2012.12/28 (Fri)
一時期、四時頃に起き出して、早朝稽古をしていたことがある。
いい加減なストレッチをしてから、気持ちを静め、素振りや型稽古をやっていた。
軟弱者だから一時間ほどで引き揚げる毎日で、大した進歩はなかったが、それなりに分かったことや感じ取れたことは、ある。
その中の一つが「風」、だ。
稽古に「風」は、大敵だった。
無風状態の中でやると、気持ちが集中していくのが分かる。
それが、「微風」でもあると、何だか心地良さの方が先に立って、気持ちがなかなか集中できない。「気」が風に流されていくようで、ともすれば稽古をしている自分の存在を忘れてしまう。
それでも「今、稽古をしているんだ」、と頭の片隅にでも浮かべば、夢から醒めるように我に返る。
「微風」が「弱風」になると、「稽古をしているんだ」と思って我には返っても、気が集中できない。稽古をしている自分はいても、感覚を研ぎ澄まそうと、無駄にエネルギーを浪費するばかりで、それこそ空回りしている実感ばかりになって来る。
「強風」になるとただ回数を重ねるだけ、型をなぞっているだけ、ノルマを果たしているだけ、のようなもので、「出席はしたけど、ずっと居眠りしてました」、みたいな感じになる。
「そんなもん、稽古とは言わんぞ!バカな体験談、書きおって!」
と叱られるだろうことは重々承知の上で、これを書いている。何故か。
そりゃ大半の人は普段、この程度以下の精神生活じゃないですか。
日常生活、「感覚を研ぎ澄まさねば」と意識しながら過ごしている人なんて滅多にないでしょう?
以前に読んだ本に、甲野善紀師範が、人と会う時、いつも考えられる限りの対応のシミュレーションをするのだと書かれていた。「へぇ~、いるんだ、やっぱり!」と思ったものの、寡聞にして他には知らない。
あ、そう言えば、一件だけありました。
昔、と言っても昭和になってからのことと思いますが。
尾張柳生の宗家で柳生厳長という人が、名古屋の中心街である「栄」というところで、一日、人通りを観察したんだそうです。
「生きた足取りの人はどのくらいいるだろうか」
これが目的だったんだとか。
一日経ち、夕暮れになって出た答えは、
「一人もなかった」。
ごく短時間でも、それをやろうとせぬ限り、変化は見られぬものです。
怠け者でも、稽古時の心持ちは、普段の生活をしている人よりは、少~しマシ、です。あれ?一所懸命弁解してるだけで、思わぬ脱線をしているような・・・・・。
とにかく「風」というのは自身を研ぐ際の役には立たない、と言いたかったわけです。心地は良いんですけどね。で、すぐ慣れてしまって、心地良いと思ったことも忘れる。
・・・・ああ、真夏にバイクで走り始めた瞬間のようなものですか。
また脱線。
戻ります。
何故だろう。今回の選挙でも、「風」の話は度々出ていました。
「自民党に風が吹いているという感じは全くない」、と自民党の議員は口を揃えて言う。
対して、民主党の候補者には凄まじい逆風が吹いていた、と報道された。
随分昔、社会党の党首が土井たか子女史の時だったか、「マドンナ旋風」というのが吹き荒れた。彼女らが「マドンナ」かどうかはともかく、強風どころか「旋風」で、女性議員が多く誕生した。
グライダー乗りは「風」に乗り、帆船乗りは追い風を掴む。
国会議員は「風」で当選し、「サンデーモーニング」は「風を読む」。
風に乗り、追い風を受けて日々を過ごす。
それを手段・仕事としている人々は、それも一つの生き方だ。
大きな自然の力に我が身を任せる。自分の意志は持っているものの、全て委ねるその生き方は濁りがないので、いっそ爽やかだ。
けれど、社会は「理」で成り立つ。
国家という社会を動かすのは、理を意識した、理に殉ずる覚悟を持った者でなければなるまい。それが代議士だろう。情に殉ずるようなことをすれば、社会は、国は簡単に破滅する。
「風」は「理」を推すものではない。「風」は「情」を吹き流すものだ。
「追い風を受けて代議士となる」?
