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CubとSRと

ただの日記

手さぐりで「相撲の道を歩く」

2020年06月28日 | 心の持ち様
2015.11/22 (Sun)

 一昨日、夜。ネットを見ていたら、北の湖が亡くなった、という文字が見えた。
 「えっ?まさか」
 そう思ってネットのニュースを見ると、本当の話だった。確か同い年だから62歳。

 現役時代、「憎たらしいほど強い」とか「態度がふてぶてしい」とかいう批判を聞くことが多かった。
 実際、見てくれが悪い。太い腹。これまた太くて短い手足。いつも機嫌の悪そうな表情で、それが勝っても負けても踏ん反り返って引き揚げていく。愛嬌なんかどこを探したって、ない。笑顔なんか見せた事が無い。松鳳山みたいに、土俵上では何ともこわそうな顔してても、土俵を下りて見せる笑顔は何ともほんわかしてる、みたいなのが普通の力士だ。
 北の湖はそうでない。いつも仏頂面している。仏頂面のメイク、してんじゃないか、と思うくらいだ。

 それが或る時。
 取材のマイクが珍しかったらしい。風の音を拾わないように、全体にファーのようなものを被せた大きなマイクに、長い棒がついているやつだ。一般にまだ馴染みがない頃で、ちょっとユーモラスな形をしていた。モスラが暇つぶしに作った繭玉、みたいだった。
 それを、北の湖、いきなりつかまえて自分に引き寄せた。マイクの係りの人は慌てただろうけど、北の湖は構わず、
 「何だ!これは!」
 みたいなことを何度か言いながらさらに引き寄せて
 「何だ、これは!あ~っ!」
 とふざけて見せた。
 勿論、笑顔じゃない。いつものあの仏頂面だ。真面目くさってやるもんだから、笑いが起こるはずもない。

 でも、見ているこちらとしては 「あれ?意外と剽軽なのかな?」となる。
 果たして、徐々に土俵上の様子と違い、意外に人懐っこい性格らしいということが聞こえ始めた。

 「憎たらしいほど強い」北の湖も段々に衰え、あっけなく土俵を割るようになる。
 そうなると
 「あれが北の湖か?いや、そんな筈はない。きっと調子が悪いんだ」
 みたいな声が聞こえて来る。こんなに北の湖のファンがいたのか?

 引退後、おそらく話した言葉をまとめたのだろう、新書が出された。
 「もう一歩、前へ出れば勝てる」
 そんな気はなかったのだけれど、立ち読みの途中で、つい買ってしまった。

 横綱のくせに、土俵下に落ちた力士に手も貸してやらない。さっさと自分の仕切り線に戻ってしまう。
 反対に自分が負けて手を差し伸べられそうになったらさっと立ち上がって土俵に戻る。
 手を払い退ける事はあっても、手を借りるなんてことは絶対にしない。全く可愛げがない。
 ところが、これはこういう理由なんだそうだ。
 「負けたらくやしい。だから一刻も早くその場から逃げ出したい。とてもじゃないけど手を差し伸べられるのを喜ぶ気にはなれない。そんな風に思っているから、勝って手を差し伸べるなんて、相手に対して失礼なような気がする。」
 場所に親を招待することはなかった。必死になって仕事に取り組んでいるのだから、見てもらおうなんて考えたこともなかった。

 そんな話を読んでいくにつれて、彼の「一所懸命」を全く見ていなかったのだな、と思うようになった。
 相撲の「技の稽古」ではなく、「相撲道」を歩もうとしてきた横綱だったと分かる。
 その意味で「憎たらしいほど強い」は、皮相的な見方だったと思う。
 技術で、取り組みで、強い力士はいくらでもいる。白鵬なんかもそうだろう。

 けど、一所懸命、それもほぼ手さぐりで相撲の道を歩こうとしていたのは、ただ北の湖一人、なのかもしれない。

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「階級」という価値観(永久に謝らなければならない ) ③

2020年06月28日 | 心の持ち様
2015.11/12 (Thu)

