2012.12/26 (Wed)
問題は「勝因を明らかにする」ということの困難さ、です。
敗因を(結果はともあれ)調べ、分析し、明らかにすることは世の中の常識になっていますが、勝因の方は、「勝てば官軍」、じゃないけれど結果オーライ。
「強いから勝ったのではない。勝ったから強いのだ」、という、それなりに一理あるような言が幅を利かせています。
しかし「勝敗」のみで強弱を決するというそこには、「その場のみ」、「将来の展望」も、「これまでの習練の意味」もない、という「結果」しかありません。
己の実力が如何ほどのものか、ということを考えることは、当然後のためです。 後のために今一所懸命になるのであって、
「今が良ければそれでよし、一瞬後なんか知ったこっちゃない」
という人はないでしょう。刹那主義の人だってそこまでは言わない。
「日露戦争の勝因を分析しなかったために昭和の敗戦があり、そのまま現在に至っている」
とコメントを下さった方がありました。将に当に、です。
司馬遼太郎も軍装や軍備に関して似たようなことを書いていたと思います。
実際、民主党は勝因の分析を、全くと言って良いほどしなかった。
そして「もう少しやらせてみよう」という大半の国民の意見に支えられ、己が勝因の分析どころか、あやふやな答弁や失策等の反省のチャンスを与えられた(?)時には、必ず何とかの一つ覚えで「ジミンガー」を連呼し、切り抜けてきた。
衆院選で大敗した自民党は反省する(し続ける?)ことを強要され、反省し続けた揚句に、非情にも「自民党にはこりごり」、と努力を認められることなく、あっさりと切り捨てられた。
それでも、まず「負けた」という、事の重大さに日々直面することになったのは大きい。世間の風の冷たさを皮膚で常に感じる毎日が、「反省」の二文字を忘れさせなかった。
また、これは谷垣総裁の努力を讃えるべきだが、遂に今日まで党分裂の危機を回避しきった。
純化路線を進めば、新田義貞の軍勢のように少数精鋭になるのは当然のことだけれど、それでは「民主主義国家」の力にはならない。
分裂寸前、肥満体になる寸前の状態で、尚且つゆっくり十キロや二十キロなら走れる体力を持つこと。それでないと与党としては動けない。
ところで、「反省する」更には「敗因を探る」、ということは、マスメディアも世間も一所懸命になって協力してくれる、ということでもある。それも「親身になって」。
でしょう?ただでさえ敗北のショックで落ち込んでいるのに、みんな揃って、口を極めて「罵って」くれた。そんなに親身になって協力されたら、反省し、敗因を探るしか「することがない」。
だから、「敗因を明らかにする」というのは、辛いけど、易しい。
「勝因」、となると、そうはいかない。勝ったら、ただそれだけを褒められる。
そして、勝った後、すぐに「これからどうするか」に世間の興味は移る。金メダル取った瞬間から、「メダルを齧ってくれるか否か」に話が移り、それまでの汗と涙、苦悩の日々は誰も「反省」なんかしようとしない。
(驚いたことに今年はノーベル賞の金メダルまで「齧って見せてくれませんか」と、記者から注文が出たそうだ。)
民主党は、反省し勝因を明らかにしようとはしなかった。
「遂にやった!戦後60年余り続いた自民政権から、政権を奪い取った!」
「これからは『国』ではない。『国民が第一』、だ。『コンクリートから人へ』、だ」
「反省」とは「省みる」ことであって、後悔することではない。
勿論、「勝敗」を省みることではあっても「敗因や勝因を分析する」ことではない。まずは「反省」し、そこから勝敗を「分析」し、何らかの「打開策を講」じ、「実行」してこそ、進歩がある。
「自民党にはこりごり」、と切り捨てられたけれど、言葉とは裏腹に世間もマスメディアも自民党には協力的で(?)、本当に一所懸命になって叱咤激励して、ともすれば危うくなりそうな自民党を能く支えてくれた。
だから辛くはあったけれど、気分は引き締まっていったのではないか。
可哀想なのは民主党だ。「勝った勝った」と浮かれているのに、誰も苦言を呈さない。
ほとぼりが冷めた頃には苦言が、と思っていたら
「もう少しやらせてみよう」
「初めてなんだから、まだ慣れていないんだから。長い目で見よう」
そんなわけで、反省も「敗因究明」を前提になら、周囲は一所懸命協力(?)してくれる。けれど、「勝因究明」、となるとなおざりにされる。
60数年経って、初めて選挙に大勝利した、となると、苦言を呈する(一所懸命・協力する)者などいない。却って祝賀の行列で門前市を成す、かも。
それよりも、真面目に「勝因を分析する」などと言えば、却って鼻白んで
「可愛げがない」
などと言われ、一気に熱が冷める。
「世間もマスメディアも自民党のために一所懸命協力した」
けれど、
「あの時、民主党には誰も協力しなかった」
これらは勿論、皮肉です。
「社会の木鐸」たるマスメディアは、いつからこんなに下品になったのだろう。
この品性のない「世間」と「マスメディア」の嗜好は、一体どこから来ているのか。
そして選挙前、「自民党優勢」と一斉にマスメディアにより報道されたのは真実だったのか。
