CubとSRと

ただの日記

「ガラガラポン!」だあ?!ふざけるな!

2020年06月11日 | 心の持ち様
2012.12/14 (Fri)

 さて、金曜日が終わろうとしている。
 いよいよ明後日は衆院選。
 
 本当に今回は党が沢山になって、マスメディアは
 「多党化したので選ぶのが大変になった」
 なんて、今更ながらのことを言うし、国民の方も例によって街頭インタビューではメディアの期待通り、
 「党が多くてどこを選んだら良いか分からない」
 とか
 「政策が漠然としていて。もっと具体的に言ってくれないと」
 とか。「お客様は神様」みたいに高飛車だ。
 
 でもねえ。「党が多くて大変だ」って言うけど、一体、何人「新しい顔」が出てきましたか?
 大まかに、「その顔(旗)の下に集まっているのが政党」なんだ、という捉え方、間違っちゃいないでしょう?
 政党名が新しくなったって、その旗の色はそうそう変わるものじゃない。共産党の旗は赤!白だとか緑に変わることはない。
 いや、そういうことじゃなくって、同じような考えの人が集まって結束し、つくり上げた中心理念、というのが政党色であるから、それはそんなにしょっちゅう変わる筈はないということです。

 橋下市長と石原前都知事が一緒になって日本維新の会。まあこれはメディアに多く露出してるから、誰だって知ってます。
 北海道で松山千春の友が頑張ってる新党大地。あとは?嘉田知事の未来の党?ああ、小沢新党のことですよね?

 ほら!「多党化」ったって、新しい党は維新の会と小沢新党だけじゃないですか。
 「あらら?この程度なら大した数じゃないな」
 と思いませんか?
 「マスメディアに乗せられちまったぜ!」
 と言ってほしいですねぇ。

 「何言ってんだ!そんなことじゃないよ。数が多くなって、微妙に違うこと言うから、選ぶのが難しいんだろ!党の数なんか関係ないんだよ!」
 と叱られそうです。
 でもそれこそメディアにしっかり乗せられてますよ。

 日本は表向き、民主主義。みんなが主人公。だから、みんなが一票。
 選挙について何か月も前から調べ上げ、当日は水垢離をして神仏に祈り、それからネクタイ締めて、愛用の筆記具持って眦決して、
 「いざ、選挙じゃ!」
 と言う人もあれば、
 「あなたの一票が国の将来を決めるのよ!さあ、一緒に参りましょう!」 
 と新妻に手を引かれ、渋々投票所に連行(?)される人もいる。
 みぃ~~んな一票です。
 つまり「分かってる人」も、「何も考えのない人」も、同じ一票。
 そして、微妙なことを言ってる党は、初めから「党の考えを分かって欲しい」「議席を多数取りたい」という気がない、「政治を、国を、我々(自党)の力で動かさなければならない!」という気概がない、ということです。

 「分かり易く」、ではない。「難しくとも説明しよう」という気迫の問題です。
 これが「政治姿勢」、です。何も考えのない人に対しても、「同じ一票」として正心誠意で向き合ってこそ、「代議士」。
 だったら、別に迷うことなんかないでしょう。立候補者が多くたって、単純なことです。
 自党の絵を説明せず、他党の批判で自党の立場を相対化し、優位にあるようなイメージをつくろうとする、などという姑息な手段を使わない政党を選ぶしかない。
 攻撃相手がいなければ自党の旗色を鮮明にできない、なんてのは「政党」とは言えない。

 もう一つ。
 「どの政党を『選ん』だらいいのか」という言い方。
 敢えて憎まれ口を叩きます。
 「清き一票」って、とても響きのいい言葉ですが、何故、「清き一票」と言うんでしょう。一体どこが、何が「清らか」なんでしょう。
 私利私欲が絡んだら、「清らか」とは言えないんでしょう?
 でも、投票に行く国民は、「年金が~」「給料が~」「保険が~」、でしょう?

