CubとSRと

ただの日記

反省②(勝因と敗因)

2020年06月12日 | 心の持ち様
2012.12/26 (Wed)

 問題は「勝因を明らかにする」ということの困難さ、です。

 敗因を(結果はともあれ)調べ、分析し、明らかにすることは世の中の常識になっていますが、勝因の方は、「勝てば官軍」、じゃないけれど結果オーライ。
 「強いから勝ったのではない。勝ったから強いのだ」、という、それなりに一理あるような言が幅を利かせています。

 しかし「勝敗」のみで強弱を決するというそこには、「その場のみ」、「将来の展望」も、「これまでの習練の意味」もない、という「結果」しかありません。
 己の実力が如何ほどのものか、ということを考えることは、当然後のためです。 後のために今一所懸命になるのであって、
 「今が良ければそれでよし、一瞬後なんか知ったこっちゃない」
 という人はないでしょう。刹那主義の人だってそこまでは言わない。

 「日露戦争の勝因を分析しなかったために昭和の敗戦があり、そのまま現在に至っている」
 とコメントを下さった方がありました。将に当に、です。
 司馬遼太郎も軍装や軍備に関して似たようなことを書いていたと思います。

 実際、民主党は勝因の分析を、全くと言って良いほどしなかった。
 そして「もう少しやらせてみよう」という大半の国民の意見に支えられ、己が勝因の分析どころか、あやふやな答弁や失策等の反省のチャンスを与えられた(?)時には、必ず何とかの一つ覚えで「ジミンガー」を連呼し、切り抜けてきた。

 衆院選で大敗した自民党は反省する(し続ける?)ことを強要され、反省し続けた揚句に、非情にも「自民党にはこりごり」、と努力を認められることなく、あっさりと切り捨てられた。

 それでも、まず「負けた」という、事の重大さに日々直面することになったのは大きい。世間の風の冷たさを皮膚で常に感じる毎日が、「反省」の二文字を忘れさせなかった。
 また、これは谷垣総裁の努力を讃えるべきだが、遂に今日まで党分裂の危機を回避しきった。

 純化路線を進めば、新田義貞の軍勢のように少数精鋭になるのは当然のことだけれど、それでは「民主主義国家」の力にはならない。
 分裂寸前、肥満体になる寸前の状態で、尚且つゆっくり十キロや二十キロなら走れる体力を持つこと。それでないと与党としては動けない。
 
 ところで、「反省する」更には「敗因を探る」、ということは、マスメディアも世間も一所懸命になって協力してくれる、ということでもある。それも「親身になって」。
 でしょう?ただでさえ敗北のショックで落ち込んでいるのに、みんな揃って、口を極めて「罵って」くれた。そんなに親身になって協力されたら、反省し、敗因を探るしか「することがない」。
 だから、「敗因を明らかにする」というのは、辛いけど、易しい。

 「勝因」、となると、そうはいかない。勝ったら、ただそれだけを褒められる。
 そして、勝った後、すぐに「これからどうするか」に世間の興味は移る。金メダル取った瞬間から、「メダルを齧ってくれるか否か」に話が移り、それまでの汗と涙、苦悩の日々は誰も「反省」なんかしようとしない。
 (驚いたことに今年はノーベル賞の金メダルまで「齧って見せてくれませんか」と、記者から注文が出たそうだ。)

 民主党は、反省し勝因を明らかにしようとはしなかった。
 「遂にやった!戦後60年余り続いた自民政権から、政権を奪い取った!」
 「これからは『国』ではない。『国民が第一』、だ。『コンクリートから人へ』、だ」

 「反省」とは「省みる」ことであって、後悔することではない。
 勿論、「勝敗」を省みることではあっても「敗因や勝因を分析する」ことではない。まずは「反省」し、そこから勝敗を「分析」し、何らかの「打開策を講」じ、「実行」してこそ、進歩がある。

 「自民党にはこりごり」、と切り捨てられたけれど、言葉とは裏腹に世間もマスメディアも自民党には協力的で(?)、本当に一所懸命になって叱咤激励して、ともすれば危うくなりそうな自民党を能く支えてくれた。
 だから辛くはあったけれど、気分は引き締まっていったのではないか。
 可哀想なのは民主党だ。「勝った勝った」と浮かれているのに、誰も苦言を呈さない。
 ほとぼりが冷めた頃には苦言が、と思っていたら
 「もう少しやらせてみよう」
 「初めてなんだから、まだ慣れていないんだから。長い目で見よう」

