CubとSRと

ただの日記

下品だって言うけれど、今に始まったことじゃない。(続き)

2020年06月06日 | 重箱の隅
2012.10/03 (Wed)

 我々日本人は、あの下品な横車押し(彼の国の正心誠意)に、どのように対すれば良いのか。
 少なくともアサヒの言う様な「挑発せず、挑発に乗らず。あおらず、そして決然と」「平和国家の矜持を以て事を運ぶ」、つまり「緊張感を以て注意深く見守るばかりで何もしない」、なんてすっとこどっこいな対応をすべきではない。
 などと書いて、終わっていました。

 あのあと、例のみの氏の朝のワイドショーで、氏はこんなことを言ってました。
 「何だかねぇ、中国は中国語で堂々と演説してましたけど、日本は英語で自信がなさそうなしゃべり方で。あれはどうなんですかねえ」
 みの氏、どうも「相手は中国語で、堂々とやっているのに、日本は何で英語なんだ!負けずに日本語で堂々とやれよ。そんなで毅然とした態度なんて言えるのか!」、みたいなことを言いたかったんでしょうね。

 あの瞬間、同じことを思った人、いるんじゃないでしょうか。
 私は、物知らずだから、あの瞬間「通訳入れてでも、日本語で気合入れて喋れよ」と思いましたよ。勿論間が悪くなるから、「意見を戦わせる」という場としたら、不利になりますけど。
 ところが思ったと同時に、コメンテーターの誰かが、「中国語は国連の公用語なんですよ。英語と中国語とフランス語と~。日本語は公用語じゃないから、通訳をつけなきゃならない。その分、時間がかかるから、議論では不利なんです」と説明した。
 みの氏、続けて「日本!しっかりしろ!」と言いたかったんだろうけど、言えない。知らなかったんでしょうね、やっぱり。私と一緒で。相撲の「裾払い」掛けられた気分だったでしょう。

 それでもめげずに「あの英語はどうなんですかね」と、
「あんまり上手じゃないから、どうだかね」みたいなコメントを引き出そうとしたんですが、「いや、あの英語はなかなかのものですよ」と言われて、遂に撃沈。
 私はと言えば、「そうか。公用語か。でも、英語が公用語と言うのは分かるけど、何で中国語が公用語なんだ!常任理事国だからか!後から割り込んで居座ってエラそうに!」と思い、次の瞬間「あ、でも、仕方がないか。人口の5人に1人はシナ人なんだからなあ」と気が付きました。
 そして、またまた次の瞬間、「フランス語は?」・・・・我ながら諦めが悪い。

 調べてみたら、国連の公用語は、これ以外にアラビア語やスペイン語もあるんだそうですね。北アフリカから西アジアにかけてはアラビア語が多く、アメリカ大陸の南半分はほぼスペイン語だし、アフリカの多くはフランス語。
 結局、力づく(占領、植民地化)の後は、それが共通語となり、今は何の問題もなくそれぞれの地で使われている。何だか割り切れないものを感じます。やっぱり国連って力づくなんですね。

 さて、「外交の極意」の続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 政治家の秘訣は、何もない。ただただ「正心誠意」の四字ばかりだ。この四字にてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心服しないものはないはずだ。また、たとえいかなる無法の国でも、故なく乱暴するものはないはずだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 確かに。隣国の此の度の乱暴にも、ちゃんとした理由があった。あの乱暴は政治家自身が我が身と共産党を守るために行わせたんでした。
 そして国際問題として見た場合、「正心誠意」は彼の国にも、我が国にも、あったとは言えない。逆に策を弄したことばかりが目立つ。
 今朝の「特ダネ!」で言ってましたが、あの時破壊されたホテルは緊急に修復が続けられているそうです。
 しかしホテルに問い合わせると、今、やってるのはただの改築で、破壊されたからではない。デモ隊だって、ホテルには来なかった、とか。

 ネットにあれだけ破壊行為の動画が流出しているのに、なかったことにしようとしている。
 天安門事件の時、学生が戦車に轢き殺されて破裂し、シャツとズボンだけが路面に張り付いている写真があっても、そんなことはなかった、誰一人として死んでいない、とNHKは数年前に「北京放送局日本支社」の面目躍如の番組をつくってましたね(クローズアップ現代)。

