CubとSRと

ただの日記

「ちょっと待てよ・・・・?」

2020年06月02日 | 心の持ち様
2010.12/15 (Wed)

 「孔子平和賞」から始まって、孔子のみならず、過去、世界中で人肉が食されたことを書きました。
 尊ぶが故に、という場合もある。憎しみの故に、という場合もある。
 また、ただ生き延びるために、という場合もある。

 現在それが行なわれなくなった理由は、書きませんでした。
 敢えて書くこともないでしょう。みんな分かっている、了解していることだから、です。
 曰く、「人が人を食べるのは、あってはならないことなのだ」
 これは理由ではありません。いや、これは理由とは言えません。何故、という問いかけに対する論理展開がなされていないからです。
 ただ、「いけない」。理由なんかない。理由なんかいらない。ただ、「いけない」。
 
 会津の武士の子弟はみんな習ったという教え。
 「ならぬことはならぬものです」。
 ここには、「何故」はありません。こうしなければ我々の祖先が営々として築き上げて来た「社会」が成り立たないからです。
 つまり、論理以前の約束。「ならぬことはならぬ」。
 「社会精神の発達」の結果、「人間はここまで来た」、ということです。

 昔、或る女性党首が「駄目なものは、駄目!」と言ったことがあります。
 同じ言葉です。けれども、意味するところは全く違う。
 会津のそれは社会を成り立たせている約束の一つ、「営々として築き上げて来た社会」を支える、重要な精神的支柱です。
 対して、女性党首のそれは、己が党の党是を定規として、の「批判」です。
 大きく言えば、前者は社会を更に発展させる柱であり、後者は「今」(その時点)を絶対として、社会、更には世界の歴史を切り刻む(裁定する)ものです。

 同じ言葉であっても、その拠って立つ「場(考え方、立場等)」によって、意味は全く変わってしまう。
 言葉を大事にすればするほど、他者の発言を、その瞬間だけで判断してはならない。

 ・・・・・・と思うのですが、何十年も前から、テレビのワイドショーでは同じ場面のビデオを、放送の間中、何度も何度も流していました。
 「これでもか!」と言わんばかりに。まるで漆塗りです。
 結果、「しつこいなあ」とテレビを消す(又は、チャンネルを換える)か、それとも、そのままにしておくか。
 大概はそのままです。
 そのままにしておいて何度も見るうちに「へえ~」から「そんなものか」に変わり、遂には「そうらしいな」になる。「刷り込み」と言われますが、実際は「感じ方」を変えさせるわけだから、「洗脳」と言っても良いでしょう。
 その手法は、現在も受け継がれています。それもニュース番組で。

 その瞬間だけ、その事象だけ、で判断してはならない。
 孔子は人肉を食べたらしい。好物だったらしい。
 では、周囲の人は、誰も食べなかったということか。それは分からない。でも、あまりにも衝撃的だったから記録されたこと、と思われます。

 衝撃的な事実だとして、二通り考えられます。
 一つは「誰も食べず、孔子だけが好んで食べた」
 もう一つは「まさか、と思われていた孔子が食べた」

 こう書けば、直感で「あ、後の方だな」、となります。途中を考えなくとも一瞬で答えが出たはずです。
 説明しろ、と言われれば、大体こんな答えになるでしょう。

 「孔子は人格者だ、と言われていた筈だ。弟子も立派な人ばかりで、それぞれ諸国の大臣として立派になったはずだ。言行録は「論語」として今に残り、盛んに研究されている。まさか、そんな人が人肉を食すなんて、びっくりして当然じゃないか」

 つまり、孔子がそんなことをするなんて、と当時の人でさえびっくりした、だから書き残されているのだ。こうなるのが筋道、でしょう?

 では、逆だったら?
 「誰も食べないのに孔子だけが食べた。好物だった」
 当時の世間の人はそれを人格者として捉えるか、それとも異常な人物として捉えるか。更に、そんな人物が教えた礼と楽とは、一体なんだ?
 あの、立派な政治家となった弟子達は、この先生の異常な行動(嗜好)を見て、なお尊敬し、後、「論語」を編集しようとした??

