2014.12/22 (Mon)
《 渡部亮次郎の「頂門の一針」 》からです。
旧仮名遣いで書かれてある文章なので、読み辛いと思われるかもしれませんが、旧仮名遣いは表記法としては現代仮名遣いに比べ、より理屈に合っているのですから、これに慣れるということもまた、間違いなし、日本の物の考え方を知ることの一助になると思います。
「漢字を捨てた国」や、「本質的な意味をないがしろにして簡略化させた文字しか使わない国」を引き合いに出すまでもなく、文章を「大まか」に、或いは「言い換え」で捉えることを常態にしてしまうと、結局は本質追求の実力を養うことはできないんじゃないでしょうか。
我が国の教育もまた、戦後何かにつけて安易な「言い換え」、又、「分かりやすく説明する」、ことを良しとしてきました。
その結果、「乱読」と「濫読」の違いさえ分からない、「疑問を持つ」ことの重要性を、「全てを疑う」猜疑心と置き換えて何とも思わない心根に、私などは育ってきました。
転載する文章は、「悪貨は良貨を駆逐する」の喩え通り、在るべきごく当たり前の姿が、目先の欲や安易な不都合逃れに迎合した結果、世の中、品性等をめちゃくちゃにしていくのだということを、それこそ「分かりやすく」書かれています。
その分かりやすさを手に入れるためには
「本字と歴史仮名遣いに慣れねばならぬ、というのがミソ」
です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
━━━━━━━━━━━
國語の悲鳴が聽えないか
━━━━━━━━━━━
上西 俊雄
3255號(26.12.20)「話の福袋」冒頭は「日本のマスコミの實態」。
「我が國の」となってないのは外國人ヂャーナリストのメールがもとであった ためのやうだ。
ライターと稱する人間にコリアンが多いのは確かであり、最近の著しい日本語の亂れも、ここから來てゐるのかもしれないとある。記事の一部を惹く。
<テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかひの問題 に對して、 朝鮮總聯からテレビ局及び經營幹部の自宅に對して脅迫に近い抗議行動が繰り返された。
(例へば「朝鮮民主人民共和國」を「北朝鮮」と言ふと猛抗議を受けた)
どのテレビ局も「北朝鮮・朝鮮民主(主義)人民共和國」といふ不自然な言ひ方をしてゐた。抗議行動に對する「手打ち」として、採用枠に「在日枠」が密かに設けられた。
總聯幹部の子弟を中心に入社は無試驗、形式的な面接だけでの採用が毎年續いた。
在日枠の密約を所轄官廳に對して内密にしてもらふやう局側から總聯に「お願ひ」をして、更に弱みを握られるなど、素人のやうな甘い對應で身動きがとれなくなっていった。>
これはさもありなむと思はれるけれど、それにしても今のテレビやラヂオで耳にする表現は變なものが多い。一例をあげる。
ネットでみつかったNHKニュース2014年(平成26年)12月20日[土曜日]
「政府・與黨は、來年度税制改正で3年後の平成29年末までとなってゐる住宅ローン減税が適用される期限を1年半、延長する見通しとなりました。」
政府・與黨といふのは主語のつもりなのだらうか。彼らが延長するのであれば見通しとみるのはだれなのか。「政府・與黨は延長する意向。」となぜしないのか。
語感が死んでゐると思ふ。反日勢力の影響もあるのかもしれないけれど、表記に於て役所や校閲部に國語を差配され續けてきた結果だと思はれてならない。
「國語は金甌無缺であった」で腹腔鏡を腹くう鏡と書くことの馬鹿らしさを取り上げたけれど、日經26.12.19夕刊では「腹腔鏡死亡例檢證せず」の見出しの記事で「群馬大病院は19日、腹腔(ふくくう)鏡を使った肝臓切除手術を受けた患者8人が術後4カ月未滿で死亡した云々」と書いた。
これは一歩前進といへるだらうか。4カ月の「カ」は箇の略字の「ヶ」を音からしてカとしたのだと教はったことがあるが、やはり片假名では變だ。
實は平成22年11月30日菅直人内閣總理大臣の名前で「公用文における漢字使用等について」といふ内閣訓令が出てゐるが、その中に「專門用語等で讀みにくいと思はれるやうな場合は必要に應じて振假名を用ゐる等、適切な配慮をするものとする」とあるものを適應したものだらう。
腔は形聲字。空といふ音符があるのだから讀みにくい字ではない。にもかかはらず、表外字といふだけで振假名を附す。これが語感を殺していく。
第一、このやうな場合に患者を8人と數へることがあっただらうか。ニンとメイと指示的意味に於て異るところがないからとよってたかってメイを事業仕分けした結果ではないか。
『日本の息吹』新年號卷頭の新春對談は渡邊利夫小川榮太郎。
「歴史的情念に衝き動かされる世界─日本生き殘りの戰略とは」といふ大見出しで二人が熱く語ってゐる。