 勝海舟はこう言っています。

○外交の極意は、「正心誠意」にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
 維新前に岩瀬(忠震ただなり)、川路(聖謨としあきら)の諸氏が、米国と条約を結ぶときなどは、五州(世界)の形勢が、諸氏の胸中によくわかっていたというわけではなく、ただ知ったことを知ったとして、知らぬことを知らぬとし、正心誠意でもって、国家のために譲られないことは一歩も譲らず、折れ合うべきことは、なるべく円滑に折れ合うたものだから、米国公使(ハリス)もつまり、その誠意に感じて、のちには向こうから気の毒になり、相欺くに忍びないようになったのさ。

  「外交の極意は正心誠意」  (勝海舟  氷川清話より)


 「誤魔化しなどをやりかけると、却って、こちらの弱点を見抜かれる」

 確かにその通り。だけど、奇手奇策とまではいかずとも、少しでも有利な条件を、と種々の策を弄するのは、昔も今も同じこと。
 海舟だって、自分で「おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともない」と白状している。
 それでも尚且つ「誤魔化しなどはやらぬ方が良い」と言っている。

 「おれだって、ことに処して多少の権謀を用いないこともない」
 という文は、江戸城明け渡しに関する西郷との談判のことで出て来ます。
 同じ「氷川清話」の「古今の人物について」という項目中、「西郷隆盛の人物」という文中にあります。

 「西郷の至誠は、おれをして相欺くことができなかった。」
 (有利に運ぶために)権謀を用いようとは思ったけれど、させてくれなかった(できなかった)。それをやれば、この人に腹を見透かされてしまう。
 「欺いてやろうとすると、却って墓穴を掘ることになる。これは至誠を以って応ずるしかない」

 我を捨ててかかるしかなかった。「有利に運ぼう」なんて小刀細工をやれば、あちこち綻びが出てしまう。「絶対に譲れないものは何か。」

 海舟にとって絶対に譲れないもの。それは、幕臣として、慶喜公の命を守ること。そして、江戸を守ること。江戸を守れば国を守ることになる。

 外国に対して、「外交の極意は正心誠意にあるのだ」と言っているんですが、そういうわけで、実はこの言葉、額面通りに受け取っちゃならない、と思うんです。

 これだけ見たら「正心誠意でやれば通ずる。うそ、偽りなんかあっちゃなんねえ」と言っているみたいでしょう?
 でも、よく見ると
 「外交の極意は正心誠意にあるのだ」
 とは書いてあるけれど、
 「正心誠意でやれば通ずる」
 なんて書いてないでしょう?
 「通ずる」なんて思ってない。価値観が違うのですから。
 そこをうまくやるためには、どうしたら良いか。

 長々と書きましたが「正心誠意」を以ってすれば、
 「その誠意に感じて、後には向こうから気の毒になり、相欺くに忍びない(と向こうが思う)ようになる」
 、のだ、と最後にちゃんと書いてある。

 肝腎要のところは、うそ偽りなく接していれば、
 「欺いてやろう、騙して自国(おれ)の有利になるように」と、やっている相手(国)が、
 「何だか気の毒だ。それに、こんな人の好い奴(国)をだまくらかす、なんて、おれ(我が国)は自分が卑しい、泥棒見たいな気がしてきた」と思うようになる、と言っている。
 本当に人が好いと言うか何と言うか。「人の悪い」海舟で、これです。

 実際、日本は悪の限りを尽くした、とか周辺の国々に無理難題をふっかけた、というわけではない。でも、「いや、日本は悪い国だ。そういうことをいっぱいしてきたんだ」と、国内外には声高に主張する人もいる。

 けれど、百万歩譲って、そうであったとしても、必死になって
 「正心誠意、ことに処していれば、必ず分かってくれる(後には向こうから気の毒になり相欺くに忍びないようになってくる)。」
 それでも頑固に「いや、何が何でも日本が悪いんだ!」と言い張る国内外の人は、遂には世界中から逆に非難され始める・・・・・・・、と。

