CubとSRと

ただの日記

他山の石

2020年06月15日 | 心の持ち様
2013.10/22 (Tue)

 「外務省のお仕事」として、まずは動画を紹介し、改めて私の感想文を、と思ってたんですが、いつも拝読している宮崎正弘氏のメールマガジンにこんな文章がありましたので、まずはそれをご覧いただいた方が良いかと思います。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成25(2013)年10月22日(火曜日)
      通巻第4048号

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
  樋泉克夫のコラム

  【知道中国 982】                   
   ――中国では「動詞『賄賂を取る』は規則動詞」だそうです

              (略)

 共産党政権は発足直後の51年から52年にかけ、幹部の腐敗・汚職と資本家の不正・不法を批判・摘発するために「三反・五反運動」と呼ばれる全国規模の政治運動を展開した。
 建国を機に社会が安定し経済復興が始動するや、権力のウマミを知ってしまった幹部と共産党に加担することで生残りに成功した民族資本家が合体し、汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
 いわば「お殿様」と「越後屋」という「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化した。そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。

 建国後初ともいえる大規模な大衆運動によって、幹部や民族資本家の活動は著しく制限され、結果として社会主義化の方向が決定づけられたともいわれる。 だが、息の根をほぼ止められた民族資本家はともかく、幹部の不正が改まることは一向になかった。

 毛沢東を筆頭に鄧小平、江沢民、胡錦濤、それに現在の習近平まで、歴代指導者は例外なく綱紀粛正を掲げ幹部の不正・腐敗糾弾を目指し全国規模の政治運動を展開する。
 たとえば80年夏、鄧小平は「幹部の職権濫用は目に余る。偉そうに体裁を繕うことは知っていても、現実からも大衆からも目を背ける。気紛れで横暴で無責任で無能。そのうえ役人風を吹かせ、上司と部下を騙し、袖の下を求めては汚職も厭わない」と、口を極めて罵ったものの、情況が改善されることはなかった。

 それもそうだろう。歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。
 
 ここで、これまで何回も登場願った林語堂に又またお出まし願うことにしたい。
 彼は1935年にニューヨークで出版した“MY COUNTRY AND MY PEOPLE”(邦訳は『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)で家族主義の弊害を論じ、「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」とし、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と綴っていた。

 そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。「規則動詞」であればこそ、共産党政権下でも規則正しく「賄賂を取る」ことが行われてきたことに合点がいく。

 中国が「今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備すること」であり、「真に必要としているものは、仁や義でもなければ、名誉でもなく、・・・破廉恥な官吏を引きずり出して銃殺に処する勇気である」と説いた後、林は「共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、・・・古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどに変質させてしまう」と予言している。

 不幸にも遠い昔の林の予言は的中した。
 ならば今後の日本が相手にするのは、「古い伝統」と綯い交ぜになった共産主義政権ということ。
 厄介だが、相手にとって不足はない。

                  (転載了)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ちょっと長くなりましたが読んでいただけたでしょうか。
 中にいくつかキーワードとでも言うべき語、文がありました。

 敢えてこれを転載させていただいたのは「他山の石」と標記したように、領土は「返せ!」と言って返還されるものではない、汚職は「やめろ!」と言って止(や)まるものではないという事の「理」がここにある、と思ったからです。
 本当にこれらを何とかするには、「外からの力」と「内側の自覚」しかありません。そして、「啐啄の機」、でしょう。

 《「幹部と共産党に加担することで生残った民族資本家が合体。
 汚職・浪費・国有財産横領などに手を染めはじめる。
 いわば「ワル」たちの跳梁跋扈が日常化。
 そこで毛沢東が、大衆を巻き込んだ反汚職キャンペーンを展開するわけだ。》
 
