CubとSRと

ただの日記

「外遊」「外游」

2020年06月04日 | 重箱の隅
2011.10/07 (Fri)

 今日(10月5日)数十名の国会議員が外遊に出発したそうです。
 「この時期に何億(計約5億6千万円)もの金を遣って・・・・」
 とニュースでやってました。

 御丁寧にフランス支局の記者が、予算委会の中井洽(でしたね?蛤じゃないですよ)議長に質問、
 「君は何を言っとるんだ!金融危機のことも知らんとは、全然ダメだな!」
 と叱られるという場面をつけて。
 記者は知らなかった筈はないんですけどね、勢いに押され、決め付けられて気の毒なことでした。さすがは元公安委員長、迫力あります。
 けど、テレビ局としては美味しいコメントが採れた、みたいなところでしょう。

 ヨーロッパの金融危機、チェルノブイリの現状視察、ギリシャの現状、等々を視察して回るんだそうです。

 ところで、「外遊」と書きますが、本来、一般的だったのは「外游」だったんだそうですね。まあ、どちらも意味は大して変わりませんが。

 「遊学」、「游学」の「游」「遊」は必要に応じて、場所を移動する、「学問」の形を表わしているんだそうです。
 「方(はた)」を立てて、「子(学者、学生)」が行く様子。何かを学ぶわけですから、ここに半年、あちらで数ヶ月、あるいは数年、という風に移動するのが普通です。
 その様子を「遊ぶ」という一般的な日本語の意味で解釈すると、
 「ちょっとちょっと!何で今頃!」
 となるわけですが、日本語でも「遊ぶ」には「習い覚えたことを自身の思い通りに、自由に操ってみる」という意味があります。
 つまり、「学びて時にこれを習う」、は「游学」の一側面、ということになる。
  
 大陸は「南船北馬」の言葉通り、北は平原、南は大河が多く、支流だらけ。
 学問はこちらに数ヶ月、あちらに半年、と移動しながら重ねていくので、そのためには道を歩くか、船で移動するか、となる。
 で、「遊」か「游」か、となったわけなんだそうです。
 そして、学問は大陸南部の方が盛んだったため、「遊学」よりも船で移動する「游学」の語の方が一般的に使われていたんだそうです。

 というわけで、「外遊」は国外への遊学、ということですから、決して遊びにいくわけではない。
 国会議員が行くんですから、飽く迄も「研究、調査、視察」ということなんです。
 だから、「今、この時期に・・・」というのは分かるけれど、「その分を被災地に・・・」というのは必ずしも正しい見解とは言えない。

 敢えて、「実情を知るために」「より深く物事を理解するために」、この時期に行く。
 「国民から白眼視されたって、かまわない。結局国の為になるのなら、泥をかぶったってかまわない。陰口たたかれたってかまわない!」
 そんな覚悟で行く。すばらしいことじゃありませんか。

 超党派議員団なんだそうですが、当然、民主党が中心。
 民主党議員もさすがに与党議員としての自覚が出来て来たんでしょう。「エステ」とか「観光」とか「ゴルフ」、じゃないんですよ、今回は(多分)。

 でも、気になることがあるんです。一体、何日行くんでしょう。まさか、ほんの数日、じゃないでしょうね。通貨危機にせよ、被曝のその後にせよ、まだ真っ只中で、関係の人々はおそらく死に物狂いで頑張っている最中でしょう?
 僅か数日で、何を学んで来るんでしょう。
 「おお~っ。大変なんだなあ」と感じて帰るのが関の山、みたいな気がするんですが。

 でも、学んで帰って来なければ
 「国会議員という立場を悪用して、数億もの金を無駄に使った政治家」
 と決め付けられることになるんですが・・・。

 いや、「外遊」なんですから、そんなバカなことにはならないでしょう。

 「帰朝報告演説会」をやってもらえたらうれしいんですが。
 それをテレビで全部流す。

 視聴率が30%くらいになれば、日本の政治は変わるでしょうね。
 
 結局は、やっぱり我々国民次第ですねぇ

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額面通りに

2020年06月04日 | 日々の暮らし
2011.12/08 (Thu)

