CubとSRと

ただの日記

「いいじゃあ~ないの~」

2020年06月19日 | 重箱の隅
2014.11/07 (Fri)

 去年もハロウィン、ってこんなに大騒ぎしてましたっけ?
 私は世事には疎いもんで、能く分からないんですが。
 その上に田舎者ですからね、六本木だか渋谷だかの交差点に集まって(大阪はUSJの中だそうだから良いけど)、ここぞとばかりに、とにかくコスプレして歩き回る・・・んですか?
 ホントに意味なく歩き回ってるんでしょうか。
 ウィンドショッピングみたいなのかな?

 御幸通りをVANの紙袋持って、アイビーファッションでキメテたむろしたり、そぞろ歩いたりしていた「ミユキ族」、ってのが居たそうですけど、雰囲気はそんなので、人数としては二桁くらい密度の高い感じなんでしょうか。
 何か雑踏の中、好き勝手な格好してる若者がハイになって浮かれて歩いている、ってイメージしかないんですけど。

 ゴミが沢山捨てられて、それが批判されて、サッカーのワールドカップの時みたいに片付けて回る人が居て、今度は「片付けたよ!」と自慢する人が居て、「それ、カッコ悪い。自慢すんなよな」という人が居て、「自慢くらいしたっていいだろ」、と反発する人が居て。
 なんとも太平楽なことです。他にすることがあるだろうに・・・・・。

 ・・・・・、と思うのだけれども、だからと言ってそんなことよりエボラ出血熱のことや、産経の前ソウル支局長の出国禁止処分が未だに続いていることとか、オバマ政権が完璧、レイムダックぅ~~、なんてことについて考えなきゃならん・・・・・・、なんてことは全く思っていません。

 物事には軽重があるでしょう?軽重、って絶対的なものではなく、色んな条件の下で決まる。
 折角考えるんならそれなりの結果を身に着けたい。「己の理解能力の範囲」を少しでも広げたい。だったら、軽より重、でしょう。

 というわけで、基準は「日本人としてどう考えるか」、「日本にとってどういった意味があるのか」というところに基準がある、としたらいいんじゃないでしょうか。

 出国禁止処分、というのは、「産経狙い撃ち」ではあるけれど、日本のマスコミ全体への見せしめ、という意味ですよね、確かに。
 エボラ出血熱、国内に入って来ないという保証はない。断定できないんだから大問題ですよね、確かに。
 中間選挙で共和党が勝ったから、オバマ大統領完全「オワタ!」確かに。

 だからと言って、「日本人」「日本」、の在り方を深く考えることに直接の関係があるのか。
 隔靴掻痒の感、にも似たもどかしさばかりが残ります。「蟷螂の斧」どころか「羽毛の一撫で」ほどの影響もない。

 ならば私が、いや、個々の日本人ができることは何だ。いずれは「大鉈」になる、或いは「劇的変化の火種」となれるのは何だ。
 それは国民一人一人の把握能力の向上しかないのじゃないか。

 私の場合はそんなわけで
 「去年もハロウィン、ってこんなに大騒ぎしてましたっけ?」
 です。
 何しろ経済波及効果、凄いんだそうですね。何でもバレンタインデーを超したんだそうです。それだけお金が動いたってことは色んな職種の人が潤った、ってことでしょう?
 「チョコレートなんかと違って来年はどうだか」
 、と冷たいこと言う人もあるけど、
 「儲けた金のほとんどを祭りにつぎ込んだって後悔なんかしない」
 、というのは日本人の一面です。何かにつけ、わっと騒ぎたい。
 だから同じ衣装、来年も使い回し、なんて無粋なことしませんよ。
 それに、安いものでいかにも「節約しました!エコです!」なんて恰好するのは恥ですからね、そんな見え見えなのは沽券に係わる。
 だから来年は来年で、今年以上に準備のために奮発するでしょう、きっと。

 でも、一人でそれやったら、白い目で見られてオシマイ、です。だから祭りなどの異空間でわっと騒ぐ。やりたい放題はその中だけ、でする。

 後始末のことだって、これも「『後始末』というイベント」、と捉えたら、それもまた楽しい。「掃除したぞ!」ってツイートするのはそう言うことでしょう。
 大騒ぎすりゃいいじゃないですか、西洋の収穫祭だってんだから、日本で言えば「神嘗祭」みたいなもんですよ。

