CubとSRと

ただの日記

もう駄目だ~~っ!

2020年06月13日 | 心の持ち様
2012.12/21 (Fri)

 あ~~っ。えらいこと忘れてた~~~っ!
 今日は「2012年12月21日」!
 マヤ暦では「地球の滅びる日」だったんだ~っ!!!

 朝、テレビを見てて、思い出したんでした。
 これ、随分前に言ってませんでしたか?言ってましたよねぇ~?
 困るなあ。もうちょっと前に言ってくれないと。すっかり忘れていましたよ。
 忘れてたから何の用意もしてない。
 今日だと分かってたら、晩御飯、ちょっと奮発して豪勢なおかず、用意したのに!

 あ、そうじゃない。そんなことを書くんじゃなかった。
 あとから新しい暦が見つかって、それによるとあと5千年分余り、暦があるから、これから5千年ほどは大丈夫、だとか。何のこっちゃ。

 でも、6千万円も掛けてmade in china の「ノアの方舟」という名の球体(方舟なのに球体!)、買わなくて良かった!生き残る者まで死んでしまうわい。
 いっそ、「ノア」なんて持って来ないで、「徐福の方舟」とでもしておけばよかったのに。

 とは言え、考えてみたんです。
 「2012年12月21日。地球が滅びる。」
 そんな大変なことを予言したマヤ族は今、どうしているのか。
 マヤ族は自国が滅びる、なんて予言はしなかったのか。自分のことはほっといて、世界の人々のことだけを心配していたのか。
 マヤ文明って有名だけど、国連に「元祖マヤ王国」とか「マヤ民主主義人民共和国」なんて登録、ないでしょう?

 自国の滅びるのを予言もせず、地球の滅びるのだけを予言したって・・・・。
 もしかして、マヤ帝国は「地球市民」の先駆者か?
 んなこたぁない。

 だったら、
 「マヤ暦って、ただの暦であって、2012年12月21日までしか作ってなかった。」
 それだけのことだ、ってなりませんか?
 あんまり昔のことだから、
 「まあ、ここまでつくって置きゃ、当分は大丈夫だろう。あとは子孫に任せりゃ良かろう」
 って。

 誰だ!「地球滅亡の日だ!」なんて言い出した奴は!

 というわけで、どうも今日中に地球が滅びるわけではなさそうです。

 けど、ついでです。考えてみます。

 共通了解事項のように扱われる「事実というもの」を、実際に己が目で見た人ってほとんどないんですよね。ちょっとマシな場合で「写真で見た」とか、「テレビで見た」とか、です。
 大方は「信頼できるメディア情報」で知ったものが「事実」。
 ところが、「信頼、信用のできるメディア」というのは捏造報道(捏造記事やモンタージュビデオ)が随分幅を利かせているみたいだ、と我々はここ数年で感じるようになりました。

 「真実はどこにあるのだ!」
 真実なんて星の数ほどある。捉え方次第なんだから。
 「じゃ、事実は?」
 事実は一つ。
 でも、見る角度によって違って見えるし、並べ方次第で全く違った印象を形成する。

 そして我々人間というのは「情でなく、理で動くべき」という行動原理を守ろうとする。それは「情で動いてはいけない」と思っているから。
 何故なら社会というものは情ではなく理で以て成り立たせてきたものであり、ヒトはその社会の中で人間として生まれ育ち、その社会を支えているから。
 社会の中でこそ「人間」と言われるのであり、でも、ヒトという生物です。
 つまり我々は、知らず「情で動いている」。

 賢しらに選挙結果を分析しているテレビのコメンテーターや、新聞記者。
 いかにも「理で書いている(分析している)」ように見えますが、ホントはそうじゃない。断言できるんじゃないでしょうか。「情で動いてる」って。

 それは例えば「安倍の葬式はうちが出す」みたいな言葉に見えてきます。
 そこには理ではなく情のみがある。理で動かすべき社会の在り方を全く無視した(マスメディアは社会を否定するためにあるのでしょうか?)発言です。

