という言葉を、70年代、安保闘争の闘士(!)、であった官房長官は、「革命は銃口から」に代表される、武力革命を是認する姿勢で、「暴力革命」のために、国家の「暴力装置」に暴力で対する、という捉え方をしていた。
 彼だけでなく、当時の学生運動の主力となっていた全共闘の学生は、「体制側の力」を、「暴力装置」と再定義していた。
 同じように見えるけど、早い話、「体制=敵」という基盤の上に置いた。
 つまり、「暴力装置=敵」です。分かり易い。レーニンだって、毛沢東だって、「そうだ!」と言ってる(?)。
 「暴力装置」という言葉自体は、本来が学問用語だから、感情は込められていない。にも拘らず、学生運動の闘士は、感情を込め、「敵」、とした。

 それが、つい、ポロッと出てしまった。
 だから「これはいかん、言い換えた方が早い!」と、咄嗟に判断した。
 結果、却って「暴力装置」という言葉が、悪い意味合いの中に取り残され、決め付けられることになってしまった。
 「官房長官は、自衛隊を、『暴力集団』と決めつけている」

 「選良」である国会議員に、でさえ丁寧な説明を要することを、一般国民が、そう簡単に分かろう筈もない。
 攻める国会議員は(途中で気がついたものも含めて)、知らぬ顔のまま「ひどい!ひどい!」の大合唱となる。

 そうです。途中から実は三文芝居、茶番劇になっている。
 でも、それを百も承知で、通す。貫く。
 「これも、策略なんだから。汚いなんて言ってられない」
 そんなところです。

 それで、初めに戻ります。
 「日本の良識アサヒしんぶん」、ともあろうものが、この「暴力装置」の意味を知らぬ筈がない。なのに、「暴力装置とは」という説明は、どこにもない。頬被りをしている。
 これは一体どういうことか。正義を貫くんじゃなかったのか。是は是、非は非じゃないのか。(どうも、また産経だけ、みたいですね。「暴力装置」の説明を載せていたのは。)

 最後に。
 「暴力装置」という訳語は、どうみても、おかしい。デモクラシーを「民主主義」と訳したのと同じくらい、おかしい。
 いや、「バイオレンス」を「暴力」と訳すこと自体に、知性のなさ、というか、日本人らしからぬ感性の乏しさを感じるんですが。

  誰?この翻訳をしたのは。
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「いただきもの」

2020年06月01日 | 心の持ち様
2010.11/18 (Thu)

 京都に「一燈園」という修養団体があるそうです。
 西田天香という人がはじめられたのだそうで、会社などの新入社員の研修でいく人も多いとか。
 「一日働かざれば一日食(は)まず」を地でいくような修行をする。

 朝、「一燈園」を出て、京都の街を奉仕して廻る。奉仕、だから、当然お金は貰いません。
 力仕事でも、庭掃除でも、便所掃除でも、とにかく何でもいいから手伝いを「させてもらう」。
 昼食時になれば、昼食をいただける「こともある」。それがなければ、夕方、園に戻るまで、何も食べられない。
 そんな中で、人の心の温かさ、有り難さを体得するのが、研修の初歩、のようです。

 この西田天香師のつかっていたタオル、というのが、凄まじい物で、もう、ボロボロ、なんてものじゃない。すっかり布が擦り切れて、ただの糸のようになって、向こうが透けて見える。もう、雑巾にもできないほどです。

 見かねて或る人が
 「一燈園を主宰している貴方が。いくら何でもみっともない。物を大事にする気持ちも分からないではないけれども、それでは役に立たないでしょうから」
 と、新しいタオルをプレゼントした。

 天香師は、それをとても喜び、押し戴いたのですが、一向にそれを遣おうとしない。相変わらず、ただの糸のようになったタオルを遣っている。
 それを知った件の人が
 「あれは気に入って頂けませんでしたか」
と問うと、天香師は
 「とんでもない。有り難くいただきました。喜んでおります」
 「では、気になさらず、お遣い下さい。あのタオルでは役に立たないでしょう」
 「いえ、あのタオルも戴き物ですから」

 「いただき物」というと、今は、「巡り巡って、当方に来ました」、みたいな印象がありますが、本来「いただく物」で、時には「押し戴く物」です。有り難いことです。
 そんな「素晴らしいこと」、「幸運」は、全て受け取らなければ「いただいた」とは言えない。

 単に「タオル」と見ないで、他の物に置き換えてみたらどうでしょう。
 不平を言う前に、本当に、ちゃんと「いただいている」のか。
 私は、つい、不平、不満が先に出てしまうんですけどね。

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「前田某のこと」

2020年06月01日 | 心の持ち様
2010.11/17 (Wed)