ネットでは必讀の文獻だと評價が高い。そのことに異存はない。特に「憲法は言語化された國體である」といふところは我が意を得た思ひがする。
朝鮮のことにふれると事大主義といふ語が必要になるが事を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。
對談では事大主義について辭書の項目のやうな注釋を附して、特別のあつかひをしてゐるけれど、常用漢字といふ枠組の否定にまで進んでほしかった。
言語はなぜ變化するのか。A ≒ B ≒ C であるけれど A ≠ C であるとき、つまり親子の間は通じるが、三世代ともなると通じなくなると模式的な説明をみたことがある。
しかし、いろいろの世代が重層してゐる場合、兄弟姉妹が澤山ゐる場合には起りにくいことだ。
人はだんだんと年長になるにしたがって言葉を身に就けていく。いま、兄弟姉妹の數が少い。學校教育の重要さがましてゐるはずだ。
しかし文部省はだんだんと言葉を身に就けていくといふことを認めずに常用漢字表を設けて、さういふ發達段階の低い段階を上限として線を引いてしまった。
國語が世代の違ひを超えて連綿とつづいていくには傳統に根ざすことと未來にむけて枝葉をひろげていくことが必要だ。
假名字母制限はその根と還流する脈をしめつけ壞疽せしめんとするものであるが、漢字制限は時代に應じて枝葉をのばすことを阻害する。
NHKの報道のことにもどるが、意味をなさない文を垂れ流して平氣なのは、意識が語彙の使用可能かどうかの判斷に割かれてゐて十全に意味の方に向けられてゐないためだと思ふ。
この上、安倍政權の教育方針で、英語への傾斜がつづけば、主語を顯現化した表現が當たり前になるだらう。待遇表現がおろそかになる。英文を書かせても平板なものにしかなるまい。
國語の悲鳴が聽えないか。
2014/12/22 (月)
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転載者注
「事」を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。」
というのは「事」を名詞ではなく、「事(つか)ふ」と動詞に見て、「事大→大いなるに事う(身分、武力等、上にある者に従う、仕える)」ということを書かれています。
《 渡部亮次郎の「頂門の一針」 》からです。
旧仮名遣いで書かれてある文章なので、読み辛いと思われるかもしれませんが、旧仮名遣いは表記法としては現代仮名遣いに比べ、より理屈に合っているのですから、これに慣れるということもまた、間違いなし、日本の物の考え方を知ることの一助になると思います。
「漢字を捨てた国」や、「本質的な意味をないがしろにして簡略化させた文字しか使わない国」を引き合いに出すまでもなく、文章を「大まか」に、或いは「言い換え」で捉えることを常態にしてしまうと、結局は本質追求の実力を養うことはできないんじゃないでしょうか。
我が国の教育もまた、戦後何かにつけて安易な「言い換え」、又、「分かりやすく説明する」、ことを良しとしてきました。
その結果、「乱読」と「濫読」の違いさえ分からない、「疑問を持つ」ことの重要性を、「全てを疑う」猜疑心と置き換えて何とも思わない心根に、私などは育ってきました。
転載する文章は、「悪貨は良貨を駆逐する」の喩え通り、在るべきごく当たり前の姿が、目先の欲や安易な不都合逃れに迎合した結果、世の中、品性等をめちゃくちゃにしていくのだということを、それこそ「分かりやすく」書かれています。
その分かりやすさを手に入れるためには
「本字と歴史仮名遣いに慣れねばならぬ、というのがミソ」
です。
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國語の悲鳴が聽えないか
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上西 俊雄
3255號(26.12.20)「話の福袋」冒頭は「日本のマスコミの實態」。
「我が國の」となってないのは外國人ヂャーナリストのメールがもとであった ためのやうだ。
ライターと稱する人間にコリアンが多いのは確かであり、最近の著しい日本語の亂れも、ここから來てゐるのかもしれないとある。記事の一部を惹く。
<テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかひの問題 に對して、 朝鮮總聯からテレビ局及び經營幹部の自宅に對して脅迫に近い抗議行動が繰り返された。
(例へば「朝鮮民主人民共和國」を「北朝鮮」と言ふと猛抗議を受けた)