 理屈に合わないでしょう?何かが抜け落ちている。
 
 その瞬間だけで、その事象だけで、判断してはならない。
 尖閣問題に関しての一連の谷垣総裁の発言。つい先日の大連立に関する与謝野議員の言動。
 彼等は評論家ではない。代議士です。社会を裁定するのが仕事ではない。
 国の在るべき姿を語るのが仕事であり、それについての発言なのです。
 「私がぶち切れるようなことは~」などという発言とは根本的に違うのです。
 
 もう一つ付け加えれば、ネットの情報と、テレビ・新聞の報道とどちらが信用できるか。

 本当は、だから、「どちらも信用できない」
 我々はロボットではない。そして、衆愚であることを潔しとしない。
 ならば、己が頭脳を用いて、一つの情報を基底として、過去・未来を併せ考え、自らが答えを出さねばならない。そのために、考える。
 切り捨てるのは仲間ではなく、「情報」を、考えることなく信じてしまう自身の依存心、ではないでしょうか。

  例によって、自身への提言であり、苦言、です

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「浅えむ丸」

2020年06月02日 | 重箱の隅
 「太平天国」のところでもチラッと書いたんですが、実は孔子もカニバリズムの話が・・・。

2010.12/11 (Sat)

 wikipediaを初めとして、調べると大概のことは、すぐ詳しいことが出てくるんですが、やっぱりネット記事と言うのは使用法が分からない新兵器の倉庫に放り込まれたようなものです。
 「宝の持ち腐れ」という言葉もあるけれど、それが宝なのか単なるガラクタなのか、それさえも分からないまま目移りばかり。

 というわけで、そっちの方は置き、自分の僅かな引き出しを使います。
 まず思い出したのは、前に一度書いた、戦時中の父の体験談。
 あの、「歩哨に立っていた時、村の娘と出くわして・・・」の話です。

 「人食い族だったから」、と言う父に、まさかそんな人食いなんて、と返したら「いや、本当に、ちょっと前までは、やっていたらしい」と自信を持って断言されました。
 小学生の頃に聞いた話でしたが、それから5年ほど後には、異人・貴人等の力を我が物とするため、みんなで分けて食べる、という風習は全世界にあったと知ります。

 更に、肝臓に病があれば肝臓を食べ、骨が弱ければ骨を粉末にして服用する等の即物的(?)療法の存在も知ることになる。
 肝はいいけれど、脳なんかはもっと美味いから、と、羊の脳の料理なんかは高級品なんだ、と聞いたこともあるし、隣の国では、元々、「四本足で食べないのは机と椅子だけ」、なんて言います。もっと高級な料理として、猿の脳を食べる、とか。
 そして、その上に美味しいのは、当然、人の・・・・・うわぁ~。

 前回の脱線の中に、戦に破れた方は奴隷になり、時には食糧にも、と書きました。色々あるわけです。

 尊ぶが故に、それを「いただく」。
 世界中の儀式で「生け贄」を捧げる、というのがあります。「(生け)贄」ですから、基本、それは最終的にみんなで分け合うものです。尊ぶが故、です。
 アイヌの「イヨマンテ」も、同じく神様が熊の身体(着ぐるみ?)でやって来る。
 それをみんなで美味しくいただき、神様が、天に帰って行かれるのを見送る。
 「神様に捧げ物」、でなくって「神様からの贈り物」をいただく。

 大事にした、大切な人だった。だから、という場合もあります。
 反対に、憎しみからよく使われる言葉、「食い殺す」、というのは、本当に「食べてしまう」ということなのに、何となく視線をそらし、「噛み付いて殺すだけ」と脳内変換、してませんか?

 となると、日本はどうか。
 上田秋成の「雨月物語」に「青頭巾」という話があります。
 高僧が、身の回りの世話をさせて可愛がっていた稚児が、突然死んでしまった。
 高僧は世も末と嘆き悲しみ、葬儀もせず、泣き暮らしていたのだけれど、段々様子がおかしくなる。そして可哀想に思うあまりか、放したくなかったからか、遂にその稚児の遺骸を・・・・・うわ~~。
 その先は、まあ、「雨月物語」を読んで下さい。