 「そんな甘いこと言ってるから」?
 「正心誠意」を旨とする外交と、百年は遅れているという、日本の今の外交と。
 どっちが「甘い」んでしょう?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 一見、アサヒ新聞の言通り、
 「挑発せず、挑発に乗らず。あおらず、そして決然と」「平和国家の矜持を以て事を運ぶ」、つまり「緊張感を以て注意深く見守るばかり」
 が、良い、と言ってるように見えるかもしれません。

 でも、これ、心根が、いや、覚悟が全く違っているでしょう?
 「挑発」だとか「決然と」だとか「「平和国家の矜持」だとか、ここにあるの、ただの社会のマナーじゃないですか。エチケットかもしれない。
 海舟の言っているのは、「正心誠意」、です。つまり「一所懸命」。「命懸け」。「必死」。
 相手も「彼らなりの」正心誠意で日本の領海に侵入してくる。
 対して、日本の正心誠意は?
 今、海上保安庁だけが、日本の「正心誠意」を実践しています。
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下品だって言うけれど、今に始まったことじゃない。

2020年06月06日 | 重箱の隅
2012.10/02 (Tue)

 先日の国連でのシナの演説。

 「日本が尖閣諸島を盗んだ」という言い方を、六回も七回もやったんでしたね。
 あの時、さすがのテレビ局も「あんな言い方はない」と批判し、出演したコメンテーターも「あまりにも下品だ」といったようなことを異口同音に述べていました。

 確かに国連の総会議場で、あんな物言いはないだろう、と思ったんですが、考えてみれば、無理もないことなのかもしれません。
 日本は「敵性国家」と称されたままの形で国際連盟ならぬ「国際連合」に参加し、今に至るまでその文言は抹消されていない。「敵性国家」のまま、です。

 それでも、参加してからは、「平和のために」と懸命に活動した。非常任理事国を一体何度引き受けてきたことか。拠出金だってアメリカに次いで巨額なんでしょう?
 でも、常任理事国入りは完全に否定された。「敵性国家」、ですからね。
 終戦時、日本はただ一ヶ国で世界中を敵に回して戦争をしていた、ということになるから、この「敵性国家」という言葉、「日独伊」の中でも日本が特に重くて、全世界が日本をいじめ続けているようなもんです。健気だねぇ~日本は。
 実質戦勝国のアメリカが拠出金は一番出すのは当たり前だけど、二番が「敵性国家」の日本、って罰ゲームみたいなもんじゃないですか。あ、また脱線してる。

 国際連盟と違って、国際連合というのは腕力で世界のバランスを保とうとした。だったら、敵性国家であろうがなかろうが、まずは「腕力」。腕力があれば大概のことは通る。「品」、なんか全く関係がない。
 でも、我々日本人はそういう考え方を嫌った。
 けれど、マスメディアや「識(?)者」は我々日本人にどう教えを垂れて来たか。

 昨年の五月末に書いた日記を、転載します。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「外交の極意は正心誠意」 「夕刻の備忘録」から

 「日本ダメ論」の手先になるな!と題する日記の抜粋です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 近隣諸国は好き勝手にやっている。大陸、半島、北の果て、何れも人の弱みに付け込んで、火事場泥棒よろしく自らの本性をさらけ出している。その性根の卑しさ、醜さは唾棄すべきものである。大震災で国家的な危機にある中、支援の口約束だけを免罪符に一人前の文化国面をする。僅かばかりの義捐金を差し出して、大きな顔でやってくる。
 (略)
 こうした問題が発生すると必ずマスコミから、「厳しい外交の場で云々」との発言が出る。どれだけ相手が卑劣な振る舞いをしても、「厳しい現実」の一言で終わりである。

 そして国民もまた、こうした論調に乗せられて、人の弱みに付け込み、相手国を凹ますことが外交であり、火事場泥棒もまた外交上手の表れであると肯定的に理解する。さらに、そのように理解しない人を説得までし、だから日本の外交も斯くの如くあるべきだと主張する。そしてそれが出来ない日本の外交を批判し、「日本ダメ論」のお先棒を担ぐのである。