 「神嘗祭、は畏れ多いだろう!」と言われるんなら、秋祭りの「出し物バージョン」だ、と思えばいい。
 「コスプレなんか収穫に全く関係ないだろう」と生真面目に言いますかね?
 最初は奉納の為だったけど、どんどん娯楽化していって今じゃ八岐大蛇が口から火を噴いて踊り狂ってる「石見神楽」みたいなもんで、ただ逆上(のぼ)せているだけのように見えても、みんなでハイになってる、みんなで笑顔になってる、のが感謝の形なんじゃないですか。
 みんなが景気の「動静」に感謝してるんですよ。(好景気に、と限定しないところがミソ。)それでお金が動く。言うことなし、です。

 クリスマスだって、50年くらい前は歓楽街を仕事帰りのサラリーマンが、とんがり帽子かぶって「めりいくりすまぁ~す!」なんて酔っ払って肩組んで千鳥足で歩いてたんだそうですよ。イエスの生誕なんか全く関係ない。
 楽しがって、面白がってやってりゃ「いいじゃあ~ないの~」、です。感謝祭なんだもの。

 それ見て外国人が「ファンタースティック!」って呆れて、
 「また来たい!不思議の国、日本!」って、なればそれもいい。

 「こんな国民が、戦争中にあんな酷い『性奴隷』や『大虐殺』なんてホントにやったんだろうか?ウソじゃないか?」
 って率直な疑念、持つようになってくれたらもっといい。
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「筆写をしてみる」(メモを執るための工夫)

2020年06月19日 | 日々の暮らし
2014.11/05 (Wed)

 田中卓博士の評論集を再読する機会があり、何とか二冊、読み直しました。
 そこで例によって感想を、と思ったのですが、「行間を読み取る努力」どころか、「脱ロバ宣言」も画餅の状態。やっぱり評論の概容でさえ、満足に捉えては、いなかった。それだけは分かりました。
 だからと言って、もう一度読んだら何とかなるか、というとその時はその時で、また新しい問題が見えてくるのでしょう。

 というわけで、「ここは無理をしてでも感想を」というのが、これまでの自分の試行錯誤の末の結論だったのですが、ちょっと賢くなったみたいです。
 いつも闇雲に感想文を書こうとして自滅したり、自棄(やけ)になったりしてきています。けれど、それで得られるのは自己嫌悪の感情ばかり。

 で、新しい結論。
 だったら立ち止まって、まずは情況、状況を整理すれば良いではないか。
 いやいや、まずは、どころか「情況・状況を整理する」、「いろんな(関係のあることだけですが)ことを措定し直し、それを以て整理し」直さなければ、次に動くに動けないだろう。
 とにかく足場、足元をしっかりさせる。「脚下照顧」、ではないか。
 ということはまずは、本文を筆写してみれば良いのではないか。

 それで気付いたこと。
 筆写する、となると後でそれをどこかに転載できるよう、一字一句(句読点も含め)、間違えたり、省略したりしてはならない。そのために、下手でも「とにかく丁寧に」、そして誰でも読めるように、決して殴り書きなんかしちゃならない。
 早い話が、初めから「清書」の状態にしなければならない。
 字の上手下手ではなく、とにもかくにも「丁寧に書く」。
 筆写する文章は(自分にとっては)大事なものなんだから、当然のことながら「丁寧」の中身である「撥ね」や「払い」、「止め(留め)」等の文字の隅々に気を使わねばならない。

それで、久し振りに筆写してみて驚きましたよ。「撥ね」、「払い」がどうしてもいい加減になってしまう。どうしてもできない。
何故だろう。それにつれて誤字、脱字も思った以上に多い。

 一頁くらいやって、やっと分かりました、原因が。
 ゆっくり書けなくなってるんです。一文字一文字が「早く書かなければ」という無意識裡の焦りから、お座なりになってしまっている。
 「自分にとって」、だけであっても、大事な文章ならば丁寧に書かねばならない。
 ならば、「何が何でもゆっくり」書かねば。

 大事に思えばこそ丁寧に字を書く。丁寧に見る。一文字一文字「撥ね」、「払い」、「留め」をおろそかにしない。
 別に字に限らないでしょう。大切なものは丁寧に扱います。大切な人には敬語を使います。
 だったら、大事に思えばこそ、丁寧に語意を押さえる。一つ一つを丁寧に考えていく。性急に概容をつかまえようとせず、文の意味を一つずつ把握していく。