どのテレビ局も「北朝鮮・朝鮮民主(主義)人民共和國」といふ不自然な言ひ方をしてゐた。抗議行動に對する「手打ち」として、採用枠に「在日枠」が密かに設けられた。
總聯幹部の子弟を中心に入社は無試驗、形式的な面接だけでの採用が毎年續いた。
在日枠の密約を所轄官廳に對して内密にしてもらふやう局側から總聯に「お願ひ」をして、更に弱みを握られるなど、素人のやうな甘い對應で身動きがとれなくなっていった。>
これはさもありなむと思はれるけれど、それにしても今のテレビやラヂオで耳にする表現は變なものが多い。一例をあげる。
ネットでみつかったNHKニュース2014年(平成26年)12月20日[土曜日]
「政府・與黨は、來年度税制改正で3年後の平成29年末までとなってゐる住宅ローン減税が適用される期限を1年半、延長する見通しとなりました。」
政府・與黨といふのは主語のつもりなのだらうか。彼らが延長するのであれば見通しとみるのはだれなのか。「政府・與黨は延長する意向。」となぜしないのか。
語感が死んでゐると思ふ。反日勢力の影響もあるのかもしれないけれど、表記に於て役所や校閲部に國語を差配され續けてきた結果だと思はれてならない。
「國語は金甌無缺であった」で腹腔鏡を腹くう鏡と書くことの馬鹿らしさを取り上げたけれど、日經26.12.19夕刊では「腹腔鏡死亡例檢證せず」の見出しの記事で「群馬大病院は19日、腹腔(ふくくう)鏡を使った肝臓切除手術を受けた患者8人が術後4カ月未滿で死亡した云々」と書いた。
これは一歩前進といへるだらうか。4カ月の「カ」は箇の略字の「ヶ」を音からしてカとしたのだと教はったことがあるが、やはり片假名では變だ。
實は平成22年11月30日菅直人内閣總理大臣の名前で「公用文における漢字使用等について」といふ内閣訓令が出てゐるが、その中に「專門用語等で讀みにくいと思はれるやうな場合は必要に應じて振假名を用ゐる等、適切な配慮をするものとする」とあるものを適應したものだらう。
腔は形聲字。空といふ音符があるのだから讀みにくい字ではない。にもかかはらず、表外字といふだけで振假名を附す。これが語感を殺していく。
第一、このやうな場合に患者を8人と數へることがあっただらうか。ニンとメイと指示的意味に於て異るところがないからとよってたかってメイを事業仕分けした結果ではないか。
『日本の息吹』新年號卷頭の新春對談は渡邊利夫小川榮太郎。
「歴史的情念に衝き動かされる世界─日本生き殘りの戰略とは」といふ大見出しで二人が熱く語ってゐる。
ネットでは必讀の文獻だと評價が高い。そのことに異存はない。特に「憲法は言語化された國體である」といふところは我が意を得た思ひがする。
朝鮮のことにふれると事大主義といふ語が必要になるが事を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。
對談では事大主義について辭書の項目のやうな注釋を附して、特別のあつかひをしてゐるけれど、常用漢字といふ枠組の否定にまで進んでほしかった。
言語はなぜ變化するのか。A ≒ B ≒ C であるけれど A ≠ C であるとき、つまり親子の間は通じるが、三世代ともなると通じなくなると模式的な説明をみたことがある。
しかし、いろいろの世代が重層してゐる場合、兄弟姉妹が澤山ゐる場合には起りにくいことだ。
人はだんだんと年長になるにしたがって言葉を身に就けていく。いま、兄弟姉妹の數が少い。學校教育の重要さがましてゐるはずだ。
しかし文部省はだんだんと言葉を身に就けていくといふことを認めずに常用漢字表を設けて、さういふ發達段階の低い段階を上限として線を引いてしまった。
國語が世代の違ひを超えて連綿とつづいていくには傳統に根ざすことと未來にむけて枝葉をひろげていくことが必要だ。
假名字母制限はその根と還流する脈をしめつけ壞疽せしめんとするものであるが、漢字制限は時代に應じて枝葉をのばすことを阻害する。
NHKの報道のことにもどるが、意味をなさない文を垂れ流して平氣なのは、意識が語彙の使用可能かどうかの判斷に割かれてゐて十全に意味の方に向けられてゐないためだと思ふ。
この上、安倍政權の教育方針で、英語への傾斜がつづけば、主語を顯現化した表現が當たり前になるだらう。待遇表現がおろそかになる。英文を書かせても平板なものにしかなるまい。
國語の悲鳴が聽えないか。
2014/12/22 (月)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
転載者注
「事」を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。」
というのは「事」を名詞ではなく、「事(つか)ふ」と動詞に見て、「事大→大いなるに事う(身分、武力等、上にある者に従う、仕える)」ということを書かれています。