 先日の「メディアの良識」「大学入試出題率NO,1」、アサヒ新聞の「天声人語(四字熟語編)」を見れば、よぉ~~~く分かります。本来の四字熟語を弄び、社会を笑う。それを新聞の顔たるべき場所に、したり顔で載せる。


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「是非を決する己の頭」

2020年06月13日 | 心の持ち様
2013.10/05 (Sat)

 「是々非々について考えてみたい」、なんてこれまで何度も言いながら、実際のところ、「良い」と「悪い」についてばかりで、一向に「是々非々」について書いてないじゃないか、と思われているかもしれません。

 「良いと悪いは対立していない」
 とか
 「(上下、でなく)重層関係だろう」
 とか、どうでも良いようなことばかり書いている。
 ・・・・・・・・・わけではありません。

 何だかカッコいいでしょう?「是々非々」、という方が。

 「良し悪しで考えなきゃ」なんて書くと何だか間が抜けているように見える。
 「是々非々で考えなきゃ」の方が断然カッコいい。
 「そんなバカみたいなこと!」って思われますか?

 ネーミング、って大事ですよ。そこに本質をあらわそうという努力をするか否か。
 自信を持って、誇りを以て取り組んでいるように見えるか否か。
 そんな心意気が見えて来るものなんじゃないでしょうか。「良し悪し、より、是々非々にしよう」って。

 「足元を見る」、が西欧では「少々の無理を吹っかける」ためではなく、「相手の内実を知り、応対のための重要な情報を得る」手段だったことを考えれば、スマートな応対は今でいう「カッコいい応対」、「クールな対処の仕方」となります。言葉一つにだってそれは表れる。

 「要は中身だ」というのは、まずは外見に拘泥した上で初めて言える言葉です。「人は見た目が大事」、「人は見た目が九割」なんていうのも同じです。
 中身があるのに(しゃんとしてるのに)、何故わざわざ外見でそれを偽ろうとするのでしょうか。
 肝腎の「中身」を十分に理解してほしい、認めてほしいのなら、外見をしゃんとしようとするのは至極当然のこと。
 それを
 「中身がないくせに外見だけしゃんとしている場合だってあるじゃないか。大体お洒落に現を抜かす男なんてろくでもない奴ばかりじゃないか。風体にばかりこだわっている奴なんて信用なんかできるか」
 、なんて茶々を入れられるとすぐしゅんとしてしまう。

 「外見と中身に直接の関係はない。だから分けて考えるべき。」
 これは是々非々です。これが是々非々です。物事を分別しているだけです。だから、「だから」という結論につながる理由説明ではない。
 分断していくことで、それぞれ(個々)の是非を明らかにしていき、目的に辿り着こうとする。「分科」学の根っこです。けど、根っこではあっても「科」学ではない。

 「茶々を入れる」と書きましたが、是々非々を言っているように見えて、全体の中の一事例を以て全体の結論(というより総括、断定ですか)を出そうとする。
 平静な時なら「あれ?」と思うかもしれないけれど、大方はその一事例自体が間違っていなければ言い返せず、下を向くしかない。
 本来は科学的手法である「是々非々」だって、ただの「手法(方便)」なのだから、宗教的に重用されるし、カルトが重宝することもある。

 優れた中身を作り上げるのには時間がかかります。
 だから、まずは外見から真似ていく。外見に気を付けていくうちに、中身の在り方も見えてくる。
 大雑把な言い方をしましたが、型から入る様々な習い事(武術も含む)、「悪いことはすぐ習う(倣う)」という教え等は、この努力云々のことを気づかせようとするものです。是々非々という考え方(単なる判別法)にはこの努力を注視することは含まれません。当然、そのつながりも見えてこない。(分断が前提だから、見ようとしない)

 そんな「良し悪し」の仕組みを考えようともしない者が、「良し悪し」の代わりに「是々非々」という言葉を使おうとする。主にカッコよさだけ。目的につながるとは限らない形で「是々非々」を口にする。
 
 「何をしたかったのかを思い出して、事の良し悪しを考えよう」
 「『悪いことばかり倣う』の言葉通り、初めは上手くいかないんだから、まずは『その努力は目的につながるか』どうか、を考えてみよう」
 「是非を問うことは大事だけれど、目的をわすれていないかどうか、常に気をつけよう」

