CubとSRと

ただの日記

砂金の一粒

2020年06月23日 | 心の持ち様
2015.10/12 (Mon)

 当たり前のことだが、書いておかなければ、いずれ忘れてしまう。

 60もいくつか(もうすぐ二つ)過ぎると、いずれどころか数分前に考えたことや思いついたことだって、呆れるくらい見事に、すぐ忘れてしまう。
 そしてそれはどんな立派なこと(自分で言ってりゃ世話ないけど)でも、どんなつまらないことでも、一緒だ。

 「毎日一冊、本を読む」、というのは凄いと思っていたけど、先日テレビを見ていたら、「毎日20冊以上、時には本代が月に百万以上かかる」という男が出ていた。
 竹下総理の孫「DAIGO」じゃない方、の「DaiGo」という人物だ。

 日に一冊、どころか月に一冊読むかどうか、という者からすれば、
 「毎日一冊、なんて本の意図が読み取れる筈がなかろう。どうせ中身の薄い本か、理解度の低い者のすることだ」
 と悔し紛れに憎まれ口をたたくのが平常運転の処理法なんだけど、
 「日に20冊」
 なんてことになると、そんな憎まれ口さえたたけない。

 けど、同時に思い始めた。
 「読むのは主に専門書だ」
 と言っていた。
 それこそ更に想像力の範囲を超える話なんだけれど、彼は
 「本の中にある情報量というのは20%足らず」
 とも言っていた。
 それを自身で作った速読術を用いて二十分間読み、5分の瞑想の時間を持ち、の繰り返しで、「一日20冊」。

 これは「専門書を!」じゃなくて「専門書だから(専門書として)読める」ということなのだろう。

 専門書には「読み方」がある。専門書に「味読」は必要ない。
 そして、「読み方」というのは「考え方」と重なる「型式」そのものなのだから、そこから新しい「考え方」を見出す必要はない。
 つまり「速読で心が動かされ(感動、ですね)、思わず涙を流す」、なんてことはない。そんな暇はない。
 そうならば「連続で20分集中、5分瞑想という形で以て一日20冊読破」ということは訓練次第でできないことではないのだろう。現実、やっている人間が、自ら言っているのだから。
 とは言え、それは大変なことであり、尊敬すべき「生き方」であることに変わりはない。だからと言って、かれを天才扱いすることは、「それは違う」と言える。イチロー選手が天才ではないように。

 いきなり話がずれてしまったが「書かなきゃ忘れてしまう」ということだった。
 で、大事なこと(立派なこと)でも、つまらないことでも同等に忘れ去ってしまう、と。
 当然、せめて「大事なことは忘れたくない」。
 だから書き留めて置かなきゃとなるのだけれど、それでも書かないで過ごして忘れてしまって「逃した魚は大きい」、で後悔する。

 「何故なんだろう」、と途切れそうな記憶の糸を手繰ってみた。
 そこで気が付いたのが「大事なこと(立派なこと)」と「つまらないこと」の判断基準はどうだったのか、ということだった。
 実は判断基準そのものが曖昧だったのではないか。(だから、頭の中だってゴミ屋敷になるのではないか)
 更には基準を設定するための基準、言い換えれば教養、みたいなもの自体に問題があったのではないか。
 柔道の、或いは剣道の日本選手権大会の審判を幼稚園児がやる、みたいなことをしていたのではないか。是々非々の段階は限りなくある。

 だったら、やっぱり「今の時点の考え方」で書き留めるしかないのだから、四苦八苦して、とにかくは書き留めておこう。その上で後に見直してみよう。
 生きている間に見直す時間がない、と分かったら焼き捨てるも良し、大量のゴミとして処分されるも良し。

 もしかしたら後世に大恥を晒すことになるかもしれない。
 けど、もしかして、ホントにもしかして、その中に砂金の一粒でも混じるかも。
 それはない?