 またしても相手にしてやられた、だから日本はダメなんだ、何時まで経っても日本は成長しない、本当の外交が出来ないと嘆くのである。しかし、こうした人達は自分達がどれほど倒錯した立場から発言しているか、ということを認識していない。

 「外交の本質」や「国際社会の常識」が、卑劣な火事場泥棒を少しでも肯定するものであるならば、そんなことを国民が一々知る必要はなかろう。その為に専門職があるのではないか。外交官や政治家、そして企業経営者が知っていれば済む話ではないか。

 何故我々一般国民までもが、そんな穢れた発想で生きなければならないのか。火事場泥棒を肯定したところで、日本がその清さを擲って、自らも火事場泥棒になれという訳でもあるまい。

   http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-566.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 数日前の記事ですから、ご覧になった方も多いでしょうが「日本人」として忘れてはならないこと、と思い、一部抜粋しました。

 つい先日、「島国根性」について
 「後ろ向きでおどおどした消極的な発想ではなく、実は極めて大らかで外向き、進取の気風に富む気質ではないか」と書きました。

 同じ視点で、「夕刻の備忘録」氏は、外交に対する最近の日本人の考え方は間違っていると書かれています。
 外交も同じく「相手の動向を気にする」のではなく、また相手のところまで「降りて行く」のではなく、自らのありのままの姿、ありのままの考え方のレベルで対するべきだ、下卑たやり方、卑怯なやり方に合わせるべきではないし、そんなやり方に対して「日本は外交の手腕がまだ幼い」なんて自虐的なことを言うのはやめようと書かれています。
 誇りを持って生き、でも、怒るべきところは怒る。

 さて、この「日本人の特質」は我々の先祖が営々として築き上げて来たものです。長年月の努力の結果です。精華と言っても良い。
 一般に、築き上げたものというのは壊すのは簡単ですし、否定するのも容易いものです。そしてそれを実行すると、もう一度築き上げるには今までに倍する大変な努力が必要なものでもあるのです。

 勝海舟は「外交の極意は正心誠意」と言いました。
 「誠心誠意」。「誠を以って本当の思いを」ではなく、
 「正心誠意」。「正しい(一つに徹した)心を持って、本当の思いを」です。
   
   「そんな甘いこと言ってるから」(後)(11・4・21の日記)
 

 「外交の極意は正心誠意」
 自らの思いをまっすぐに相手に伝える。
 ただでさえ、国が違えば言葉も違う、風俗習慣も、考え方はともかく、感じ方なんかは全く違う。基本的に、相手はみんなそうです。
 だから、どれだけその国の言葉に堪能であっても、色々言ってあれもこれもとやって「微妙なニュアンスも分かってくれ」、と言ったって、それはどだい無理な注文であること。通訳が一人、間に入っていることを考えれば分かりそうなものです。
 じゃあ、自身がその国の言葉に堪能だったら?それだって同じです。
 それぞれの国の文化の中で、それぞれの国の文化を背骨として育って来ているのです。微妙なところまで分かれと言ったってそれは無理。
 それに、言葉には堪能であっても、白洲次郎のような気概と識見を持っているような人物は、そうそういるものではない。

 先日のTBSの報道特集。鹿児島の有名な坊さんが対面していた北朝鮮の高官。いきなり咳き込んで、しばらくしてから平壌でも、放射性物質が検出されたと、いかにもそのせいで、自分は具合が悪くなり咳き込んだのだと言わんばかりの態度。
 お笑い種ですが、「そんなバカな」とその場では突っ込めないでしょう?
 それをやったら、相手は、「ただ咳をしただけなのに、何だその言い種は!事の重大さを誤魔化すのか!」と逆捩じを食らわせて来る。
 そんなやくざの因縁付け紛いのことまでやってくるのが外交です。「備忘録」氏の書かれている通り、それをマスコミは「厳しい外交」と言って、倣うべきだと言う。
 しかし、それ(やくざ紛いのやり方)は、言い方を変えれば、彼(彼の国)の「正心誠意」なんじゃないでしょうか。「必死なんですよ!」ということでしょう?
 とにかく日本に「経済制裁を解除してほしい。」それを言いたい、お願いしている。