 そんなわけで、反省も「敗因究明」を前提になら、周囲は一所懸命協力(?)してくれる。けれど、「勝因究明」、となるとなおざりにされる。
 60数年経って、初めて選挙に大勝利した、となると、苦言を呈する(一所懸命・協力する)者などいない。却って祝賀の行列で門前市を成す、かも。
 それよりも、真面目に「勝因を分析する」などと言えば、却って鼻白んで
 「可愛げがない」
 などと言われ、一気に熱が冷める。


 「世間もマスメディアも自民党のために一所懸命協力した」
 けれど、
 「あの時、民主党には誰も協力しなかった」

 これらは勿論、皮肉です。
 「社会の木鐸」たるマスメディアは、いつからこんなに下品になったのだろう。
 この品性のない「世間」と「マスメディア」の嗜好は、一体どこから来ているのか。

 そして選挙前、「自民党優勢」と一斉にマスメディアにより報道されたのは真実だったのか。

コメント (2)
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反省①選挙を振り返る

2020年06月12日 | 心の持ち様
2012.12/23 (Sun)

 選挙が終わって、とにかく一度は日記に書いておこうと思っていたのだが、全く書けなかった。
 いつものように怠けていて、やる気が失せていてゴロゴロ・・・・というのではない。とにかく書けない。

 コメンテーターじゃないんだから別に問題はないだろう、と思われるかもしれないが、とんでもない。
 コメンテーターでない「一人のおっさん」が、大事な国政に関して普段から何らかの主張をする、という姿勢を持って生きて来なかった。そういう生活の姿勢が、あの時、民主党に勝手放題を許してしまったのであり、国政は三年三か月、脱線し続けたのではないか。

 勿論、あの時私は民主党に投票なんかしてない。けれど、間違いなく私は日本人であり、投票権を持つ一人として選挙の結果は善悪なんであろうと享受するしかないのだ。
 本当に羽毛以下の軽さの一票だからこそ、その集積は尊いのだ。確固たる考えを持った、羽毛より軽い一票の重さが国を支え、動かして行かねばならない。

 個人の望みが実現されるから賛成、その見込みがないから投票しない、望みが適わなかったから次は投票しない、大した立候補者がいないから棄権する、等というようなものが選挙であって良いわけはない。
 投票権は、権利であると同時に責任でもあり、義務でもある、と思う。
 少なくとも今は「民主主義を標榜する日本」の国民なんだから、国政に係わらない(投票しない)、或いは国に個人の要望を突きつけるために選挙がある、等と考えるのはおかしい。
 民主主義は個々人が主人公であるけれども、だからこそ国は個々人の個人的な要望を受け入れるわけにはいかない。それが道理だろう。
 国が社会の一形態である限りは、個々人は主人公であっても、社会という決まりの中で、社会を構成する一員であるという枠の中でしか、要望を発することはできない。

 神社に参って、自身の望を叶えて下さいと神頼みをする。
 でも、本当は、神社というところは個人の欲望が叶うようにと祈るところではなく、家族、一族、民族、国家の安寧、世界の平和、等を、己を無にして祈るところです。

 日本は祭政一致の国でした。まずは祭事を為し、然る後に政事を行う。
 これは祭祀、つまり、政策の奉告(奏上)を神前で行い、それから政事、政策実現のための実際の行動に掛かる、という手順を踏んで国を運営する、というやり方を採る国だということです。
 「国民の生活が第一」だから、国民の意見を聞いて、その希望実現のために行動する、というのではなく、
 「国民の生活が豊かになる」ように、代表者が知恵を絞って考え、代表者が考える最良の方法で「国民の豊かな生活の実現」をめざす。
 明治以降は一部ながら、敗戦後は成年の日本人であれば基本的には誰でもそのための代表になれるし、誰でも代表を選ぶことができる。それが日本の在り方です。
 だから私は個々人が「日本はこんな国であってほしい」という絵を描き、それを代表者を選ぶ際の鍵としなければならない、と思っています。
 
 ということになると、近代国家日本の「選挙」というのは、一体どうあるべきなんでしょうか。
 これ、「国民の生活が第一」というのでは国民各人、個々人の生活が良くなることが目標ですから、決して達成することはできない筈のものです。個々人の思う「良い生活」は決してみんな同じ、ではないのですから。