 「華夷秩序(宗主国と属国で成り立つ)」から見るに、「化外」だから「日本」は国ではない。
 国ではないところの住人は人間でさえ、ない。
 だから「」という最下層の「階級」にも含まれない。
 本来なら「奴隷」であるが、「世界」の外に居るのだから、「奴隷」以下の存在である。
 ここまでが①
 
 滅亡した百済から流れ着いた韓民族のなれの果てが日本である。
 だから、折々に先祖の恨みを晴らすために反韓的な振る舞いに及ぶ(のであろう)。
 故に、「奴隷(倭奴)」、「犬」と言い続けるのは当然のこと。
 礼を尽くす相手ではない。
 ここまでが②

 だから室町期、八幡船で貿易に来た日本人が、騙され、或いは裏切られて、怒り狂って海岸部を荒らし回ったことには、ただ恐怖を感じるばかりで肝腎な「自省」の念は遂に持つことがなかった。
 
 ここまでで分かることは、(これは以前から言われていることですが)これらの思考の特徴は儒教(朱子学)が導入された時から顕著になっている、ということです。
 朝鮮での学問は儒教の「心持」を研究するのではなく、「礼楽」という「形式」の追求だけがなされた、と言えるでしょう。
 それも学問は一割を占める両班階級のみ、で、世宗王が朝鮮文字を作らせてからも残り九割の国民は読み書きができなかったというのですから、「歴史を鑑みて」とまではいかずとも「歴史を直視して」物事を考える、などということは不可能だったと言わざるを得ない。日韓併合時、「悪いのは誰だ」と考える力を持ち始めたのだけれど、いかんせん、文字の読めなかった国民が過去を見ようとしても、闇は深過ぎて、全く手に負えなかった。
 彼らだけではない。宗主国たるシナだって、儒教は「礼楽」の形式を追求することで社会の仕組みを維持する、という「実利」しか求めなかった節がある。
 考えてみれば当たり前のことなんでしょう。
 我々日本人が
 「儒学の中心は心持にあるのだ。ちゃんと論語に書いてある。まずは『仁』、そして『仁』とは『忠と恕』なのである。」
 、などと研究し、解析するのは、彼ら華夷秩序の世界の住人には「?????」でしかないのでしょう。
 儒学は「儒教」なのであって、「礼楽」によって国を治める政治術。「論語」みたいなものは、儒「学者」の勉強すればよいこと。
 そうであるから
 「だから、化外の生き物は困る。何もわかっておらん。何が『心の持ち様』、だ。社会を治めるための術こそが学問なのだ」
 、などと、今でも思ってるのかもしれない。それでなければ「孔子学院」、なんて名前、絶対につけないでしょう?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「韓国と『国交断絶』の覚悟」   西尾幹二


           (略)

 六月二十三日放送のBSフジ「プライムニュース」で自民党衆議院議員の逢沢一郎氏が「アジア女性基金から支払われた金銭の受け取りを、挺対協の介入もあって韓国側は拒否したではないか」と津田塾大学准教授の朴正鎮氏に質した。
 その時、朴氏は「お金は問題じゃないんだ」と述べた。
 すると逢沢氏はハッとした顔をして、「またそんなことを言うのですか。いつもそういうことを言う。それならどうすればいいのですか?」と訊いた。
 それに対して朴氏は言い淀み、黙っていた。
 そのやり取りをテレビで見ていた私は、韓国は合理的とか現実的な解決など一切求めておらず、ひたすら精神的なことだけを求めていると感じた。
 精神的なこととは要するに日本が地べたに頭を擦り付けて謝り続けることである。韓国が求めていることはその一点なのだ。
 それが根幹にあって、その証拠に、遂には李明博前大統領が天皇にまで土下座を要求したではないか。
                         
                       ( 転載了 )
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 すいません。
 多いと思ってたけど、今回、西尾氏の文からの引用はここまでです。

 考え「方」がないので、どうしたらいいのか、どうやって「結着」すればいいのか分からないのではないか。
 だから、ただひたすら「要するに日本が地べたに頭を擦り付けて謝り続けること」、だけを言い募る。
 言葉にできないもどかしさ、と言うんでしょうかね。とはいえ、金は欲しい。
 それは間違いない。でも、「金で解決なんかできない」、とも思っている。
 「考え方」がないから、李朝以降、今に至るまで「考えの進展」はなく、ただあるのは「華夷秩序」と「事大主義」と「日本は化外の地。日本人は本来、奴隷以下」という固定観念。