 「己の生活の豊かさを実現させるために投票に行く」。
 ・・・・これ、「清らか」ですか?正月の初詣と同じじゃないですか?
 靖國神社に、「就職できますように」「商売が繁盛しますように」なんて願掛けには行かないでしょう?
 「命も要らず、名も要らず~」は政治家の心構えではあったけれども、明治憲法の下、初めて参政権を得た人は、投票できることをこの上もない名誉だと思っていた。己の生活の更なる豊かさを求めてではなく、「国のために微力ながら」、一票を投ずるのだ、と思っていた。

 そこに思いを致せば、
 「国のために、この人に力を尽くして欲しい。だから私はこの人に一票を投ずる」
 と、しかならない。
 「そのために政界再編が必要なのだ。民主党から多くの議員が飛び出したのも、たちあがれ日本がいきなり維新の会と合流したのも、超党派の創世日本がつくられたのも、みんな政界再編のはじまりだったんだ」
 肯定的に、こんなことをいうメディアがあったって良いだろう。

 それが
 「多党化だ」
 「似たようなのが好き嫌いで分裂しただけじゃないか」
 みたいな、突き放した冷たい報道ばかりが目につく。
 揚句に、有権者には
 「個々人がマニフェストをしっかり読め」
 、だ。
 「政策、政党、人、の順で選ぶべき」
 、なんてのもあった。学習塾じゃあるまいし。マニュアル教えてどうする!

 政界再編成の始まり。全て国のために、人々は走り回っている。

 さすがに最近は全くと言っていいくらいに聞かなくなったけど、メディアどころか政治家までが一時、「政界も、ガラガラポンしなきゃだめですよ」などと言っていた。
 そんな、人をバカにした物言いをする人物は決して認めるべきではない。
 政治は任せるのではなく、託すものなんだから、上から目線で仕分けするのではなく、国民みんなで支えて行くことが一流の政治家輩出を促し、一流の政治実現につながる。

 その「国民の姿勢」から、政治家は国民の「意気に感じて」猛烈に努力をしてくれるものなんじゃないでしょうか。甘い?

 「甘い!」なんて言ってたんじゃ、政治は変わりませんよ。
 誰だって、「信なくんば立たず」です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷血漢か!

2020年06月11日 | 日々の暮らし
2012.12/11 (Tue)

 今回は短い。とってもみじかい。

 昨年あたりからちらほら聞こえて来て、今も時々聞こえる言葉。
 「民主党にはがっかり。自民党にはこりごり。」

 もう一つ。
 「自民党は反省せよ」「反省が足りない」等々。
 で、石破幹事長はずっと
 「この三年間、我々の何がいけなかったのかと、反省を続けた」
 と繰り返し、語っていた。

 そしていきなり、選挙、となったんだけど、
 「民主党にはがっかり。」それは能く分かる。今の気持ちなんだから。
 でも、
 「自民党にはこりごり」って。
 「川に落ちた犬は棒で叩け」って?
 日本人の判官贔屓はどこ行った。
 「反省し続けてきた」と言ってるのに、「こりごり」、じゃ、自民党の努力を全否定ってことですよ。それはないでしょう。
 そんなの、「冷たい血」、じゃなくって冷血漢の言いぐさですよ。

 どうしても納得できないんですよね、この三年半。
 「こんな短期間で結果が出るわけないんだから、もう少しやらせてみたら?」
 なんて言って。
 ほんの少し前までは自民党の各政権、一年前後で「やめろやめろ」の大合唱だったじゃないですか。
 今度は「政策で判断すべきだ」、「マニフェストを読むことを最後まで諦めるな」、だって。
 「これだけ政党があると、どれがどうだか『選べ』ませんよね」
 これ、みんな同じニュースショーで言ってたんですからね。無責任だなぁ。

 これだけ政党が乱立しているのを、「政策で判断しろ」、なんて、ほら、例の「大きいいのがいちばん偉いんだよ」「違うよ背の高いのがえらいんだ」「そうでないよ。太ってるのが」・・・わいわいがやがや・・・。「ええい、静かにせんか。」
 鞭がひゅう、ぱちっ、・・・・て。
     (宮澤賢治 「どんぐりと山猫」)

 
 ビジョンがあるかないか。
 他を批判するのでなく、自分のビジョンを話して聞かせようとする熱心さがあるかないか。
 
 細かなことなんて、専門家には絶対勝てないんだから、要は「大志の有無」、じゃないですか?それなら、顔つきと表情、一挙手一投足で大体わかる。

 「首長をやったことのない者が、国会議員やったって駄目ですよ」?
 「官僚を使いこなす」?
 「お金の配分法で、お金はいくらでも出せる」?
 「原発停めてたって、電力は足りている」?