 国民、です。人民、ではない。衆人でもない。
 だったら、まずは「確りとした考え、在り方を持つ国であること」が第一で、次に「しっかりとした国であり続けること」が第二。
 そして、「不安を持つことなく生きられること」、「努力すれば報われること」等が
個々人のために必要なこと、となります。

 いきなり飛ばし過ぎました。言葉足らずで何を言ってるのか能く分からん、と思われるかもしれません。一旦戻ります。


 選挙は16日で今日は22日。7日目になってやっと書き始めようとしているのですが、まだボールペン任せでどっちに向かうか分かりません。

 「とにかく書き始めたらどこかへ向かうだろう」
 そんな風に思ってメモ書きをしてみました。

 この一週間、テレビは随分見たし、色々な人のブログや、新聞なども見たのだけれど、ちっともまとまらない。
 「頭が悪い」、と言われたらそれまでだし、自慢じゃないけどそんなこと百も承知です。
 で、居直り強盗じゃないけれど「盗人にも三分の理(?)」です、どこかに何らかの「理」はある筈だ。
 というわけで、何でまとまらないのか考えた。

 答えはすぐ出ました。
 疑問が多過ぎて、とてもじゃないけど一回や二回で終わるようなことじゃなかったんです。

 単純に当落を「勝ち負け」として選挙を見たら、大方は敗因について分析しているつもりで、実際はただの後悔、それに関する繰り言で終始し、分析には至らず、時間薬のように、いつか収まってしまうことを(ほとぼりがさめるのを)待っています。

 前回の衆院選で自民党が大敗し、野党となって敗因を考えることになった。
 「自民党は反省すべきだ」と言われ、自民党員も「反省しなければならない」と思い詰めた。
 けれどすぐに出来る筈の「敗因を明らかにする」間もなく、すぐに今度は「反省(?)」に移行していった。
 
 本来、「反省」というのは、敗因を明らかにすればそこで一段落。
 ・・・・の筈が、何と驚いたことに「反省し続けること」を三年余りにわたって要求し続けられた。言ってみれば謹慎を申しつけられ、蟄居せよ、と言いつけられたようなものです。

 「反省しろ」、「反省が足りない」
 等、言われ続け、挙句の果ての選挙では、
 「民主党にはがっかり。自民党にはこりごり」
 と、反省し続けた日々をたった一言で否定されてしまった。自民党に本当の意味での「反省」(敗因を明らかにし、解決のための方策を考える)はあったのか。

 だから、あれは「反省ではなかった」のではないかと思う。
 あれは「野党議員というのはどういう気持ちになるものか」、その中身である、「屈辱感」「劣等感」「無力感」などを、頭ではなく皮膚で感じ続ける日々ではなかったか。苦行の日々ではなかったのか。

 それでも、自民党の「敗因を考える」ことは比較的取り掛かり易かったろう。
 それに加えて、自民党には「それ相当の実力と強かさ」があった。

 問題は「勝因」を考えねばならなかった民主党の方にある。
 「勝因」を考えるのは、「敗因」を考えることに比べ、格段に難しく、それに民主党には「それ相当の実力と強かさ」は・・・・・・・・。


 ・・・・・・・・・・・・・・・
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選挙に行こう!

2020年06月12日 | 心の持ち様
2012.12/16 (Sun)

 今回はホントに、部分転載だけです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「約束の日」 ~夕刻の備忘録より~

       
              (略)

 「決められない政治」とは、「決めさせない有権者」が作った不毛の政治状況である。自らの「バランス感覚」とやらを他者に自慢したい愚者が作り出す矛盾である。
 「ある政党に圧勝させないため」と称して、物事を深く考えず、唯々「反の思想」のみに縋って、他党に投票する。単純な自己満足のために、「くすんだ色」を塗りたくる。日本の夜明けが、その輝きが眩しくて、それを穢すことで己の存在を主張しようとする。

 そんな人達が「決める政治」を潰してきた。それが政治を停滞させてきた。それが日本を弱体化させてきた。
 マスコミの望み通りに、多くの人がこの罠に嵌められてきたのである。国民が一致団結しなければならない時に、それを妨害し、愛国心を嘲笑し、それを鼓舞する人達を批判してきた。
 震災の復旧復興が一向に進まないのも、遠くは「国民の団結心の欠如」が原因である。それさえあれば政治は動く、動かざるを得ないのである。


