CubとSRと

ただの日記

旧仮名遣い(歴史仮名遣い)

2020年06月21日 | 重箱の隅
2014.12/22 (Mon)

 《 渡部亮次郎の「頂門の一針」 》からです。
 旧仮名遣いで書かれてある文章なので、読み辛いと思われるかもしれませんが、旧仮名遣いは表記法としては現代仮名遣いに比べ、より理屈に合っているのですから、これに慣れるということもまた、間違いなし、日本の物の考え方を知ることの一助になると思います。
 「漢字を捨てた国」や、「本質的な意味をないがしろにして簡略化させた文字しか使わない国」を引き合いに出すまでもなく、文章を「大まか」に、或いは「言い換え」で捉えることを常態にしてしまうと、結局は本質追求の実力を養うことはできないんじゃないでしょうか。

 我が国の教育もまた、戦後何かにつけて安易な「言い換え」、又、「分かりやすく説明する」、ことを良しとしてきました。
 その結果、「乱読」と「濫読」の違いさえ分からない、「疑問を持つ」ことの重要性を、「全てを疑う」猜疑心と置き換えて何とも思わない心根に、私などは育ってきました。
 転載する文章は、「悪貨は良貨を駆逐する」の喩え通り、在るべきごく当たり前の姿が、目先の欲や安易な不都合逃れに迎合した結果、世の中、品性等をめちゃくちゃにしていくのだということを、それこそ「分かりやすく」書かれています。
 その分かりやすさを手に入れるためには
 「本字と歴史仮名遣いに慣れねばならぬ、というのがミソ」
です。

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 國語の悲鳴が聽えないか
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      上西 俊雄

 3255號(26.12.20)「話の福袋」冒頭は「日本のマスコミの實態」。
 「我が國の」となってないのは外國人ヂャーナリストのメールがもとであった ためのやうだ。


 ライターと稱する人間にコリアンが多いのは確かであり、最近の著しい日本語の亂れも、ここから來てゐるのかもしれないとある。記事の一部を惹く。

 <テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかひの問題 に對して、 朝鮮總聯からテレビ局及び經營幹部の自宅に對して脅迫に近い抗議行動が繰り返された。
 (例へば「朝鮮民主人民共和國」を「北朝鮮」と言ふと猛抗議を受けた)

 どのテレビ局も「北朝鮮・朝鮮民主(主義)人民共和國」といふ不自然な言ひ方をしてゐた。抗議行動に對する「手打ち」として、採用枠に「在日枠」が密かに設けられた。

 總聯幹部の子弟を中心に入社は無試驗、形式的な面接だけでの採用が毎年續いた。
 在日枠の密約を所轄官廳に對して内密にしてもらふやう局側から總聯に「お願ひ」をして、更に弱みを握られるなど、素人のやうな甘い對應で身動きがとれなくなっていった。>

 これはさもありなむと思はれるけれど、それにしても今のテレビやラヂオで耳にする表現は變なものが多い。一例をあげる。


 ネットでみつかったNHKニュース2014年(平成26年)12月20日[土曜日]

 「政府・與黨は、來年度税制改正で3年後の平成29年末までとなってゐる住宅ローン減税が適用される期限を1年半、延長する見通しとなりました。」

 政府・與黨といふのは主語のつもりなのだらうか。彼らが延長するのであれば見通しとみるのはだれなのか。「政府・與黨は延長する意向。」となぜしないのか。

 語感が死んでゐると思ふ。反日勢力の影響もあるのかもしれないけれど、表記に於て役所や校閲部に國語を差配され續けてきた結果だと思はれてならない。

 「國語は金甌無缺であった」で腹腔鏡を腹くう鏡と書くことの馬鹿らしさを取り上げたけれど、日經26.12.19夕刊では「腹腔鏡死亡例檢證せず」の見出しの記事で「群馬大病院は19日、腹腔(ふくくう)鏡を使った肝臓切除手術を受けた患者8人が術後4カ月未滿で死亡した云々」と書いた。

 これは一歩前進といへるだらうか。4カ月の「カ」は箇の略字の「ヶ」を音からしてカとしたのだと教はったことがあるが、やはり片假名では變だ。

 實は平成22年11月30日菅直人内閣總理大臣の名前で「公用文における漢字使用等について」といふ内閣訓令が出てゐるが、その中に「專門用語等で讀みにくいと思はれるやうな場合は必要に應じて振假名を用ゐる等、適切な配慮をするものとする」とあるものを適應したものだらう。

 腔は形聲字。空といふ音符があるのだから讀みにくい字ではない。にもかかはらず、表外字といふだけで振假名を附す。これが語感を殺していく。

 第一、このやうな場合に患者を8人と數へることがあっただらうか。ニンとメイと指示的意味に於て異るところがないからとよってたかってメイを事業仕分けした結果ではないか。

