2013.10/22 (Tue)
「外務省のお仕事」として、まずは動画を紹介し、改めて私の感想文を、と思ってたんですが、いつも拝読している宮崎正弘氏のメールマガジンにこんな文章がありましたので、まずはそれをご覧いただいた方が良いかと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成25(2013)年10月22日(火曜日)
通巻第4048号
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
樋泉克夫のコラム
【知道中国 982】
――中国では「動詞『賄賂を取る』は規則動詞」だそうです
(略)
共産党政権は発足直後の51年から52年にかけ、幹部の腐敗・汚職と資本家の不正・不法を批判・摘発するために「三反・五反運動」と呼ばれる全国規模の政治運動を展開した。
建国を機に社会が安定し経済復興が始動するや、権力のウマミを知ってしまった幹部と共産党に加担することで生残りに成功した民族資本家が合体し、汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
いわば「お殿様」と「越後屋」という「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化した。そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。
建国後初ともいえる大規模な大衆運動によって、幹部や民族資本家の活動は著しく制限され、結果として社会主義化の方向が決定づけられたともいわれる。 だが、息の根をほぼ止められた民族資本家はともかく、幹部の不正が改まることは一向になかった。
毛沢東を筆頭に鄧小平、江沢民、胡錦濤、それに現在の習近平まで、歴代指導者は例外なく綱紀粛正を掲げ幹部の不正・腐敗糾弾を目指し全国規模の政治運動を展開する。
たとえば80年夏、鄧小平は「幹部の職権濫用は目に余る。偉そうに体裁を繕うことは知っていても、現実からも大衆からも目を背ける。気紛れで横暴で無責任で無能。そのうえ役人風を吹かせ、上司と部下を騙し、袖の下を求めては汚職も厭わない」と、口を極めて罵ったものの、情況が改善されることはなかった。
それもそうだろう。歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。
ここで、これまで何回も登場願った林語堂に又またお出まし願うことにしたい。
彼は1935年にニューヨークで出版した“MY COUNTRY AND MY PEOPLE”(邦訳は『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)で家族主義の弊害を論じ、「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」とし、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と綴っていた。
そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。「規則動詞」であればこそ、共産党政権下でも規則正しく「賄賂を取る」ことが行われてきたことに合点がいく。
中国が「今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備すること」であり、「真に必要としているものは、仁や義でもなければ、名誉でもなく、・・・破廉恥な官吏を引きずり出して銃殺に処する勇気である」と説いた後、林は「共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、・・・古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどに変質させてしまう」と予言している。
不幸にも遠い昔の林の予言は的中した。
ならば今後の日本が相手にするのは、「古い伝統」と綯い交ぜになった共産主義政権ということ。
厄介だが、相手にとって不足はない。
(転載了)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと長くなりましたが読んでいただけたでしょうか。
中にいくつかキーワードとでも言うべき語、文がありました。
敢えてこれを転載させていただいたのは「他山の石」と標記したように、領土は「返せ!」と言って返還されるものではない、汚職は「やめろ!」と言って止(や)まるものではないという事の「理」がここにある、と思ったからです。
本当にこれらを何とかするには、「外からの力」と「内側の自覚」しかありません。そして、「啐啄の機」、でしょう。
《「幹部と共産党に加担することで生残った民族資本家が合体。
汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
いわば「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化。
そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。》
これが大躍進政策の始めだそうです。けど、実はこれ権力闘争そのものでもあって、結果、文化大革命までの約二十年間にここで粛清されたものや餓死した者は1000万から2000万人。
「一千万や二千万死んだって構わない。十一億も居るんだから」と幹部の誰かが言ったとか言わなかったとか。
肝腎の上層部だって、汚職はせぬものの権力闘争のために汚職の取り締まりをツール化してるんだからなくなるわけはない。
第一、
「歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。」