 これが大躍進政策の始めだそうです。けど、実はこれ権力闘争そのものでもあって、結果、文化大革命までの約二十年間にここで粛清されたものや餓死した者は1000万から2000万人。
 「一千万や二千万死んだって構わない。十一億も居るんだから」と幹部の誰かが言ったとか言わなかったとか。
 肝腎の上層部だって、汚職はせぬものの権力闘争のために汚職の取り締まりをツール化してるんだからなくなるわけはない。
 第一、
「歴代指導者自身が直接手を下さなくても親族がカネ儲けに狂奔しているわけだから、効果が挙がるわけはない。」
 人民服をみんなが着ていたころ、上層部の生地だけは木綿ではなく上等の絹だったということを、みんな知っています。
 そして、今、胡錦濤も温家宝も背広でしたね。これまた高級品のウールです。

 汚職を取り締まったって、根っこがそのままなんだから。
 指導者がやらない代わりに親族が指導者の分まで汚職をしてるんだから。

 《「そうか、中国において「『賄賂を取る』は規則動詞」だったのだ。」》
 「賄賂」は名詞ですよ、勿論。
 ところが「賄賂を~」「賄賂は~」という風に使うのが当たり前のことなのに、彼の国では「賄賂」という言葉は単独では存在しない。
 あの国では「賄賂」は「取る」ことに決まっている。これは有史以来、もう彼の国の国民の、それこそDNAにしっかりと刻まれているんだ、と。

 こんな民族、いや社会に、汚職はやめろ、と言ったって無理でしょう。
 「汚職があってはならない」という通念を持った事のない社会なのですから。
 「汚職があってはならない」という通念を、新しく常識として了解させるためには、まず、「そんな通念を持てる可能性のある社会づくり」から始めなければならない。

 そのために彼の国は社会主義革命を選んだ。社会構造を力づくで一気に変える事を選んだ。
 ところがソ連のマネをしようとしてもあれだけの多民族の我儘国家。国を何とかまとめるだけで精一杯。
 で、危うくなれば外敵を捏造して国民の目をそちらに向けさせる。

 教育をそのためにのみ使った結果が今の反日運動です。「愛国」を精神でなくツールにした。
 「あるべき新しい社会の形」を精魂込めて教え込まねばならないのに、指導者層でさえ「賄賂」は「取る」、「権力闘争の利器とする」。
 教育はそれを隠蔽する手段でしかなかった。

 「外からの力」と「内側の自覚」、あるでしょうか。
 「世間から爪はじきになってるでぇ~」と世界中が冷たい目で見る?
 あり得ませんよね。世界は腹黒い。損得しか考えない。シナがどうなろうが、知ったこっちゃない。

 「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」と国民が自覚して言い始める?
 ないでしょうね。そんな教育、全く受けてないから。
 そうなると頼みの綱はネットだけです、それも海外発信の。

 では、日本は?
 「外からの力」は近隣三国と米国の反応についてのみ、マスメディアは騒ぎ立てます。
 「我々にはネットがある!」と言ってるのは、正直一握りです。大方のネット利用者はネット販売とそこら辺の三文記事を喜んでみているだけです。
 その大方の利用者って、「いつまでもこんなことやってたら、はずかしいヨ」という時が来るんでしょうか?
 でも、彼らを「お花畑」と笑っている暇はない。彼らを、「愛国無罪」と言って恬として恥じない彼の国の人と同じと思って、まずはこの一分半の動画を見るきっかけをつくる。

 「他山の石」とした所以です。
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外務省のお仕事

2020年06月15日 | 日々の暮らし
2013.10/19 (Sat)

 これは良い早わかり!
 僅か一分半弱ですよ~~。ぜひぜひ、ご覧ください。
 是々非々じゃないですよ。ぜひ~~~~。
  http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=TXg-NGVKuWI

 これもまた、一分半ほどです。
 まずはご覧ください。もうホントに無駄は省いての見事な一分半、ですから。
 外務省、本気になりゃこんなものだぜ、ってところでしょうか。