 いやいや、人間(じんかん)、何があるか分かりませんよ。
 
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禁煙を破った夢

2020年06月23日 | 重箱の隅
2015.10/11 (Sun)

 タバコを喫っていて、ふと気が付いて
 「あ、禁煙してた筈なのに」
 、と思う。
 そして、何気なく胸のポケットを見ると、ちゃんと煙草の箱が入っていて、それが半分近く減っていて、
 「ああ、そんなに前から、気づかないで禁煙を破ってたんだな。挫折だな、カッコ悪い」
 、などと思う。

 起きて数十分経ってから、そんな夢を見ていたことを思い出す。
 そして、改めて「カッコ悪い」「未練たらしい」、などと思う。
 「まだ喫いたいと思ってるのか、情けない」。

 タバコをやめて十年近く経った頃、まだ時折そんな夢を見た。
 時折ながら、そんな夢を繰り返し見るうちに、起きると同時にタバコを喫っている夢を見ていたことを思い出すこともあり、そんな時には決まって喉の調子が悪いことに気が付いた。

 おかげで、
 「未練からタバコの夢を見る」、或いは「喫いたくなって喫っている夢を見る」
 のではなく、
 「タバコを喫っていた時の喉の状態に近い感触を覚えた時、タバコを喫っている夢を見るのではないか」
 と思いついた。
 タバコに関しては、止めてから三十年余り経った今、さすがにそんな夢を見ることはなくなった。

 ベッドから落ちる一瞬の間に長い夢を見た人がいるそうだが、これも実は本末が転倒しているのかもしれない。
 意図して夢を「見る」のではなく、記憶を呼び起こすだけの話ではないか。
 落ちてから夢の目次を作り、目が覚めてから目次通りに記憶で話を紡ぎ出している可能性が高い。

 そう考えると、何故「いろいろな準備ができてなくて慌てふためく夢」を見るのか、というのも、今現在の生活の中で、「やらなければならない何か」が常に心に引っ掛かっていて、ということなのかもしれない。

 年金暮らしでそんな「常に心に引っ掛かっているもの」、なんてことがあるものか、とも思ったりするが、逆に、だからこそやりたくてもやれない、或いは、やらなければと思いながらも手を付けず、徒に時を過ごしていることなんかが原因では、ということを考える。

 優雅な年金暮らしといっても、安心できるほどの金が常に手元にあるわけではない、いくら焦っても、働いていた頃の数分の一の金が、それも二ヶ月に一度しか入ってこない、ということなんか、その最たる原因だろう。
 現実問題、食費がほとんどで、それも外食なんかしていたらとてもじゃないけど首が回らなくなるから、全て自炊、ということにして、やっとこれ、だ。
 
 別な理由は?と考えると、もう一つあった。
 「日記を書かなきゃ」「ブログの下書きを作って置かなきゃ」、という強迫観念(大袈裟だけど)もそれなんじゃないかと思う。
 時間はたっぷりあるのに「色々な事情」にかまけてなかなか取り組めない。
 けれど、その焦りの基になる「色々な事情」というやつが、世間一般には通用しない、或いは「何、甘えてんだ」、と蔑笑されかねないものだったとしたら。

 そういう風に書きながら考えてみると、
 「じゃあ、何ができるのだ?」
 というところまでは辿り着く。

 こうやって日記に書いてみれば、徐々に見えてくるものがある。
 急かされて、強迫観念に駆られて、
 「今、何かをしなければ!今、行動し、声を挙げなければ!」
 などといくら焦ったって、作り上げた能力を持たない者にできることとは一体何か。

 気が付いたのなら、はやる心を抑えつつ、地道に実力を作ることに力を注ぐことしかないのではないか。
 思いついたその瞬間から、日記の一行、腕立て伏せの一回、素振りの一つでも始めることが大事なのではないか。

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続きみたいなもんです。

2020年06月23日 | 心の持ち様
2015.10/10 (Sat)

 先日来書いている日記の続きみたいなものです。

 もう二ヶ月ほども前になりますか、「そこまで言って委員会」で、百地章教授が
 「一点突破をするしかない。それは緊急法の設置だ」
 といったようなことを話されているのを聞いて、
 「同じ仕組みしかないんだな、何かを変えるという時は」
 、と思いました。

 改革というのは焦点を絞らなければうまくいきません。
 あれもこれもと手を出せば、力が分散されてしまってなかなか効力を発揮できない。
 当然、、周辺から文句が出ます。
 「何だ、えらそうなこと言って。何一つできてないじゃないか」

 そんな雑音を聞き流して取り組むうち、一箇所でも効果が出てきたとします。

 そうなると周辺は文句を言わなくなるか。そんなことないですよね。 
 効果が出てきたことを褒めないまでも、せめて認めるくらいしてくれりゃいいのに
 「お前だっていくら注意したって、聞こえないふりをしていただろう。仕返しに無視ぐらいされて当然だ」
 と言わんがばかりの態度。努力を全く認めてくれない。