 「分かろうとしなければ分からない」「聞こうとしなければ聞けない」

 つい先日も似たようなことがありましたね。慰安婦問題に関し、日本が解決策を問うたところ「それは日本が出すべきだ」って。
 「喧嘩売ってんのか」と思ったけれど、あれ、追い詰められている、ってことかもしれません。自分には何も案がない、ということです。言ってみれば結着の青写真なんか初めっから持ってない。考えたことすらない。政治は結果だから、青写真なしに取り組もうということ自体、何ともとんでもない話なんですが、そんなだから、「摺り合わせ」、なんて外交、内政共に基本中の基本であることを考えようともしない。

 そんなことを思っていたら、今朝の宮崎正弘氏のメールマガジンに、またもや「成る程」と思わされる投書が。
 では、それを転載。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
(読者の声2)
【韓国には歓迎会はあっても送別会はありません】
 日中韓3か国会合の折に開かれた安倍・朴首脳会談後、韓国側から昼食を誘われず、安倍総理は街中のレストランに焼き肉を食べに行かれたことが話題になりました。
しかし、韓国に駐在経験のある日本のビジネスマンの間では昔から「韓国には歓迎会はあっても送別会は無いのが普通」と言われてきました。つまり赴任当時は自分たちに便宜や利益を齎すよう歓迎会はしてくれますが、離任と云う事がわかると、もういくら接待してもしょうがない、と云う事らしく送別会は大体催してくれないのです。
彼等がノーベル賞がもらえないのはロビー活動が足りないからだというのと発想は同じですし、赴任中の韓国側への貢献に感謝の念などは抱かないのが彼らなのだとわかって、大体の駐在員は嫌韓になって帰国します。
しかるに何事につけ「完全かつ最終的に決着する」よう日本が求めても、それはその時点だけでの「完全かつ最終的な決着」であり何度でもそれが繰り返されても彼らはおかしいとは思わないのです。
(SSA生)


「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成27年(2015)11月12日(木曜日)
         通算第4724号 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「赴任中の韓国側への貢献に感謝の念などは抱かない」から「歓迎会はあっても送別会は無いのが普通」

 「ノーベル賞がもらえないのはロビー活動が足りないから」

 これを見ると、「日本に感謝の念などは抱かない」のは理の当然、ですよね。
 日本以外の国にだって実利のみ、をロビー活動で求めるだけのようですから。


          (これで終わりです)
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「階級」という価値観(礼を尽くす相手は) ②

2020年06月28日 | 心の持ち様
2015.11/11 (Wed)

 続きです。
 彼らが持つ、「階級」を物差しとして物事を見ようとするやり方。
 一見するとインドのカーストみたいですが、「カースト制」と言われるものは国内での話で、朝鮮のように外国である日本を「」以下、とするのは、日本が「華夷秩序」に入っていない、言ってみればカースト制に所属することさえ許さないという見方なわけですから、前回に書いた「奴隷階級」という「階級」以下の見方ということもできます。
 そんな「」以下、どころか「奴隷」以下、の相手に、小中華の国「民」が礼を尽くすか。そんなわけはない。
 礼を尽くさないくらいですから、「約束を守るか」。言わずもがな、でしょう。

 両班は中人から物品を借り、常民に金品を納めさせ、返すことをしないのが普通だったそうです。「階級」が違うのですから。
 となると、「奴隷階級」以下の存在である日本との約束を守る、なんて有り得ない。

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 「韓国と『国交断絶』の覚悟」   西尾幹二

  ~約束など守る気がない~

           (略)
 
 六六三年の白村江の戦いなどで百済が滅亡し、王族や貴族たちを含め一千人規模の日本への亡命者がいたとされている。
 当時の日本の推定人口は五百万~六百万である。これらの事実から韓国の歴史学者は、日本人の主体は朝鮮半島で生きられなくなって日本に渡った敗残の韓民族だというのである。

