2015.10/27 (Tue)
神戸が「ファッション都市宣言」、なるものをして、もう何年になるだろうか。
「ファッション都市」という言葉を目にして「何とも軽薄なことを」と、思ったものだが今調べてみて驚いた。
何と、宣言の出されたのは1973年(昭和48年)なんだそうだ。もう四十年以上昔のことだ。私が神戸に就職する三年も前のことだ。高校卒業してすぐ、みたいなもんじゃないか!
軽佻浮薄の代表みたいなものが「ファッション」だ。
つい最近(・・・は言い過ぎだけれど)、四十代前半まではそんな風に思っていた。
何しろファッション雑誌というやつが何ともいかがわしい。
男のファッション誌だって出ているモデルはチャラチャラしてるし、掲載されている時計や、靴、洋服、時には車なんかも、とてもじゃないけど普通の独身男に買えるような金額ではない。
そんなものを得意気に身に着け、着飾って東京の街中を用もなく歩き回っている若い同年代の男どものスナップ写真が、そんな雑誌には必ず出ていたが、いつも正視できないくらい醜い、と思っていた。
姿かたちに関しては百歩譲るとしても、一様ににやけた彼らの表情には全く我慢がならなかった。
女性誌だって似たようなもんだ。訳の分からないカタカナ語が氾濫していて、意味が分からないから、と思って辞書を引いたって分かりゃしない。当然だろう、新造語で、それも英語とフランス語のちゃんぽんだったりするんだから。分かるかい、そんなもん。
以前書いた「~はマストである」みたいな、みょうちきりんな言い回しや、スウェットシャツを「トレーナー」だとか、ジャケットとパンツを「ジャケパン」、「スリップオン」を「スリッポン」、みたいな、「トレーナー」はともかく、あんまり浅はかな略し方にはどうも生理的に嫌悪感を持ってしまう。
一番腹が立つのは以前は「シロガネーゼ」だったけど、今は「きれいめ」だ。「きたなめ」の商品はあるのか!・・・あ、「きたなめ」、ってのは古着のことか?
ちょっと取り乱しました。失礼しました。
とにかく「カッコいい」、とか「おしゃれ」とかいう言葉は害悪そのもの、「男は黙って○○ビールだ!」
ん?古過ぎました?何しろ三、四十年前の話ですから。
そんな風だったから、「ファッション」、というと何となし、「外面だけを取り繕うこと」、或いは「流行に流される」みたいな印象を持っていた。そんなだから、第二の故郷となるはずの「神戸」が「ファッション都市宣言」とは何ちゅうこっちゃ!
「ファッション」に比べたら「スタイル」の方がよっぽどカッコいい。実際、「生活スタイル」とか「あれがあの人のスタイルだ」、なんていう言葉には、何となく「一目置いてます」みたいな響きがあった。
しかし、今になってみると、この考え方は大いに間違っている、いや、根本的に間違っていたんじゃないか、と思う。
「スタイル」の方がよっぽど浅はかな考え方なんじゃないか。
というのは、「スタイル」というのは、既に確立された考え方による「方策」であって、そこには既に個々の創意工夫や、他者との交流から何かを学び取る、又、互いに高め合う、といった「向上心」が感じられないからだ。「スタイル」とは、つまり、「彼の」、「彼女」のマニュアル、でしかない。
対して「ファッション」は、「彼の」、「彼女の」追求姿勢であって、そこには間違いなく留まることを潔しとしない、向上の心がある。
そして、それは今を否定すること(革命)ではなく、今を足場として上へ、という進化を目指している。本当の保守と言い換えてもいい。
個々の「追求姿勢」には他者から何かを取り入れようという姿勢もある。自分なりに自分を高めていこうという姿勢もある。また、気づかず、他者に何か(刺激等)を与え、他者を変えていくこともある。
何かに引っ掛かり、悩むことも、また、それについて真剣に考えることも。
神戸市は「衣・食・住、そして遊」をファッション、とした。
外面ではなく、その内面を見れば「ファッション都市宣言」とは「果てしない向上を目指す都市宣言」となる。
何のことはない、「立派な日本人になることを(個々人が)目指す」のと同じではないか。
神戸は決してちゃら男ではない、ということだ。
神戸が「ファッション都市宣言」、なるものをして、もう何年になるだろうか。
「ファッション都市」という言葉を目にして「何とも軽薄なことを」と、思ったものだが今調べてみて驚いた。
何と、宣言の出されたのは1973年(昭和48年)なんだそうだ。もう四十年以上昔のことだ。私が神戸に就職する三年も前のことだ。高校卒業してすぐ、みたいなもんじゃないか!
