2010.12/15 (Wed)
「孔子平和賞」から始まって、孔子のみならず、過去、世界中で人肉が食されたことを書きました。
尊ぶが故に、という場合もある。憎しみの故に、という場合もある。
また、ただ生き延びるために、という場合もある。
現在それが行なわれなくなった理由は、書きませんでした。
敢えて書くこともないでしょう。みんな分かっている、了解していることだから、です。
曰く、「人が人を食べるのは、あってはならないことなのだ」
これは理由ではありません。いや、これは理由とは言えません。何故、という問いかけに対する論理展開がなされていないからです。
ただ、「いけない」。理由なんかない。理由なんかいらない。ただ、「いけない」。
会津の武士の子弟はみんな習ったという教え。
「ならぬことはならぬものです」。
ここには、「何故」はありません。こうしなければ我々の祖先が営々として築き上げて来た「社会」が成り立たないからです。
つまり、論理以前の約束。「ならぬことはならぬ」。
「社会精神の発達」の結果、「人間はここまで来た」、ということです。
昔、或る女性党首が「駄目なものは、駄目!」と言ったことがあります。
同じ言葉です。けれども、意味するところは全く違う。
会津のそれは社会を成り立たせている約束の一つ、「営々として築き上げて来た社会」を支える、重要な精神的支柱です。
対して、女性党首のそれは、己が党の党是を定規として、の「批判」です。
大きく言えば、前者は社会を更に発展させる柱であり、後者は「今」(その時点)を絶対として、社会、更には世界の歴史を切り刻む(裁定する)ものです。
同じ言葉であっても、その拠って立つ「場(考え方、立場等)」によって、意味は全く変わってしまう。
言葉を大事にすればするほど、他者の発言を、その瞬間だけで判断してはならない。
・・・・・・と思うのですが、何十年も前から、テレビのワイドショーでは同じ場面のビデオを、放送の間中、何度も何度も流していました。
「これでもか!」と言わんばかりに。まるで漆塗りです。
結果、「しつこいなあ」とテレビを消す(又は、チャンネルを換える)か、それとも、そのままにしておくか。
大概はそのままです。
そのままにしておいて何度も見るうちに「へえ~」から「そんなものか」に変わり、遂には「そうらしいな」になる。「刷り込み」と言われますが、実際は「感じ方」を変えさせるわけだから、「洗脳」と言っても良いでしょう。
その手法は、現在も受け継がれています。それもニュース番組で。
その瞬間だけ、その事象だけ、で判断してはならない。
孔子は人肉を食べたらしい。好物だったらしい。
では、周囲の人は、誰も食べなかったということか。それは分からない。でも、あまりにも衝撃的だったから記録されたこと、と思われます。
衝撃的な事実だとして、二通り考えられます。
一つは「誰も食べず、孔子だけが好んで食べた」
もう一つは「まさか、と思われていた孔子が食べた」
こう書けば、直感で「あ、後の方だな」、となります。途中を考えなくとも一瞬で答えが出たはずです。
説明しろ、と言われれば、大体こんな答えになるでしょう。
「孔子は人格者だ、と言われていた筈だ。弟子も立派な人ばかりで、それぞれ諸国の大臣として立派になったはずだ。言行録は「論語」として今に残り、盛んに研究されている。まさか、そんな人が人肉を食すなんて、びっくりして当然じゃないか」
つまり、孔子がそんなことをするなんて、と当時の人でさえびっくりした、だから書き残されているのだ。こうなるのが筋道、でしょう?
では、逆だったら?
「誰も食べないのに孔子だけが食べた。好物だった」
当時の世間の人はそれを人格者として捉えるか、それとも異常な人物として捉えるか。更に、そんな人物が教えた礼と楽とは、一体なんだ?
あの、立派な政治家となった弟子達は、この先生の異常な行動(嗜好)を見て、なお尊敬し、後、「論語」を編集しようとした??