 くどいようですが、「是々非々」は科学的手法です。
 けれど、それは手法、手段でしかないのだから、目的につながるための論理を以て用いなければ気分次第の○×テストにしかならず、下手をすると何をやろうとしているのか能く分からない、といったことも起こって来る。
 同じく、手段でしかないのだから、科学ではなく宗教が用いることもできる。

 ぐだぐだと「是々非々」の周辺について書き散らして来たのは、昨今の政治に対する、安易な「是々非々のススメ」をマスメディアが強調しているような気がして仕方がなかったからでした。
 政治の目的もはっきりさせず、また、偏った情報を提供して、それで以て個々の事案の是非を国民に考えさせる。
 それによって、政治の批判をさせ、政治を分かった気にさせる。

 政治の目的は何か。具体的に何をすることでその目的に向かうべきか。マスメディアがそれを単刀直入に説くことはありません。
 それが良心から、ではないことは言うまでもないでしょう。
 科学に思想はないから、両刃の剣。
 「是々非々」は科学的手法だから、これまた両刃の剣。
 マスメディアの思想で以て「是々非々」を薦められたら?当然真面目な人ほど、「マスメディアの信奉者(理解者ではなく)」になる。


 「我が国は道義国家でありたい。そのために、まず、戦後体制から脱却しなければならない」
 「我々は最少不幸社会の実現を目指す。そのために奇兵隊内閣を組織した」

 どちらがまともな「目的」、でしょう。
 「道義国家」か。
 それとも
 「最少不幸社会の実現」か。

 目的を失念した是々非々は、目的に辿り着くことを許すのか。
 是々非々を唱える国民は、その政治の目的と自身の理解度を同程度と本当に思っているのか。

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もう五年目・・・・。

2020年06月13日 | 心の持ち様
2013.10/03 (Thu)

 今日は中川昭一氏の五回忌です。

 大事な国際会議後の会見の席上で、酩酊し、呂律のまわらない発言をしながら居眠りをした、と。
 また、バチカン美術館で柵を乗り越え、美術品に触れて警報機を鳴らし、大顰蹙を買った、と。
 国際的な大問題のように叩かれ、帰国してからもマスメディアの大バッシングに晒され、それを事実ととった有権者に離反され、落選し、謎の死を遂げた中川昭一議員。

 後に全て事実無根(註)だったことが明らかになったけれど、マスメディアは知らん顔。

 麻生総理と組んで正論を吐き、
 「核について話をすべきだと言っただけで抗議される。非核三原則どころか、『言わせず』『考えさせず』、の五原則か」
 、と吠えて、マスメディアを黙らせた男。
 次期総理を嘱望されていた男。

 氏の思いは間違いなく、現政権が受け継いでいるんです。


  以下は
  「博士の独り言 II」の転載です。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「中川昭一氏の五回忌に際し 」

                         ~ 博士の独り言 II より ~

 今も敬愛申し上げて止まない中川昭一氏が亡くなられてより五回忌を迎えました。
 心静かに哀悼を捧げ、在りし日々に毅然と示された数々の国守られた業績と後代に示されたご遺徳にあらためて敬礼と感謝を捧げたく思います。

 ごく率直に申し述べれば、後の総理大臣に価する器と力量を兼ね備えた希少な政治家であられたほどに、あらぬ勢力が限りなく邪魔な存在と観てか、ごく一時の事一つの失敗を、それが刑事罰に価する瑕疵の次元で語られるものでは無かったにもかかわらず、メディアの多くから半年も一年も、ひいては命を落とされるまで執拗に、さらに執拗に責め続けられました。

 それらが、むしろ中川昭一氏の存在の証明であったと確信します。

 その尊い命を奪ったのはメディアであり、ついに落命されるまでの間の、中川昭一氏の人知れずのご辛労には累々たる無念が有ったことと拝察して止みませんし、今も涙は絶えません。
 しかし、純粋なご遺志を我々国思う敷島人が共々に引き継ぎ、国守るお手本、心の力としてまいることが、次代へ向けて在るべき筋道であると確信します。