 みんな、他の何かしらを貶し、バカにし、否定して自らの正当性を証明しようとしている。ジミンガーが嚆矢だったと思うけど。
 対立させて「オレの方がえらい。」
 それ、つまり自分には「大志がない」ってことじゃないですか。比べなきゃ分からないってことでしょう?

 もう一つ。
 「民主主義は数。」国民みんなが主人公なら、数の多い方が中心になる。
 「だから、民主党が政権取った」、んでしょう?別に正しかったというわけじゃない。
 いくら正しいこと言っても議席取らなきゃ。
 そうなると、選べるのは「自民・民主・みんな・維新・未来」しかない。

 公明党は創価学会がいるから大丈夫。
 共産党は赤旗読んでる党員票があるから心配ない。
 「取り敢えず維新」
 「小沢さん好きだから、未来!」・・・・・個人の自由。
 
 この期に及んで内閣支持率24,4%とか。
 「民主党に投票!」と言う人の気がしれないけど、まあ、「党でなく人に投票する」と言うのを否定する気はありません。
 でも最後に、10日付の「夕刻の備忘録」にこんな文が出ていました。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 マスコミに流され、現実を見ようとせず、その裏に潜む真実を知ろうとせず、あたかも「政治家が政治の全てを握っている」かの如くに錯覚して、全てを他人任せにしようとしてきた有権者こそが、日本の政治を「決められない状況」にまで落とし込んだのである。
 主権者たることを放棄した我々有権者こそが、その元凶である。

            (略)

 投票は真面目に考えて、真面目にするものだ。
 明日の我々の生活が掛かっているのだ。
 日本の将来が掛かっているのだ。

            (略)

 批判するなら批判で結構。
 許せないなら許せないで結構。
 戻さないなら戻さないで結構。

 何でもいいから、心の真実に沿って投票するべきである。
 如何なる結果も、それを甘受せねばならぬのは、我々国民だからである。
 投票は遊び半分で気軽にするものではない。
 我々は心の刃を突き刺すつもりで、投票箱に一票を入れるべきなのだ。

 http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-851.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改憲の好機は二度、あったのだが・・・・。

2020年06月11日 | 心の持ち様
2012.12/13 (Thu)

 村上正邦氏のブログが更新されていたので、例によって部分転載をします。

 前回、紹介のつもりで書いたことを、先に転載します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 御存じのことと思いますが、元参議院議員会長で、その影響力の大きさと公正さから、「村上天皇」とか、「法王」等の異名をとった人です。
 勿論、氏はそんな呼ばれ方を喜んではいなかったでしょうが。
 毎朝必ず、各会派の部屋を回って挨拶をし、自民党員でありながら他党の会議の席に平気で入り、各党の委員会での作戦を聞くなどして議会運営に大変大きな力を発揮しました。氏が加藤紘一氏の総裁就任を阻止しなかったら、今の自民党はあったかどうか・・・。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 では転載します。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ●自民圧勝なら、平成版「保守合同」をめざすべき

 衆院選アンケートをおこなった新聞・通信各社がいっせいに「自民優勢」をつたえるなか、朝日新聞と共同通信は、「自民272」、「自民293」と数字を上げて、「自民圧勝」をセンセーショナルに報じました。
 朝日と共同の記事によると、民主が81と69、維新が49と46、みんなの党が18と15、未来が14と15と、逆風民主が100を大きく割りこみ、第3極でも、維新が50を切り、小沢さんの「国民の生活」を呑みこんだ「未来の党」にいたっては、現状の62から10台へ壊滅的激減です。
 ※選挙予測にかかるマスコミ報道は、有権者の投票意思に大きな影響をあたえることから、普通選挙法の精神にもとり、選挙違反が疑われますが、すでに報道がおこなわれた以上、本稿も、このデータをもちいます。

               (略)

 政党は、私利私欲にもとづく徒党ではありません。
 同志によって組織される政党は、名誉や徳目による結合であり、党綱領には品性品行について、きびしい規定がなければなりません。
 この規定がなければ、党員のモラルが低下して、政党は、選挙事務所とかわらぬものとなるでしょう。

               (略)

 忘れてならないのは、現憲法は、当時、日本の全土を軍事占領していたGHQがつくった占領基本法で、日本の歴史や文化、日本人の誇りや伝統的精神が反映されていないという事実です。
 