 国をよくすることに、「一億火の玉」であって何が悪い。
 被災地を救うことに、「一億火の玉」となって何が悪い。

 マスコミは、一言「団結心」と聞けば、「戦争を思い出す」と書き、「軍靴の音が聞こえる」と言って、真面目な主張を愚弄し、嘲笑い、あたかも「人間の負の側面」であるかの如くに報じてきた。
 その結果、我々は「善行をするにも」「悪行を絶つにも」、「被災民を救うことにすら」その団結心を遠慮がちに示さねばならぬような、歪んだ精神を持つに至ったのである。

 今我々国民にとって最も重要な視点は、国難に際して団結することである。
 「己を捨てよ」とまでは言わない、その半分、せめてそのまた半分くらいは、天下国家のため、公のため、他人のために尽くしていこう。
 そして、独り高笑いするためではなく、周りの人達と輪になって静かに微笑むために、持てる力を最大限に使っていこう。
 それが生きることである、それこそが「生きる意味を知る」ということである。

                  (以下略)

   http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-854.html


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「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」より

2020年06月12日 | 心の持ち様
2012.12/16 (Sun)

 部分転載です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あすの選挙結果で、すべてが一度によくなるなんてことはありえません。政党の離合集散を含め、混乱もまだまだ続くことでしょう。
 国を壊すのは簡単でも、立て直すためには、大いに時間も労力もかかることと思います。
 ですが、あすはここ数年のアレコレを総括し、仕切り直し、日本が新たな出発をするためのこれ以上はないというチャンスであるのは間違いありません。

                (略)
 個人的には、平成19年夏の参院選後、「日本は10年は時を失うだろう。この閉塞状況を打ち破るのは容易なことではない」と思い詰め、かなり悲観的になっていました。
 でも、私のそうしたくだらない感傷や思い込みとは別に、世の中動くときは動くものだと、今はそう思い知りました。
    
                (略)

 特にここ3年数カ月、ずっとつきまとい、悩まされてきたまるで異民族に支配されているような言葉の通じなさ、神経を逆なでし、苛立たせる強い違和感をあす以降、覚えないで済むことを期待しています。

                (略)

 政治に本当に人を救うことなどできようはずもありません。でも、政治は人を苦しめ、国家を崩壊に導くことについては実によく効果を発揮するものではありますね。
 だからやはり、とてつもなく重要なのだと考えます。 


http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2953958/

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1・すべてが一度によくなるなんてことはありえません。

2・あすは~ 日本が新たな出発をするためのこれ以上はないというチャンス。

3・思い詰め、かなり悲観的になってたけれど、~世の中動くときは動くものだ

4・まるで異民族に支配されているような言葉の通じなさ、神経を逆なでし、苛立たせる強い違和感。

5・政治は~とてつもなく重要なのだ。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1、「もう少し民主党にやらせてみよう」と言っていたのは「全てが一度によくなるなんてことはないから」、というのが理由でしたね。
 これを言って来たのが、マスメディア、そして民主党支持者でした。
 今は黙っています。けど、すぐに、それこそ年も明けないうちに、「ちっとも良くならないじゃないか」と言い始めるでしょう。
 その時に、国民の覚悟が試されます。

2、は言うこともなし。

3、大陸、半島、ロシア、が、ここまで「勝手放題をした理由、できた理由」を冷静に考えれば、10年でなく3年半で「これ以上ないというチャンス」に巡り合ったことは決して偶然ではない。「注意深く見守る」なんて手をこまねいていては・・・。

4、異民族に支配されているような~強い違和感。
 こんな、片時も気が抜けない(ちょっと目を離したら何をするか分からない)政権が、これまでにあっただろうか。

5、政治は人を救うためにあるのだけれど、所詮そんなこと、神ならぬ人ができるわけもないことです。
 でも、だからアナーキズムに走るのか。ただ否定するだけでいいのか。

 それとも、見つけ次第、いちいち問題を解決しようとし続けるのか。
 見果てぬ夢であろうとも追い続け、実現のための努力を繰り返す姿があって、それを見ることが一筋の光明と人々に感じられた時、政治は輝きを放つのではないか。