 いや、役人の能力、畏るべし、ですよ。国会議員の無理難題や短時間での唐突な資料作り指示、なんて、日常茶飯事なわけですから。
 それに、何食わぬ顔して資料をつくり、期限までに提出する。議員の方は説明受けていかにも自分が用意しました、ってな顔で委員会で読み上げる。
 作文なんかはどっちにも取れるような曖昧な表現で、鯰を瓢箪で押さえるようなのが良いとされる。

 昔、大蔵官僚だった三島由紀夫はその文才が知られていて、何度か大臣の喋る原稿を書かされたそうですが、この「瓢鯰」、ひょうたん鯰な原稿を書かず、簡明直截な文章を書いたため、嫌われて頼まれなくなったそうです。
 何しろ、笠置シヅ子の歌の前に演説をすることになった大臣に、
 「笠置シヅ子さんの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのは~」
 、とやった原稿を渡して、ボツになったとか。

 こんな役人を手足として使って仕事をする。そりゃあ大変だなぁ、と同情してあげてもいいのかも。
 え?おしゃべりが過ぎる?
 ハイ、では一分半の動画をどうぞ。(いきなりYouTubeに飛んでください)

 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=t78GO7efdYM

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国民が動くから、政治家は動かざるを得ないのである。

2020年06月15日 | 神社
2013.10/17 (Thu)

 「政治家を批判すれば政治家が動き、そして国民が動くと考へるのは大間違ひである。」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 冒頭の文は以下に転載する文中の言葉です。
 例によって、つい流し読んでしまいそうになりますが、
 「政治家を批判」→「政治家が重い腰を上げる」→「国民が動く」
、のだとしたら、政治家を批判するのは誰か。国民?いえいえ。
 こりゃ、やっぱり政治評論家、ということでないと、話がおかしくなる。

 じゃ、「政治評論家が国を動かすのだ」、となって、「政治評論家が一番偉い」、という事になってしまいます。
 でも、民主主義の国ですからね、国民が一番偉い、という事でなけりゃ辻褄が合わない。
 そうなると、国民が動くから、その手先、マジックハンドとしての政治家が、国民の意志通り行動する、というのが当たり前の形になる。

 で、間違っても総理大臣や、閣僚が「国民の代表として参拝」、なんかするものじゃない、と。確かに、これ、道理です。


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 マスコミの中には、何でもかんでも政府が悪い、麻生が悪い、挙げ句の果てには、「天変地異」まで政府のせいだ、とする輩が冗談ではなく出てきたやうである。東名高速の復旧が遅いと罵り、地震警報が間に合はなかつたと誹る。
 世界の何処に、陥没した高速道路を僅か数日で修復させる国があるといふのか。地震の初期微動を感じ取つて、本震前に国民に警告するなど、想像すら出来ない国がほとんどであらうに。
 そんな計算も出来ないから、自社の経営状況も分からず、読者が何を望んでいるかも分からず、明日破綻することも分からず、営々と駄文を物して、この世の春を謳歌出来るのであらう。

               ★ ★ ★ ★ ★

 さて今一度、「靖國批判」の一方の典型である産経の「主張」の一部を引く。

 『首相が国民を代表して慰霊することは国の指導者としての務めだと思われる』

 この種の文章は、「保守派」と称する人達がしばしば、ほとんど何の疑ひも無く、書かれてゐるやうであるが、本当にこれは正しい主張なのであらうか。こんなレベルに甘んじてゐて、我々国民はよいのであらうか。
 最も問題視すべき言葉は、「代表」である。

 「甲子園大会出場おめでとう、諸君は県民を代表して云々」。
 なるほど、誰でも甲子園に行けるわけではない。八百屋のおじさんも、魚屋のおばさんも、みんなで応援することは出来るが、その土を踏めるのは選ばれた者だけである。これは確かに「代表」である。「代議士」といふ言葉にも、この意味での「代表」が含まれてゐる。
 要するに「代表」とは、誰かの「代理」であり、時に「シンボル」の意である。