 前回の書家の話と同じく、「真剣に」、「一所懸命に」同じ文字を毎日千回も書けば、「これくらいは(いつかは)できる」。

 大事に思えばこそ、丁寧に取り組む。丁寧に取り組むということは「己の理解能力の範囲」を十分に生かす、ということになるのだ、と思います。そうすれば僅かずつでも確実に範囲は広がるし、考えも少しずつでも深まるでしょう。
 そうすれば、新情報を見つけたり、ちょっと考えたりしたくらいで小賢しい結論を出すことはできなくなる。
 ・・・・・のではないか。

 ということで、 まずは、丁寧に。丁寧に。
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「『はっ』と言った、はっと。」

2020年06月19日 | 日々の暮らし
2014.11/04 (Tue)

 ①病院に行ったらテレビで国会中継が流されていた。おそらく予算委員会だろう。安倍総理の顔が大きく映っていた。声は聞こえない。
 立ち止まってみるわけにもいかないので、そのまま通り過ぎる。

 ②だから、何の議論をやっているのか分からない。

 ③病院で新聞を読むつもりで用意してたのに、持って出るのを忘れた。帰ってから読む、としたら、今朝から夕方までの考えの参考にはならない。

 ④テレビも、(今朝の)新聞も、今こうやって日記を書こうとしなければそれまでのことだ。考えることもせず忘却の彼方、だ。

 ⑤「こうやって書いたからってどうだというのか。バカの考え、休むに似たり、って言うだろ?」 以前はそう思っていた。
 実際「旅行に行ってもロバはロバ。馬になって帰って来るわけじゃない」という西洋の格言があるらしい、と日記にも書いた。

 でも、そうじゃない。その人なりに「真剣に」、そして「一所懸命に」取り組み続けると、必ず、少しずつでも理解能力の範囲は広がり、それに伴って考えも深まる。そうでないと、(人間)社会は成立しなかったし、当然、今の発達もあり得なかった。

 書家が泊まった旅館の仲居さんに
 「そんな立派な字を私なんかが書けるわけがない」
 と言われて、こう言った。
 「誰にだって書ける。一日に真剣に千回も同じ字を書いていれば、書けるようになる。書けるようになりたいのなら、それをやれば良いだけのことなのだ。私がそうなのだから。」
 そこに「真剣」に、そして「一所懸命」に取り組む姿勢があれば、「いつかは」書ける。

 脱線するみたいですが、「真剣」と「一所懸命」とどう違うんだ、などと考えてみることだって大事なことだと思います。
 同じ意味(同様、ではなく同一)ではないと感じているのだから、我々は「真剣」と「一所懸命」を使い分けます。
 だったら「何となく使い分けている」よりも、それなりの力(自分の理解能力の範囲)で、意味を考えてみる、ということはとても大事なことです。
 その結果、間違いなく思考は深まる。深まらないわけがない。

 だからと言って、「いつもやらなければ!」と一念発起するのはともかく、いきなり、何の準備もしないで手当たり次第、何でもかんでも「考えよう」「やってみよう!」なんてのは絶壁を素手で登ろうとするようなもの。
 指も爪も掛からず、立ち往生。絶望感に囚われるのがオチ、です。
 大方のことは、いきなりの「根性ぉぉ~~っ!」だけではどうにもならない。

 けど、初め、何かに、ちょっと引っ掛かってみる。そして、取り敢えず数秒でも「考え」てみる。それをきっかけに、メモ用紙に書き留めようとしてみる。

 ③までならいつも、誰でもやっていることです。
 要はその次。④に踏み込むか否か、じゃないでしょうか。筆記用具を手にするか否か、じゃないでしょうか。

 それが「『はっ』と言った、はっと」、です。口にした、瞬時に行動する。
 とにかく即座に、それも「真剣に」、「一所懸命に」取り組んでみる。

 ペンを執るだけだから、数秒から始めるのなら、できそうです。

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そうか。桑田圭祐氏も、か。

2020年06月19日 | 重箱の隅
2014.11/02 (Sun)

 時折り強い風が吹く。
 雨、ということだったが、少し青空の欠片も見える。
 車のフロントガラスに思い出したように小さな雨粒が当たる。
 病院への道は、昨晩の雨風で木々の葉、小枝が路上に散っている。

 明日は文化の日。何でも桑田圭祐氏も勲章を授与されるということだ。
 
 ところで、なんで「文化の日」と言うのか。
 「それは文化勲章を授与される日だからであ~る」
 ・・・なんてのはウソ。
 それなら「文化勲章の日」でなきゃ、いかん。