 それでも、敵対勢力なんだからしょうがない、と思えば辛抱もできる。
 腹が立つのは
 「自分たちが本流であって、本当ならその改革は自分たちがやる筈のものだったんだ、それをパクりやがって」
 みたいな態度の仲間顔の人々。あ、脱線しました。

 GHQによって廃止されてしまった紀元節を、「建国記念日」という名前で改めて祝日としようとしました。
 その際、国会では野党議員が猛反対し、あろうことか史学会も皇族を後ろ盾にそれに反対した。

 田中卓博士が「建国記念日」に「の」を入れて、「建国記念の日」とすることで 「日付の特定に意味はないのだ」という正論を吐いて、とにかくは紀元節復活の道を拓いたことは、この「一点突破」の実例です。
 神武天皇の実在を「実証する遺物がない」として、否定する史学会の考えを、「実証」ではなく「論証」することによって沈黙させた。これもまた一点突破。

 「考え方」のない、「感じ」を「考え」だ、と思い込んでいる人々を納得させるには、何となく「感じ」を変えていく(アハ!体験の徐々に絵が変わっていく、みたいな?)か、そうでなければ「『考え方』を一点から教える」、しかないのかもしれません。

 「物事はゲームのように頻繁にリセットすることはできない」
 、と得心しながらも
 「憲法を改正することが先だ」
 、だとか
 「憲法を守れ!」
 と騒ぎ立てるのは、実は何でも
 「うまくいかなければリセットするしかない」
 と、考えることを初めから諦めているからなのではないかと思います。


 こんなことを書きながら、以前、知人に「見る目を養う方法」について話したことを思い出しました。
 「結局一点からやるしかない、一点を見詰めることからしかできることはない。何故なら見詰める目、取り組む力自体が、初めはないのだから」。


 一点を見詰める意志、取り組もうとする意志。
 それで以て力を集中して考えること、考え続けること、によって能力はついていきます。
 決してデモの「コール」とやらでは「能くする力」はつかないんじゃないでしょうか。

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日記を書く

2020年06月23日 | 心の持ち様
2015.10/09 (Fri)

 七月に書いた日記を読み直してみた。
 その中で、ブログに残しておこうと思ったものを一つ。

 これまで思ってきたことについては、「広く浅く」一通りは日記に書いてきたのじゃないかなと思う。
 勿論、中には何度も繰り返し、付け足しながら転載し続けたものもある。
 当然のことながら、転載で間に合わず、付け足しがどんどん長くなってしまったり、ちょっとでも踏み込もうとして数回連続になってしまう、なんてこともあった。
 そういうことを何度か繰り返すと、訪れる人は激減する。

 訪れる人が激減しても、踏み込んだ泥沼から抜け出すことができず、そこでもがくものだから、余計に訪れる人はなくなり、自身も考えに行き詰まってしまって書けなくなる。絵にかいたような悪循環だ。

 それなりに定まった方向のあるSNSというのは、出発時点で訪れる人は限定されている。
 日記などもそれなりの特殊な読まれ方をされるだろうし、考え方ではなく、一資料として流し見されることも多いだろう。
 そうなるとそれなりの手応え、或いは入手できるものを得たと感じたら、いくらもしないで離れていってしまう。もう用はない、というわけだ。

 で、みんな一言居士、となってしまって、それで終わり、となる。
 でも、一体何のためにブログを書いてるんだろう。
 「一言居士」が「上がり」、か。その先はないのか。

 「一言居士」の「一言」で、「考え」は伝わるのか。訪れた人に「考え方」は了解されているのか。訪れた人に伝わる筈の「考え」、の基にある「考え方」はいつ伝えたのか。

 「考え」を提示し、「何故ならば」と、繰り返し「考え方」を説かねば、「考え方」は了解(理解)できないし、それができなければ、「考え」がまともに伝わる筈もない。

 批判はするけれども、「考え方」という物差しは提示しない(結論だけを繰り返す)。それでは非難と区別できない。全く生産的でない。「考え方」を提示し続けなければ「考え」を伝えることなんてできない。

 デモで政治を変えよう(=考えを伝えよう)ではなく、集会で話し合おう、或いは文章を書こう(=考え方を理解しよう)でなければ、何も変わらない。


 そう思って今日も日記を書く。
 訪れる人はますます減っていく。
 う~ん、困ったなあ、何かいい方法はないかなぁ~~。
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