 しからば「靖國参拝に代表が必要か」。
 我々はある程度の交通費と二本の足があれば、誰でも何時でも志一つで「靖國神社」に詣でることが出来る。
 選ばれた者のみが土を踏める甲子園とは違ふのである。専門知識も無くそれを為す暇も無い、一般の有権者の代理として選ばれた代議士とは違ふのである。

   我々は望みさへすれば、何時でも靖國参拝が出来る。

 ならば何故、その参拝に「代表」が必要なのか。我々国民こそが、先陣を切つて参拝し、「政治家よ、後に続け!」と云ふべきではないのか。
 いや、英霊の前では、民間人も政治家も、政府高官も、首相も何の意味も持たない、唯の今を生きる一国民に過ぎないのではないか。何の意味があつて、首相が「国民を代表」出来ると考へるのか。極めて馬鹿馬鹿しい話ではないか。
 先にも書いた通り、国民が率先して靖國参拝の環境作りをし、政治家がそれに続けばよいのである。二言目には「国民を代表して参拝する義務がある」などと云ふのは、全く自己の責任を他に転嫁する言動であり、それこそ「保守」の名に恥じるものである。

               ★ ★ ★ ★ ★

 正月三が日に、初詣参拝者が100万人を越える神社は幾つもある。
 ならば8月15日に100万人の国民が、九段下を埋め尽くせばよいではないか。 国民が靖國に対して、「初詣ほどの関心も無い」といふのであれば、誰が参拝したところで、状況は改善しないであらう。他国に侮られるのはこれまで通り、同様であらう。

 しかし、現実に100万人を越える人々が、早朝より静かに集まり、祈りを捧げ、そして静かに夜の闇に消へていけばどうなるか。
 その「奇跡の一部始終」が国際映像で報じられれば、如何なる国もその口を閉じるであらう。如何なる企業も、「参拝の是非云々」などと寝言は言はなくなるであらう。

 靖國参拝に「代表」は無用である。我々が参ればよい。地方の方は、それぞれの最寄りの神社にお集まり頂けばよい。
 ノートパソコン一台で、ライブ中継が出来る時代である。全国の有志が、様々な場所で時を同じくしてお参りをし、その映像を持ち寄つて、それぞれに思ひ出を語ることが出来るのである。簡易「パブリック・ビューイング」も出来るのである。

   ★初詣ベスト10(2009)
 319万人 明治神宮  (東京都)
 298万人 成田山新勝寺(千葉県)
 296万人 川崎大師 (神奈川県)
 277万人 伏見稲荷大社(京都府)
 251万人 鶴岡八幡宮(神奈川県)
 239万人 浅草寺   (東京都)
 235万人 住吉大社  (大阪府)
 235万人 熱田神宮  (愛知県)
 205万人 大宮氷川神社(埼玉県)
 204万人 太宰府天満宮(福岡県)

 識者と称する人達は、何故このことを指摘しないのか。
 何故、何でもかんでも、与党任せ、首相任せ、他人任せで、自分達だけは高みの見物を決め込むのか。
 先頭に立つて、かうした運動を展開させ、「靖國参拝100万人国民運動」を起こし、その結果を持つて、政治家と対峙しやうとしないのか。全く理解が出来ない。

 政治家を批判すれば政治家が動き、そして国民が動くと考へるのは大間違ひである。国民が動くから、政治家は動かざるを得ないのである。
 先ず批判すべきは「国民の怠惰」である。原稿が売れないことを覚悟して、それが出来るか否か、この点こそが、「保守派」を自称する人間の矜持でなければならぬ。

 多くの参拝者の列の中を、如何にも颯爽と本殿に向かひ、やんやの喝采を浴びることで自己満足せず、もつともつと裏方に徹して、全国民が自らの足で参拝し、心を一つにする、そのための予備的活動に従事されれば如何か。