 でも、日本の「正心誠意」は違う。

 そこを考えたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 では、我々日本人は、あの下品な横車押し(彼の国の正心誠意)に、どのように対すれば良いのか。
 少なくともアサヒの書いていたような「同じ土俵で日本人が熱くなってもいいことはない」みたいなことではない。
 また、「挑発せず、挑発に乗らず。あおらず、そして決然と」とか「平和国家の矜持を以て事を運ぶ」、つまり「緊張感を以て、注意深く見守る、ばかりで何もしない」なんてすっとこどっこいな対応をすべきでもない。
 そんなことしてたら、間違いなく、尖閣と周辺の経済水域は数年以内に「盗まれてしまう。」

 第一、境界線上の海底油田、ガス田は、既に一方的に共同開発を打ち切られ、シナが勝手に採掘を始めている。メディアは何も言わなくなったけど。

                                (続く)

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「三バンみたいですが」

2020年06月06日 | 重箱の隅
2011.12/27 (Tue)

 これ、「職人衆昔ばなし」の日記の続編(?)みたいなものです。
 「職人衆~」の
時は、職人の言は言葉少なだけれど、見事に筋が通っていると思ったので書き散らしたんですが、今回はこれまた以前に読んだ「神田鶴八鮨ばなし」、から。

 この中で「土地・金・人」という言葉が出て来る。
 商売をする上で大事なのは、この三つ、この順なんだ、と書いてある。

 よく似た言葉に、ご存知、「地盤・看板・鞄」の「三バン」がある。政治家の話です。
 「集票のできる土地を持っていること」
 「その土地で顔が広いこと(親の七光りとか、名士とか)」
 「集票のための(選挙活動のための)金を持っていること」
 
 これらの言葉自体、何だかあんまり良い印象は受けなくなって来ましたが、
 「人々のために良かれと思って働く」ことは、政治家の本分。
 それはあって当たり前で、だから、そのためにこそ、この「三バン」が、必要なんだと言われて来た筈の言葉です。
 けれど、最近はその当たり前のことは全く話題にもならない。
 「当然のことだから」、という以前に「人々のために働く」ということ自体、忘れられているようだ。で、「三バン」の悪口ばかり。「三バン」がないのが美徳、と言わんばかり。
 でも、「三バンはない」、ただの就職口、知名度の高い職、と心得て、人々のために「働く気もない」議員なんて、最悪ですよ?
 だからって、「まずは三バンだ!『人々のために働く』、はそれからだ!」なんて言われちゃあどうにもならない。そんな党が政権与党となった日にゃあ国は滅亡の道をひた走りだ。民〇党を見りゃ分かる。
 あっ、脱線。

 でも、「三バン」には本来、ちゃんと、言うまでもない目的(人々のために働く)があるんだ、というところ、「土地・金・人」と共通している。
 鮨職人の言う「土地・金・人」というのは、まず、土地。「店を出す場所」なんだそうです。
 まあ、そうでしょうね。野中の一軒家に店を開いて人が集まるわけもない。車を持つ人が増えて行動範囲は広くなったけれど、酒の一杯でも、となったら、、誰も来ない。
 次が「金」。資金、じゃなくて、料金。
 ほどほどの値であること。僅かな儲けなんだから、多くの人よりも、繰り返して来てもらってこそ店、だ、と。馴染みの客が大事、というわけです。
 一見(いちげん)さんお断り、というのは、そういうことなんですよね。何もえらそうにふんぞり返っているんじゃあない。いつものお客さんに誠意を尽くしている時間を、一見さんに遣って、馴染みの客を不快にさせちゃいけない。馴染みの客の足が遠のけば、結局その先には心ならずも「閉店休業」が待っている。 結局は、みんなが一見さんの気紛れにつき合わされ、みんなが残念な思いをする。
 そして、最後が「人」。
 店の人(職人・使用人)の人柄が良いこと。
 愛想がいい、とか、お世辞が上手、話題が豊富とかいうことじゃない。客にまっすぐ(正直)に対すること、実直なことが一番だ、ということなんだそうです。
 客は愛想やお世辞を食べに来るのではない。ちゃんと仕事をした(下拵えをきちんとした)鮨を食べに来てくれるんだから。
 まじめな鮨(?)を食べに、馴染みになり、足繁く通ってくれるんであって、日によって、物によってムラがあったら来てくれなくなる。

 「あれ?何か抜けてるぞ!?」
 と思いませんでしたか?
 そうなんです。「職人の腕」はどうでもいいのか?

