2011.12/19 (Mon)
唐突ですが、剣術から出た武術の用語に「残心」というのがあります。
攻撃をした時や、し終わった時、相手からのもしもの反撃を意識して、
「気を抜かない(或いは隙を見せない)心積もり」
、といった意味合いで用いられていますが、これは本来、「心の持ち様」ではなく、「身体の持ち様」をさす言葉です。
切り付けた時、全身の体重を「切っ先に込めよう」「打撃部位に載せよう」とします。全体重を「物打ち(切っ先三寸)」にかける。
ところが、実際にやろうとすると、勢い余って(焦って)体勢を崩してしまいやすい。「前のめりになる」「たたらを踏む」状態になってしまうかもしれない。
前倒しではなく、前のめり。完全にバランスを崩して、転倒を防ぐのがやっと、といった状態になる(かもしれない)。
全身を投げ出す、叩き付けるわけだから、そうなる可能性は十分にあるんですが、そうなっては全く意味がないことはご承知の通りです。
バランスを崩してしまうと、全体重を物打ちにかけたつもりがそうはならないわけで、まともな切り付けは実際にはできなくなるわけですから。
それでは困るから、
「切り付けた時、身体まで投げ出すのではない。体勢は崩すな。身体をちゃんと残しておけ。それで初めて思う存分の切り付けができるのだ」
と教えます。
そうです。「残心」というのは、本来は、「残身」だった。
そうやって体勢を崩さず切り付けた時は、次の「状況」に対応できる。心の方も、前のめりにはなっていないから、同じく次の「情況」に対応できる。つまり「残心」の意識が生まれる。
切りつける時に「残身」が意識されたからこそ、「残心」に思いが至った。
「残心」を発見したわけです。
「残心」が「残身」を生むのではありません。飽く迄も「残身」という土台があって、「残心」に気がつく。
そうやって見ると、「残身」は「切り付け」、それも、「正面」か、「袈裟懸け」から生まれるものと分かります。
「突き」から、ではない。却って「突き」から「残身」が生まれる(意識される)ことは理屈として考えにくい。となると、「突き」から「残心」が生まれることはない。
ただし、「突き」から、「一途」という意識は生まれるでしょう。「猪突猛進」という言葉もあります。
ついでながら、「一途」は我々日本人の特質の一つです。勿論、後天的な性質です。
さて、そこでまた、男谷と大石の話を思い出して欲しいのですが。
男谷が与えたヒントで、大石は「突きは重要な剣技である」、と武術界の認識を改めさせました。
これ、「残身」から生まれた「残心」という考えで以って、「突き」を捉え直し、武術界に突きを剣技として認めさせた、と言えるでしょう。
具体的な何か。一つの事例を、真剣に見詰める。その目的を思い起こしてみる。そうすればそこから物事の道理が見えて来る。
多くの事例を並べ立てるのではなく、一つだけに決め、その目的を見る。
決して簡単なことではありません。何しろ、これまでやった事が無い。それに色々見詰めたいことが有り過ぎて目移りがしてしまう。
大体が、普通いろんなことを併行してやって来ることが効率的だというような生活だったのです。一つだけを見詰めたことなどないのだから、どこをどう見詰めたらいいのかさえ分からない。
「恋愛をした時は一人の人を~」、なんて、混ぜっ返しちゃダメですよ。
あの時は見詰めちゃいないでしょう?「恋は盲目」、なんですから。
けれど目的がはっきりすれば、そして、その目的を常に念頭に置いて、見詰めるようにすれば、我々日本人は、自身、想像もつかないほどの大変な文化の中で生活して来ているのですから、物事の道筋を見出すことは、まんざらできないことでもない。
身の回りのことをはじめとして、果ては国際社会に至ることまで、世の中は問題だらけ、分からない事だらけ、です。
こんな、山積している数多の問題を全て考え、解いていく、自身の考えを持つ、なんて簡単にできることではありません。
けれど、だからと言ってただ言いなりになるのか。それとも、それなりに自身の意志で以って、それなりの行動をしようとするのか。
日本人は「切り付ける」という具体的な動作から、「残身」という形を作り出し、「残心」という考え方(境地)を見出し、日本文化の根幹の一つにしました。
そして、その考え方によって、本来なら前のめりになってしまうおそれの大きい「突き」、「一途」という姿勢を、「残心」に裏付けられた、隙の無い、安定した力にしてきました。
一事例と、その目的から道理を見出そうとする。
その姿勢があれば、今の世の中が、テレビや新聞の流す情報や物の見方とは、大きく違ったものであることが見えるようになるまで、さほど時間はかからないのではないでしょうか。