 中川昭一氏は、国思う敷島人の心の中に今も生きておられ、これからも我々を安らかに見守っていただけることと拝し、尽きない哀悼と感謝を捧げこの五回忌を迎えたく思います。

  平成25年10月3日


  http://torakagenotes.blog91.fc2.com/blog-entry-2219.html

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 註)

 飲酒ではなく、薬のせいで突然眠気が襲った、ということが報道されず、また誰も介助をしようとしなかったことが疑問視されている。
 「酩酊」というのは誤報となるが、訂正は為されなかった。

 バチカン美術館では、在住の日本人神父が事実無根と訴えたが、日本のマスメディアは一顧だにしなかった、と神父自身が証言している。
コメント (2)
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一番大事なことは、「日本と日本人の底力を信じること。」

2020年06月13日 | 心の持ち様
2012.12/30 (Sun)

 こういう演説をする首相を、一体当時の人はどう思っていたのでしょうか。
 やっぱり、鼻で笑ってたんでしょうか。
 そうだとしたら、もう日本人の感性なんて死に絶えてしまったんだと思うしかない。
 
 安倍政権に代わってからも、相変わらず官邸前で「ゲーンパッツ、はーんたいっ」てやってる人々から見れば何にも変わってないんでしょうね。

 以下、引用です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 『私は悲観しません。私は、日本と日本人の底力に、一点の疑問も抱いたことがありません。時代は、内外の政治と経済において、その変化に奔流の勢いを呈するが如くであります。しかし私は、変化を乗り切って大きく脱皮する日本人の力を、どこまでも信じて疑いません。そして私は決して逃げません』
http://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2008/09/29housin.html

               ★ ★ ★ ★ ★

 総理の所信表明演説で、「泣かされる」とは思ってもみなかった。日本人とは誰か。日本人とは私のことだ。
 未だかつて私は、「一面識も無い他人」にここまで信頼されたことはない。そう、誰もないはずだ。天皇陛下は常に我々国民のことを気に掛け、「心配」して下さる。
 さらに加えて内閣総理大臣に、ここまで「信頼」されては、奮い立たないわけにはいかないだろう。何と日本人であることは有難いことか。何と日本人であることは素晴らしいことか。
 実際、今もなお多くの人が、この演説を大きな感動と共に思い出しているのである。

 さて、その「国民の心を大きく揺り動かした大演説」を、マスコミはどう報じたか。
 麻生内閣は、どのように報じられたか。まさに命を削り、遂には亡くなられた中川昭一を、マスコミは如何に評したか。三文タレントは如何にオモチャにしたか。
  
                 (中略)

 多くの国民は、「新聞は客観的事実を書いている」と信じている。「テレビは公平に報道し、識者は見識のある発言をそれぞれの専門の立場から主張している」と信じているのである。

 この意味で「二度の政権交代」を挟んだ四年の間、国民の多数派は、未だ何も変わっていないと言える。
 マスコミは「自民党は変わったか?」と報じながら、結論は初めから「変わっていない」に決めている。その幼稚な工作を、未だ国民は受け入れている。
 一番「何も変わっていない」のは、なお多数派を形成するこうした国民の気質である。

  夕刻の備忘録
          「二度の政権交代を挟んで」より

   http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-861.html

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反省⑤「民意」を「風」なんて言い換えるから・・・・。

2020年06月13日 | 心の持ち様
2012.12/30 (Sun)

 「感覚を研ぎ澄ませよう」と、「気を集中しよう」と、する。
 そんな時は、微風だって妨げになる。弱風だったら、もう空回りばかりで、強風ともなると、ただノルマを果たすだけ、形骸化してしまって何にも残らない。

 ・・・・みたいなことを書きました。
 つまり、主体性を以て(理性を以て)何かをしようとする時、風ははじゃまになるだけだ、と。

 だから、アイドル、当代の人気者、となるには風に逆らわず、それどころか風にうまく乗っていけば、良いのでしょう。
 けれど、政治家が取り組む「社会(国)」のような、理で成り立つ世界に、風の力を期待すべきではないし、「風」を後ろ盾にするのも、或る意味、国民をバカにした態度だ、と思います。それはポピュリズム、衆愚政治と多くが重なるのではないでしょうか。