 滅亡した王朝の王侯貴族だけでなく食いっぱぐれの流民たち、罪人・貧困者・浮浪者たちが日本人を構成した。祖国では生きられない恨みとコンプレックスを抱いた韓民族の子孫が日本人の本体である。
 だからこそ、その後の歴史で、恨みを晴らすために秀吉の侵略、日帝三十六年の植民地化、現代の差別化など反韓的な振る舞いに及ぶのであろう、などという。

 つまり日本人とは彼ら韓国の学者たちによれば、在日韓国・朝鮮人のなれの果てなのである。しかも半島では立場を得られなかった敗残者で、それゆえに当然ながら、日本人は四つの階級のさらに下の階級に属するとみなされてしかるべきだ、と考えられるのである。
 そのため、いまでも韓国では日本人を「倭奴(ウェノム)」ないし「犬」と称しているし、これからもずっとそう呼び続けるだろう。「犬」である日本人との合意や約束など、端から守る気がないということなのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・やれやれ、ですが。
 「西尾センセ、ちょっと頭に血が上り過ぎてない?」
 なんて思った人、それは腸内フローラならぬ、脳内フローラ、ですよ。
 ここ数年どころか、ホンの数ヶ月の間にだって、どれだけ約束破られました?
 なのに、関係の大臣、省庁の役人に対しては
 「仕事をしてない!辞めてしまえ!」
 と、かなり厳しく批判するし、大臣や役人が何故こんなに弱腰なのか、その歴史的な理由に関しても結構突っ込んだ意見を言い、突っ込んだ分析をしているけれど、肝腎の半島国の人々が何故こんなに約束を破り、ウソをつくのか、に関しては
「生まれついての嘘つき」、「在日は半島に帰れ!」「火病が民族病」、みたいなことだけで終わってません?
 それでも、まだ、いいんですよ、「おかしい」と思ってるんですから。
 けど、やわらかバンクの犬のお父さん、黒人のお兄さん、「笑ってみてりゃいい」「そんなこじつけて騒がないでも」と、あのCM、ずっと人気があるでしょう?
 ちっとも分かってない。或いは何となく不快に思っていても「大人げないから」と黙っている。
 ラッスンゴレライと一緒で、
 「ボクら、そんなこと全然思ってませんよ。あれは、意味なんかありません。面白いと思ったからやってるだけですわ」
 と言われたら、そこでストップする。
 でも、本当は何だか知らん、妙な不快感がある。
 だったら、「不快だな」と一言いえばいいのに、マスメディアの言う通り「大人の対応をしなけりゃ恥ずかしい」、と。

 子供が調子に乗っておんなじことばかりするのは、大人に対して何かやって見せたら、笑ってくれた、注目してくれた、だから有頂天になって(舞い上がって)、ということです。二度三度とやっても大人は愛想笑いをしてくれる。子供はそれが愛想笑いだとわからない。
 そんな時、笑顔で手招きして
 「二回以上やったら面白くないんだよ。工夫しなけりゃウケないぞ」
 と小声で耳打ちしてやる、みたいなことを書いていたのは筒井康隆だったでしょうか。

 韓国が日本に対してやっていることは、まさにこれです。
 日本人を同じ人間とは見ていない。日本が辛抱している、ということがわからない。

 「もしかしたら怒ってるんじゃないか、『ぱはん』『カイラギ』の正体を現すんじゃないか」
 などと思っても、
 「大方の日本人は、政府も含めて『奴隷階級以下』だから。約束なんか何で守るんだ?」
 と思ってる可能性大。
 勿論これは心の奥底の話です。


 注)
 「ぱはん」は「八幡」、「かいらぎ」は「海乱鬼」と書くのだそうです。
 貿易のためにやってきた人の好い日本人を騙して、ニセモノを掴ませて、散々にいたぶって追い返すことを何度か繰り返していたらとうとう今でいう「キレ」てしまって、乗ってきた船から荷物からみんな火をつけ、本人は刀一本で荒れ狂い、散々に仕返しをした後、腹を切って死んだ、と。
 朝鮮人には全く分からないその心情から、ただひたすら、「あんまり調子に乗って酷いことをすると、『パハン』が来るぞ」と海岸部では言い伝えていたのだそうです。随分身勝手な話ですが。
 最初から「酷いことをしなけりゃいい」、だけの話でしょ?