唐突ですが、剣術から出た武術の用語に「残心」というのがあります。
攻撃をした時や、し終わった時、相手からのもしもの反撃を意識して、
「気を抜かない(或いは隙を見せない)心積もり」
、といった意味合いで用いられていますが、これは本来、「心の持ち様」ではなく、「身体の持ち様」をさす言葉です。
切り付けた時、全身の体重を「切っ先に込めよう」「打撃部位に載せよう」とします。全体重を「物打ち(切っ先三寸)」にかける。
ところが、実際にやろうとすると、勢い余って(焦って)体勢を崩してしまいやすい。「前のめりになる」「たたらを踏む」状態になってしまうかもしれない。
前倒しではなく、前のめり。完全にバランスを崩して、転倒を防ぐのがやっと、といった状態になる(かもしれない)。
全身を投げ出す、叩き付けるわけだから、そうなる可能性は十分にあるんですが、そうなっては全く意味がないことはご承知の通りです。
バランスを崩してしまうと、全体重を物打ちにかけたつもりがそうはならないわけで、まともな切り付けは実際にはできなくなるわけですから。
それでは困るから、
「切り付けた時、身体まで投げ出すのではない。体勢は崩すな。身体をちゃんと残しておけ。それで初めて思う存分の切り付けができるのだ」
と教えます。
そうです。「残心」というのは、本来は、「残身」だった。
そうやって体勢を崩さず切り付けた時は、次の「状況」に対応できる。心の方も、前のめりにはなっていないから、同じく次の「情況」に対応できる。つまり「残心」の意識が生まれる。
切りつける時に「残身」が意識されたからこそ、「残心」に思いが至った。
「残心」を発見したわけです。
「残心」が「残身」を生むのではありません。飽く迄も「残身」という土台があって、「残心」に気がつく。
そうやって見ると、「残身」は「切り付け」、それも、「正面」か、「袈裟懸け」から生まれるものと分かります。
「突き」から、ではない。却って「突き」から「残身」が生まれる(意識される)ことは理屈として考えにくい。となると、「突き」から「残心」が生まれることはない。
ただし、「突き」から、「一途」という意識は生まれるでしょう。「猪突猛進」という言葉もあります。
ついでながら、「一途」は我々日本人の特質の一つです。勿論、後天的な性質です。
さて、そこでまた、男谷と大石の話を思い出して欲しいのですが。
男谷が与えたヒントで、大石は「突きは重要な剣技である」、と武術界の認識を改めさせました。
これ、「残身」から生まれた「残心」という考えで以って、「突き」を捉え直し、武術界に突きを剣技として認めさせた、と言えるでしょう。
具体的な何か。一つの事例を、真剣に見詰める。その目的を思い起こしてみる。そうすればそこから物事の道理が見えて来る。
多くの事例を並べ立てるのではなく、一つだけに決め、その目的を見る。
決して簡単なことではありません。何しろ、これまでやった事が無い。それに色々見詰めたいことが有り過ぎて目移りがしてしまう。
大体が、普通いろんなことを併行してやって来ることが効率的だというような生活だったのです。一つだけを見詰めたことなどないのだから、どこをどう見詰めたらいいのかさえ分からない。
「恋愛をした時は一人の人を~」、なんて、混ぜっ返しちゃダメですよ。
あの時は見詰めちゃいないでしょう?「恋は盲目」、なんですから。
けれど目的がはっきりすれば、そして、その目的を常に念頭に置いて、見詰めるようにすれば、我々日本人は、自身、想像もつかないほどの大変な文化の中で生活して来ているのですから、物事の道筋を見出すことは、まんざらできないことでもない。
身の回りのことをはじめとして、果ては国際社会に至ることまで、世の中は問題だらけ、分からない事だらけ、です。
こんな、山積している数多の問題を全て考え、解いていく、自身の考えを持つ、なんて簡単にできることではありません。
けれど、だからと言ってただ言いなりになるのか。それとも、それなりに自身の意志で以って、それなりの行動をしようとするのか。
日本人は「切り付ける」という具体的な動作から、「残身」という形を作り出し、「残心」という考え方(境地)を見出し、日本文化の根幹の一つにしました。
そして、その考え方によって、本来なら前のめりになってしまうおそれの大きい「突き」、「一途」という姿勢を、「残心」に裏付けられた、隙の無い、安定した力にしてきました。
一事例と、その目的から道理を見出そうとする。
その姿勢があれば、今の世の中が、テレビや新聞の流す情報や物の見方とは、大きく違ったものであることが見えるようになるまで、さほど時間はかからないのではないでしょうか。