 『日本の息吹』新年號卷頭の新春對談は渡邊利夫小川榮太郎。
 「歴史的情念に衝き動かされる世界─日本生き殘りの戰略とは」といふ大見出しで二人が熱く語ってゐる。

 ネットでは必讀の文獻だと評價が高い。そのことに異存はない。特に「憲法は言語化された國體である」といふところは我が意を得た思ひがする。

 朝鮮のことにふれると事大主義といふ語が必要になるが事を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。

 對談では事大主義について辭書の項目のやうな注釋を附して、特別のあつかひをしてゐるけれど、常用漢字といふ枠組の否定にまで進んでほしかった。

 言語はなぜ變化するのか。A ≒ B ≒ C であるけれど A ≠ C であるとき、つまり親子の間は通じるが、三世代ともなると通じなくなると模式的な説明をみたことがある。

 しかし、いろいろの世代が重層してゐる場合、兄弟姉妹が澤山ゐる場合には起りにくいことだ。

 人はだんだんと年長になるにしたがって言葉を身に就けていく。いま、兄弟姉妹の數が少い。學校教育の重要さがましてゐるはずだ。

 しかし文部省はだんだんと言葉を身に就けていくといふことを認めずに常用漢字表を設けて、さういふ發達段階の低い段階を上限として線を引いてしまった。

 國語が世代の違ひを超えて連綿とつづいていくには傳統に根ざすことと未來にむけて枝葉をひろげていくことが必要だ。

 假名字母制限はその根と還流する脈をしめつけ壞疽せしめんとするものであるが、漢字制限は時代に應じて枝葉をのばすことを阻害する。

 NHKの報道のことにもどるが、意味をなさない文を垂れ流して平氣なのは、意識が語彙の使用可能かどうかの判斷に割かれてゐて十全に意味の方に向けられてゐないためだと思ふ。

 この上、安倍政權の教育方針で、英語への傾斜がつづけば、主語を顯現化した表現が當たり前になるだらう。待遇表現がおろそかになる。英文を書かせても平板なものにしかなるまい。


 國語の悲鳴が聽えないか。


                         2014/12/22 (月)

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 転載者注
 「事」を動詞に用ゐるのはすでにして常用漢字の否定。」
 というのは「事」を名詞ではなく、「事(つか)ふ」と動詞に見て、「事大→大いなるに事う(身分、武力等、上にある者に従う、仕える)」ということを書かれています。



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是々非々納め

2020年06月21日 | 重箱の隅
2014.12/31 (Wed)

 今年いっぱいはもう日記を書かず終わろうと思っていましたが、・・・・なんて言って、これ、12月12日の日記なんですけどね。
 短いです。

 12月の初旬にNHKで「撃墜」という番組がありました。前後二回。
 PCを修理に出した、ということを以前に書きましたが、それから一週間、何となくテレビばかり見てました。
 でも、見事なくらい「面白い!」と思った番組は一つもなかった。

 そんな中で記憶に残っているのが、この「撃墜」です。良い意味ではない。
 ただ、「結局何を言いたかったんだ」と思うばかり。

 三人の戦闘機乗りの話で、シナの裕福な家庭に育った戦闘機乗りが乗った国民党軍のパイロットが、零戦乗りに撃墜される。
 その零戦乗りが今度は紫電改乗りとなって、二十数機で二百を超すグラマン機の集団に撃墜される。

 実話を基に構成されたドラマだということだったけれど、結局
 「三人の戦闘機乗りのやったことは、悲しみの記憶しか残していないのではないか、戦争などはするものではない」
 と言いたかったんだろうか。だとしたら、三人が命を懸けて守ろうとしたことを、その何かを、全く見ようともしないことにならないか。

 戦争を喜んでする者はいないんじゃないでしょうか。
 相手を倒すことだけ考えるなんてのは、現実問題としてあり得ない。自身も倒されることを、その可能性を、想定して掛からなければならないのは言うまでもないことでしょう。
 「やられるかもしれないけれど、やらねばならぬ」
 というのが戦争でしょう。
 「そうしなければ、このままでは国も家族も死ぬしかない」
 そういった絶体絶命の場が、戦争に踏み切る瞬間と思います。
 決して
 「やられる前にやれ」
 みたいな軽いものではない。一国の存亡が掛かっているんですから。
 だから
 「日本は軍国主義だった。だから世界を敵に回して戦争をしたのだ」
 なんて決めつけは噴飯ものです。

 みんなそれぞれの立場で必死だった。問題はそこなのだと思います。
 必死になっていれば、一所懸命ならば、それでいいのか。そんなことはない。

 つまり「正しいことは正しい」、「駄目なものはダメ」、でいいのか、ということです。その物差しは自分自身でしかない。自分自身の習練、努力、修練、研究の結果でしかない。
 じゃあ、それぞれの、個々人の、物差しは個々の物にならざるを得ない。「正しいものは正しい」「駄目なものはダメ」なんて傲慢な決めつけにしかならないのではないか。
 それが「是々非々」なんじゃないでしょうか。

