2010.11/19 (Fri)
昨日の柳田法務大臣の件を筆頭として、失言がズラリ。
勿論、「暴力装置」も出ています。
先に結論を書きます。
「暴力装置」を失言、と採り上げてはいるものの、アサヒでは、「暴力装置」という語句を、字面通り(言葉通り)の捉え方で、思いの外、小さく扱っています。
今となってみると、あの、ハト首相の言が懐かしい(・・・?)。
「私は愚かな総理大臣かもしれません。しかし、愚直に取り組むことが・・・・」とやったのを、阿比留記者だけが、「言葉のすり替えをした!」と、自身のブログで糾弾した以外、メディアは全て、前半の「私は愚かな総理大臣かもしれない」、だけを採り上げ、後半はカット。後から気づいたかもしれないけれど、知らん顔、してた。
「自らが『愚かな総理』とのたまうとは・・・(呆れてものが言えない)」
で、見事に統一戦線を組んでいたことと、全く変わっていないではないか。
ある人の日記に「柳田法務大臣のことより、こっちの方がひどい」、と書き込んで、その後、そこらをうろついていたら、「暴力装置というのは・・・」との説明を書かれている日記や、「そんな言葉は高校で習ったろう。怒るような事じゃないぞ」といったことの書かれた日記などに目が留まりました。
wikiで見たら、なるほど。マックス・ヴェーバーという社会学者が「他者を押さえ込むための組織だった力」を、「暴力装置」と定義した、とある。
確かに、石破前大臣が、この言葉を遣って説明をし、誤解が生じ、再説明したことがあった、ということも思い出しました。
実際、石破前大臣の言を見ると引っ掛かりはあるけれど、専門用語、として、この語句の定義を、併せ、説明されているため、二度も読めば納得は、できる。
「高校で習った」というレベルが当たり前、としたら、ここで怒っちゃいけない。というより「ここで怒る奴は、物知らずのバカですよ」、ということになる。
「丸川議員が知らぬ筈はない(わざと知らない振りをして咬みついた?)」ともあったけど、反対に「今の国会議員の大半は、そんなことも知らないんだねえ」みたいなことを書いていた人も居た。
時間が経つにつれて、「暴力装置」という言葉が、専門用語として存在しているらしいと、気づいてのコメントに流れが変わっていきました。
さて、数十年前、怠け者で、出来の悪い高校生だった私も、今頃になって、ではありますが、おかげさまで「暴力装置」という言葉の定義を知ることとなった。
そこで、次の問題。
官房長官は弁護士でもあるわけだから、社会学用語としての、この「暴力装置」という言葉の定義は十分に理解している筈で、結構多用していたことでしょう。
そこで、考える。
なのに、何故、すぐ、言い換えたのか。
「お前ら、こんな言葉も知らんのか。いいか、『暴力装置』というのは、だな。マックス・ヴェーバーが・・・・」と、得々として語り、委員会を煙に巻く、くらいのこと、これまでのやりたい放題の官房長官だ、朝飯前でやれるだろうに、何故・・・・・?
考えられるのは、テレビなどでも言っていたように、「つい、ポロッと昔の感覚で」ということでしょう。
この「暴力装置」という言葉を、70年代、安保闘争の闘士(!)、であった官房長官は、「革命は銃口から」に代表される、武力革命を是認する姿勢で、「暴力革命」のために、国家の「暴力装置」に暴力で対する、という捉え方をしていた。
彼だけでなく、当時の学生運動の主力となっていた全共闘の学生は、「体制側の力」を、「暴力装置」と再定義していた。
同じように見えるけど、早い話、「体制=敵」という基盤の上に置いた。
つまり、「暴力装置=敵」です。分かり易い。レーニンだって、毛沢東だって、「そうだ!」と言ってる(?)。
「暴力装置」という言葉自体は、本来が学問用語だから、感情は込められていない。にも拘らず、学生運動の闘士は、感情を込め、「敵」、とした。
それが、つい、ポロッと出てしまった。
だから「これはいかん、言い換えた方が早い!」と、咄嗟に判断した。
結果、却って「暴力装置」という言葉が、悪い意味合いの中に取り残され、決め付けられることになってしまった。
「官房長官は、自衛隊を、『暴力集団』と決めつけている」
「選良」である国会議員に、でさえ丁寧な説明を要することを、一般国民が、そう簡単に分かろう筈もない。
攻める国会議員は(途中で気がついたものも含めて)、知らぬ顔のまま「ひどい!ひどい!」の大合唱となる。
そうです。途中から実は三文芝居、茶番劇になっている。
でも、それを百も承知で、通す。貫く。
「これも、策略なんだから。汚いなんて言ってられない」
そんなところです。
それで、初めに戻ります。
「日本の良識アサヒしんぶん」、ともあろうものが、この「暴力装置」の意味を知らぬ筈がない。なのに、「暴力装置とは」という説明は、どこにもない。頬被りをしている。
これは一体どういうことか。正義を貫くんじゃなかったのか。是は是、非は非じゃないのか。(どうも、また産経だけ、みたいですね。「暴力装置」の説明を載せていたのは。)
最後に。
「暴力装置」という訳語は、どうみても、おかしい。デモクラシーを「民主主義」と訳したのと同じくらい、おかしい。
いや、「バイオレンス」を「暴力」と訳すこと自体に、知性のなさ、というか、日本人らしからぬ感性の乏しさを感じるんですが。