 いつもの怠け癖が出たのでしょう、例によって日記が書けず、徒に日を過ごしています。

 引っ掛かることはあります。
 鈴木宗男氏の仮釈放と、彼を取り巻く人々。
 今朝は、見たくもないと思いながら、つい見てしまった前総理のテレビ出演。
 沖縄の件での、防衛相のこと。
 沖縄県知事のこと。
 辛坊治郎氏のこと。
 前々総理の自己を振り返らない発言。
 等です。

 けれど、それらは日記に書く気にもならない。
 日記を書いて、それなりの充実感は、となると、きっと充実感どころか、不快感、或いは嫌悪感しか残らないだろう、と思います。

 そうなると、当然書けない。先に書いた「黴の話」と同じく、何かしようとすると、そのことの周辺のマイナスイメージに取り囲まれ、すっかりやる気をなくしてしまう。
 「普通の日記」「ぐだぐだ日記」と言ってしまえば本当に額面通りというか、誰もそれ以上を見出そうとは、しなくなる。

 「実は普通の日記こそが大事なんだ」
 といくら力説しても、事の次第を詳しく説明しなければ、理解してもらうことは不可能だし、詳しく説明したって、理解以前、読まれることすらないのだから、顔を真っ赤にして喋ったって、どうにもならないものはどうにもならない。

 じゃあ、どうするか。諦めてしまうか。
 望まれもしないものなのだから、もう書くのを止めてしまうか。
 いっそ「趣旨に合わないから」と、この場から除名してもらった方がいっそ清々するぞ。
 (それこそ、一人くらいほっといたって大勢に影響はない、だろうが)
 等と考える。

 しかし、それなら「説明をしたって聞いてくれることはない」まではいかずとも、「説明したって理解してくれない」からといって、説明するのを止めるか、というと、それも同じく意味がないし、何より止めてしまえばそこからは何も生まれない。

 そうなれば、できることは一つ。
 相変わらず「(自分の思う)普通の日記」を書き続けるしかない。
 いずれどこかで、誰かの目に触れるかもしれない。
 だから、淡々と書き続ける。

 ・・・・・・・・とは言っても、ねえ。書けないんですよ、これが。
 やっぱり、情に支配されているんでしょうか。

 まあそんなわけで、ぐだぐだと日を過ごしていたんですが、昨日テレビに料理研究家(?)の栗原はるみという人が出ていて、何気なしにその話を聞くうち、
 「おっ、日本人ここにあり、だなあ」
 と思ったものですから、今日はそれを書いて置きます。

 若い時はどうだったか知りませんが、今はまあ、顔もそれなりの年齢の顔(そろそろ65歳だとか)で、決して容姿に惹かれて書き留めようと思ったわけではありません。
 でも、不思議なことに、見ているとその顔が段々若くなっていくんです。テレビ番組の中で、の話ですよ。一時間足らずの番組の終わる頃には、四十代くらいに見えていた。
 私が六十間近だから、そう見えたのかなと思ったんですが、どうもそれだけではないらしい。

 笑顔を見ているうちに、そう思ったのかもしれません。その笑顔に謙虚さから来るものを感じた、と思ったからかも。

 何でも、料理を上手いとほめられて、NHKの料理の裏方をやるようになり、「きょうの料理」に出るようになったのだ、とか。料理は母に習っただけ。
 だからプロとしての修業、などというものはしていない。家庭料理一筋。
 それが何故、今は英語版も出版し、料理界のアカデミー賞とも言われる「グルマン賞」を受賞するまでになったのか。

 「料理は母に習っただけ」
 と言うのを聞いた時は、「食は三代」という言葉が頭をよぎりました。
 「そうか。お母さんが大したものなんだ。基本的なことを、きちんと全て教え込んだのだろう」
 そう思いました。
 併せて料理を楽しむことをも教えたのだろうから、やっぱりすごい人なんだな、と、栗原はるみという人に、よりも、このお母さんというのは、どんな人なんだろう、という方に興味が移りそうになりました。