 これは、雨月物語という、言ってみれば「怪奇小説」集だから、お話として終わらせておいてもいいのかもしれません。
 しかし「火のないところに煙は立たぬ」ものです。

 何度か日記に採り上げた海音寺潮五郎。氏の随筆の中に「ひえもんとり」の話がありました。
 どんな字を書くのか分からないのですが、早い話が肝試し。
 ただ、さすがに鹿児島。「えっ!?」と驚くような肝試し、です。
 この肝試し、いつでもできる、というわけではない。前日に処刑があった日に限る。
 翌日、埋葬するために、刑場に罪人の遺骸が置いてある。そこへ行って処刑された者の腹を割き、肝を取り出してくる。それが「ひえもん取り」だそうです。
 言葉通りの「肝試し」です。おそるおそる行ってみたら何組かが鉢合わせ、ということもあったとか。
 取って帰ったら、それを風通しの良いところで陰干しにし、ほどよいところで小刀で削り、薬とする。

  「熊の胆(くまのい)」という薬があります。熊が鮭のえらに笹を通して担いでいく絵の薬、見られたこと、ありませんか。熊の肝臓、胆嚢が入っているという意味だったと思います。
 人のなら、罪人とは言え、もっと高貴なんだから、何にでも効く万能薬になる。

 「え~~~っ」と思った人、「木乃伊」という高級な薬種もあります。
 「木乃伊」は「ミイラ」と読みます。「ミイラ取りがミイラになる」のミイラ、です。
 人間とは限らないけれど、ミイラは腐ることなく数十年、数百年、そのままであるため、不老不死の妙薬とされ、その中で最も高級なのは人間の・・・・うわ。

 それで今度は、薬として、「食べる」というより「服用する」ことだけ見てみます。
 夏目漱石が子供の頃、具合が悪くなると、何にでも効く、として「浅えむ丸を飲め」と言われた、と書いていたように覚えています。

 「浅えむ丸」だから、丸薬ですね。でも、なぜ、「浅えむ」?
 「浅M」か、と思ったけれど明治初期のこと、「浅M」ではなく、本当は「浅右衛門」丸、だったとか。
 浅右衛門という人名を冠した丸薬。 

 御存知、山田浅右衛門。首を刎ねた後、遺骸の始末も許されていたそうで、遺骸から肝臓などを取り出し薬種問屋に売っていた。
 だから、その名を取って「浅右衛門丸」。万能薬としてよく売れたんだそうです。

 でも、「まさか。本物?」
 どうも本物らしい。高かったそうです。入っているのは、ほんの少しだったでしょうけどね。
 つまり、危急の際のことは別にしても、日本にもまんざら、そういうことがなかったわけではない。それは認めざるを得ない。

 「それが好物だ」なんていうのは、とんでもないことです。
 でも昔(数千年前)、ここまでの意識が発達していなかったことは、「歴史哲学」を読まずとも、誰しも想像できるところではないですか?

 さて、実はもう一つ気になるのがあります。
 あの、「征露丸」と双肩する「仁丹」。元々は「仁」でなくって「二」を取った「人丹」だったようです、森下が売り出すまでは。
 「丹」は「丹薬」。仙人になるための「丸薬」です。
 でも、もしかしたら、「丹」は「胆」だったかもしれないし。
 ・・・・・ということは人胆・・・・・・ひえ~~~~。 
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「遅ればせながら」

2020年06月02日 | 重箱の隅
2010.12/10 (Fri)

 「孔子平和賞」のことを。
 
 昨年辺りから、時々名前が出てきました「孔子学院」。
 何でも、シナ、国の肝煎りで世界中に聖人「孔子」の名を冠した学校をつくって、四千年の歴史を正しく伝えるとか何とか。
 もう随分学校がつくられているんだそうですね。
 ただ、不思議なことに、「儒学」を広める、というわけではないらしい。
 一番よく知られた名前だから、ということで、「冠詞」扱いみたいです。

 つまり、「孔子」というのは「カンフー」とか「マーボドーフ」とあまり扱いが変わらないみたいなんです。
 そりゃ、「カンフー学院」とか「マーボドーフ大学」はないでしょう、変ですから。
 でも・・・・・ねえ。
 「あんたたちゃ、節操がないのか!」と思います。(ない・・・・か。)

 大体、大昔、「焚書坑儒」なんて、儒学関連の書物を焼き捨て、儒学者を生き埋めにして「屠殺」した過去を持ってるんです。一度ならず、二度三度。もっと?