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「階級」という価値観(ものの見方) ①

2020年06月28日 | 日々の暮らし
2015.11/10 (Tue)

 「WILL 9月号」に載っていた記事なので、昨日の日本ハムの件以上に「今さら」、なことなんですが。

 その前の「中台の分断(?)」というマスメディア各社の見出しに関する記事、ニュースも同じで、
 「根っこのところ、分かってるんだろうか。分かって話題にしてるとは思えないんだけど・・・」
 というのが、街頭インタビューからの、私の感想だったんですが、どうも街頭インタビューどころか、記事に悪意さえ感じる新聞社に関しては言う必要もないことなんだけれど、普段はそうではない新聞等のマスメディアだって実はちゃんと理解していなくて、情報を鵜呑みにして報じているだけ、ってこと、案外多いのではないか。最近、そんな風なことを思うようになりました。

 朝鮮人の思考の形については段々に説明されるようになったのだけれど、彼らの価値観、長い歴史の中で醸成され、もはやDNAにまでなった「価値観(ものの見方)」について、冷静に説かれたものを見ることはあまりなかったと思います。
 シンシアリーさんが、「思考形態」について分析され、その成立の歪さについて説かれていますが、歴史の流れの中で醸成されてきた情緒絡みの思考を、「歴史」から目を離さずに説く人は、あまりなかったのではないかと思います。

 そんなところへ、この西尾幹二氏の記事です。
 「朝鮮人は日本をどの『階級』として捉えているか」
 これに関しての説明こそ、これまで考えるべきことでした。(少なくとも、私は、そうでした)
 
 前置きが長くなりましたが、以下、転載します。
 (平易に説明されていますが、転載(部分転載)とはいえ、やや長いので、3回に分けます)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「韓国と『国交断絶』の覚悟」         西尾幹二

    韓国で日本人は奴隷階級
 
            (略)
  韓国では儒教朱子学を国教とした李朝以後において、両班・中人・常人・の四階級があるなかで、日本人は最低の階級以下の奴隷階級であると、我々からすれば筆にするのもばかばかしい位置づけがなされている。
 と同時に、韓国では日本民族のルーツは朝鮮半島にあるというトンデモ古代史がある。天孫降臨神話はニニギノ
ミコトが天上から地上に降りて来た話だが、そのときに降り立った地は、これまで宮崎県の日向と想定されてきたがそうではなく、南朝鮮からの渡来人が北九州に降り立った、これが日本の皇室の祖先に繋がるという説である。
 こうした話が韓国では広く認識され、まことしやかな関連本がたくさん出ているし、シンポジウムや研究会議も開かれていると聞く。
 たしかにわが国は五世紀頃に半島との交流が盛んになり、渡来人が技術や文字を日本に伝えたことは一応、歴史上の事実としては知られている。そのため韓国は、儒教も仏教も漢字も野蛮な日本人に教えてやったと自慢げに語り、あらゆる歴史教科書はここを過度に強調する。ところがその典拠は、実は『日本書紀』なのである。朝鮮の最古の史書『三国史記』はやっと十二世紀であり、朝鮮にはこれを補完する古代の複数の関連史書がないのだ。そのためトンデモ古代史は後を絶たない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ひとまずここまで。
 「日本人は以下の奴隷階級」
 これにはちゃんと理由があるんです。
 「世界の秩序」とは「宗主国と属国(家来の国)の存在によってなるもの(華夷秩序)」であるから、そのいずれでもないところは「化外の地」であり、「世界」には含まれない。
 そんなところに住んでいるものは「野蛮人」どころか「人」でさえ、ない。獣、です。
 「世界」の中の「国(宗主国か、属国)」に住んでいてこそ「民」。日本人は「民」以下だから「奴隷」階級。「奴隷」は人間じゃない。
 ね?理屈、通ってるでしょ?
 勿論、随分身勝手な理屈であって、こんな考え方、ただただ呆れるしかありません。
 けれど、これは「考え方」、ではなく、「情緒絡みの思考」でしかない、「方(方法)」になっていないのだ、と捉えたら、確かに、シナ、朝鮮人の思考が見えてくる、というものです。
 加えて、朝鮮は「事大(大いなるものに事(つか)う」主義だから、絶対に日本と朝鮮は同じではない、と思っている。「朝鮮が兄で日本は弟」なんてことは、これっぽっちも思ってません。何しろ日本は奴隷階級なんだから。「兄弟」のはずがない。
 けれど、シナはそう考えません。シナは「華夷秩序」の宗主国なんだから、「日本だって属国にしてやってもいい」。
「オレ様は寛大だから家来になることを許してやるよ」というつもりで見ているわけです。
 だからシナからすれば、「日本も朝鮮も同じ」に見ることは簡単にできる。今は「蛮族」だけど「属国」になると言えば、朝鮮と同等に扱う。