               ★ ★ ★ ★ ★

 これも先の記事にも書いたことであるが、麻生首相が参拝されても、されなくても、その支持には全く揺らぎがない。
 首相の地位を「シンボル」と見倣し、「代表」といふ言葉の濫用を止めない人は、それはそれで結構であるが、霊前においては全く無意味であること、そして何より我々国民は自らの意志で立てること、「代表」など仰がずとも立派にその志を受け継げることだけは理解して頂きたいと思ふ。

 従つて、「代表」といふ言葉に執着した意味での靖國参拝に関しては、『国の指導者としての務め』ではない、といふのが一つの結論であり、同時に、「靖國参拝国民運動を展開せよ」といふのが一つの提案である(最初のターゲットは10月17日から20日までの四日間、「秋季例大祭」である)。

 選挙ともなれば「普段とは逆に」、如何にも政治家を見下ろして、有権者ここにあり、を強調される方が少なくないやうであるが、「ならば普段から」、政治家を従へて、その先陣を切るやうに、国民としての行動規範を変へやうではないか。

 自己責任を回避し、その責を全て他人や社会に求めるのが、左翼の現実である以上、参拝に「代表」を求めて止まぬ精神は左翼である、と断じることが出来やう。
 我々国民は「踏絵保守」ほど単細胞ではない。衣食住に忙しい「現実の世界」を生きてゐる人間は、自然と多面的である。「ワンビット」で政治が出来ぬことぐらいは承知してゐる。「何が保守」で、「何が保守ではないか」などといふ議論が、全く不毛であるとする所以である。

               ★ ★ ★ ★ ★

 彼等「踏絵保守」が、この国のリーダーとして、掛け替へのない、まさに真の意味での「代表」として、獅子奮迅の活躍をして頂いてゐる首相に対して、一片の感謝の念も表しないのは、如何なる心根か。
 松本純・官房副長官のHPの記事には、去る11日未明、
 午前5時7分「駿河湾を震源とするマグニチュード6.5地震発生」。
 同10分「官邸危機管理センターに官邸対策室を設置。緊急参集チームが招集」。
 同15分・総理指示「情報収集に努め、被害者等がある場合には、救助に万全を期するように」とある。

 地震発生直後、多くの国民が、枕を持つて逃げやうか、布団を持つて逃げやうか、と寝ぼけてゐる間に、首相は既に緊急参集チームに指示を出されてゐるのである。
 首相が実現を目指す「安心社会」は、既にここにある。「代表」が、まさに「代表」として活躍する、そのことに国民は信頼をおき、心安らかに日々を暮らすことが出来るのである。
 当り前ではないことを、当り前のやうに実行してくれる人達がゐるからといつて、それに甘へ、思ひ上がるのはいい加減止めて頂きたい。

 今こそ、阪神淡路大震災発生時の政府の無力さを思ひ出し、このことの意味を考へるべきである。
 国家国民の緊急時に、深刻な表情だけ作つて奇麗事を並べ、実際の対応は後手後手に回る、「豆鉄砲食つた」やうな目附きの無能宰相だけは御免蒙りたい。

                (以下略)


 「靖國参拝考(後編):100万人の靖國参拝運動」
                                 2009.08.15

                        ~夕刻の備忘録より~


      http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-210.html

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 麻生総理から民主党政権に代わりました。
 H総理が伊勢神宮に参拝して、神宮のことを「伊勢神社」と言ったことを私は忘れられません。報道陣も誰一人として訂正しなかった。
 そんなだから、靖國神社に参拝を、なんて話はこれから先も出なかった。

 けど、今、安倍総理は????
 政治家を動かすのは国民です。
 ならば、政治家を動かさぬのも、また国民の筈です。
 麻生総理の時と、現総理と、状況はよく似ています。
 一つだけ違うのは麻生総理の時は後ろからも射掛けられたこと。


 今は・・・・・足元、石ころだらけ、かも・・・・。
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