 津本陽氏の剣豪小説、本格的な一冊目、となったのが、当時「オール読物」誌に連載されたものがまとめられた、「薩南示現流」です。

 いきなり脱線しますが、本格的に示現流が、実際に(資料のみならず)宗家道場まで調査に訪れた上で、小説にされたのは、これが初めてです。
 鹿児島出身で、示現流をよく知っている、と、当の本人でさえ思っていた海音寺潮五郎も、実際の示現流を見たのは、大家になってからだそうです。
 それくらい名前ばかりがよく知られて、実像は明らかでなかったのが示現流、と言えるでしょう。
 もう一つ、ついでに。
 以降、よく「薩南示現流」という言葉が遣われるようになりましたが、あれは飽く迄も小説の題名であって、そんな流儀名は存在しません。
 「示現流」は、ただ「示現流」或いは「御流儀示現流兵法」と言います。
 初め、「天真正自顕流」と言っていたのを、時の藩主、家久公が、文之和尚と語らい、観音経にある「普門示現神通力者」という語句から、同音の「示現」を流名に、と東郷重位にすすめた、とされています。

 さて、長い脱線になってしまいましたが、初めに戻ります。

 「薩南示現流」の中に「祇園石段下の血闘」という話があります。
 密偵として、新撰組の隊員になっていたことのある、島津藩士指宿藤次郎が、京都見廻り組と切り合いになり、斬殺される話です。
 五人を相手に一人で戦い、三人までを倒し、四人目で下駄の鼻緒が切れ、転倒、マント代わりに羽織っていた毛布が邪魔をして、切り付けられ絶命した、という凄惨な内容でした。

 次の篇に後日談が書かれてあります。

 当時、独り歩きは危険だから、と外出は必ず二名以上で連れ立ってというのが島津藩邸では決まりになっていたそうです。

 その日、指宿は前田某と共に外出したのですが、運悪く、新撰組に潜入していた時の、顔見知りの見廻り組に見つけられ、切り合いになったのは先に書いた通りです。
 当然、五対二の戦いになるところ、この前田某、臆病風に吹かれたか、それとも何らかの理由でか、今となっては知る由もありませんが、とにかく、そこから離れて、藩邸に戻ってしまった。
 急を知って駆けつけた藩士の目に入ったのは、血だらけになって倒れている藤次郎の遺骸だけです。

 何故、前田某は無傷なのか。答えは唯一つ。どんな理由があるにせよ、敵に背を向けて、「逃げた」。「士道不覚悟」。

 葬式の準備ができ、棺の蓋をするばかりのところに、前田某がやって来る。
 その場を仕切っていた若侍の筆頭が、前田某に
 「おはんが一番焼香じゃっど」
 と告げる。
 覚悟を決めた様子の前田某が進み出て、棺を覗き込もうとした瞬間、件の若侍が、抜き打ちに前田の首を刎ねる。
 血しぶきと共に前田の首は棺の中に落ち、若侍は平然として
 「こいで良か。蓋をせい。葬式じゃ」
 とみんなに声をかける。

 小説では、この若侍が後の樺山資紀(すけのり)であると書かれています。白洲次郎の妻で、女傑とも言われる白洲正子の祖父です。
 何とも烈しいというか、何というか。
 こんな人が、いくらでもいたのが薩摩という土地柄であり、また、武士というのは、これくらいは当たり前、ととっていたのだろう、と思わされたものです。

 そんな人々が、明治時代、軍人となり、後々までも、帝國軍人、というのはそんな「風」を持っていくことになったのだろう。
 そう思っていました。
 それから見たら、現代の我々は、恐怖に負けてさっさと逃げてしまった、前田某くらいのものか。
 そうも思っていました。

 けど、ちょっと待てよ、と思うのです。
 葬式の時のことです。
 藩邸に逃げ帰った前田某の連絡を聞いたからこそ、藩士連中は駆けつけた。それから、前田は「何故、逃げ帰った」と詮議を受けた筈です。しかし、結論は詮議をせずとも、出ている。
 「おはんが一番焼香じゃっど」
 と告げられた時、前田某は覚悟をしていた。だから、すぐに進み出た。
 つまり、首を刎ねられるのは承知の上だった、ということです。
 あの時は逃げた。違うかもしれないけれど、事実は逃げた。
 それに対して、今、首を刎ねられることを承知の上で、出て来た。

 これが、けじめをつける、ということじゃないでしょうか。
 臆病風に吹かれて逃げた、としても、今、理性で、自分の首を持って来た。
 それを、樺山資紀も充分に分かっている。だから、首を「刎ねてやる」。
 前田某も、これで救われる。