 「日本文化の発展に貢献したから授ける」というのが文化勲章(だと思う)。
 だから、文化勲章は後付けで、「文化の日」が先にある筈だ。
 というわけで、「文化の日」を11月3日とする特別な理由は、ない。別に1日だって、2日だって良い。

 こう書くと異論が出るんですよね。
 「11月3日は『日本国憲法制定(発布)の日』だと書いてあるぞ!だから11月3日は憲法制定の日、新しい文化を記念する日なんだよ。」

 じゃ、「新しい文化を記念する日」、とか「新憲法制定記念日」、とすればいいじゃないか。「文化の日」なんてつけて、これじゃまるでこれまでの日本文化は否定されているみたいじゃないか。

 「ありゃりゃ、またごねてるぞ、この男は」
 と思った方もあるかもしれませんが、本当のところは分かってるんですよ。
 だから以前にも何度か日記に書きました。

 実は「文化の日」、ってのは戦後、昭和二十三年に制定された新しい祝日なんですね。それまで、11月3日は「明治節」でありました。
 英邁な君主として外国にも知られていた、明治天皇の誕生日です。だから明治期は「天長節」であったのが、大正天皇の崩御の後、明治天皇の御遺徳を偲んで、昭和の初めに祝日とされました。

 さて、11月3日は文化の日(憲法制定の日)、5月3日は憲法記念日(施行の日)。
 何故2回も祝日にするのか。
 日本国憲法って、実質は主権を持てない占領下に在ってつくられた「占領統治法」なわけですから、こりゃあ米軍の陰謀か。
 それとも、「明治節」を何とかして守ろうと、尽忠報国の士が大奮闘した結果なのか。

 まだ占領下でしたからね、本当のところは分かりません。
 けど、とにかく11月3日は明治節だったため占領軍によって廃止された、ということは間違いないことです。
 それを、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」として名前を変え、祭日ではないけれど祝日として実質を残したように、「明治節」から「文化の日」と名前を変え、とにかくは祝日として残した。
 そんな苦肉の策だったのかもしれない。
 「A級戦犯の名誉回復の立法は独立後、社会党議員の提案によって審議され、圧倒的多数で可決された」、なんてことも知らない人が今はほとんどです。祝祭日に対しての当時の国民の思いは一体どんなだったんでしょうね。

 でも、まあ「明治節」を「文化の日」にした、というのは、なかなか上手いんじゃないか、とは思います。
 明治天皇の世に、日本は大々的に西洋文化を採り入れ、日本を近代国家の体裁にした。近代西洋文化が正式に採用されたわけですから、「明治天皇=近代文化の発展」ということで、「文化の日」というのは良い名前かも知れない。

 とは言え、「明治節」という名前が消えてしまったのはどんなもんだろう。
 いやいや、明治天皇の御製歌からは「そんなことはどうでもよい」という声が聞こえて来そうです。

 《千万(ちよろず)の 民と共にも たのしむに ます楽(たの)しみは あらじとぞおもふ》




 今回は関係ないから一言だけにしますが、米占領軍の陰謀説。
 「5月3日」憲法記念日は、極東軍事裁判所の開廷の日、ですからね。
 「A級戦犯の提訴」は4月29日、昭和天皇誕生日。
 「A級戦犯の処刑」は12月23日、今上天皇の誕生日。

 「意図的なものは感じない」という方がどうかしている、と思いますよ。

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意外と考えてないこと

2020年06月19日 | 重箱の隅
2014.11/01 (Sat)

以前、「博士の独り言Ⅱ」ブログに
 「皇室は唯一無二のものなのだから、『御』をつけるのはおかしい」
、と書かれた記事があったのを転載し、日記にしたことがあります。
 まずは転載して置きましょう。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ~博士の独り言~
        「危惧致す一つ」    2013/03/26(火) 22:15:00

  お気持ちは察しますが、「皇室」「皇族」自体が、元来、至宝の謂であるゆえに、日本人は「皇室」「皇族」には、「御」「ご」は冠しません。たとえば、一般の「黄金」「ダイアモンド」に「御」や「ご」を冠さないことと同義であり、小稿にクリップさせていただく記事に登場する百地章教授(日本大)も、「御」「ご」は用いられていない事実にもその意義をご確認いただければと思います。