 「今の時代に、よくもまあそんなバカなこと、まじめくさって日記に書くよね」
 と笑っている人いるでしょうけど、習さん、「中華民族の復興」、って言ってるでしょう? 「今の時代に」って笑えます?考え方に進展があるように見えますか?

 さて、それで、居丈高な彼ら朝鮮人が一番目を背けたい、一番痛いところが、その「朝鮮の偉さ」を日本の古典に証明してもらわなければならない、というところ。日本の古典籍にしかその証明ができない。自国にはそういう文書がない、少なくとも十二世紀になった「三国史記」以前の古典籍がないから、ということ。

 言い方、替えれば、「ドキドキしながら威張っている」、ということですね。
 いくら「偉い」と自慢しても、
 「何、言ってんだい。日本書紀に書いてないぞ」
 の一言で撃沈。

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11月23日は「勤労感謝の日」

2020年06月28日 | 心の持ち様
2015.11/21 (Sat)

 標題を見て、「あれっ?」と思われたらうれしいんですが。

 「11月23日は『勤労感謝の日』。日本中の働く人に感謝する日、なんだな。」
 子供の頃はそう思う。そして
 「感謝、ってどんな風にしたらいいんだろう。お父さんお母さんありがとう、だけじゃないな。近所の人にもありがとう、という方がいいかなぁ~?」

 バカみたいな話ですが、子供の頃、こんなことを思ったのは事実です。自分を中心にして物事を考えることしかできなかった。だから「感謝しなけりゃならないのは、自分だ」と思っていた。
 でも、どうやったらいいか分からないし、どこの家も取り立てて何かをしている、という風でもなかったし。
 つまり、「誰が」「誰に」感謝するのかということがはっきりしていなかった。「安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから」、と同じです、誰が過ちを犯したんだ??

 でも、学校では聞いたような記憶があるんです。
 「日本中の働いている人に感謝する日だ」、って。
 それで
 「働いてない、おじいさんや働けない人は??」
 なんてことを思いました。昭和三十年代の終わり頃のことです。戦争に負けて二十年足らずの時です。
 「三つ子の魂百までも」とは言うけれど、戦後教育を受けた者に、とにかく「??」なことは山のようにありました。
 ただでさえ子供は「ねえ、ねえ。どうして?」の時期があります。その時に「道理」とか「物の感じ方」を学び始める。
 ところが戦後教育は、基本、「戦前の否定」、なわけですから家庭で習った「筋」を学校で否定することが往々にして、ある。
 (「東アジアの国々を解放するための大東亜戦争」が「軍部の独走による無謀な太平洋戦争」、とされたことなど)
 筋が二本でクロスオーバーしてるんだから頭の中は「???」になる。何を信じればいいんだ?

 だから「祝祭日」と言ったら「祝祭日」であって、まさか「祝日と祭日を合わせて祝祭日」と言ってるんだなんて。考えもしなかった。
 知らなかった、考えもしなかったくらいだから、
 「祝日と祭日、どう違うの?」
 なんて聞かれたら、「???」、で、
 「いいや、別に。休みだから!」

 「祝日とは、日本の祝日」、と書いてある記事を見たことがあります。噴飯ものですね、今見ると。まさか外国の祝日のこと、なんて誰も思やしないだろうに。
 で、「祭日」は、となると「祭日とは日本の祭日」、なんてことは書いてない。祭日の説明は、ない。
 あったとしても「祭日とは、祭りの日のこと」と書いてある。わかっとる、っちゅうねん!