 神社に参拝する。玉垣の御門のところで、或いは拝殿の前で手を拍ち、拝礼する。その時に、本殿の方から風が吹き、本殿と参拝者の間にある御帳を吹き上げることがあります。
 参拝者はその時、向かい風を受けて、煽られた御帳の向こうの本殿を僅かに見ることになる。
 神様が参拝に来たのを喜んでおられるのだそうです。

 その真偽はともかく、微風の向かい風の心地良さ、というのはたとえようもないほどで、その時ばかりは風に吹かれることを良くないなんて思いません。
 神前で己を無にして、拝するわけですから、主体性だとか理性だとかいったものは関係ありませんからね。
 その一瞬に穢れが祓われてしまったんでしょう、きっと。

 何しろ、神様だって常に自らを祓い続けるんです。
 黄泉の国から戻られたイザナギ命は、川に入って禊ぎをされる時、着衣を脱いで強く振って穢れを祓われました。風で祓ったわけです。
 「禊ぎ」、というのも言葉通り、身を削ぐように身体を強く擦り、穢れを祓います。

 主体性を以て、或いは理性で以て何かを為そうとする時は、「風」は邪魔です。
 けれど、己を研ぐのではなく、己を無にして、無私の心、明(あか)い心、赤心で以て他者のために何かを為そうとする時、「風」は世俗の穢れを見事に祓ってくれる。
 それこそが「神威の発動」、かもしれません。だから、その時の「風」は、神そのもの、かもしれません。そしてそれは決して「追い風(後押しをする風)」ではない。


 そうやって見ると、今回の日記で書いて来た、
 「風を感じなかった」
 「民主党には逆風が吹いていた」
 等の「風」、はどうも神様の吹かせた「風」とは違うもののようです。
 何故って、己を無にして他者のために何かを為そうとする場合、「無風」、なんてことはないし、ましてや、「逆風」、なんて。

 こんなこと、ごちゃごちゃ書かなくたって誰だって知ってることですよね。
 こう言われますよ、きっと。
 「『風』ってのは民意のことなんだよ。ま~だ気が付かないのか?」
 、なんてね。

 なるほど、そうです。「民意が奈辺にあるか。」
 「風」、云々はそういうことです。

 「民主党には強い逆風が~」というのは「民主党政治を支持しない人が多くなったことが雰囲気で分かる」、ということ。
 「強い逆風が」とまで言われるのは、「支持しない」、どころか「反感さえ持っている」という事でしょう。
 「民主党なんか、誰が支持するものか!もう騙されないぞ!」って。

 じゃあ、その民意とは?です。
 どうやって民意ができるのか。
 個々人が?
 で、気が付いたら多くの人が同様の意見を持つようになる? 
 自然に、ということ?

 人間ですからね、「自然に」ということはありません。
 自然界の中で「起こる」から「自然」、なのであって「社会」の中で、「自然に」ということはありません。
 「理」で成るのが「社会」、なんですから、「自然」と見えるものにも、間違いなく人工的な(それなりの「理」による)働きかけがあります。
 つまり、「民意」は何者かによって「つくられる」。

 陰謀論みたいですけど、「陰謀」って社会がなければ成立しないでしょう?はかりごとってのは社会の中でだけ、用いるものです。はかりごとを巡らせて動物同士の仲を険悪にさせる、なんて、ないでしょう? 
 「未必の故意」って言うんでしょうか、本人は気が付いてないのに意図的に行動してしまうこと。
 民意はそうやって作られます。影響し合うことで、支え合うことで、社会は成り立っている。誰かが意図的に、或いはそうではなくとも、社会という池に小石を投げると、水面に波紋が広がる。その「誰か」がマスメディアだ、と考えたら・・・・・・。

 いずれにせよ、我々人間が社会の中で、「風が吹いた」とか「逆風が~」「風を吹かせる」などと言うのは、おこがましいことだなあ、と思います。

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