 「南京大虐殺」事件を、「南京大屠殺」と言っている。
 確かに、「南京大屠殺」はあったんだそうですね、何度か。
 だから、日本人が「南京大虐殺はなかった」、といくら言っても「いや、南京大屠殺は、あった。間違いない」と、反論される。
 日本には関係のない「大屠殺」なんだけど。それ(南京大屠殺)なら、何度も「あった」。

 南京が首都だった時、同じ漢民族同士で、あったんだそうです。太平天国の時なんかはひどかったらしい。革命政府、ですからね、言ってみれば。樹立する時も、平定される時も、酸鼻を極めるような状景が展開されたようです。皆殺しに近いことをする。

 日本でも、戦国期には、篭城して居るのを兵糧攻めにし、井戸に毒を撒いて水を飲めなくした、というのがあります。餓死したり病死したりした者の屍肉を喰らっていた、という記録もあります。三木城の合戦とか、鳥取城とか。
 ただ、あまりのむごたらしさからの記録で、件数が少ないのは言うまでもありません。
 「大屠殺はあった」、とだけ言う。そうでしょう。革命なんですから。
 「政権を倒す」と言うのは、文字通りの革命、「命を革(た)つ」ことでもあります。降参したら、普通、奴隷にされます。ギリシャ、ローマの昔からそうです。
 しかし、奴隷じゃなくて食糧にされる事もある。(うう、とんでもないところへ行こうとしている・・・。)
 
 「屠殺はあった」。それだけ言う。事実だ。
 「誰がやった」と聞くと、初めて「日本軍がやった」、と言い切る。
 この辺を以って、「したたか」という表現をすべきでしょう。
 したたか=平気で嘘をつく、です。

 本線に戻ります。
 「そんな大昔のこと、責任取ることはなかろう」
 というわけで近世・近代です。でも、悪く言われる近世・近代。(日本の江戸~明治期)「清国は悪逆非道の限りを尽くした」みたいなイメージ、ありませんか?

 私は、こう習いました。
 「モンゴルと同じく遊牧民族だった満洲民族は、明を征服し、『清』を建てた。満洲民族は文字を持たなかったため、漢民族の文化に倣い、ただ、髪型、服装くらいの簡単な習慣だけ強制し、他はそれまでと同様の生活を許した。」

 「髪は辮髪、漢服をやめ、旗服へ」
 俗に言う、「髪を切るか、首を切るか」、です。
 そのような緩やかな支配をしたため、清国は長く続いた。そう思ってました。
 でも、とんでもない。それは違う。
 やっぱりここでも、「歴史学者は人心を知らない」ようです。

 満洲民族の偉いのは(というより、清朝政府の偉いのは)、漢民族文化の全てを「尊敬」する姿勢をとったところにあります。戊辰戦争時の、政府軍西郷隆盛のやったことと、同じことをやっている。
 心持ちはともかく、「被征服者に、恥をかかせたり、劣等感を持たせたりするな。ただし、肝腎なところは押えよ」です。
 持ち上げるわけではない。清国皇帝は、ただ「漢民族の文化は素晴らしい」と認め、自らもそれを学ぶことで、被征服者の気持ちを掴んだのです。
 しかし、自らの故郷である満洲へは漢民族を行かせない。
 「満洲は聖地である。我々も行かないから、お前たちも行くな」と漢民族に命ずる。

 計算づくでやったとしたら満洲民族は、大変な理論家であり、策士です。
 しかし、言われるように「策士、策に溺れる」、です。民族として、政府として、そんな体質なら、江戸、明治にわたるあれほどの長期間、他民族を支配することなどできません。
 「相手の誇りを傷付けない。しかし、大義は正面に立てる。」
 これをやられると、誰も、正面から反抗することはできない。「情」、「理」の双方を立て、でも、理を上位に置くものだ、としてきたのが日本であり、清国であった、と見てよいでしょう。
 「情」だけでは、国は早晩、滅びます。しかし、「理」だけでも人心は離れ、国は崩壊します。「情」、「理」、共にあって、上下の位置が、国民に理解されている事、です。
 「近世のシナ」、清国は決して変な国ではない。 