 かつて、日本には、改憲の好機が二度ありました。
 サンフランシスコ平和条約(1952年)と保守合同(1955年)です。
 日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約時も、民主党の鳩山一郎が自由党の吉田茂に「自主憲法制定」の条件をつきつけて、合併した自由民主党が、議会の三分の二へ迫る大躍進をはたした保守合同時も、憲法改正の好機でした。
 しかし、野党が護憲勢力三分の一を確保して、憲法改正の道は、ふさがれたままでした。

 自民圧勝は、憲法改正の三回目の好機で、今回、安倍さんにこのチャンスを生かしていただきたい。
 日本維新の会もみんなの党も、改憲という旗印の下では同志で、安倍さんは石原さんや橋下さんと親交があり、渡辺喜美氏は、もともと自民党で、橋下徹氏と気脈をつうじています。
 残るのは、安倍さんの決断力と実行力だけです。
 二度目の首相就任となる安倍さんには、国家観と大局観をもった歴史に残る大首相へ脱皮していただかなくてはなりません。
 大きな目標と高い志こそが、人を大きく育てるものです。
 憲法改正という大目標を掲げれば、大きな帆が大きな風を掴むように、戦後レジームからの脱却も、「デフレ脱却」「円高是正」「日銀法改正」などの大胆な経済政策も、「天の時・地の利・人の和」の追い風をうけることができるはずです。
 合掌。
 
     http://blog.shunpunokai.com/?p=359

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「選挙予測にかかるマスコミ報道は、有権者の投票意思に大きな影響をあたえることから、普通選挙法の精神にもとり、選挙違反が疑われますが~」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 実際、この世間で言う「下馬評」は信じてはならないものとされていますが、最近の出口調査による当落予想は大変な的中率です。
 開票と同時くらいに当確が出たりするのも、この出口調査の故。
 しかし、これだけマスメディアの情報収集能力が高まると、「投票意思に大きな影響をあたえる」、どころか、投票意思を左右したりしたりすることが明らかになってきています。
 意図的な数字の操作をせずとも、ちょっとした言葉の遣い方で印象をガラッと変えることができる。今回の選挙には特にそんな色を感じます。
 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 「政党は、私利私欲にもとづく徒党ではありません。」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ただの徒党ではなく、名誉や徳目によって結合している「政党」である。
 ならば、まずは政治に対して名誉、徳目を常に心に置いて取り組まねばならないのは至極当然のこと。そして、それは勿論、私利私欲を嫌う。

 これだけを物指しとして、政党を選ぶことはできませんか?
 「国民の生活が第一」。
 そんなの当たり前のことじゃないですか。わざわざ言うようなことですか。
 「政策が合えば一緒にやれる」
 そんなの当たり前のことじゃないですか。その前に名誉や徳目を各自意識しているか、ということはどうなっているんですか。

 各党の公約・マニフェスト・アジェンダ等を、隅から隅まで目を通す?それができたって、それが実行されるとは限らない。全く反対のことも政権与党は平気でやる。国民に信を問わずに。
 ならば、政治家が名誉や徳目を各自意識しているか、を見る方が確実でしょう。
 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 「現憲法は、当時、日本の全土を軍事占領していたGHQがつくった占領基本法で、日本の歴史や文化、日本人の誇りや伝統的精神が反映されていないという事実です。」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「GHQがつくった占領基本法」ということ、「占領統治法」と言うことは知っていても、
 「9条のような立派な条文もあるんだから、良いところは残して~」
 、つまり、
 「是々非々で」
 と言う人、結構いるんじゃないですか?

 そういう人はこうも言います。
 「日本の歴史や文化、日本人の誇りや伝統的精神が反映されていないという事実?何、それ。大袈裟なことを言うなよ。歴史や文化、別に変ってないじゃん。日本人の誇りや伝統的精神だなんて、そんな大層な物なのか?日本の誇りとか精神なんて、別に威張る程のものじゃないだろ?そんなの他国の差別じゃないか」

 これくらいに日本を大事に思わないからこそ、「良いところは残して~」なんて言葉が臆面もなく口を衝いて出てくる。
 自らを大事に思うが故に他者の心根も思い遣ること、慮ることができる、ということに全く思いが至らない。