人民服をみんなが着ていたころ、上層部の生地だけは木綿ではなく上等の絹だったということを、みんな知っています。
そして、今、胡錦濤も温家宝も背広でしたね。これまた高級品のウールです。
汚職を取り締まったって、根っこがそのままなんだから。
指導者がやらない代わりに親族が指導者の分まで汚職をしてるんだから。
《「そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。」》
「賄賂」は名詞ですよ、勿論。
ところが「賄賂を~」「賄賂は~」という風に使うのが当たり前のことなのに、彼の国では「賄賂」という言葉は単独では存在しない。
あの国では「賄賂」は「取る」ことに決まっている。これは有史以来、もう彼の国の国民の、それこそDNAにしっかりと刻まれているんだ、と。
こんな民族、いや社会に、汚職はやめろ、と言ったって無理でしょう。
「汚職があってはならない」という通念を持った事のない社会なのですから。
「汚職があってはならない」という通念を、新しく常識として了解させるためには、まず、「そんな通念を持てる可能性のある社会づくり」から始めなければならない。
そのために彼の国は社会主義革命を選んだ。社会構造を力づくで一気に変える事を選んだ。
ところがソ連のマネをしようとしてもあれだけの多民族の我儘国家。国を何とかまとめるだけで精一杯。
で、危うくなれば外敵を捏造して国民の目をそちらに向けさせる。
教育をそのためにのみ使った結果が今の反日運動です。「愛国」を精神でなくツールにした。
「あるべき新しい社会の形」を精魂込めて教え込まねばならないのに、指導者層でさえ「賄賂」は「取る」、「権力闘争の利器とする」。
教育はそれを隠蔽する手段でしかなかった。
「外からの力」と「内側の自覚」、あるでしょうか。
「世間から爪はじきになってるでぇ~」と世界中が冷たい目で見る?
あり得ませんよね。世界は腹黒い。損得しか考えない。シナがどうなろうが、知ったこっちゃない。
「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」と国民が自覚して言い始める?
ないでしょうね。そんな教育、全く受けてないから。
そうなると頼みの綱はネットだけです、それも海外発信の。
では、日本は?
「外からの力」は近隣三国と米国の反応についてのみ、マスメディアは騒ぎ立てます。
「我々にはネットがある!」と言ってるのは、正直一握りです。大方のネット利用者はネット販売とそこら辺の三文記事を喜んでみているだけです。
その大方の利用者って、「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」という時が来るんでしょうか?
でも、彼らを「お花畑」と笑っている暇はない。彼らを、「愛国無罪」と言って恬として恥じない彼の国の人と同じと思って、まずはこの一分半の動画を見るきっかけをつくる。
「他山の石」とした所以です。
「外務省のお仕事」として、まずは動画を紹介し、改めて私の感想文を、と思ってたんですが、いつも拝読している宮崎正弘氏のメールマガジンにこんな文章がありましたので、まずはそれをご覧いただいた方が良いかと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成25(2013)年10月22日(火曜日)
通巻第4048号
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
樋泉克夫のコラム
【知道中国 982】
――中国では「動詞『賄賂を取る』は規則動詞」だそうです
(略)
共産党政権は発足直後の51年から52年にかけ、幹部の腐敗・汚職と資本家の不正・不法を批判・摘発するために「三反・五反運動」と呼ばれる全国規模の政治運動を展開した。
建国を機に社会が安定し経済復興が始動するや、権力のウマミを知ってしまった幹部と共産党に加担することで生残りに成功した民族資本家が合体し、汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
いわば「お殿様」と「越後屋」という「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化した。そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。
建国後初ともいえる大規模な大衆運動によって、幹部や民族資本家の活動は著しく制限され、結果として社会主義化の方向が決定づけられたともいわれる。 だが、息の根をほぼ止められた民族資本家はともかく、幹部の不正が改まることは一向になかった。
毛沢東を筆頭に鄧小平、江沢民、胡錦濤、それに現在の習近平まで、歴代指導者は例外なく綱紀粛正を掲げ幹部の不正・腐敗糾弾を目指し全国規模の政治運動を展開する。
たとえば80年夏、鄧小平は「幹部の職権濫用は目に余る。偉そうに体裁を繕うことは知っていても、現実からも大衆からも目を背ける。気紛れで横暴で無責任で無能。そのうえ役人風を吹かせ、上司と部下を騙し、袖の下を求めては汚職も厭わない」と、口を極めて罵ったものの、情況が改善されることはなかった。
それもそうだろう。歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。
ここで、これまで何回も登場願った林語堂に又またお出まし願うことにしたい。
彼は1935年にニューヨークで出版した“MY COUNTRY AND MY PEOPLE”(邦訳は『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)で家族主義の弊害を論じ、「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」とし、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と綴っていた。
そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。「規則動詞」であればこそ、共産党政権下でも規則正しく「賄賂を取る」ことが行われてきたことに合点がいく。
中国が「今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備すること」であり、「真に必要としているものは、仁や義でもなければ、名誉でもなく、・・・破廉恥な官吏を引きずり出して銃殺に処する勇気である」と説いた後、林は「共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、・・・古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどに変質させてしまう」と予言している。
不幸にも遠い昔の林の予言は的中した。
ならば今後の日本が相手にするのは、「古い伝統」と綯い交ぜになった共産主義政権ということ。
厄介だが、相手にとって不足はない。
(転載了)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと長くなりましたが読んでいただけたでしょうか。
中にいくつかキーワードとでも言うべき語、文がありました。
敢えてこれを転載させていただいたのは「他山の石」と標記したように、領土は「返せ!」と言って返還されるものではない、汚職は「やめろ!」と言って止(や)まるものではないという事の「理」がここにある、と思ったからです。
本当にこれらを何とかするには、「外からの力」と「内側の自覚」しかありません。そして、「啐啄の機」、でしょう。
《「幹部と共産党に加担することで生残った民族資本家が合体。
汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
いわば「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化。
そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。》
これが大躍進政策の始めだそうです。けど、実はこれ権力闘争そのものでもあって、結果、文化大革命までの約二十年間にここで粛清されたものや餓死した者は1000万から2000万人。
「一千万や二千万死んだって構わない。十一億も居るんだから」と幹部の誰かが言ったとか言わなかったとか。
肝腎の上層部だって、汚職はせぬものの権力闘争のために汚職の取り締まりをツール化してるんだからなくなるわけはない。
第一、
「歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。」
人民服をみんなが着ていたころ、上層部の生地だけは木綿ではなく上等の絹だったということを、みんな知っています。
そして、今、胡錦濤も温家宝も背広でしたね。これまた高級品のウールです。
汚職を取り締まったって、根っこがそのままなんだから。
指導者がやらない代わりに親族が指導者の分まで汚職をしてるんだから。
《「そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。」》
「賄賂」は名詞ですよ、勿論。
ところが「賄賂を~」「賄賂は~」という風に使うのが当たり前のことなのに、彼の国では「賄賂」という言葉は単独では存在しない。
あの国では「賄賂」は「取る」ことに決まっている。これは有史以来、もう彼の国の国民の、それこそDNAにしっかりと刻まれているんだ、と。
こんな民族、いや社会に、汚職はやめろ、と言ったって無理でしょう。
「汚職があってはならない」という通念を持った事のない社会なのですから。
「汚職があってはならない」という通念を、新しく常識として了解させるためには、まず、「そんな通念を持てる可能性のある社会づくり」から始めなければならない。
そのために彼の国は社会主義革命を選んだ。社会構造を力づくで一気に変える事を選んだ。
ところがソ連のマネをしようとしてもあれだけの多民族の我儘国家。国を何とかまとめるだけで精一杯。
で、危うくなれば外敵を捏造して国民の目をそちらに向けさせる。
教育をそのためにのみ使った結果が今の反日運動です。「愛国」を精神でなくツールにした。
「あるべき新しい社会の形」を精魂込めて教え込まねばならないのに、指導者層でさえ「賄賂」は「取る」、「権力闘争の利器とする」。
教育はそれを隠蔽する手段でしかなかった。
「外からの力」と「内側の自覚」、あるでしょうか。
「世間から爪はじきになってるでぇ~」と世界中が冷たい目で見る?
あり得ませんよね。世界は腹黒い。損得しか考えない。シナがどうなろうが、知ったこっちゃない。
「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」と国民が自覚して言い始める?
ないでしょうね。そんな教育、全く受けてないから。
そうなると頼みの綱はネットだけです、それも海外発信の。
では、日本は?
「外からの力」は近隣三国と米国の反応についてのみ、マスメディアは騒ぎ立てます。
「我々にはネットがある!」と言ってるのは、正直一握りです。大方のネット利用者はネット販売とそこら辺の三文記事を喜んでみているだけです。
その大方の利用者って、「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」という時が来るんでしょうか?
でも、彼らを「お花畑」と笑っている暇はない。彼らを、「愛国無罪」と言って恬として恥じない彼の国の人と同じと思って、まずはこの一分半の動画を見るきっかけをつくる。
「他山の石」とした所以です。