理屈に合わないでしょう?何かが抜け落ちている。
その瞬間だけで、その事象だけで、判断してはならない。
尖閣問題に関しての一連の谷垣総裁の発言。つい先日の大連立に関する与謝野議員の言動。
彼等は評論家ではない。代議士です。社会を裁定するのが仕事ではない。
国の在るべき姿を語るのが仕事であり、それについての発言なのです。
「私がぶち切れるようなことは~」などという発言とは根本的に違うのです。
もう一つ付け加えれば、ネットの情報と、テレビ・新聞の報道とどちらが信用できるか。
本当は、だから、「どちらも信用できない」
我々はロボットではない。そして、衆愚であることを潔しとしない。
ならば、己が頭脳を用いて、一つの情報を基底として、過去・未来を併せ考え、自らが答えを出さねばならない。そのために、考える。
切り捨てるのは仲間ではなく、「情報」を、考えることなく信じてしまう自身の依存心、ではないでしょうか。
例によって、自身への提言であり、苦言、です
「孔子平和賞」から始まって、孔子のみならず、過去、世界中で人肉が食されたことを書きました。
尊ぶが故に、という場合もある。憎しみの故に、という場合もある。
また、ただ生き延びるために、という場合もある。
現在それが行なわれなくなった理由は、書きませんでした。
敢えて書くこともないでしょう。みんな分かっている、了解していることだから、です。
曰く、「人が人を食べるのは、あってはならないことなのだ」
これは理由ではありません。いや、これは理由とは言えません。何故、という問いかけに対する論理展開がなされていないからです。
ただ、「いけない」。理由なんかない。理由なんかいらない。ただ、「いけない」。
会津の武士の子弟はみんな習ったという教え。
「ならぬことはならぬものです」。
ここには、「何故」はありません。こうしなければ我々の祖先が営々として築き上げて来た「社会」が成り立たないからです。
つまり、論理以前の約束。「ならぬことはならぬ」。
「社会精神の発達」の結果、「人間はここまで来た」、ということです。
昔、或る女性党首が「駄目なものは、駄目!」と言ったことがあります。
同じ言葉です。けれども、意味するところは全く違う。
会津のそれは社会を成り立たせている約束の一つ、「営々として築き上げて来た社会」を支える、重要な精神的支柱です。
対して、女性党首のそれは、己が党の党是を定規として、の「批判」です。
大きく言えば、前者は社会を更に発展させる柱であり、後者は「今」(その時点)を絶対として、社会、更には世界の歴史を切り刻む(裁定する)ものです。
同じ言葉であっても、その拠って立つ「場(考え方、立場等)」によって、意味は全く変わってしまう。
言葉を大事にすればするほど、他者の発言を、その瞬間だけで判断してはならない。
・・・・・・と思うのですが、何十年も前から、テレビのワイドショーでは同じ場面のビデオを、放送の間中、何度も何度も流していました。
「これでもか!」と言わんばかりに。まるで漆塗りです。
結果、「しつこいなあ」とテレビを消す(又は、チャンネルを換える)か、それとも、そのままにしておくか。
大概はそのままです。
そのままにしておいて何度も見るうちに「へえ~」から「そんなものか」に変わり、遂には「そうらしいな」になる。「刷り込み」と言われますが、実際は「感じ方」を変えさせるわけだから、「洗脳」と言っても良いでしょう。
その手法は、現在も受け継がれています。それもニュース番組で。
その瞬間だけ、その事象だけ、で判断してはならない。
孔子は人肉を食べたらしい。好物だったらしい。
では、周囲の人は、誰も食べなかったということか。それは分からない。でも、あまりにも衝撃的だったから記録されたこと、と思われます。
衝撃的な事実だとして、二通り考えられます。
一つは「誰も食べず、孔子だけが好んで食べた」
もう一つは「まさか、と思われていた孔子が食べた」
こう書けば、直感で「あ、後の方だな」、となります。途中を考えなくとも一瞬で答えが出たはずです。
説明しろ、と言われれば、大体こんな答えになるでしょう。
「孔子は人格者だ、と言われていた筈だ。弟子も立派な人ばかりで、それぞれ諸国の大臣として立派になったはずだ。言行録は「論語」として今に残り、盛んに研究されている。まさか、そんな人が人肉を食すなんて、びっくりして当然じゃないか」
つまり、孔子がそんなことをするなんて、と当時の人でさえびっくりした、だから書き残されているのだ。こうなるのが筋道、でしょう?
では、逆だったら?
「誰も食べないのに孔子だけが食べた。好物だった」
当時の世間の人はそれを人格者として捉えるか、それとも異常な人物として捉えるか。更に、そんな人物が教えた礼と楽とは、一体なんだ?
あの、立派な政治家となった弟子達は、この先生の異常な行動(嗜好)を見て、なお尊敬し、後、「論語」を編集しようとした??
理屈に合わないでしょう?何かが抜け落ちている。
その瞬間だけで、その事象だけで、判断してはならない。
尖閣問題に関しての一連の谷垣総裁の発言。つい先日の大連立に関する与謝野議員の言動。
彼等は評論家ではない。代議士です。社会を裁定するのが仕事ではない。
国の在るべき姿を語るのが仕事であり、それについての発言なのです。
「私がぶち切れるようなことは~」などという発言とは根本的に違うのです。
もう一つ付け加えれば、ネットの情報と、テレビ・新聞の報道とどちらが信用できるか。
本当は、だから、「どちらも信用できない」
我々はロボットではない。そして、衆愚であることを潔しとしない。
ならば、己が頭脳を用いて、一つの情報を基底として、過去・未来を併せ考え、自らが答えを出さねばならない。そのために、考える。
切り捨てるのは仲間ではなく、「情報」を、考えることなく信じてしまう自身の依存心、ではないでしょうか。
例によって、自身への提言であり、苦言、です