 「自民党は今になって、突然にネットの住人の声に阿って、改憲論を振り回し始めた」みたいに言われますが、ずっと言って来たんです。
 そして、ネットの住人ではなく、世論に阿って、黙った。それを、この3年半で反省した。

 実は「好機は二度、あった」。
 それを潰したのが社会党をはじめとする野党だった。
 考えてみれば「建国記念日」を「建国記念の日」、と、「の」をいれることでやっと制定できたんです。発議から何十年もかかった。
 「憲法改正」、ですよ。「無効」と言うのも、「廃棄」というのも、そう簡単にできることではない。一つ一つ、少しずつ外堀から埋めていかねばならない。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クモミ→雲見?(雲見浅間神社その③)

2020年06月11日 | 日々の暮らし
2012.12/12 (Wed)

 「地元の人に叱られるかも」と書いたところで、前回は終わりました。
 叱られる覚悟ができたので続きを・・・・なぁ~~んてね。いえいえ真面目にやります。

 私はこの伝承されている由緒って、後付けだろうと思っています。そんなの関係ないんじゃないか。
 八岐大蛇が八つの頭があって、身体には松や杉が生えていて、七つの山に巻きつくほどの大きさ、なんて言ったって、実際身体に松や杉が生えていてそれが動き出す、なんてあり得ないでしょう?
 「どんなに根性あるんだ!この針葉樹は!」って思いません?
 
 見ているうちに色んな想像をする、物語をつくる。それはごく自然に行われるものです。
 宮澤賢治が「注文の多い料理店」の序だったかに「どうしても実際にこうであると思えることを書き留めた」みたいなことを書いていますが、全国にある弘法大師伝説のように、景色を見ているとお話が生まれてくる。そして証拠たる神社や遺跡が存在する。お話が「どうしてもこうであったと思えてくる」。現実味を帯びてくる。

 雲見浅間神社のある烏帽子山の、ほぼ真北に富士山があります。
 眼前に迫る烏帽子山は名前通りの急峻な山です。小さいけれど、存在感も迫力も満点です。そのはるか彼方に秀麗な山容をあらわす富士山。
 双方とも「アサマ」山、と呼ばれている。

 古事記にも日本書紀にも同じように出て来る二柱の姉妹神の話。
 こんなに見事に人の世を映す神話が口の端に上らないわけがない。
 当然、二柱の神様は大山祇神の子、なんだから、全く姿は違っても「アサマ(山)」に祀られて不思議ではない。
 だから、地元の人々は石長比売のことを気の毒に思って、雲見浅間神社は石長比売だけを祀る、としたのではないか。
 地元の人々の優しい心根が満ちている話だなと思います。また人々が、この烏帽子山を誇りに思っていたであろうことが感じられませんか。
 学校の校歌などでもそうでしょう?地元の名山が歌詞に詠みこまれることが多いのは事毎に仰ぎ見る(=誇りに思う)対象であるからです。


 さて、重箱の隅。
 何で「雲見」とついているんだろう。
 「出雲」は「雲の沸き立つところ」と言われます。実際、西風が日本海の水蒸気を運んでくるのだから、確かに「雲の沸き立つ」率は高い。(それにしても、まだ何か隠れていそうですけどね)
 でも、「出雲」→「雲が出(いず)る」として、「雲見」→「雲を見る・雲が見える」?変ですね。

 「沸き立っているわけじゃないけど、いつも雲に隠れている」のなら、「雲隠れ」とか「雲隠し」とか、になるのが普通でしょう?何だかどこかの忍者マンガみたいですけど。

 「雲見」。これも実は雲に関係ない、ただの当て字なんじゃないでしょうか。「雲」にも「見る」にも全く関係のない言葉かもしれませんよ。
 「雲見浅間神社」というのは「クモミ / アサマ」なんじゃないのかな、なんて思いました。

 「クモミ」?「クマミ」?それとも「カムミ」?
 出雲にも奈良、和歌山にも「熊」の字が付く神社、地名が多いのですが、これも「クマ」ではなく「カム」、アイヌ語の「カムイ」だったりして。

 「カムイノミ」というのは「神への祈り」という意味のアイヌ語だそうですが、元々は同源と考えれば「カムイノミ」が現在の「クマ(ィ)ノミ」→「クモミ」だったりしたら、何だか夢があるよなぁ~、なんて能天気なことを考えました。