 それが
 「料理は母に習っただけです。でも色々なことを主婦の人たちに習いました」
 と付け足された時、
 「これはこの人の性格なんだな」
 と気付かされました。

 「名師、必ずしも明師にあらず」
 良い師匠について何かを習えば、はずれることはありません。
 有名な師(名師)が必ずしも立派な師とは限らないけれど、市井にあって、全く目立つことのない「明師」というのは必ず居る。見出せないのは周囲に見出す眼力を持った人が居ないだけのこと。
 この栗原はるみという人のお母さんが教えた料理、それも家庭料理の心は謙虚に物事を他から学ぶ、ということを根っこに持つ、日本人の特性と完全に重なっていたのではないか。実は大変な明師だったのではないか。
 そんな「市井の(隠れた)明師」の立派さを栗原はるみという人は実感していなかったのかもしれないし、当然のことと見ていたのかもしれません。

 けれど、間違いなくお母さんは明師で、その薫陶を受けたからこそ、友人がシェフをやっている一流のレストランの追い回しをやらせてもらったり、感謝の言葉を自分で言えるように、と英語を習ったりする、今の彼女があるのだろうなあ、なんて思いました。

 我々には普通、「人を見る目」なんてありません。
 やっぱりそれは「能力」なんですから、育てなければできない。
 そして、困ったことに育て方を知らない。

 となると、これは「教えを乞う」しかない。
 その時、「謙虚さ」は大きな支えとなる。
 そこで明師はあらわれるのですから。
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思い込み(決め付け)

2020年06月04日 | 心の持ち様
2011.10/26 (Wed)

 剣術を習い始めて3年くらい経った頃でしょうか。
 或る師範代が、
 「気合いが破れて、良い声が出るようになった」 
 と言われました。
 それまで稽古に関してほめられたことがなかったので、とてもうれしかったのですが、あとで、「ん?」と悩み始めます。

 気合いが破れる?声が出るようになった、ということなのだろうけれど、それならただ、「声が出るようになった」と言えば良かろうものを、何故「気合いが破れて」と前置きをして、「声が出るようになった」と言われたのだろう。
 どう考えても分からない。
 結局、もしかして、師範代は掛け声と気合いを同じものと扱われているのかも・・・・。

 師範に対して随分と失礼な話だけれど、どうしてもそうとしか考えられない。
 その師範代は、勿論、免許皆伝。業前も、人格も素晴らしい人でした。
 でも、私には、その一言の意味がどうしても分からなかった。
 「気合いが破れる?声が破れる、じゃないのか・・・・・?」。
 「人間は己の能力の範囲内でしか物事を把握することができない」
 という典型的な例です。

 それから十年近く経って。
 何かの拍子で、先日私ともう一人の門人を引き合いに出して先生が
 「あの二人のように気合いを破る(ように)稽古をしなさい」
 と言われたと、同門の一人が教えてくれました。

 十年近く経ってはいたけれど、以前に師範代が「気合いが破れて~」と言われたことを思い出しました。
 あの時と同じです。師範代だけでなく、先生も同じことを言われた。
 「気合いと掛け声は別だろう?」から一歩も進歩していなかったのが、この一言で急に霧が晴れて来たような気がしました。

 掛け声は「出す」ものです。しかし、本当なら、「声」は発するのではなく、「発してしまう」ものです。「間合いを切る」のではなく「間合いを破る」ことで、初めて「無敵」となります。
 「掛け声」のように自分を励ますのではなく、「気」と実際の「間」、精神の距離と現実の距離を、「切る」のでなく「破る」。

 「気合いが破れる」「気合いを破る」と同時に出る声、というのは、それまでの文字にできる声ではない、文字では表し難い、何とも言えない声になっています。
 「いい掛け声が出るようになった」ではなく、「気合いが破れた」という表現は、「必死の心が、少し見えるようになったな」という意味だったらしい、と、十年近くかかって、やっと分かりました。

 なぜ、そんなにかかったのか。
 それは、「こうじゃないか」「ああじゃないか」「調べたらこんなことが書いてあったから、こうに違いない」などとよそから色んな知識をかき集めて納得しようとしていたからでした。「思い込み」です。「決め付け」と言ってもいいのかもしれません。

 ここまで書いたのを読まれると、
 「だから、できるだけ先入観なしに物事に向かわなければならない」
 と、結論付けて終わりそうな勢いでしょう?

 ややこしいことを言いますが、やはり、まずは「思い込み」「決め付け」をすべきだ、と思います。いや、するしかないんです。
 謙虚、思い遣りに至るまでになっていない、その実力がまだない、のですから。
 その時、自分の持っている知識、能力、体力を総動員して、とにかく言われたことを自分なりに解き、我が物にしようと努力すべき、と思います。
 それをして初めて、僅かでも能力が育まれ、その育まれた能力があってこそ、やっと、「あれ?もしかして間違ってたんじゃないか」「思い違いをしてたんじゃないか?」となるのですから。

 とは言っても、まあ、「十年もかかって。かかり過ぎ」とも思いますが。
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思いを伝えるのは難しい

2020年06月04日 | 重箱の隅
2011.10/18 (Tue)

 最近、ネット人口の増加で、ちょっと問題になっているのが学生の文章です。
 論文を書かせると引用ばかりで本人の論の展開が見えない。論文と本人の顔がうまく重なって来ない。早い話がコピーの貼り付けでしかないものが多くなった、と。

 もう何十年も前の話ですが、格好だけとはいえ、卒業論文というものを書かされた時のことを思い出してみます。
 あの頃(40年近い昔)も、コピーがなかったわけじゃありません。学生でも何とかできる程度の金額で、コピーはできました。
 しかし、参考文献は筆写した方が良い、と言われ、みんなぶつぶつ言いながらも、鉛筆を持って、図書館に行っていました。(添付云々は関係なしに、です)
 でもって出来上がったものはやっぱり、「格好だけ」の卒業論文。

 「論文の書き方」で教えられたのは「書き始めは一マス、空ける」とか「文の最後には句点をつける」とか。「論文の書き方」で、ですよ?
 「バカにするな!」と思うでしょう?
 ところが、意外に、できてないんです。原稿用紙に書き込み始めると、この「桝目」という奴は、妙なプレッシャーをかけてくる。「俺が承知しなけりゃ、活字にはならないんだぞ」、みたいな。
 圧力に抗って文字を書き込んでしまうと、段落がおかしくなる。反対に、決り通りに改行をすると、空白にしたところが気になって仕方がない。
 その余白となった桝目が、内容の乏しい文章を、「ほら、お前は4年間も何やってたんだ?この程度のことしか書けないのか?」、と、嘲笑っているような気がする。
 当時の流行の言葉で言えば「自己批判しろ!」とやられているような気がしてくる。

 あらぬ方向へ行こうとしています。筆写に戻ります。

 それでも、と思うことなんですが。
 昔は一々、筆写していた。筆写した文献で以って、自らの認識を、気づかず深めていた(筆写することで、考えが深まっていった)。そして、それによって、同じく気づかず考えを進めていった。
 つまり、自分の考えは、その延長線上にあった。論というものは、そうやって自然の成り行きで成っていた。そうするしか手がなかった。
 お気付きの通り、「参考文献は筆写した方が良い」、というのはそういうことを実感させるための指導だったんです。
 知識に遭って、筆写という形で、それと向かい合うことは、通り一遍の読み流しより確実に理解を深める。
 勝海舟が、貧乏であったからとは言え、本を借りて筆写し、我が物としたことはよく知られています。ただ読んだだけの者に比べるとはるかに深く理解していたと思われます。彼の場合はその筆写も二回して、一冊は売って次の本を手に入れる資金にしていた、ということですから、ばら撒き中心の現政府に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいですが。

 それが、コピーという手段が身近になることで、相応に広範囲の取り組みができるようになった代わりに、そこから考えを進める、という学問の初歩的な取り組み方が、おろそかにされるようになってきた。そして、論文の質に随分な格差が見られるようになってしまった。

 学問というのは、言葉通り、「学び、問う」ことで考えを進めようとするものです。
 だから、仮説を立てるのではなく、一つ一つの実例を真剣に見ていくうちに辺りの霧が晴れるように、先が見え始め、結論が見えて来るのが大体の形のようです。
 一つ一つを見ていくことで、ごく自然な論理展開をする。まさに、自然科学。
 大半の学問は、初めに仮説を立てて、そっちへ向けて苦労して一歩一歩近づいて行く、というやり方ではない。見た目は「思いつき」「行き当たりばったり」に見えますが、それなりに「風が吹けば桶屋が儲かる」の過程をきちんと説明しようとしている。
 結果、結論が出たら、「それ、言ったとおりだろう!」なんて言わないで「やれやれ。そっちに行ったか。風が吹けば桶屋が儲かるんだな」くらいなものです。

 コピーが一般的になった頃から、「考えが深まらない論文」が問題になり始めました。
 今は、どうか。
 高くついたコピー代を、今はほぼ無料で、それも自宅でやってしまえる。さらにはコピーなどせずとも、いきなり、よそから持って来て貼り付けてしまうことだってできる。結果、今は学生ならずとも、また、時にはそういう職種の人でさえ、コピペばかりで、肝腎の自身の論展開を見せなくなってしまった。

 自分が知ったこと、考えたことを他人に伝える場合、論の展開だけでなくそこに筆者の息遣いが感じられてこそ、読む側は己が身近に作者を感じ、その呼吸から何かを学び取っていくものではないでしょうか。

 論の展開は理によって行われますから、すぐに解することはできないかもしれません。けれど、筆者の息遣いは、自分の考えを何とか書き表そうと悪戦苦闘する、その文章の行間に垣間見えるものです。こちらは、読んでいる間に確実に伝わります。
 
 「汗は自分がかきましょう。手柄は人に上げましょう」と言った総理大臣がいましたが、「汗をかく」ということを、「結果を出す」と考えたら、これは、何とも鼻持ちならない物言いです。
 けれど、実際のところ、身近に引き寄せて考えたら、これは「率先垂範」であって、決して「英雄的行動」ではない。汗をかくことで自身が力をつけ、結果として「手柄」が生まれる(こともある)。「手柄よりも自分が力をつけることが大事ですよ」、と。
 汗をかかず、棚ボタの手柄を得た人は、理解は十分でないながら、力をつけようと努めてきた者の心意気に感じて、行動を共にするようになる。
 文章も同じく、一所懸命、脱線しようが何をしようが、とにかく苦心惨憺してでも書いてみる。コピペでなければ、怪しげな論展開であろうが何であろうが、それに何かを感じる人がいる。

 文筆業と言われる人でさえ、悪戦苦闘ぶりを見せなくなったところをみると、もしかして、何のために文章を書いているのか分からなくなって来ている人が増えてきているんじゃなかろうか。
 「何をえらそうに。それは、お前如きが言う事じゃない」
 なんて声が聞こえて来ますけど。

 やっぱり、思いを伝えるのは難しい。
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ネコ可愛がり

2020年06月04日 | 心の持ち様
2011.10/12 (Wed)

 先日、連載まんが「ひのまるにゃんこ」を見ていて、
 「う~む。やっぱり、猫はネコ可愛がりをするもんだなあ」
 と、妙に感心しました。
 犬はそうはいきません。ネコみたいに気儘な犬は本当に困る。

 大体、犬という奴は大拍子で、行動もドタドタしている。
 小さいのはフローリングの床など、慌てたりすると、足が空回りをしてジタバタするばかりで、ちっとも前に進まない。
 その分、飼い主に忠実で、人間の相棒になり得る頭の良さを持っている。
 だから、ちゃんとしつけをしないと、ペットや相棒、どころか、暴君になって好き勝手を働く。

 猫は正反対で、「犬は人につき、猫は家につく」と言うくらいだから、気儘で人の言うことを聞かず、相棒になんか絶対なれない。
 (いや、「ならない」、ですね。なる気が端から、ない。それ以上に、暴君にはならない。行動は勝手気儘ながら、騒々しい行動は採らない。飼い主が帰宅したら、慌てて足を空回りさせながら駆け寄り、飛びついてべろべろ舐め回す、みたいなことは、絶対にしない。)

 そんなところから、「バカだけど可愛いのが犬」で、「賢いけど小憎らしいのが猫」といったイメージがある。
 本当は犬の方が賢くて、猫はバカ、ということだが、その辺は知能指数だけではないのだから、どうもよく分からない。

 ともかく、犬をネコ可愛がりすると暴君になるからしちゃあいけない。
 けど、猫は自由気儘な奴だから、小さい時にネコ可愛がり、つまり道理も何もなく、躾なんてせず、ただ、可愛がっていると、人間に対して(飼い主に対して)気を許し、擦り寄って来るように育つ。気儘だから、自分が飽きるとぷいと他所へ行ってしまうんだけれど。
 と言うわけで、ネコはネコ可愛がりするに限る。

 人間はネコでも犬でもないけれど、育て方はどっちがいいんだろう。
 ネコ可愛がり?それともびしっと躾をする?

 「当然、びしっと、躾、だよ。愛情持ってやったら、ひねくれたりしない。」
 そうですよねぇ。最初が肝腎。
 無理矢理でも教えておかねばならないことは、確かにある。

 そこで、イザベラ・バード女史の登場です。
 女史曰く。「日本は、子供にとって楽園である」
 
「何をしても許される。叱られることはない。大人はみんな自分の子であろうがなかろうが、子供には同じ笑顔で接し、可愛がる。躾などは全くしない」
 ・・・・・と、「楽園」という表現とは裏腹の、子育てに関してはかなり批判的な記述をしています。
 にも拘わらず、「日本人は素晴しく優秀な民族である」と評している。

 欧米、少なくとも女史の故国、イギリスでは子供は最初が肝腎、とばかりに厳しく育てる。「小さな大人」という扱いです。
 対して日本は、子供が何をやっても許してくれる。躾なんて欠片もない。なのに、長ずると優秀な民族に?

 これ、日本の教育って初めはネコ可愛がりだってことですよね。
 ただし、そうやって、大人に対して気を許し、信頼して、「社会」を肯定的に受け入れるようになった後は、
 「だから、社会を裏切っちゃいけない」
 となって、自由気儘にはやっていけない、大人としての行動を、「躾けられて」、ではなく、自ら判断して、採る。
 「二十歳にもなって、バカやってらんねえよ」という不良少年の言葉には、その名残がある。

 その社会の中で、生まれ、育ち、生きていくわけですから、その社会をより良い方向へ引っ張っていくために教育は為されるわけで、ということは、教育の基本はその社会を肯定的に「見る」というより「体質的に抵抗なく受け入れるように」ということに置かれることとなる。

 そう考えると
 「全てのものを疑ってかかれ」
 なんて教え込もうとするのは、とんでもないこと。「国家反逆罪」に問われてもおかしくはないんですよ・・・・な~んて。

 まあ、ちょっと冗談が過ぎましたが、以前にも書いたように、自国を「素晴しい国」と教えるのは、どこの国だって、国である限り、当然のことなんです。
 反対に、「つまらない国」「悪いことばかりしてきた国」「他国のまねをするばかりの三流の国」等と教える、なんてのは、たとえそれが本当のことであったとしても、どう考えたって「国としての教育」ではない。
 
 まあ、国をなくして、
 「世界はひとつ。人類はみな兄弟」
 、とするのなら、まず国を全て破壊しなきゃならないから、
 「国なんて、サイテー!」
 とやるのは当たり前のこと。

 ・・・・ということは・・・今の教育って・・・・・???


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