 「孔子学院」のことを初めに書きましたが、「孔子をただの有名な名前としてだけ、使っている」「節操がないのか!」と書いた理由は、「文化大革命」、です。そして「批林批孔」、です。
 毛沢東の号令の下、展開された文化大革命(文革運動)は、毛沢東を建国の父、として熱狂的に支持する者ならば、誰でも、運動家として認められました。
 共産主義のシンボルである紅旗を押し立て、赤い腕章を巻き、「毛語録」通りに社会を造り直す。

 「紅衛兵」となった若者は、共産主義をまともに学んだわけではありません。
 また、学問教養はありません。それが毛語録を読む。「語録」、ですよ。論文を読んで、論議して、ではありません。
 語録からどんな意味を見出すか。おおよそ見当がつくでしょう。
 語録には「論の展開」はない。論議しなければ見つからないものを、学問教養のない若者が読んで何が見出せるか。
 当然、彼等は単に毛語録通りに(字面のままに)行動しただけです。
 それが「文革の担い手」です。
 「批林批孔」はその時出て来た方針です。

 「林彪を批判し、孔子を批判する」
 「社会主義革命を成し遂げた同志『林彪』。彼は間違っていた。批判的に見直さなければならない。」
 そして「彼の考えと共通する孔子も、今一度批判されるべきである」

 学問教養のない若者。彼らが「毛沢東の号令の下、一斉に起ち上がった」わけですが、おかしいでしょう?
 「林彪同志を批判すべきである」
 どこから発案されたんでしょう。誰が発案したんでしょう。
 そして、なぜ突然に「孔子の在り方を批判しよう」などという発想が生まれるんでしょう。第一、大半の紅衛兵にとっては「おい『こーし』って誰?」の筈です。
 勿論、これらは、既に本質が明らかにされています。
 急造の紅衛兵が、こんなことを言うなんてあり得ない。これは林彪と共に孔子にかこつけて、周恩来を批判することで毛沢東が権力を奪還しようとしたのだ、と。

 今でも正面きって毛沢東のやったことを「大失政であった」、と口にすることはできないようです。でも、さすがの共産党も「功が七分、罪が三分」と言っています。
 直感で「これ、逆だな!」と思われた方もあるかもしれません。

 そんなところに引き合いに出された孔子。
 「批林批孔」とされ、墓を暴こうとされた孔子。
 わけもなく、ただ、有名だから、と「孔子学院」なんて、無断で名前を使われた孔子。

 そして、今度は「孔子平和賞」です。
 本当に、気の毒です・・・・・・・。
 う~~ん。でも、子孫、という人も孔子の名を・・・・・・・・・。

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「夢見ることを拒否する」

2020年06月02日 | 重箱の隅
2010.12/04 (Sat)

 --朝日新聞の取材で--
 司馬遼太郎について)
 「人物描写はうまいと思うけれどあのヒトの史観が好きじゃない。ボク、坂本龍馬って好きじゃないですよ」
 なぜ?
 「未来を夢見る人間ってボク大きらい。自分が一番最後だと思ってる人間にしかボク興味感じない」
 未来を夢見ないで?
 「拒否することですよ。オマエまちがってるといいつづけることです。その拒否の形式がボクの場合変わっている。ヘンなチンドン屋みたいな服着たりしてね」
 誤解?
 「ぜーんぜんかまわない。誤解をおそれるのは女性的ですよ」

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 自決2ヶ月前の三島由紀夫の語ったことだそうです。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「竜馬がゆく」、が大ヒットしたのは、その頃で、右翼学生、左翼学生、みんな読んでいて、それぞれに感情移入し、「今は幕末だ」、「オレは竜馬だ」と思う。
 だから、脱藩するように、ポンと飛んだ。北朝鮮に飛び、非合法闘争に飛んだ。
 しかし、右翼学生の中には、「いや、新撰組の土方の方が凛々しい」という者もいた。森田必勝も、そうだった。龍馬派と土方派。右翼は勤皇だ。だったら、竜馬だ。新撰組は幕府を守ったのだから、体制の犬だ。
 右翼学生の圧倒的多数が竜馬派だった。しかし、みんないなくなった。就職したり、家業を継いだり、自民党の政治家の秘書になったり。
 「未来を夢見る人間」は、いつでもどんな小さなものにも夢をみるのかもしれない。右翼学生なんかやめて、それなりの社会に又、夢を持って生きている。
 森田必勝は、夢を持たず、運動に殉じた。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 三島由紀夫の新聞記事のあとは、鈴木邦男氏の文を、私が要約したものです。あまりうまい約ではないので、是非、以下の原文をご覧下さい。