 ということで、脱線したことが復活です。
 政治家の「三バン」に入ってない、言うまでもない「人々のために働くこと」みたいに、職人の店の「土地・金・人」に入らない、言わずもがなのこと。
 それは、勿論「職人の腕」。
 「店を開いて、客から金、取って、物を食べさせる。腕があって当然だ。なけりゃ店なんか出すものじゃあない。あたりめえだろ?だから言わねえんだよ」

 こんなところでしょうか。
 先日録画していたNHKの「美の壷」。「浅草」編を見ました。
 幇間が出て来ました。
 「こんな言葉があります」
 と言って、
 「芸人に上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」
 という歌を諳(そら)んじてました。
 「土地の風に馴染まなきゃ。芸、以前の問題だよ」
 
 でもこれ、「上手、下手なんてどうでもいい」と言ってるんじゃないでしょう? 
 上手であって当然。だから「芸」なんだ。
 けれど上手でも芸として受け入れられてこそ、認められてこそ、なんだよ、「受け入れてもらってるから、『芸』なんだ」、と謙虚にならなきゃ芸の道はそれで終わりだよ。
 
 「腕がなけりゃ店なんか出すもんじゃねえ」という言葉にも「腕があると思ったら終わりなんだぞ」という言葉が隠れているようです。
 だから、ちゃんと仕事(手間暇をかける)をし続ける実直な鮨職人の腕は上がり続ける。これまた謙虚な話。

 日本の文化、ですねえ。 


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金(かね)がなくても良い物を

2020年06月06日 | 重箱の隅
2011.12/25 (Sun)


 「職人衆昔ばなし」(斎藤隆介)という本のことを思い出したので。

 以前にも日記に書いたんですが、「木のいのち 木の心」(西岡常一)という本を読んで、大変感銘を受けたことがあります。
 西岡常一という人の話したことを聞き書いたこの本、とんでもない本でした。

 法隆寺の大工(宮大工、と普通は言いますが、法隆寺の大工仕事は何でもやる大工なんだそうで、正式には「寺番匠」と言うんだそうです)として大変な腕を持つこの人は、大工の技はおじいさんに習ったものなんだそうです。

 当然、だから修業に出たことはない。弟子として、他人に飯を食わせてもらったことがない。ということは他人の中で揉まれて腕を上げたわけではない。
 更には「木のことを知るには農学校に行け」と言われて、学校は農学校にしか行ってない。
 建築の勉強を学校ではしていないわけです。おじいさんに習っただけ。勿論御明察、手を取って教えられるといったことはなし。見よう見まねです。見取り稽古、ですね。それで腕を上げる。
 にもかかわらず、考え方は言うまでもなく、口をついて出て来る言葉が一々見事に筋が通っている。

 あり得ない。とんでもない本だ。そう思いました。
 でも、脚色は、なし。飾り立てた、煽てあげた聞き書きでもない。
 弟子修業の辛さを知らない、大して学問もない一人の大工の一言一句が、見事に筋が通っている。「とんでもない本」というのはそのことです。

 大学を出た、さらには大学で教えている等の人が、いつも筋の通ったことを言うとは限らない。それどころか逆に語句は難しかったり、或いは英語等の外国語、又専門用語等が随処に出てきたりするのだけれど、よく聞いてみると筋が通るどころか論の態を成していないことを喋り散らし、書き散らす大学教授なんて、一杯います。
 「先生の言うことは難しくて能く分からない」
 と言うことがあるけれど、難しくて能く分からない、のではなくて実際は
 「筋が通ってないから、論理の糸が見えない」
 から、理解不能ということの方が、実は多かったりします。