 こうやってみると、現代の我々は、前田某にも、遠く及ばないのではないか。みっともない言い訳をして、ひたすら逃げおおせようとするばかり。その場しのぎの小刀細工で何とか誤魔化そうとしている。

 いや、「我々」は言い過ぎでしたか。
 「現内閣」と、「私」、くらいですかね。
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「御影」

2020年06月01日 | 日々の暮らし
2010.11/16 (Tue)

神戸に戻った翌日。
 修理のため、店に単車を預け、帰りは電車です。
 阪神御影駅に向け、いつもとは違う高架沿いの道を歩きました。
 
 と、休憩場所があって、何やら由緒書きもある。高架下です。
 高架下に連なっている店、工場が、そこだけスポンと抜けている。

 野次馬なもんだから、「何だ?」と思って近寄ってみると、何と神功皇后が、三韓征伐の帰途、ここに立ち寄られ、その清水で身装を整えられたのだ、と書いてある。
 その時、皇后の御姿が、水に鮮やかに映ったため、この清水を「御影(御姿)」を映した、ということから、「御影」。この地をも、「御影」と称するようになった、と書いてあります。

 ついでながら、世間に知られる「御影石」は、この御影周辺の、六甲山麓から切り出されたため、この名があります。
 そんな名前の土地がある、ということも、その地がここである、ということも、はるか昔に聞いた覚えはあるのですが、実際に見たのは初めてです。
 今は田舎に引っ込んでいるものの、つい数年前まで三十年余り神戸に居住していたのですが。

 初めに書いた通り、高架下で、その一部。商店で言えば、二、三軒分だけ、土地が、ない。そこは、池になっている。
 それも湧き水の池ですから、水底まで光が届く、透明な水です。用水池とされてはいるものの、見ただけなら、飲料に最適、といった風。
 (やや緑色の、ガラスのように透き通った水面の漣が、水底に映って、きれいな光の波を見せています)

 由緒書きは更に続いて、今度は南北朝期。
 後醍醐天皇に、この水でつくった酒を差し上げたところ喜んで受け取って下さった上に、良い酒だとほめられた。
 天皇様の「御心に叶った」ということと、「ほめられた」こと、から、「叶」、「嘉納」を併せて、「嘉納」を名字とし、この泉の名前を取って酒に「澤乃井」と名をつけた、とも書かれてありました。
 「灘五郷」と呼ばれる酒造りの土地の一つ、御影郷の中心となる嘉納家のはじまり、ということです。

 ついでながら、柔道の嘉納治五郎は、この一族。酒造業者が子弟を通わせるために設立したのが、灘中、灘高です。
 いつも新しいものを追い求める神戸ではありますが、こういったものが、今もちゃんと残っていることに、うれしさを感じます。

 が!何よりもうれしいこと。
 それは、この「澤乃井」と呼ばれる清水保存のために、心ある地元の人が、それこそ、名もない市井の人々が、活動し、これだけのものを残している、ということです。

 歴史のある国、というのは、大小の、このような「事跡」「逸話」「心持ち」を、本当にごく当たり前に、大事なこととして地元の人が守って来た。それが全てではないか、と、ふと思いました。
 「文華(文化)」というのは、こういうものなのかもしれません。

 今、日本を守るために、攻撃的にならざるを得ない。それは必要なことです。
 ただ、攻撃的になったものの、ふと我に返った時、じゃあ、一体、何を命懸けで守ろうとしているのか、となったら、この辺、意外に怪しいのじゃないか、と思うのです。
 今度の戦いというのは、長期戦になるのだし、総力をあげての神経戦になる。
 いきなりの武力攻撃をかけられるよりも、長期にわたって、まず、神経、精神的なものに攻撃を掛けられ、領土(国土)を奪われるのは最終段階。それも、表面上は平和裏に行なわれる、と思っています。

 これを食い止めるには、まずは体制づくり、でしょう。
 「民主党政権では駄目だ」と言われますが、この頃、やっと「民主党政権を選ぶようなことでは駄目だ」、に意識が移ってきたように思います。
 本当にやっとです。尖閣問題が引き鉄でしょう。北方領土問題が、追い打ちになりかけ、です。

 つまり、我々国民の意識がそのための態勢をつくり、その結果、新しい体制を、我々が、働き掛け、つくらねばならない。
 そういうことのために、まずできること。いや、これしかできないこと。
 それは、我が国を知ること、守るべきものは何か、と意識することではないか、と思います。
 「家族を守る。大事な人を守る、で十分じゃないか」?
 いや、「家族や大事な人を守る」だけなら、日本がなくなったって可能じゃないですか?
 「日本人として」「日本」を守る、その「日本」とは何か。
 
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