軽佻浮薄の代表みたいなものが「ファッション」だ。
つい最近(・・・は言い過ぎだけれど)、四十代前半まではそんな風に思っていた。
何しろファッション雑誌というやつが何ともいかがわしい。
男のファッション誌だって出ているモデルはチャラチャラしてるし、掲載されている時計や、靴、洋服、時には車なんかも、とてもじゃないけど普通の独身男に買えるような金額ではない。
そんなものを得意気に身に着け、着飾って東京の街中を用もなく歩き回っている若い同年代の男どものスナップ写真が、そんな雑誌には必ず出ていたが、いつも正視できないくらい醜い、と思っていた。
姿かたちに関しては百歩譲るとしても、一様ににやけた彼らの表情には全く我慢がならなかった。
女性誌だって似たようなもんだ。訳の分からないカタカナ語が氾濫していて、意味が分からないから、と思って辞書を引いたって分かりゃしない。当然だろう、新造語で、それも英語とフランス語のちゃんぽんだったりするんだから。分かるかい、そんなもん。
以前書いた「~はマストである」みたいな、みょうちきりんな言い回しや、スウェットシャツを「トレーナー」だとか、ジャケットとパンツを「ジャケパン」、「スリップオン」を「スリッポン」、みたいな、「トレーナー」はともかく、あんまり浅はかな略し方にはどうも生理的に嫌悪感を持ってしまう。
一番腹が立つのは以前は「シロガネーゼ」だったけど、今は「きれいめ」だ。「きたなめ」の商品はあるのか!・・・あ、「きたなめ」、ってのは古着のことか?
ちょっと取り乱しました。失礼しました。
とにかく「カッコいい」、とか「おしゃれ」とかいう言葉は害悪そのもの、「男は黙って○○ビールだ!」
ん?古過ぎました?何しろ三、四十年前の話ですから。
そんな風だったから、「ファッション」、というと何となし、「外面だけを取り繕うこと」、或いは「流行に流される」みたいな印象を持っていた。そんなだから、第二の故郷となるはずの「神戸」が「ファッション都市宣言」とは何ちゅうこっちゃ!
「ファッション」に比べたら「スタイル」の方がよっぽどカッコいい。実際、「生活スタイル」とか「あれがあの人のスタイルだ」、なんていう言葉には、何となく「一目置いてます」みたいな響きがあった。
しかし、今になってみると、この考え方は大いに間違っている、いや、根本的に間違っていたんじゃないか、と思う。
「スタイル」の方がよっぽど浅はかな考え方なんじゃないか。
というのは、「スタイル」というのは、既に確立された考え方による「方策」であって、そこには既に個々の創意工夫や、他者との交流から何かを学び取る、又、互いに高め合う、といった「向上心」が感じられないからだ。「スタイル」とは、つまり、「彼の」、「彼女」のマニュアル、でしかない。
対して「ファッション」は、「彼の」、「彼女の」追求姿勢であって、そこには間違いなく留まることを潔しとしない、向上の心がある。
そして、それは今を否定すること(革命)ではなく、今を足場として上へ、という進化を目指している。本当の保守と言い換えてもいい。
個々の「追求姿勢」には他者から何かを取り入れようという姿勢もある。自分なりに自分を高めていこうという姿勢もある。また、気づかず、他者に何か(刺激等)を与え、他者を変えていくこともある。
何かに引っ掛かり、悩むことも、また、それについて真剣に考えることも。
神戸市は「衣・食・住、そして遊」をファッション、とした。
外面ではなく、その内面を見れば「ファッション都市宣言」とは「果てしない向上を目指す都市宣言」となる。
何のことはない、「立派な日本人になることを(個々人が)目指す」のと同じではないか。
神戸は決してちゃら男ではない、ということだ。