 しかし、この西岡棟梁の考え方は、それこそ木組みの如くにぴしっとしていて、尚且つ(ここが重要だと思うんですが)温かみがある。考えの筋道(考え方)が明快で、真っ向から楷書のように入って来る。なのに冷徹ではなく木肌のような温かさがある。

 こんな本を読んでしまうと、あと、どんな本を読んだって小難しいばかりで、何も腑に落ちないだろうなと思わされてしまいます。
 そのせいで気楽な読み物ばかり読むようになってしまいました。
 (あ、元々、気楽なものしか読まないんでした。見栄張ってました)

 とは言え、例外はあります。
 読み易い、とっつきやすかったのに分からなかった本。
 剣術の稽古を始める前から、手も足も出ない本があって、それは学生の頃から、既にその時点で十年近く、何度読んでも読み解けない。というか、字面は追うことができてもその考え方を実感するに至らないのです。何度も読み返すしかない難しい本、というのはそのくらいで、後は読み飛ばしておしまい、でした。(読み飛ばしたのには多分に『酸っぱい葡萄』ってのもあったんでしょうけどね)

 しかし、「職人衆昔ばなし」には驚かされました。
 私が知らなかっただけで、そこに出て来る職人は全てこの西岡棟梁と同じく、筋の通った、はっと思わされるようなことを、ごく当たり前に口にしているのです。勿論、理路整然とした十分な説明が為された話し振りではありません。細切れの言葉が並べられるばかりの、無口で口下手な人ばかり。
 それでも説明が十分に為されないだけで、片言隻句が、ちゃんと「理」を示している。

 「良い道具は『金ができたら買おう』じゃない。『金がなくても買う』んだ。何とかなるもんだ」みたいなことを言った人もいます。
 何だか無理やりやれば何とかなる、みたいなことを言っているみたいに見えますが、この言葉、道理だなあ、と思うんです。
 「買うための金を必死になって稼ぐから」、じゃない。

 「金がなくても買う」。
 頼み込んだら、根負けして安く売ってくれるかも?
 いやいや、そんなことじゃない。
 「今、金がないけど、ほしい」とまず、言ってみる?
 売ってくれるわけぁない。
 「売らないで置いといてくれ。必ず買うから」
 そんな調子のいい話、聞いてくれやしない。
 まあ、そういうものは、高いから買えないくらいなんだから、そうそうは売れないでしょうけど。
 小説なんかだったら日参して、しげしげと眺めるので店主が根負けして
 「いいよ。持って行きな」となるんでしょうけど、現実は厳しい。
 逆の意味で「事実は小説よりも奇なり」、だったりする。やっと金を貯めて買いに行ったら、「今しがた売れたよ」、なんて。

 どうしても良い道具が欲しい。そうなれば、食うものも食わずに金を貯めて、ということになるものです。倹約して、出費を抑えて、みたいなものじゃない。お金なんか一切使わない。貯金する。そして、欲しいものを一つずつ買い揃えていく。
 すると、目付きが変わって来る。とにかく腕のいい職人になりたいと考える(思うようになる)。心掛けが変わってくるわけだから、職人としての力量も上がって来る。

 良い道具を買うのは、収集癖があるためではなく、その道具をつかってみたいから、なんですが、そうなるとその道具で精魂込めた仕事をしようと一層の努力をするようになり、出来栄えを見て再度の注文が入り、となりますね、普通は。
 そうなったら、そこに「胡坐をかく」ものだろうか。
 安心して、
 「これで十分。時よ止まれ。お前はあまりに美しい!」
 となるのだろうか。それはないでしょう。
 きっと「いや、なかなか。これで満足、という仕事はできないもんです。せめて死ぬまでに満足のいく仕事をできれば」なんて言う。

 で、「もう十分でしょ?それ以上に道具に金かけたって利益は出ないんでしょ?」と、半可通がそれを仕分けたりすると、日本文化、簡単に途絶えてしまいます。
 技術というものがそうならば、頭の中、考える頭脳も同じことなんですけどね。



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