誰?この翻訳をしたのは。
昨日の柳田法務大臣の件を筆頭として、失言がズラリ。
勿論、「暴力装置」も出ています。
先に結論を書きます。
「暴力装置」を失言、と採り上げてはいるものの、アサヒでは、「暴力装置」という語句を、字面通り(言葉通り)の捉え方で、思いの外、小さく扱っています。
今となってみると、あの、ハト首相の言が懐かしい(・・・?)。
「私は愚かな総理大臣かもしれません。しかし、愚直に取り組むことが・・・・」とやったのを、阿比留記者だけが、「言葉のすり替えをした!」と、自身のブログで糾弾した以外、メディアは全て、前半の「私は愚かな総理大臣かもしれない」、だけを採り上げ、後半はカット。後から気づいたかもしれないけれど、知らん顔、してた。
「自らが『愚かな総理』とのたまうとは・・・(呆れてものが言えない)」
で、見事に統一戦線を組んでいたことと、全く変わっていないではないか。
ある人の日記に「柳田法務大臣のことより、こっちの方がひどい」、と書き込んで、その後、そこらをうろついていたら、「暴力装置というのは・・・」との説明を書かれている日記や、「そんな言葉は高校で習ったろう。怒るような事じゃないぞ」といったことの書かれた日記などに目が留まりました。
wikiで見たら、なるほど。マックス・ヴェーバーという社会学者が「他者を押さえ込むための組織だった力」を、「暴力装置」と定義した、とある。
確かに、石破前大臣が、この言葉を遣って説明をし、誤解が生じ、再説明したことがあった、ということも思い出しました。
実際、石破前大臣の言を見ると引っ掛かりはあるけれど、専門用語、として、この語句の定義を、併せ、説明されているため、二度も読めば納得は、できる。
「高校で習った」というレベルが当たり前、としたら、ここで怒っちゃいけない。というより「ここで怒る奴は、物知らずのバカですよ」、ということになる。
「丸川議員が知らぬ筈はない(わざと知らない振りをして咬みついた?)」ともあったけど、反対に「今の国会議員の大半は、そんなことも知らないんだねえ」みたいなことを書いていた人も居た。
時間が経つにつれて、「暴力装置」という言葉が、専門用語として存在しているらしいと、気づいてのコメントに流れが変わっていきました。
さて、数十年前、怠け者で、出来の悪い高校生だった私も、今頃になって、ではありますが、おかげさまで「暴力装置」という言葉の定義を知ることとなった。
そこで、次の問題。
官房長官は弁護士でもあるわけだから、社会学用語としての、この「暴力装置」という言葉の定義は十分に理解している筈で、結構多用していたことでしょう。
そこで、考える。
なのに、何故、すぐ、言い換えたのか。
「お前ら、こんな言葉も知らんのか。いいか、『暴力装置』というのは、だな。マックス・ヴェーバーが・・・・」と、得々として語り、委員会を煙に巻く、くらいのこと、これまでのやりたい放題の官房長官だ、朝飯前でやれるだろうに、何故・・・・・?
考えられるのは、テレビなどでも言っていたように、「つい、ポロッと昔の感覚で」ということでしょう。
この「暴力装置」という言葉を、70年代、安保闘争の闘士(!)、であった官房長官は、「革命は銃口から」に代表される、武力革命を是認する姿勢で、「暴力革命」のために、国家の「暴力装置」に暴力で対する、という捉え方をしていた。
彼だけでなく、当時の学生運動の主力となっていた全共闘の学生は、「体制側の力」を、「暴力装置」と再定義していた。
同じように見えるけど、早い話、「体制=敵」という基盤の上に置いた。
つまり、「暴力装置=敵」です。分かり易い。レーニンだって、毛沢東だって、「そうだ!」と言ってる(?)。
「暴力装置」という言葉自体は、本来が学問用語だから、感情は込められていない。にも拘らず、学生運動の闘士は、感情を込め、「敵」、とした。
それが、つい、ポロッと出てしまった。
だから「これはいかん、言い換えた方が早い!」と、咄嗟に判断した。
結果、却って「暴力装置」という言葉が、悪い意味合いの中に取り残され、決め付けられることになってしまった。
「官房長官は、自衛隊を、『暴力集団』と決めつけている」
「選良」である国会議員に、でさえ丁寧な説明を要することを、一般国民が、そう簡単に分かろう筈もない。
攻める国会議員は(途中で気がついたものも含めて)、知らぬ顔のまま「ひどい!ひどい!」の大合唱となる。
そうです。途中から実は三文芝居、茶番劇になっている。
でも、それを百も承知で、通す。貫く。
「これも、策略なんだから。汚いなんて言ってられない」
そんなところです。
それで、初めに戻ります。
「日本の良識アサヒしんぶん」、ともあろうものが、この「暴力装置」の意味を知らぬ筈がない。なのに、「暴力装置とは」という説明は、どこにもない。頬被りをしている。
これは一体どういうことか。正義を貫くんじゃなかったのか。是は是、非は非じゃないのか。(どうも、また産経だけ、みたいですね。「暴力装置」の説明を載せていたのは。)
最後に。
「暴力装置」という訳語は、どうみても、おかしい。デモクラシーを「民主主義」と訳したのと同じくらい、おかしい。
いや、「バイオレンス」を「暴力」と訳すこと自体に、知性のなさ、というか、日本人らしからぬ感性の乏しさを感じるんですが。
誰?この翻訳をしたのは。