 また、散歩に行ってみますかね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅間とは (雲見浅間神社その②)

2020年06月11日 | 日々の暮らし
2012.12/11 (Tue)

 「脳は怠ける」の続きです。

「雲見浅間神社」というのは、地元の方ならご存知のことでしょうが、コノハナノサクヤビメ(木花乃佐久夜毘売)ではなく、姉神のイワナガヒメ(石長比売)が祀られているのだそうです。
 そんなところは一社だけ、ということです。
 調べてみるとイワナガヒメを祀る神社は他にもあります。でも、とにかく、「浅間」と名がついていて、「木花乃佐久夜毘売」が祀られてないのはここだけ。
 それに、ここには、この二神がとても仲が悪いという言い伝えがあり、その証拠として、こちらが晴れている時は富士の天気は悪く、こちらに雲のかかる時は、富士は上天気なんだそうです。

 何だか、イワナガヒメがとても嫉妬深い(執念深い)姫神みたいに感じますが、そんなに嫉妬深い神を地元の人が崇敬するだろうか。実際、石長比売の方に親しみを感じている人が多いからこそ、八ヶ岳の人気もあるんでしょうし。
 こういうことって、崇敬する人の心根が投影するものでしょう?何たって「神(という言葉)は鑑みから来た」っていう説もあるくらいですから。
 勿論、地元の人が嫉妬深いとか執念深いとか言ってるんじゃないですよ~~。それだけ地元の神を贔屓するのが普通なんです。地元のサッカーチーム、応援するようなものです。

 段々外れていきそうなので、復旧します。
 
 おかしいなあ、と思ってました。
 「浅間」を「センゲン」と読むのは後のことで、本来は「アサマ」です。
 「富士浅間神社」の名が有名だけれど、「浅間山」と言う山も有名です。
 富士山は元々「アサマ」と呼ばれていたのだし(だから、浅間神社、です。富士神社、ではない)、以前、日記に書いたように伊勢にも「アサマ(朝熊)山」があります。熊本の阿蘇山だって「アサマ」だったという。
 wikiで見たら、噴火口のある山は、ポリネシアの方では、アサマと言っていたらしい。でも、伊勢の朝熊山は火山ではない。
 これまたwikiで見たら、こちらは延喜式に「朝熊」と出ているから、本来は「あさくま」だったのだろう、とある。
 でも、延喜式以前に山はあり、文字で書きつけたのはずっと後のことなんだから、元々「あさくま」だったろうと言うのは重みがない。それなら、まだ、アイヌ語で「アサマ」は「向こうの山」と言う意味なんだ、という説の方が、と思ってしまう。
 これなら、長野の浅間山も、伊勢の朝熊山も、九州の阿蘇山も、そして勿論浅間神社の御神体である富士山も、ただ単に「向こうの山」と言うことでしかない。「とっても目立つ、向こうの山」が、「アサマ」。

 それが少し時代が下ると今度は「お山」という言葉から「嶽」になる。「御嶽(おんたけ・みたけ)」。「高い山」と言う意味もあるでしょうが、中心になるのはきっと荒ぶる姿「猛る」でしょうね。神威の発動です。
 沖縄でも神の坐(いま)す地は、「タキ」と言うらしい。「たけ」の沖縄訛りです。

 となると、まず、古くは「アサマ」、次に「御嵩→御岳→御嶽」となると考えた方が良い。「雲見浅間神社」は、だから奈良以前からの神社、なのでしょう。
 
 araさんのブログには、その雲見浅間神社のある険しい山の写真が出てましたが、googleで見ると、海沿いにマンガみたいに急峻な小山の写真が出ていました。小さくて尚且つ人目を引くこの山の形は、まあ、滅多にあるもんじゃない。本当に「烏帽子山」の名前通りの形です。「これこそアサマだなあ」と私もその山容に引き込まれました。一遍にファンになってしまう容の山です。

 雲見浅間神社の「浅間」は、向こう(の)(に見える)山であるということは間違いないでしょう。そしてそれは小さくとも、とても目立って存在感があるから、ということも、まあはずれてはいないのではないかと思います。
 
 で、それじゃあ何故、雲見浅間神社は、石長比売だけを祀るのか。これについて思ったことを書くと、地元を愛する人には叱られるかもしれませんが・・・・・。


 ということで、次回がやっと最終回。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする