CubとSRと

ただの日記

或る国の悲哀について

2020年06月14日 | 心の持ち様
2013.10/15 (Tue)

 5年くらい前からでしたか、ネットで色んな情報を見るようになって、
 「????」
 と思うことが結構ありました。

 「覚醒した」云々、といったことじゃないんです。
 「何それ?そんなの聞いたことないよ」
 というのがほとんどだったんですが、殆んどはネット用語というか内輪の言葉で。
 (wwwwとか8888とか、乙とか。)

 でも、「ファビョる」とか「ファビョッた」というのはホントに意味が解らなかった。
 勿論、調べりゃすぐ分かったことなんでしょうけど、全く調べる気にならなかった。
 理由は簡単。使われ方に嫌な気配を感じたから。
 「気配」、ですからね、自分勝手な判断です。是々非々です(ちょっと違うかな)。
 でも、ホントに何だか嫌な気分しか感じられなかった。明らかに蔑んでいるという空気が伝わって来ていた。で、意地のようになって調べようとしなかった。

 それが「夕刻の備忘録」氏のエントリー「売国奴の濫用を糺す」を読んだ辺りから「是々非々」の罠に陥っている、もっと単純に言えば「食わず嫌い」にしているのではないかと思うようになりました。

 ネットで検索かければ一瞬ですよね。
 「ファビョル」という病名が、通称ではなく、現実に存在することにも驚きましたが、風土病で括っても良いくらいな、この病気の地政学的発生理由。
 何ともやり切れないものを感じました。

 能く言います。「何も好き好んでバカに生まれたわけじゃない。そりゃ、オレだって賢く生まれたかったよ」「私だって、もっと美人に生まれたかったわよ」
 そうは言いながら、生んでくれた親への気持ちもあるんでしょう、それなりに己が頭脳、容姿に、それなりの愛着は持っている。
 自身、バカだと言いながら、融通の利かない自分に「剛毅木訥、仁に近し」、だなんてエール送ったり、もっと美人だったらと言いながら、「可愛い方が良いよね!」と女は愛嬌、を目指す。素晴らしいことです。それでこそ社会の力強い支えになれる。

 でも、病気への愛着がある、なんてのはない。
 「この病気を持つ民族として、誇りを持って生きる」??
 それが民族として特有のものだって、病気は嫌だ。
 「病身舞」などという他人の身体の不自由を真似て笑う芸能を持っていても、国民病である「ファビョル」を誇る者は居ない。

 ところで、何でそんな民族独特の病気が発生したんでしょうか。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「嘘も百回吐けば真実に」その後
                                 2010年2月08日

 この名言、一体誰が言い始めたんだろう、とふと気になって調べてみたら、ナチスの宣伝相ゲッペルスが言ったと書いてありました。

 なるほど、そのまま彼の担当する職分の、直截的な説明です。
 (マスメディア、みんな力強く頷いているのが目に見えるようです。)

 ただ、この名言を、ナチス成立のはるかな昔、古来より国是とする国がある、とネットの世界では言っていたような気がしたのですが。
 また、残念ながら、その国はなかなか目的を達成できず、現在に至っているようです。
 曰く、「孔子は我が国の出身」、「空手は我が国の~」「剣道も~」「天皇も~」「日本海は東海が正しい表記」「竹島は独島が正しく、勿論我が国の領土」等等。

 ここまで見え透いたことを、あっけらかんとして、時には怒気を含んで「そんなことも知らんのか」みたいな調子でノタマワレルと、怒る前に腰砕けになって茫然自失、「えっ?えっ?な、何で?何でそうなるん?」となってしまうしかありません。そんな攻撃のされ方、想像もできなかった。
 
 さて、かねがね、不思議に思っていたのですが、何でこんな国民性ができたのでしょうか。
 逆に日本人は、なぜ、自国に誇りを持たず、自分を卑下し、他国の目ばかり気にするのでしょうか。

 「そういう国民性なんだよ、遺伝子レベルで決まってるんだ」
冗談半分にそう言う人がいます。いや、冗談であって欲しい。本気で言ってほしくない。
 だって、そうでしょう?「駄目なのは生まれた時から決まっている」のなら「優秀なのも生まれた時から決まっている」というのが反面にありますよ。
それじゃ、「努力して優秀になる」、とか、「頑張って、技を身に着ける」なんてのも、「所詮、そんな奴、たかが知れてる」ってことになります。

 身体のデカい、チイサい、鼻が高い低い、なんてのは確かにどうにもできないけど、頭の中、能力なんてのはそんな筈はない。それじゃ、白人による人種差別と五十歩百歩です。

 戻って。「国民性だよ」。
 それは言える。では、なぜ、そんな国民性ができたのか。

 まず、民族として見ると、日本人の場合は、単一民族ではあるものの、相当に古い昔から色々な民族が集まり混血が進んだことは間違いありません。
 「縄文人」と言われる人々が中心ではあるものの、或る時期から体格が変ったと言われる「弥生人」も確かに存在したようです。
 鹿児島辺りの人のすっと伸びた脚の形等を見ると、「南方からやって来た、ニューギニア系の人種」の関わりも頷けます。
 以前にちょっと書いた、アイヌ民族の血があるのも当然、それ以前のオロッコ族だって、戦って追い払ったからいなくなった、わけではない。
 朝鮮半島経由では信じられないくらいの人数がやってきている筈です。 朝鮮の国づくりの伝説以前の、まだ国のない時代から、いくらでもやって来ている。流されただけで日本に着いてしまうのですから。

 ピンと来ない人は、一度、春先に山陰海岸を見に来てください。呆気にとられるしかない、大量の漂着物の山を。漁業関係の物は言うに及ばず、台所周りの用品、ペットボトルなどの生活用品、果ては、ベッド、テーブルに至るまで。ほぼ、ハングル文字が書かれています。(つい最近も劇物と書かれた容器がいくつも漂着し、触らないようにとニュースが流れてました。)
 こういうことを書くと、「いくらなんでもゴミといっしょにするな。バカにしてる」と思うかもしれませんが、そうじゃないんです。人も物も流れて来る。現実で見て下さい。

 「海に逃げて、対馬海流に乗ってしまったら日本に着いてしまった。帰るより、歓迎してくれるここの人々と暮らす方が良い。」
 半島経由の大半はこうだった筈です。
 「新天地を探して希望の船出」なんて、ありえない。仕方なし、です。
 中には侵略を目的にした者もいたかもしれない。しかし、結局は多勢に無勢、です。同化していった。
 平城京は帰化系が大半を占めていた、と聞いたことがあります。しかしそれは、日本が乗っ取られそうになっていたということではありません。
 また、都は帰化人が多くとも、日本全国がそうだ、ということではありません。彼等は出身国の手先で潜入しに来たのではない。それどころか日本に骨を埋めようとしている。
 日本は彼らを技術、学識があるなしに拘らず、受け容れた。彼等もそれを喜んだ。
 
 現在の日本の情況とは全く違う、ということを冷静に見るべきです。
 日本では、「異国人は新しい優れた物をもたらす」のが当たり前で、「敵意を抱く危険な存在」なんて考えられなかった。 
 
 「素直に受け容れ、努力して、それを身につけたら豊かになる。確かな実感がある」
 日本人の素直、真面目、勤勉などの国民性は、大陸の近くの島であること、強い海流が流れていること、半島が介在することなどと無縁ではありません。これらの条件が揃っている、ということは、或る意味、奇蹟的なことなのでしょう。

 半島の国は気の毒、としか言いようがありません。
 まず、彼等は、日本と違って、同じ民族ではありません。基本が「総入れ替え」です。
 負けたら国が滅びる。滅びる時は、日本に僅かの人(主に王族、貴族、富裕者層)が逃げ延びる。捕まった者は、良くて奴隷。普通は殺されます。これは当時の世界では当たり前(日本だけが変なのです)。
 この繰り返しです。だから、単一民族だった、とは言えないし、侵略、征服が当たり前だから、独自の文化など、ある筈もなく、歴史に学ぶ、なんて発想自体、あり得なかった。

 そして、大陸の「端」です。「辺境の地」とバカにされ、蹂躙されるのが当たり前の地。そこにやって来る異人は「征服者」「我々を見下す者」「収奪する者」です。
 「彼等」は嵐のようにやって来て「収奪」して去る。金品、食糧、女子供に至るまで。まだ去ってくれればいい。居座られる時は、自分達には「死」あるのみ。

 侵略、征服した民族としての、遠い過去の記憶はあります。
 しかし、その、モンゴルの記憶を、数百年前からずっと、親戚であるはずの満洲人ならともかく、彼らに支配されているはずの漢人(清朝の「官吏」)の命に、「属国」として服さなければならない。 
 その理不尽さに堪えきれず、叛乱をおこしたって、圧倒的な武力によって叩き潰される。今まで以上に屈辱の日々が続く。
 清の属国となっても、以前からのシナの文化は否定されず、日本のように目新しいものが流入するわけではありません。

 遠い過去の「征服者」の誇り。数百年も続く「属国」という恨み。
 そして、自力で「独立国」になれなかった、悔しさ。
 相手に自国の主張を認めさせたいから嘘を言い続ける、のではなく、自分がそう思い込みたいから嘘をつく。辛い話です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この日記を書いてから、もう三年半余りになります。
 でも、たったの三年半。
 数百年、いえ、「千年の恨み」は全くと言って良いほど変わらず、残っています。
 わざわざ、というか、御丁寧に、というか、自ら、「千年経っても恨みは消えない」と再確認しています。そして、そこに「道理」は全く、ない。

 「恨み」は道理に適った解決法によって解決し、しかも「恨み」の感情はその際からは理性によってとにかく抑え込み、以降、長年月をかけて消し去らねばならない。

 「道理に適った解決法」。それは「事実を確定し、見詰め」た上に設定されるべきものです。
 遠い過去、半島の住民であった民族を蹂躙し、居座ったのが、現朝鮮民族のようです。従って、我が日本に多くの文化をもたらした古代の半島在住民族ではありません。
 モンゴル風の名前を付けた満州民族の一支族らしいのが元の手先となって半島を支配し、元滅亡後は明の支配下となってシナ風の一字姓に替えてそのまま支配する。つまり、正式に属国となる。
 結果、満州民族が清を建てた時、漢民族の臣下だったため、今度は皮肉にも遠い先祖は同じであった筈の満州民族の臣下となる。情けないことに清の臣下となった漢民族に、臣下の礼を執らねばならない。

 そして、(日清戦争による)たなぼたの「独立」が、あまりの実力のなさの故に植民地、或いは保護国となるべきところ、再びたなぼたの「(日韓)併合」となり、日朝の実力差による急激な近代化により、プライドを完膚なきまでに叩き潰され続ける年月を過ごすことになる。

 初めは良かった。弱いものを叩いていれば治まった。
 属国の時代も良かった。隷従するだけで、「同じ人間だ」、なんて考えもしなかった。明、清の前では「誇り」なんて存在しなかった。
 けれど、日本は「併合」した。読み書きが出来なきゃ駄目だ、と叱った。もっとまともな生活をしろ、と産業から保険衛生面にまでうるさく言って来た。
 ここでやっと「悔しさ」を知った。「誇り」を持つことを知った。

 しかし。
 「恨み」は道理に適った解決法によって解決し、しかも「恨み」の感情はその際からは理性によってとにかく抑え込み、以降、長年月をかけて消し去らねばならない。
 「事実を確定し、見詰め」た上に設定されるべき「道理に適った解決法」。

 彼の国は、やっと「悔しさ」を知り、「誇り」を持つことを知りました。
 しかし未だ真っ当な解決法を入手し、実践しようとするには至っていません。

 我が国にできることは何か。
 「併合」は失敗でした。
 情にほだされて、の河野談話、スケベ心満載の菅談話は見事に仇で返され続けています。

 
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感性はつくられる。考え方もつくられる。

2020年06月14日 | 心の持ち様
2013.10/14 (Mon)

         「すり替えてない?」

 帰化人と渡来人。
 昔、学校では
「大陸から朝鮮半島を渡って、文字や文化が伝えられた」
と習いました。
 「文字、文化を伝えた人々は、そのまま日本に定住したので、彼等を帰化人と言う」、と。

 大人になって、何かの拍子に「帰化人」と言ったら、
「帰化というのは、『その土地に同化する』ということで、レベルの低い者がレベルの高い者に付くということをあらわす言い方だから、差別的で良くない」
と言われました。
 「どう言ったらいいんです?」と聞くと、
「海を越えるなどしてやって来たんだから、渡来人と言うのが普通だ」
という回答。

 そりゃ、そうですね。日本の場合、何でも海を越えてやってくるのが普通です。文字から始まって、建築術、仏教、儒教、音楽、絵画。(絵なんか、聖徳太子の肖像画と言われている、あの有名な絵とそっくりな三人の立像画が、韓国でしたっけ?古墳の壁画かなんかに、にあったとか。テレビで見た時はびっくりしました)
 礼式作法などもそうだ、と言いますね。

 何だか、こうやって書いていると、
「そうか。日本には何もなかったんだな。何もなかったんだから色々輸入せざるを得なかったんだ。未開の野蛮な土地だったんだ、やっぱり。帰化人、なんて偉そうな言い方しちゃいけないんだ。渡来して、住みついて下さった、渡来人さまのおかげ、と思わなくちゃいけないのかな」
なんて思いにとらわれてしまう。

 でも、さにあらず、ですよ。ここです。日本人の特性。
 良く言えば謙虚な性格。悪く言えばあきれるほどの人の良さ。
 この特性の上に、日教組の親ソ、親中教育の結果はぐくまれた感性が、あるんです。

 冷静になってみると、何だか変でしょう?
 別に「なかったから輸入する」とは限らない。
 いや、逆になかったら「自分の理解能力を越えている」から不安を感じて入手しないものです。
 手に入れようとするのは、「それに何らかの価値を見出したから」であって、「自分の持っている物が劣っているから、それと交換(持っている物を捨てる)する」、ことではないんです。
 
 ややこしい。簡単に言えば、「優れているから輸入する、とは限らない」。
 建築術が伝わる前、日本人は洞穴にすんでいたんでしょうか。
 古代神道の概念があったからこそ、仏教は対立しながらも、ついには天皇までが信仰するところまで根付いたのではないでしょうか。

 目的は同じでも外見が違う。その違うところから、何かを見出せるかもしれない。そして、少なくとも、わたってきた物は優れているような気がする。これが、島国日本の基本です。我儘なところがかけらもない。
 謙虚でしょう?相手に対して疑いの念なんてちっとも持たない。

 しかし、外見の違うものを入手したあと、日本人は驚くべき速さでそれを改良し、実用化します。更に入手したものの、不要となったら、これまた実にあっさりと捨ててしまいます。

 渡来人が、色々な有形無形のものを持って来るのは、日本では当たり前のことなんです。
 「持って来てやる」、ではない。ただ、「持って来る」んです。
 そして、彼らはみんな日本人に「化る(なる)」んです。彼らは劣っているわけではありません。上から目線で日本を見下しているわけでもありません。望郷の念に駆られながらでも、日本に住んだ。
 つまり、彼等も我々の先祖であり、結局は日本人なんです。
 
 「帰化」の「帰」は、「帰る、元に戻る」の意味で、「化」は「変化して成る、成立する」の意味ですから、実は「帰化」の語句に「レベルの低い者が云々」という上下の概念なんてないんです。
 「こんなところからも、巧みな感性の操作が行われたんだ」などと言うから「右翼は思い込みが激しい」とか「陰謀説ばかり」と似非左翼に突っ込まれるんですが、彼等(似非左翼)は、自身、そうやって言葉の本来の意味を考えようともせず、感じだけ、雰囲気だけで、言葉を遣い、教育をしてきた(されてきた)。

 「参政権がほしかったら、帰化すればよい」と言うと、「無理矢理つれてこられた」だとか「国籍が変ることを祖父母が悲しむから」とか言います。
 でも、こんな欺瞞的な発言より、参政権付与に肯定的な人々の意見を聞くべきです。
 難しいことを言っていても、実は「帰化」という言葉一つに、ネガティブなイメージ(帰化するのは劣等な人々)を持っていて、「遣いたくない」と無意識に行動していないか。

 どちらかといえば学業優秀、素直で常識的な考えの持ち主。修羅場をくぐりぬけたわけではない、かと言って「生きるとは何か」と長いこと悩みぬいたわけでもない人。これが日本人の大半です。洗脳なんかじゃない。
 こんなに人の良い民族を「日本は駄目な国、悪いことをした国、周辺の国々を苦しめたひどい国」と昭和20年から言い続け、27年以降も約束どおり言い続けた結果が、今、です。
 大事なことだからもう一度言います。(どこかのMCみたいでちょっとやだけど。)
 洗脳なんかじゃあないんです。生まれた時からやられてるんです。
 でも、日本人の特性(また、徳性)は、ちゃんとあります。
 それ(日本に誇りを持つということ)、に気がつけば、「目覚めた」、「覚醒した」という実感が湧きます。

 試しに「帰化ってどういう意味?何で帰化って言うの?」と聞いてみたら、何か変るかも。

                  (2010年1月26日の日記を全文転載)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今回言いたいことは標題の通り、「感性はつくられる。考え方もつくられる。」という事だけです。
 何となし、「感性なんて生まれた時から持っている、それも日本人なんだから、誇り高い日本人の感性を!」なんて思っている人がいたら、それ、ちょっと以上にお人好しですよ、と言いたいだけです。

 考え方もそうです。一人で賢くなったと思っている人が結構いるけれど、生まれたときは泣くしか表現法がなかった、という事を思い出せば直ぐわかること。
 初めは母親だけれど、生まれた瞬間から数えきれないほど多くの他人の思い遣り・働き掛けによって考え方をつくってもらって来た。
 それこそちょっと考えれば、日本人同士の対し方は言うまでもなく、外国とどのように向き合えばよいか直ぐわかることなんじゃないでしょうか。

 「世界は腹黒い」。だからこそ、うまく付き合わなきゃならない。
 たとえば「敵は身近に置け」という事です。
 傍に置いて重責を任せることで勝手には動けないようにする。
 反対に敵を遠ざけたら「虎に翼をつけて野に放つことになる」というでしょう?
 今の政府のやり方、どちらに見えますか。
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考えを変えるのか。考えを忘れる(?)のか

2020年06月14日 | 心の持ち様
2013.10/09 (Wed)

 「こんな筈じゃなかった。」
 「こんなことを望んでたんじゃない。」
 「何だ。思いっきり騙されていたんじゃないか。」

 色々なところから怨嗟の声が聞こえて来ます。
 そして次に聞こえるのは
 「もう!考えを変える!!あんな奴は切れ!」

 「考え」って、そう簡単に変えられるんでしょうかね。或る意味で、自身の全否定ですからね。下手すると、社会的な死を意味する。
 だから、「転向する」、というのは命懸けだった。
 曲げられない一線を捨てる、意地を張ることもやめる。つまり全然の別人になることを受け入れる。「考えを変える」「転向」とはそういう事だ。
 そんなことをするくらいなら、死ぬ方が百倍もマシだ。腹を切った方がましだ。

 そこまでの意地の突っ張りがあって、「転向する」「考えを変える」。
 だからなかなかできることじゃない。歳を取ればとるほどできなくなる。
 
 でも、「考えを忘れる」、ならば、これは簡単。何しろ目に見えないんだから、捨てれば良いんだ、考えなきゃいいだけだ!
 
 ・・・・なぁ~んてね。
 そんなことはありません。未練が残る。忘れようとすればするほど別れた恋人のように良いところばかりが思い出される。
 「転向」には新しい考えとの葛藤がついて回るけれど、ただ「忘れる」、ですからね、難しい。

 それを簡単にやってしまう。できてしまう。煙草や酒は、なかなかやめられないのに???
 そこで考える、というか直面する事実。
 実は「考え」なんか、元々身についてなかったんじゃないか。
 ただ誰かの意見の受け売りをしていただけじゃないか、情報を仕入れて組み替えることさえしていなかったのではないか。


 「他人のうわさも七十五日」、じゃないな、「去る者は日々に疎し」でもないですね。
 でも、何だか、忘れていきますね、自身の「覚悟」、なんて。
 「考え」にも至ってなかったんでしょうね。
 
 三ヶ月あまり前の日記なんですけど。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「もはや「井戸端(会議)」ではない」
                           6月14日

 (転載です) 

                  (略)
 部分と全体は切り離すことができない渾然一体としたものであり、一部を変えれば、他の全てを失うかもしれない、むしろ失う方が普通であるにも拘わらず、「是々非々」で欠点を矯正して欲しいと願うのである。全てを保ったままで、欠点だけが除去できると信じているのである。

 「そんな都合のいい話はない」と諭すのが大人の役割である。
 ところが、その大の大人が、都合のいい要求を政権に突き付けて、自分だけは公平な人間であると気取っているのである。

                   (略)

 日本の復活を何より恐れる周辺国があり、その連中に汚染されたマスコミがあり、政治の中枢に浸透した工作員がいる中で、「大体は賛成なのだけれど、ここだけは嫌!」などという子供染みた態度が通るはずもないだろう。
 それは既に明白な利敵行為なのだ。

 「TPPは交渉にも反対だ!」「スワップは止めろ!」と叫んで政権が安定するなら、幾らでもそうする。
 しかしながら、そうした批判は政権を弱体化させ、日本の国力を殺ぐ。マスコミが必ずそうなるように誘導する。
 その結果、「TPP体制に配慮」せざるを得なくなり、「周辺国との関係を生温いもの」にせざるを得なくなる。望むものと正反対の結果しか得られない。
 そして、益々の政権批判が続く。まさに「負のスパイラル」ではないか。
 これが「日本弱体化の歴史」なのである。

 あらゆる批判が、個別の小さな批判が、全体を破滅に導く。政権を倒すつもりなら、それでいい。
 しかし、支持を訴えながら、部分的に批判できると思う、その考えは甘すぎる。 刃物で斬り付けておきながら、「私が斬ったのは相手の小指の爪の先です、それで死ぬなんて思いませんでした」と、かまとと全開に言うつもりなのか。
 ふて腐れながら、「そんなつもりじゃなかったのに!」と言ったところで後の祭なのである。
                    (略)
 
 何時までも、昔の井戸端会議の感覚で、「その日の不満」「今日の不愉快」を爆発させていてはダメなのだ。

 そんなことは日頃「百も承知」と言っている人に限って、「正論」をぶちたがる。日本の有権者は、狂ったマスコミに日々踊らされているのである。
 そのことを、本当に理解しているなら、我が国の将来を本当に危惧しているなら、危なくて「是々非々」などと暢気なことを言っている余裕などないはずである。

 安倍政権を支持するなら、良い政策は扱う、問題のあるものには沈黙する。これが「今は」一番正しい態度である。大一番の選挙を前にして、これ以外には考えられない。
 関係者には、我々の沈黙は「否」であることを、感じて貰えればそれでいい。
 沈黙に徹すれば、マスコミに揚げ足を取られる心配もない。

               (以下略)


         ネットに「井戸端」はない

                     ~夕刻の備忘録より~


       http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-944.html

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ブログに書いたことや、コメントに遺したことだって、もはや「井戸端」の話ではない。

 
 「そんなこと知ってるよ」
 、とみんな思ってる。
 「ネットに載せた時点で全世界同時公開みたいなもんだ。」

 でも同時に、何となく思ってるんですよね、
 「自分の意見や書き込み(だけ)は、悪意を以て拡散されたり、歪曲されたりしないだろう」って。
 「どうせ内輪(井戸端)の話だもの、世間が注目する筈がない」って。

 でも、《ネットに「井戸端」はない》んです。

 先日来の株の乱高下は外国の投資家が云々と言われますが、何よりもの原因はコンピュータにやらせているから、でした。人間と違って仕事が異常に早い。

 言ってみれば、あの勢いで捏造された(或いは歪曲された)情報が、出て行くんです、我々の手元から。
 「その日の不満」「今日の不愉快」が、いつの間にか「政権への不満」「総理への不信」、と書き直されて。

 自分の言いたいこと(思っていること)は喋らねば伝わらない。雄弁は銀。
 金貨は貴重です。だから流通させず、手元に置いて置く。
 喋ることで社会を動かすけれど、喋らなければ一目置かれる。
 そして喋らなければ捏造・歪曲もできない。
 だから「沈黙は金」。
 実はどちらが欠けても社会は成り立たない。


 《「あらゆる批判が、個別の小さな批判が、全体を破滅に導く。」》
 《「支持を訴えながら、部分的に批判できると思う、その考えは甘すぎる。」》


 「井戸端のつもりだった」と復興庁のニンジャ乗り参事官がいくら言っても、更迭されてしまえばこれまでの全てが否定されてしまう。

 我々個々人だって、株相場の如く、今発している小さな不満が「風が吹けば桶屋が儲かる」式で大きなうねりとなって、現政権を倒壊させることにならぬとも限りません。

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「楯の会」初代学生長

2020年06月14日 | 心の持ち様
2013.10/08 (Tue)

 先入観なしに、まず、御覧ください。
 おそらく「草莽の士」というのはこういう人のことを言うのでしょう。

 長いので二回に分けようかとも思ったのですが、やっぱり一気に読んでいただきますように、お願いします。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「楯の会」初代学生長・持丸博氏の死


 ①最も優秀な学生で三島も信頼していた
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 「楯の会」初代学生長だった持丸博氏が亡くなった。
 9月24日(火)の早朝だ。26日(木)、家族だけで密葬を済ませたという。10月になって「お別れ会」をやるという。

                  (略)

 死ぬまで「楯の会」のことを考えていた。三島事件から43年経っているが、三島由紀夫・森田必勝氏と共に死んだ。そんな気持ちだろう。

 「楯の会」は三島由紀夫が作ったと言われる。
 確かにそうだが、実質的・組織的に「楯の会」を作り上げ、人間を集め、維持してきたのは、〈学生長〉である持丸氏だった。彼がいなくては、「楯の会」は出来なかった。

 9月7日(土)、軽井沢で、椎根和さん、板坂剛さんと3人で、〈三島事件〉を考える鼎談をやった。
 その時も、持丸氏の話をした。煌びやかにデビューした「楯の会」は、『平凡パンチ』のグラビアを飾り、よく取り上げられた。
 それで、「『楯の会』に入りたい!」という人がドッと応募してきた。1回、グラビアに出ただけで、200人も応募が来たという。
 その当時、『平凡パンチ』にいた椎根和さんが証言していた。
 椎根さんは、三島の自決までの濃密な時間を身近にいて、見てきた人だ。そして、『「平凡パンチ」の三島由紀夫』を書いた。事件に至る三島の行動・思想について、最も詳しい本だ。

 「楯の会」の一期生、二期生などは、民族派学生運動をやってた人で構成されている。日学同、生学連、全国学協から行った人々だ。
 だから私も、ほとんどの人を知っている。
 それ以降になると、『平凡パンチ』などを見て応募してきた人が多くなる。
 その人々を一人一人、面接し、会員にするかどうかを決めたのは持丸氏だ。
 当時あった『論争ジャーナル』で、その実務を担当し、近くの喫茶店で持丸氏は面接した。

 「三島文学ファンは採るなよ」と三島には釘を刺されていた。
 「三島さんと1ヶ月、自衛隊で体験入隊出来る。そばにいられる」なんてファンがいたら、たまらない。「あくまでも、国のことを考える人間を採ってくれ」と言われた。
 三島と共に1970年に自決した森田必勝氏は、「僕は三島さんの本なんて1冊も読んでません」と言って、三島に気に入られた。(本当は読んでいたのだが)。
 「面接」では、「今の日本をどう思うか」などの質問をして、憂国の情を聞いたようだ。

 しかし、人が多いし、時間もかかるし、大変だ。最後には、「目の輝いている人間を採った」と持丸氏は言っていた。
 三島は、持丸氏に全てを任せていた。それだけ信頼されていたのだ。
 だって、当時の民族派学生の中では1人、群を抜いていた。若いが、立派に〈思想家〉だったし、〈学者〉だった。そして実務家でもあった。

 ②学生なのに、「思想家」で、「学者」だった
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 水戸の高校では、〈水戸学〉を学んだ。
 高校でそんな授業があったわけではない。水戸学の大家・名越時正先生の家に下宿し、そこで水戸学の英才教育を受けたのだ。
 高校ではトップの成績で、早稲田に入った。

 大学で初めて会った時から、私らは圧倒されていた。
 大学1年生なのに、旧仮名遣いで文章を書いていた。もっとも彼は、「歴史的仮名遣い」だと言っていた。「旧」ではなく、今も生きていると。
 日本や中国の古典も読んでいる。原文で読んでいる。
 とてもついて行けない。他の大学生とは全く違う。「大人(たいじん)」の風格があった。
 それで皆は、やっかみを込めて、持丸氏のことを、「爺さん」と言っていた。皆、悔しかったのだ。

 「楯の会」がまだ出来る前だが、早大で、「日学同」が結成された時、参画し、「日本学生新聞」の編集長になった。
 文章はうまいし、編集能力もある。「日学同」の基礎を作ったと言っていい。
 その後、三島が「楯の会」をつくり、そこに駆け参じる。
 そして、〈実務的〉なことの全てをやった。

 天皇論、日本文化論においては、三島よりも抜きん出ていたかもしれない。
 そんな敬意を込めて、三島は持丸氏を頼りにし、「楯の会」の実体作りを委ねた。
 持丸氏を参謀にして、「楯の会」の構想は大きく膨らみ、広がった。
 初めは、「祖国防衛隊」という名前だった。「楯の会」になってからも、広範囲な、大衆運動をやろうとした。
 いや、そんなこともあった。イザとなったら、スイスのように全ての民間人が銃を取って立ち上がれる組織を作る。又、民間のガードマン会社と組んで、民間防衛組織を作る。…と、いろんなことを考えた。
 「楯の会」を作ってからも、これは100人の部隊だが、一人一人が100人を指揮出来るようにする。
 そうしたら1万人の軍隊が出来る。それで民間防衛組織を作る、などと考えた。


 ③なぜ、「楯の会」を辞めたのか
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 ところが、不幸なことに、途中で持丸氏は「楯の会」を辞めてしまう。
 「楯の会」の事務所的な存在だった雑誌『論争ジャーナル』と三島との間に、考えの違いが生まれたのだ。

 『論争ジャーナル』は、左翼全盛の当時にあって、雄々しく闘い、彼らに論争を仕掛けてゆく、という勇気ある雑誌だった。
 「楯の会」の募集や連絡、事務作業は、全て、ここでやっていた。
 又、ここの編集長はじめ社員は全て、「楯の会」に入っていた。持丸氏もそうだった。
 ただ、『論争ジャーナル』は三島の機関誌ではない。広く読者を集め、広告も賛助金も集めている。
 たまたま右翼フィクサーの田中清玄から資金援助を受けた。雑誌なんだから、これはあっても当然だ。
 ところがこれが三島の耳に入った。
 三島は、『論争ジャーナル』には、随分と援助している。原稿だって、毎月のように、タダで書いている。
 それに、三島は大の「右翼嫌い」だった。「楯の会」は純粋に、国を思う運動だ。外部の「右翼」などに利用されてはたまらないと思っていた。
 だから、田中清玄の、「援助」にはカチンと来た。

 さらに、いろんな話が飛び込んでくる。
 〈田中は、「楯の会」は俺がやっている〉と言ったとか。『論争ジャーナル』に金を出すことで、「楯の会」を動かしている。という意味らしい。
 本当に田中がそんな放言をしたのか。あるいは、誰かが三島にそう吹聴したのか、分からない。
 三島は激怒した。
 そして、「楯の会」の中にいた『論争ジャーナル』グループを除名した。
 ただ、持丸氏には残ってほしいと三島は言った。

 板挟みになって、持丸氏は、「両方とも」辞めた。
 それからは、いろんな会社を作っては、潰し…の連続だった。生涯に4度、破産したというから、尋常じゃない。
 持丸氏が「楯の会」を辞めたのは、かなり大きかった。三島にもこたえたし、その後の「楯の会」も変わった。
 若松孝二監督の映画『11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち』にも、この2人の〈別れ〉が描かれている。

 三島は、持丸氏に対し、「『楯の会』の専従になってくれ」と懇願した。
 「芳子さんと一緒に専従になったらどうか」と言った。生活費は全て三島が出すという。芳子さんとは、当時婚約者だった松浦芳子さんだ。
 こんないい話はない。普通だったら受けるだろう。
 しかし、持丸氏は断った。
 「夫婦2人で三島さんに飼われたくない」という気持ちもあった。又、「論争ジャーナル」グループへの恩義もあった。

 持丸氏が去ってから、「楯の会」は大きく変わる。後任の学生長は森田必勝氏だ。
 「学者肌」の持丸氏と違い、森田氏は、「行動派」だ。又、三島を信じ切っている。
 三島のやろうとしたことを敏感に察知し、どこまでも付いて行く。


 ④「責任」を感じ、苦しみ続けた43年
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 誰でも思う疑問がある。持丸氏が辞めたので、三島は、急激に、決起・自決の道を進んだのではないか。
 持丸氏が残っていたら、あの自決はなかったのではないか。
 私も持丸氏に何度も聞いた。いろんな人に聞かれたらしい。
 中には、「お前が三島さんを殺したんだ」「森田を殺したのはお前だ」と面と向かって言われたこともあるそうだ。
 苦しかっただろう。悔しかっただろう。
 私も聞いたのだから、他人のことは言えない。
 持丸氏は言っていた。「決起、自決を止められたかどうかは分からない。ただ、決起するにしても、もう少し別な形になっていたでしょうね」と。

 持丸博氏のお宅にうかがい、奥さん、息子さんと、かなり長く話し込んだ。
 「43年間、持丸はずっと、そのことを考えていました」と奥さんは言う。
 そのこととは、〈責任〉だ。自分が辞めたために、三島、森田を死なせてしまった。という自責の念だ。
 それは、キチンと本にして書いたらいい。と私は、会うたびに持丸氏に言っていた。
 「楯の会」を最もよく知っている男だ。大出版社からも、いくつも依頼があった。
 そして、書き始めた。でも、「関係者に迷惑がかかってはいけない」「あそこは、もっと調べてからでなくては…」と言って、筆が進まなかった。

 完璧主義者なんだ。分からない点は、疑問点としてそのまま書いて、どんどん書き進めたらいいだろう。と私などは言ったが、それは出来なかったようだ。
 でも、筆まめな人で、日記やメモ、原稿の下書きなどは大量にあるようだ。ぜひ、まとめて出版してほしい。

 祭壇にあったアルバムを見せてもらった。
 「楯の会」の写真が圧倒的だ。森田治さん(森田必勝氏のお兄さん)と写したものもある。
 「これは事件から35年経って、四日市のお兄さんを訪ねた時です」と息子が言う。息子も同行していた。
 「会うなり、“申し訳ありませんでした”と、いきなり、謝ってました」。弟さん(必勝氏)を死なせてしまって、申し訳ありませんでした、という意味だ。
 そのことをずっと考えていて、35年も経ってしまいました…と言ったという。

 それを聞いて、私も何も言えなかった。それだけ、苦しんでいたんだ。悩んでいたんだ。
 「三島さんという人も残酷なんだな」と思った。
 だって、100人の「楯の会」の若者たちは、「その後」皆、悩み、悔やみ、そして苦しんで生きてきた。
 「なぜ自分を連れて行ってくれなかったのか」と。三島を恨み、絶望し、悲嘆に暮れた。
 又、持丸氏のように、「自分のせいで」…と自責の念に苦しめられた者もいる。
 「楯の会」時代は楽しかっただろう。しかし、〈11.25〉以降は、〈地獄〉だ。


 ⑤神に出会った若者たちの「栄光」と「不幸」
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 去年だったと思う。持丸博、松浦芳子夫妻が出版記念会をやった。
 芳子さんは、三島さんとの思い出を書いている。持丸氏は佐藤松男氏との対談本を出した。
 その時、芳子さんがポロリと言った。「昭和45年11月25日。この日で、持丸は時間が止まりました」。
 ゲッ、残酷なことを言う、と思った。
 そうか。時が止まったのか。精神は、この11.25で凍り付いたままになり、1秒も針は進まない。肉体だけは生きているが…。

 皆、真面目なのだ。真面目過ぎたのだ。新左翼の若者ならば、すぐ気分を切り換えて、「いい体験をした。これを基に小説を書こう。映画を作ろう」と思うかもしれない。ちょっと縁があっただけでも、書いてる人は多い。
 それに比べ、「楯の会」は生真面目だ。「そんなことに利用したくない」「申し訳ない」と思う。

 じゃ、三島・森田氏の後を追って自決しよう、決起しよう。と考えた人もいた。  「でも、それでは、2人の決起に泥を塗る。汚してしまう」と思って、皆、止めた。
 開き直って生きることも出来ないし、死ぬことも出来ない。なんとも残酷だ。
 それに、これから何十年生きていても、三島ほどの人間に出会うことはない。師事することもない。
 そう思うと、若くして、余りに偉大な人に会うのは不幸なのかもしれない、と思う。
 「神を見た」若者たちの栄光と悲惨だ。

 持丸博氏の奥さん、息子と会って、話し込み、家に帰ってきた。
 残念だし、悔しい。あれだけ才能のある人間が、勿体ない。生きていたら、大思想家になっていたのに。
 43年間も、ずっと「自分のせいだ」と責任を感じて生きてきた。
 辛かっただろう。獄中にいるよりも辛かったと思う。

 
               (以下略)


  http://kunyon.com/shucho/131007.html
                        2013/10/07 鈴木邦男

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 「鈴木邦男をぶっとばせ!」からの転載です。

  鈴木氏に対する先入観を以てこの文を読まれぬよう、敢えて名前を出さず転載しました。

 「信なくんば立たず」、という言葉は能く聞きますが、「信じて行う」「信を貫く」ということはあまり聞かないし、大体が口にするものではありません。黙して行うことです。

 政治家のような、リーダー、指導者は「信なくんば立たず」の一言でしょう。
 信を失えば自ら命を絶つ。それでいい。
 けれど、そのリーダーを支える者は、「信じて行う」「信を貫く」のみ、です。
 リーダーが倒れても、命を絶つわけにはいかない。

 《三島・森田氏の後を追って自決しよう、決起しよう。と考えた人もいた。
 「でも、それでは、2人の決起に泥を塗る。汚してしまう」と思って、皆、止めた。》

 当然、リーダーが活動している最中にリーダー批判など。

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