2015.10/12 (Mon)
当たり前のことだが、書いておかなければ、いずれ忘れてしまう。
60もいくつか(もうすぐ二つ)過ぎると、いずれどころか数分前に考えたことや思いついたことだって、呆れるくらい見事に、すぐ忘れてしまう。
そしてそれはどんな立派なこと(自分で言ってりゃ世話ないけど)でも、どんなつまらないことでも、一緒だ。
「毎日一冊、本を読む」、というのは凄いと思っていたけど、先日テレビを見ていたら、「毎日20冊以上、時には本代が月に百万以上かかる」という男が出ていた。
竹下総理の孫「DAIGO」じゃない方、の「DaiGo」という人物だ。
日に一冊、どころか月に一冊読むかどうか、という者からすれば、
「毎日一冊、なんて本の意図が読み取れる筈がなかろう。どうせ中身の薄い本か、理解度の低い者のすることだ」
と悔し紛れに憎まれ口をたたくのが平常運転の処理法なんだけど、
「日に20冊」
なんてことになると、そんな憎まれ口さえたたけない。
けど、同時に思い始めた。
「読むのは主に専門書だ」
と言っていた。
それこそ更に想像力の範囲を超える話なんだけれど、彼は
「本の中にある情報量というのは20%足らず」
とも言っていた。
それを自身で作った速読術を用いて二十分間読み、5分の瞑想の時間を持ち、の繰り返しで、「一日20冊」。
これは「専門書を!」じゃなくて「専門書だから(専門書として)読める」ということなのだろう。
専門書には「読み方」がある。専門書に「味読」は必要ない。
そして、「読み方」というのは「考え方」と重なる「型式」そのものなのだから、そこから新しい「考え方」を見出す必要はない。
つまり「速読で心が動かされ(感動、ですね)、思わず涙を流す」、なんてことはない。そんな暇はない。
そうならば「連続で20分集中、5分瞑想という形で以て一日20冊読破」ということは訓練次第でできないことではないのだろう。現実、やっている人間が、自ら言っているのだから。
とは言え、それは大変なことであり、尊敬すべき「生き方」であることに変わりはない。だからと言って、かれを天才扱いすることは、「それは違う」と言える。イチロー選手が天才ではないように。
いきなり話がずれてしまったが「書かなきゃ忘れてしまう」ということだった。
で、大事なこと(立派なこと)でも、つまらないことでも同等に忘れ去ってしまう、と。
当然、せめて「大事なことは忘れたくない」。
だから書き留めて置かなきゃとなるのだけれど、それでも書かないで過ごして忘れてしまって「逃した魚は大きい」、で後悔する。
「何故なんだろう」、と途切れそうな記憶の糸を手繰ってみた。
そこで気が付いたのが「大事なこと(立派なこと)」と「つまらないこと」の判断基準はどうだったのか、ということだった。
実は判断基準そのものが曖昧だったのではないか。(だから、頭の中だってゴミ屋敷になるのではないか)
更には基準を設定するための基準、言い換えれば教養、みたいなもの自体に問題があったのではないか。
柔道の、或いは剣道の日本選手権大会の審判を幼稚園児がやる、みたいなことをしていたのではないか。是々非々の段階は限りなくある。
だったら、やっぱり「今の時点の考え方」で書き留めるしかないのだから、四苦八苦して、とにかくは書き留めておこう。その上で後に見直してみよう。
生きている間に見直す時間がない、と分かったら焼き捨てるも良し、大量のゴミとして処分されるも良し。
当たり前のことだが、書いておかなければ、いずれ忘れてしまう。
60もいくつか(もうすぐ二つ)過ぎると、いずれどころか数分前に考えたことや思いついたことだって、呆れるくらい見事に、すぐ忘れてしまう。
そしてそれはどんな立派なこと(自分で言ってりゃ世話ないけど)でも、どんなつまらないことでも、一緒だ。
「毎日一冊、本を読む」、というのは凄いと思っていたけど、先日テレビを見ていたら、「毎日20冊以上、時には本代が月に百万以上かかる」という男が出ていた。
竹下総理の孫「DAIGO」じゃない方、の「DaiGo」という人物だ。
日に一冊、どころか月に一冊読むかどうか、という者からすれば、
「毎日一冊、なんて本の意図が読み取れる筈がなかろう。どうせ中身の薄い本か、理解度の低い者のすることだ」
と悔し紛れに憎まれ口をたたくのが平常運転の処理法なんだけど、
「日に20冊」
なんてことになると、そんな憎まれ口さえたたけない。
けど、同時に思い始めた。
「読むのは主に専門書だ」
と言っていた。
それこそ更に想像力の範囲を超える話なんだけれど、彼は
「本の中にある情報量というのは20%足らず」
とも言っていた。
それを自身で作った速読術を用いて二十分間読み、5分の瞑想の時間を持ち、の繰り返しで、「一日20冊」。
これは「専門書を!」じゃなくて「専門書だから(専門書として)読める」ということなのだろう。
専門書には「読み方」がある。専門書に「味読」は必要ない。
そして、「読み方」というのは「考え方」と重なる「型式」そのものなのだから、そこから新しい「考え方」を見出す必要はない。
つまり「速読で心が動かされ(感動、ですね)、思わず涙を流す」、なんてことはない。そんな暇はない。
そうならば「連続で20分集中、5分瞑想という形で以て一日20冊読破」ということは訓練次第でできないことではないのだろう。現実、やっている人間が、自ら言っているのだから。
とは言え、それは大変なことであり、尊敬すべき「生き方」であることに変わりはない。だからと言って、かれを天才扱いすることは、「それは違う」と言える。イチロー選手が天才ではないように。
いきなり話がずれてしまったが「書かなきゃ忘れてしまう」ということだった。
で、大事なこと(立派なこと)でも、つまらないことでも同等に忘れ去ってしまう、と。
当然、せめて「大事なことは忘れたくない」。
だから書き留めて置かなきゃとなるのだけれど、それでも書かないで過ごして忘れてしまって「逃した魚は大きい」、で後悔する。
「何故なんだろう」、と途切れそうな記憶の糸を手繰ってみた。
そこで気が付いたのが「大事なこと(立派なこと)」と「つまらないこと」の判断基準はどうだったのか、ということだった。
実は判断基準そのものが曖昧だったのではないか。(だから、頭の中だってゴミ屋敷になるのではないか)
更には基準を設定するための基準、言い換えれば教養、みたいなもの自体に問題があったのではないか。
柔道の、或いは剣道の日本選手権大会の審判を幼稚園児がやる、みたいなことをしていたのではないか。是々非々の段階は限りなくある。
だったら、やっぱり「今の時点の考え方」で書き留めるしかないのだから、四苦八苦して、とにかくは書き留めておこう。その上で後に見直してみよう。
生きている間に見直す時間がない、と分かったら焼き捨てるも良し、大量のゴミとして処分されるも良し。
もしかしたら後世に大恥を晒すことになるかもしれない。
けど、もしかして、ホントにもしかして、その中に砂金の一粒でも混じるかも。
それはない?
いやいや、人間(じんかん)、何があるか分かりませんよ。
けど、もしかして、ホントにもしかして、その中に砂金の一粒でも混じるかも。
それはない?
いやいや、人間(じんかん)、何があるか分かりませんよ。