    http://kunyon.com/shucho/101129.html

 「右翼学生だけでなく、左翼学生も「竜馬がゆく」を愛読していた。そして感情移入していた。」

 知りませんでした。私は当時高校生で、三島由紀夫はあまり好きではなかった。本を一冊も読んでいないのに(いや、「潮騒」と「午後の曳航」は読んだかな?)、楯の会のことだけで好感を持てなかった。
 「小説家が何やってんだ。徴兵逃れをしたというじゃないか」と思っていました。ただの伝聞で。知らないというのはこんなもんです。傲慢です。周りをみんなバカにしている。そのくせ、高校生の頃ってコンプレックスの塊りです。怖いもの知らずで向こう意気は強いけど、実に脆い。
 でも、それで良いんだと思います。だからこそ、勉強するんですから。

 今は分かるような気がします。
 「未来を夢見る人間ってボク大きらい」

 実は未来について、三島は語っている。予言に近いことを。
 予言ではなく推論です。予言に見えるほどの的中率です。
 「未来を夢見る人間ってボク大きらい」

 三島は、未来を「夢見る」人間って、きらいだと言っている。
 「未来を語る」、じゃないんですね。「今」をしっかり生きることが大事だ、と言っている。
 未来を、「今をしっかり生きること」で、過去から連綿と続く日本(伝統、文化全て)と、当たり前につなぐ。
 「今をしっかり生きれば」、未来は当たり前に開けて来る。やって来る。

 なのに、「未来を夢見る」。「そんな人間ってボク大きらい」。
 足が「今」という地に着いてないじゃないか、というわけです。
 そう言われれば、これ、昔ながらの「日本人の生き方」、「日本という国の在り方」じゃないですか?

 ・・・未来を夢見ないで?
 「拒否することですよ」「ヘンなチンドン屋みたいな服着たりしてね」

 「未来を夢見ること」を拒否する。それは「未来を拒否すること」ではありません。
 「夢見ること」を拒否する。「ヘンなチンドン屋みたいな服」というのは、おそらく、楯の会の制服のことでしょう。あえてチンドン屋というのは、本人は、まじめくさって、真剣そのもので、「今」に足を踏みしめて生きているということを、あらわしているのだと思います。

 ここまで書いて、先日、他の方のブログで見た、ギリヤーク尼ヶ崎のことを思い出しました。
 彼もまた、「未来を夢見る」ことを拒否しているということでしょう。
 赤褌一丁で。

 
 ただ、私は以前、「土佐は勤皇の地だ」、と聞いたことがあります。坂本龍馬も、尊皇の志に篤い、と。(そんなのは当たり前、ということですね)
 それで、これまで引っ掛かっていた、色々なものが氷解した記憶があります。
 坂本竜馬は下士ではない。郷士です。家臣団に含まれない地侍です。侍の身分を山内は取り上げなかった。(地侍だから、脱藩もそれ程厳しく捜索されない)
 幕藩体制に組み込まれない郷士は、そのまま、大本である皇室に向う。当然のことです。
 「侍」だけれど藩主、幕府を経由せず、皇室を通してそこから世界に目を向ける。 
 「地侍から世界へ」の間に、皇室は必ず存在する。それは氏神様の氏神様、なわけですから。坂本竜馬はけっして「世界市民」を「夢見て」いたのではなかった、ということ。
 これを思えば、三島の「坂本龍馬って好きじゃないですよ」は、司馬遼太郎の史観によってうまく人物描写された「坂本龍馬って好きじゃない」になります。

 「司馬遼太郎の史観が好きじゃない」の言葉から、妙なところに行ってしまいました。
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「紅葉は何色」(2670年前から)

2020年06月02日 | 重箱の隅
2010.11/30 (Tue)

 前回、「秋の夕日に」、と始めて、いつの間にか大脱線。子供の話から、「自分が先!」の話になって終わりました。
 ちっとも説得力のない話だったのはいつものことですが。
 で、あのまま終わってしまうのは残念なので、一度、本線に戻ってみます。