 ・・・・・なんてことを書くと
 「じゃあ、お前は『次世代の党』に反対なんだな。次世代の党は平沼党首が『我が党は是々非々の党です』と言ってるんだぞ」
 なんて言われそうです。
 そういう決めつけこそが「是々非々」の問題点じゃないか、なんて思うわけです。平沼党首と我々個々の物差しとは同じか否か。



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冗談言っちゃいけねぇやい

2020年06月21日 | 心の持ち様
2014.12/14 (Sun)

 本当なら12月に入った時点で、何とか日記を書き始めようと思っていたのだが、もう月半ばになってしまった。
 11月半ばから今日までの経緯を書こうとはしたものの、どうも、私事過ぎてどうにもならず。
 けれど、今日は何をおいても書いておきたいことがある。だから私事は後回し。

 今回は当然、選挙のことだ。でも、本当に今日は二言三言で終わる(つもりだ)。

 今回の選挙戦の初めのころ、「今回の選挙には大義がない」という表現が能くつかわれた。
 「この逼迫した経済状況の中で、600億も使って選挙をする意味があるのか」という言葉も能く聞いた。

 冗談言っちゃいけねえや。
 大義のない選挙なんかあるわけないだろう。
 大体、「選挙とは何か」と問われれば、「我々国民の一人一人が、『理想の国政を現実のものにしてほしい』、と自分の意見を主張できる貴重な場である」と応えるしかないのだ。
 その「大義」実現のために、「理想の国政を!」と意志表示するために行うものなのだ。
 ということは選挙に大義があるとかないとかいうこと自体、的外れではないか。大義があるからこその選挙なのだ。

 「大義のない選挙」なんか、ない。いつだって、どの選挙だって、我々の思う国政実現のための唯一の直接的な働きかけの場なんじゃないのか。
 だから何度だって言う。大義のない選挙なんかあるわけがないのだ。
 だからマスメディアは、それをこそ声高に叫ぶべきなのだ。
 それだのに、何を評論家気取りでいるのだ。

 「税金が600億も使われる。そのお金をもっと有効に使えないのか」などという、一見分別のあるような意見も耳にする。
 「頭おかしいんじゃないのか?」「バカも休み休みに言え」と言いたい。
 国費を有効に使うために、だからこそ600億円もかけて選挙をするのじゃないか。
 まともに国のことを正面から考える人物を選び出すために、使っているんじゃないのか。

 我々の国のことだ。自分自身の生まれ、住む国のことなのだ。一票を投ずることもしないで、国政に注文だけはつける?心得違いも甚だしい。
.
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「清美ちゃん、カッコいい!」・・・・?

2020年06月21日 | 心の持ち様
2014.12/19 (Fri)

 PCが壊れて、販売店に持っていったら、ハードディスクが駄目みたいだから初期クレームということで製造元に送り、ハードディスクを交換、ということになった。買って二年弱。

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 テレビがなければ日記が書ける、と思っていたのだが、PCがなくなって初めて、日記が書けなかったのはPCのせいだと分かった。
 新しい情報を手に入れることばかり考えていた。或いは新情報が入ってくるのを当然のこととして受け入れていた。その上で「メディアリテラシーが云々」と言っている。

 低回(徘徊)状態でしかなかったのだ。自分で目を凝らして問題を見つけようとしてなんかいなかったのだ。なのに自分で問題を見つけようとしていると思っていた。
 甚だしい場合は「わしもそう思う」状態で、問題を見つけるどころか回答までも自分で思いついたかのように勘違いして、手に入れた情報を「持論!」と思い込んでいた。
 能々見れば普段言っていることと微妙にずれているのに、凝視せず済ませてしまっていた。

 この数年、「沈思黙考する」ということを実感、体感しようとしたことが本当にあったろうか。自身の立っている場所を、座標としてではなく「高み(境地)」として、客観視しようと意識したことが本当にあったろうか。

 「自民が300議席超」という予想が出ている。「油断したら負ける」、と安倍首相は必死だ。なのに「バンドワゴン効果」というのを、取らぬ狸の何とやら、で期待している者もいる。昔々、朝日放送アナウンサーとして絶大な人気と知名度を誇った民社党議員中村鋭一は、その油断と皮算用の結果、一敗地にまみれた。