 尊も過ぎれば毀に成りかねません。「御」「ご」を冠して来たのは、日本語本来の底深さを理解し得ない在日外国籍者や帰化系者らが相応を占める団体です。一見、陛下と皇室を尊崇奉るかのようであって、しかし、結果、毀損への誘導、国旗への嫌悪感を日本人に植え付けることを本来の是とする。その方向性については、すでに違いが判るみなさまにとっては気づいておられるはずですが。

 何を怖がってか、あえての指摘をなす識者、諸兄が少なく、むしろ、そうした団体、組織の影響を受けて同化してしまい、メンタリティまでもが朝鮮化してしまったかの団体が一部に現出していることが誠に残念です。事例が「保守」であるとは私は認識し得ておりませんし、そう言っている事例が有る「から」私もそう「呼ぶ」とするかの認識は誤りであり、お手本にはならないので要注意です。
               (以下略)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 でも、あれだけ影響力のあるブログであっても、日本国中の人が読んでいるわけではない。
 だからというわけでもないんでしょうけど、今に至っても「皇室」のことを、「御皇室」と書かれ、また口にされる人、多いですよね。保守の言論人、と言われる人だって、結構やってます。
 つい言ってしまい、つい書いてしまうんでしょう。尊崇の念からのことだ、とは思います。
 貶すのではないから良いようなものですけれど、実はこういうところに本心というものがあらわれる。
 いや、何も「ウソ、ついてる!」なんて言ってるんじゃないんですよ。そうですね、「本心」というより、「心情」、「真情」などと言った方が良いでしょうか。「心象」の方がいいかな?

 皇室に対して、尊崇の念が強くあるならば、却って滅多に口にしない言葉。それが「皇室」です。
 「言挙げせぬ国」ということの意味は、そういうことです。「畏れ多いことと思う」、「特に大事に思う」ことは、できるだけ口にしないようにする。
 ほら、夫婦の話の中だって能くあるじゃないですか、「この人、私のことをちっとも『愛してる』と言ってくれない」、って。
 で、何かの拍子に「とても感謝している」、なんて言われて涙する場面が、テレビで流れたりする。
 だから昔々の天皇が、野辺に菜を摘む乙女に、「籠(こ)もよ 美籠(みこ)持ち~名告(の)らせ~」(「名前を言いなさい」)という歌を贈ったのは、名前を言えば、天皇からの求婚を受け入れたことになるからなんだ、と学生の頃、習いました。

 尊崇の念があるからこそ、つい重ねて敬語を使ってしまうんだと思います。
 でも、尊崇の念が、繰り返しの思考により、深まったものならば、繰り返すうちに何となく違和感を持つようになるものです。
 違和感を持たないままだとしたら、やはり「本心は?」となってしまう。そんな人が「御皇室」と言いながら、「天皇制はなくしてはいけない」、なんて言ってるのを聞くと、「何だかなぁ」と思ってしまいます。

 尊ぶのなら、滅多に口にしない。どうしても、という時は「皇室」は「皇室」で、良い。「天皇制」なんて「制度」は日本古来の国体(國體)を無視した言い方です。天皇は制度ではない。「天皇家」、など存在しないのですから。 大体、名字(姓)のない「家」がありますかね~?
 他国には姓があるから、「王」が倒されて違う「姓」の王朝が建てられる、「易姓革命」が起こります。日本は姓がないから、別系統の王が天皇に、なんてことは起こり得ない。継体天皇に限らず、皇統は一つです。

 これと同じく思ったのが、「八百万の神々」か、「八百万の神達」か、です。
 何となく「神々」の方が良くって、「神たち」なんて言うと、「おい!君たち」みたいで何だか神様を見下しているように思ってしまう。そんなこと、ないですか?
 でも「~たち」というのは、平家物語で能く目にされたと思います。「平家の公達(きんだち)」の「たち」で、意味は「方々」。
 これは尊敬語です。最近、「私たち」というのを能く聞くけど、それは自分で自分に敬語を使っているわけで、言ってみれば「オレ様」と一緒です。「私たち」という言い方こそが間違いということです。「私たち」ではなく、「私共」、或いは「我々」というのが妥当でしょう。

 あ、脱線した。
 「八百万の神々」、でした。「神々」、って「神、神、神・・・・・・」ということだから、どこまで行っても尊敬語はない。
 対して、「神たち」だったら、「達」が尊敬語ですからね。

 ・・・・・まあ、「神」、というだけで、敬語なんて吹っ飛んでしまってますけどね。
 

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