 「秋の夕日に」まではいいけど、「照る 山もみじ」なのか、「照る山 もみじ」なのか、と書いたところから、脱線していました。

 歌というのは、基本的に、その語のイントネーションを基にしてつくります。だから、言葉の切れ目は大問題。歌詞が先の場合、です。
 作曲家の團伊玖磨もエッセイの中で、「花の街(七色の谷を越えて流れて行く風のリボン・・・)」作曲について、このことについて書いていました。
 だから、歌詞の本来のイントネーションと全く違うメロディーをつけると、何とも居心地が悪い。(また、脱線しそう・・・・)
 以前に、あの「宇宙戦艦ヤマト」のテーマを書いた宮川泰氏が、みなみこうせつの「神田川」の中、「洗い髪が芯まで冷えて」のメロディーが、
 「荒い~ガミが~芯まで冷えて、というのは、髪がゴワゴワしていて、・・・」みたいなことを言ってました。

 昔の歌にも、それはついてまわる。
 「照る山 もみじ」か、「照る 山もみじ」か。
 山が照り返して、輝いているのか、それとも、山もみじが輝いているのか。
 こうなると、歌詞全部を見るしかない。
 というわけで、一番の歌詞を見てみました。

 秋の夕日に照る山紅葉

 濃いも薄いも数ある中に

 松をいろどる楓や蔦は

 山のふもとの裾模様

 調べてみると、「山もみじ」というのが、楓の一種であるんだそうです。

 分からん。「照る 山紅葉」か、「照る山 紅葉」か。
 が、数回読み直すと、おかしなことに気付きます。

 そうです。三行目、「松を彩る楓や蔦」です。つまり、これも「もみじ」だ、と言っているわけです。

 「山にもみじが。濃淡色々あるけれど、松の緑、(また樹皮の色)に映える楓や蔦は、山の裾模様のようである」

 これが一番の歌詞です。
 ということは、「もみじ」というのは、特定の、「楓」の一品種ではなく、紅葉全般を言うのである、ということになります。

 実は、別に今、分かったことではない。
 私自身学生時代に習っていたのでした。
 「もみじ、というのは、本来『もみづ』という言葉です。(もみじは連用形=名詞形)」って、万葉集で。実は知ってたんです。知らないふりしてたけど。

 ただ、「じゃ、何故、『紅葉づ』で、『もみづ』なんだ?」と思っていた。
 なんで、紅葉と書いて「もみづ」、連用形(名詞の形)にして「もみじ」と読むんだ?
 楓という木は分かる。でも、赤くもならない、黄葉したものも、「もみづ」、とはどういうことだ?

 で、閃きましたよ。「もみづ」は「もみになる」、「もみ色になる」、です。  
 「稲の籾」です。
 籾は黄色でしょう?「もみづ」は、「紅葉づ」ではなく、「黄葉づ」だった!
 それが、色付くこと全てを「もみづ」→もみじと言うようになって、特に鮮やかな紅葉が、いつの間にか主役になって「紅葉づ」となった。

 これ、平安時代には、既にそうなっています。
 だから、戸隠の隣村、鬼無里(きなさ)の「鬼女紅葉」伝説は、黄葉ではなく、紅葉です。
 奈良時代までは、「もみづ(もみぢ)」は、黄色く色付くことを言っただけで、その先の赤味がかったのを、紅葉という程度、歌詞にあるように、楓や蔦のように、特別に鮮やかなものは例外的なものだった、と考えられます。

 そう考えると、ですよ。奈良時代の、また、それ以前の「日本の秋」の色合いは・・・・・。
 
 今、紅葉の名所として挙げられるのはみんな、楓、山紅葉の鮮やかな色合いのところばかりでしょう?「これこそ日本の秋」、みたいに。
 京都なんかはやっぱり、「京の秋」、紅葉です。

 でも、実は昔々の「日本の秋景色」は、黄葉が中心で、随分色合いが違っている。
 今の秋景色は、新しい景色なのではないか、となりませんか。

 「そんなこと、どうでもいい」?
 2670年も前から在る「日本」。
 ならば、その頃の景色だって想像くらい、してみる。
 それも、日本です。知識を基に、考える。想像してみる。
 そうやって、日本に憧れを持つことも、あり、じゃないでしょうか。
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