 「自民圧勝!」?
 けれど
 「一人くらい行かなくたって大勢に影響、ないでしょ?だから行ったことない」
 「忙しくて選挙どころじゃないもの」
 「何でこんなに忙しい時に選挙するんだよ。代議士センセは庶民のことなんか分かってないんだねェ」
 「投票したら景品がつく、なんて良いんじゃない?」
 「ツジモっちゃん、うん、清美ちゃん。国会質疑、カッコええから投票するわ」
 、みたいな太平楽言ってるのが国民の大半なんだ。

 けれどそんないい加減な奴も、意を決して行く憂国の士も、「同じ一票」。
 志の軽重は一切無視されて、その一票が国政を託す政治家を選出するんだ。それが民主主義だ。努力した者も怠けた者も同じ人間の価値ということだ。

 だからこそ「毒を食らわば皿までも」「死なばもろとも」、の覚悟が活きてくる。
 国士は、動ずることなく、それに徹する。「こんな筈じゃなかった」と一言でも言うならば「ツジモッちゃん、カッコいい!」と同列になる。
 そんな「意思」の上に国政は危ういバランスを保っている。
 だからこそ、「死なばもろとも」と覚悟した国民が一人でも多くなることが、確固とした国を作ることに直結する。そう思う。

 国政に文句をつける(是々非々を声高に叫ぶ)のでは遅過ぎる。文句は選出の段階でつけるべきだろう。
 そして、思い通りにいかなかったら、耐え忍ぶしかない。思い通りにいかなかったら「臥薪嘗胆」以外の言葉はない。

 一党独裁のシナだって「主席独裁」ではない。実際は合議制、つまり「主席派独裁」だ。
 日本なら言うまでもない、鎌倉の昔は言うに及ばず、建国の時から、いや、神代の昔から合議制だった。神議(かむはかり)で全てが決められてきた。国を思う気持ちの強い者が、大志を持つ私欲のない者が、国を動かしてきた。

 主流派を強固なものにしなければ、次世代の党は活動の場を持てないままで終わってしまう。

  (選挙後、次世代の党は大敗を喫した、と捉えられています。しかし大志のある議員が二名、国会に、それも衆院に居る、ということは今後に大いに望みがあるということだと思います。) 


追補 
 2020年、次世代の党は跡形もありません。
コメント (2)
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段取りがいいな~。

2020年06月21日 | 重箱の隅
2014.11/15 (Sat)

 11月2日の東京でのデモ、公務執行妨害で逮捕された3名の中2名が京大生。
 ということで、京都府警の警官が京大キャンパス内に入っていたのが見つかり大騒動になって・・・・。
 
 「何だか変だよな~」って思ってましたが、こういう風に考えたら「なるほどね~」、です。
 久し振りに余命3年時事日記から、ほんの一部、転載。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                  (略)

 安倍さんは祖父、岸信介の安保の轍は踏まずとして2日のデモ対策は徹底していました。
 共産党、赤旗祭りから、革マル派、中核派、在日勢力から反日勢力の大動員ばかり報道されていましたが、動員総数は機動隊を主力とする治安部隊の方が遙かに大きい動員でした。近隣からの総動員ですね。

 そして2日にデモ規制中の機動隊員への公務執行妨害で中核派活動家3名逮捕という事件が起きますが、被疑者完全黙秘であるにもかかわらず、警察発表で3人は中核派活動家、うち2名は京大生なんて、もう間違いなく意図的仕掛けでしょう。偶然?まさか!

 4日に京大での集会事件もわざと捕まって拘束され全国規模の中核派あぶり出しのようなかんじがしますね。拘束されたと同時に、警察が動き出しています。早すぎますよ。

 2日に事件があって、3日まで赤旗祭りということで機動隊はお役ご免だったのですが、せっかくきたんだから東京見物でもしていきなさいということだったのでしょうか、霞ヶ関、銀座、築地、お台場に関係車両がいっぱい。6日になってやっといなくなりました。あれっ!6日はテロ法案可決した日かな?

 メディアは何か勘違いしたのでしょうか、静かになってしまいました。

               (以下略)

   http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2014-11-14

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 東京でのデモで、被疑者は完全黙秘していて、なのに警察発表は「中核派活動家」、「うち2名は京大生」、って間違いなく狙い撃ち、ですよね。

 ①京都からあらかじめ情報が伝えられていた。
 ②京都から動員されていた機動隊が逮捕する計画であった。

 ・・・と考えるのが確かに筋です。
 そして、
 ③警官がわざと見つかり、学生側に捕まる。
 ④その時得た情報を基に校内に捜索に入る。

 こう見て来ると、これは京都府警だけの仕事じゃないな、と。
 公安委員会がまともに関わってるな、と思わない方がおかしいですよね。

 でも、余命氏が書かれている通り、マスメディア、沈黙してますね~。
 「報道しない権利」を行使中なのかな?
 それとも「物言えばくちびる寒し~」じゃないけれど、火の粉が我が身に降りかかるのを極度に恐れているのかな???
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