 「祝日は国が定めた祝賀行事を行う日」。「祭日は国(正確には天皇)が祭祀を行う日」
 祝賀行事を行うのが祝日。祭祀を行うのが祭日。政府(政治)主体が祝日、天皇主体が祭日、と言ってもいいかもしれない。
 となると「勤労感謝の日」、じゃ、どちらかさっぱりわからない。
 けど「新嘗祭」と言えば、祭日だと分かる。「~祭」とありますから。

 今年の農作物の豊穣であったことを、天皇が国民の代表として神に献上し、奉告して、神前で神に感謝しつつ共に食される。
 「勤労者」に、ではなく、「神」に感謝する祭りが「新嘗祭」。

 でも、GHQによって出された神道指令により、天皇が祭祀を行う「祭日」は、全て廃止されたわけですから、「神に感謝」、ではなく、「(神である)天皇が全国の勤労者に感謝する」、という「天皇と国民が対立(対面)する、という形にしてしまった。
 巧妙ですね、やり方が。アメリカ人ってこんなに狡猾だったんでしょうか?
 とてもあの能天気なアメリカ人の発想からとは思えないんですけど。
 アメリカの選挙は火曜日だったんじゃなかった?「伝統なんだ」、とか言って。日曜日は教会に行かなきゃならないから、その後で遠くにある投票所まで、馬車で行く。(どんだけ遠いんだ!)
 工夫、摺り合わせ、なんてことはしない。目的と目標は重なっていて当然、みたいな国民性ですから、こんな姑息なことは考えないだろう、と・・・・。あっ、脱線した。

 まあそれはそれとして。
 「新嘗祭の当日まで、新米は食べない」
 という敬神の念篤い方も段々に増えて来られたようで、日本にまた日が昇り始めたような・・・・。
 ですが、何しろ品種改良も進み、ハデ干しもしない、稲わらも刈った端から細断してしまうというやり方が一般的になり、で昔よりも早く、新米、新穀が出回ります。だから新嘗祭まで待つ、というのもなかなか大変です。

 それよりも、書いてきた通り、11月23日は「祭日」、なんですから。
 祭祀を行うのは天皇陛下で、我々はその後ろに並んで敬礼(本当は最敬礼ですけどね、腰が痛くなります)をしている心持。実際に陛下の後ろに並ぶことはできませんし、陛下は代表として祭祀を行ってくださるんですから、我々は安心していればいい。

 だからどうでしょう、普段は合掌して「いただきます」、と食物に感謝しているでしょう?
 新嘗祭の日だけでも、「食物に感謝」ではなく、「神様に感謝」しては?
 新嘗祭の時は「合掌」ではなく、(神社にお参りするときは二拝二拍手一拝だけど)膳に向って一拝一拍手という正式な拝礼をしてみる、なんてのは良いかもしれません。

 もしかして、「何だ!合掌もしないで、手を叩くとは!行儀の悪い!」と怒る人が出てくるかもしれません。
 そしたらしめたもの。
 「え?これは正式な拝礼なんですよ」
 などと話を始められる。
 「今日は新嘗祭ですからね~~」って。



 三年前に書いた日記の一部を転載します。↓
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                        2012.11/23 (Fri)
 ~~何となし、我々戦後生まれの日本人には、難しい話は「難しい言葉を遣わず、できるだけ分かりやすく噛み砕いて説く」または、たとえ話のようなつもりで、「言い換えて、感じが伝わるようにする」という、最善の策ならぬ次善の策に力を注ぐ傾向があります。
 初めから難しいことは分かる筈がないから、と諦めて、何でもかんでも「ほどほどが良い」で、納得してしまう。

 難しいことは、時が来れば、習練を積めば、分かるようになります。それを初めから簡単にしてしまえば、誰もそれを進めようとはしなくなる。「円周率を3とする」ようなものです。

 そんな考え方が、「新嘗祭」を拡大解釈したら「勤労感謝の日」となった、というような妙な納得の仕方を、現日本の常識にしてしまっている。
 そういうこともたまには考えてみる。
                        (以下略)


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