問題は「勝因を明らかにする」ということの困難さ、です。
敗因を(結果はともあれ)調べ、分析し、明らかにすることは世の中の常識になっていますが、勝因の方は、「勝てば官軍」、じゃないけれど結果オーライ。
「強いから勝ったのではない。勝ったから強いのだ」、という、それなりに一理あるような言が幅を利かせています。
しかし「勝敗」のみで強弱を決するというそこには、「その場のみ」、「将来の展望」も、「これまでの習練の意味」もない、という「結果」しかありません。
己の実力が如何ほどのものか、ということを考えることは、当然後のためです。 後のために今一所懸命になるのであって、
「今が良ければそれでよし、一瞬後なんか知ったこっちゃない」
という人はないでしょう。刹那主義の人だってそこまでは言わない。
「日露戦争の勝因を分析しなかったために昭和の敗戦があり、そのまま現在に至っている」
とコメントを下さった方がありました。将に当に、です。
司馬遼太郎も軍装や軍備に関して似たようなことを書いていたと思います。
実際、民主党は勝因の分析を、全くと言って良いほどしなかった。
そして「もう少しやらせてみよう」という大半の国民の意見に支えられ、己が勝因の分析どころか、あやふやな答弁や失策等の反省のチャンスを与えられた(?)時には、必ず何とかの一つ覚えで「ジミンガー」を連呼し、切り抜けてきた。
衆院選で大敗した自民党は反省する(し続ける?)ことを強要され、反省し続けた揚句に、非情にも「自民党にはこりごり」、と努力を認められることなく、あっさりと切り捨てられた。
それでも、まず「負けた」という、事の重大さに日々直面することになったのは大きい。世間の風の冷たさを皮膚で常に感じる毎日が、「反省」の二文字を忘れさせなかった。
また、これは谷垣総裁の努力を讃えるべきだが、遂に今日まで党分裂の危機を回避しきった。
純化路線を進めば、新田義貞の軍勢のように少数精鋭になるのは当然のことだけれど、それでは「民主主義国家」の力にはならない。
分裂寸前、肥満体になる寸前の状態で、尚且つゆっくり十キロや二十キロなら走れる体力を持つこと。それでないと与党としては動けない。
ところで、「反省する」更には「敗因を探る」、ということは、マスメディアも世間も一所懸命になって協力してくれる、ということでもある。それも「親身になって」。
でしょう?ただでさえ敗北のショックで落ち込んでいるのに、みんな揃って、口を極めて「罵って」くれた。そんなに親身になって協力されたら、反省し、敗因を探るしか「することがない」。
だから、「敗因を明らかにする」というのは、辛いけど、易しい。
「勝因」、となると、そうはいかない。勝ったら、ただそれだけを褒められる。
そして、勝った後、すぐに「これからどうするか」に世間の興味は移る。金メダル取った瞬間から、「メダルを齧ってくれるか否か」に話が移り、それまでの汗と涙、苦悩の日々は誰も「反省」なんかしようとしない。
(驚いたことに今年はノーベル賞の金メダルまで「齧って見せてくれませんか」と、記者から注文が出たそうだ。)
民主党は、反省し勝因を明らかにしようとはしなかった。
「遂にやった!戦後60年余り続いた自民政権から、政権を奪い取った!」
「これからは『国』ではない。『国民が第一』、だ。『コンクリートから人へ』、だ」
「反省」とは「省みる」ことであって、後悔することではない。
勿論、「勝敗」を省みることではあっても「敗因や勝因を分析する」ことではない。まずは「反省」し、そこから勝敗を「分析」し、何らかの「打開策を講」じ、「実行」してこそ、進歩がある。
「自民党にはこりごり」、と切り捨てられたけれど、言葉とは裏腹に世間もマスメディアも自民党には協力的で(?)、本当に一所懸命になって叱咤激励して、ともすれば危うくなりそうな自民党を能く支えてくれた。
だから辛くはあったけれど、気分は引き締まっていったのではないか。
可哀想なのは民主党だ。「勝った勝った」と浮かれているのに、誰も苦言を呈さない。
ほとぼりが冷めた頃には苦言が、と思っていたら
「もう少しやらせてみよう」
「初めてなんだから、まだ慣れていないんだから。長い目で見よう」
そんなわけで、反省も「敗因究明」を前提になら、周囲は一所懸命協力(?)してくれる。けれど、「勝因究明」、となるとなおざりにされる。
60数年経って、初めて選挙に大勝利した、となると、苦言を呈する(一所懸命・協力する)者などいない。却って祝賀の行列で門前市を成す、かも。
それよりも、真面目に「勝因を分析する」などと言えば、却って鼻白んで
「可愛げがない」
などと言われ、一気に熱が冷める。
「世間もマスメディアも自民党のために一所懸命協力した」
けれど、
「あの時、民主党には誰も協力しなかった」
これらは勿論、皮肉です。
「社会の木鐸」たるマスメディアは、いつからこんなに下品になったのだろう。
この品性のない「世間」と「マスメディア」の嗜好は、一体どこから来ているのか。
そして選挙前、「自民党優勢」と一斉にマスメディアにより報道されたのは真実だったのか。