 注)19年夏の参院選

 自公併せても、民主党の議席数に届かなくなった。結果、この時から、法案が通せなくなった。

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「紋付羽織で投票へ!」とは言いませんけどね。

2020年06月12日 | 心の持ち様
2012.12/15 (Sat)

 明日は待ちに待った選挙です。

 総理大臣が自分に言い聞かせるつもりで、
 「選挙、やりましょう!」
 なら分かるけど、今回の選挙はその決定権を持つ立場にありながら、野党党首に
 「解散、やりましょうよ!」
 と呼び掛けるという、「???」な約束で、本当に数日で解散してしまった、とても珍しい選挙戦の始まり方でした。

 そして政党の集合離散が四倍、いや八倍速くらいで行われ、昨日の希望の星は今日の疑惑の塊に。新星は昨日の新生に乗っ取られても、まだ「上手に使って見せる」、等と。

 そしてあっという間に土曜日。
 立候補者は声を嗄らして、もう気の毒なくらいです。

 で、今日のTBS「報道特集」を見ました。いつも腹を立てるんだけど、でも土曜は必ずチェック、です。
 渋谷の若者に、例によって街頭インタビュー。
 びっくりしました。これ、30年くらい昔のビデオかと思った。

 女の子
 「行く予定は、ないです。あんまり、何か身近な感じが持てないと言うか・・・」
 二十歳の男三人連れ
 「二十歳になったばかりなんで・・・行きたいです。」
 (重ねて、「選挙権を手にしてどうですか」、と聞かれ)
 「いやあ、やっぱ、ボクの一票が左右するんで・・・」
 (それを聞きながら、もう一人の男の子は口を抑えて笑いをこらえている)
 女の子
 「行かないです」(どうしてですか?)「行ったことないです」

 何、これ!? 若者は情報弱者じゃない?どこが!?
 それとも、天文学的な偶然で「彼らだけがネットの情報を知らない」、のでしょうか?いや、その気がない者、というのは、年代には関係ないんです。
 ・・・・それにしても・・・・。

 「報道特集はホントにもう!何でこんなのが若者の全て、みたいな番組をつくるんだ!」と、いつものことながら腹を立てて見ていたら、別な若者の選挙に関する取り組みがあって、一転して京都の山間部だったか、「選挙カーの来ない村(投票率ほぼ100%)」のことを流す。
 さっきの連中に手鎖掛けて、この場に引き据えて、
 「罰としてここの世話役の言葉を100回書き取ること!」
 という宿題をさせたい、と思いましたよ。

 世話人、こう言いました。
 (投票に行かない若者について)
 「若い人が選挙にあまり関心がないというのはホンマにおかしな話やなあ、と思って・・・・。思いますわなぁ。もっと・・・・、やっぱり自分らのことを・・・・雇用やとかねぇ、若者の働く場所やとか言って、みんな頑張って言ってはるんやから・・・自分たちのことをやってもらっているのに自分らは知らん顔しといて、そんなおかしな話、ないんやないかなぁと思って・・・・。」

 何だかね、年金、「どうせ年金、自分たちはもらえるかどうか分からないのに」って言ってるばかりで、払込みしないで。
 その延長で選挙に行ったって「ボクの一票が左右するんだ」、なんてこれっぽっちも思ってない。
 「どうせボクの一票なんて塵ほどの重さしかない」程度のことしか思ってない。
 でも、みんな同じく塵ほどの重さしかないんですよ、一票なんて。
 特別に選ばれた何人かだけが千金の重さ、なんてことありますか?
 みぃ~んな「塵ほどの重さ」、です。だからいいんじゃないですか。

 その「塵ほどの重さ」に、「千金の思い」を込めて投じることこそが、大事なんでしょう?
 そうやって少しずつ「塵ほどの重さ」から、有用な「羽毛ほどの重さ」と見直し、「千金の重み」のある、立派な政治が行われるようにしていくんじゃないんですか?
 だからね、「紋付羽織を着て~」とまでは言わないけれど、せめて
 「塵かもしれないけど、この集積が国をつくるんだ!」
 との思い入れを持つ。
 そして
 「これは『国民だけに与えられた名誉』なんだから、ちゃんとした格好で、威儀を正して、投票に臨もうではないか!」
 と、思ったらどんなもんでしょう。


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