代議士はアイドルではない。
「風」を否定する気はないけれど、それに「頼」ったり、それを「読」んだりして、先を見通そう、その見通しで進み方を決めよう、という在り方は、社会・国家のことで採るべき態度か?と思う。
マスメディアが流行の話題を採り上げるため、というのならまだしも、「世情」ではない、「国の在り方」を語る時、臆面もなく用いる言葉か?と思う。
一時期流行った、「KY(空気を読めない)」という言葉と同じ、姑息というか、矮小というか、実に惨めったらしい、揉み手をして勝者に擦り寄っていくような、主体性のなさ、を感じる。
ああ、これは「風の又三郎」の中で、芒の穂が、風が吹く度に、
「あ、西さん、あ、東さん~」と細い手を大きく揺らせている、見ていられない恥ずかしさ、何とも言えない「見っともなさ」と同じなんだ。
一時期、四時頃に起き出して、早朝稽古をしていたことがある。
いい加減なストレッチをしてから、気持ちを静め、素振りや型稽古をやっていた。
軟弱者だから一時間ほどで引き揚げる毎日で、大した進歩はなかったが、それなりに分かったことや感じ取れたことは、ある。
その中の一つが「風」、だ。
稽古に「風」は、大敵だった。
無風状態の中でやると、気持ちが集中していくのが分かる。
それが、「微風」でもあると、何だか心地良さの方が先に立って、気持ちがなかなか集中できない。「気」が風に流されていくようで、ともすれば稽古をしている自分の存在を忘れてしまう。
それでも「今、稽古をしているんだ」、と頭の片隅にでも浮かべば、夢から醒めるように我に返る。
「微風」が「弱風」になると、「稽古をしているんだ」と思って我には返っても、気が集中できない。稽古をしている自分はいても、感覚を研ぎ澄まそうと、無駄にエネルギーを浪費するばかりで、それこそ空回りしている実感ばかりになって来る。
「強風」になるとただ回数を重ねるだけ、型をなぞっているだけ、ノルマを果たしているだけ、のようなもので、「出席はしたけど、ずっと居眠りしてました」、みたいな感じになる。
「そんなもん、稽古とは言わんぞ!バカな体験談、書きおって!」
と叱られるだろうことは重々承知の上で、これを書いている。何故か。
そりゃ大半の人は普段、この程度以下の精神生活じゃないですか。
日常生活、「感覚を研ぎ澄まさねば」と意識しながら過ごしている人なんて滅多にないでしょう?
以前に読んだ本に、甲野善紀師範が、人と会う時、いつも考えられる限りの対応のシミュレーションをするのだと書かれていた。「へぇ~、いるんだ、やっぱり!」と思ったものの、寡聞にして他には知らない。
あ、そう言えば、一件だけありました。
昔、と言っても昭和になってからのことと思いますが。
尾張柳生の宗家で柳生厳長という人が、名古屋の中心街である「栄」というところで、一日、人通りを観察したんだそうです。
「生きた足取りの人はどのくらいいるだろうか」
これが目的だったんだとか。
一日経ち、夕暮れになって出た答えは、
「一人もなかった」。
ごく短時間でも、それをやろうとせぬ限り、変化は見られぬものです。
怠け者でも、稽古時の心持ちは、普段の生活をしている人よりは、少~しマシ、です。あれ?一所懸命弁解してるだけで、思わぬ脱線をしているような・・・・・。
とにかく「風」というのは自身を研ぐ際の役には立たない、と言いたかったわけです。心地は良いんですけどね。で、すぐ慣れてしまって、心地良いと思ったことも忘れる。
・・・・ああ、真夏にバイクで走り始めた瞬間のようなものですか。
また脱線。
戻ります。
何故だろう。今回の選挙でも、「風」の話は度々出ていました。
「自民党に風が吹いているという感じは全くない」、と自民党の議員は口を揃えて言う。
対して、民主党の候補者には凄まじい逆風が吹いていた、と報道された。
随分昔、社会党の党首が土井たか子女史の時だったか、「マドンナ旋風」というのが吹き荒れた。彼女らが「マドンナ」かどうかはともかく、強風どころか「旋風」で、女性議員が多く誕生した。
グライダー乗りは「風」に乗り、帆船乗りは追い風を掴む。
国会議員は「風」で当選し、「サンデーモーニング」は「風を読む」。
風に乗り、追い風を受けて日々を過ごす。
それを手段・仕事としている人々は、それも一つの生き方だ。
大きな自然の力に我が身を任せる。自分の意志は持っているものの、全て委ねるその生き方は濁りがないので、いっそ爽やかだ。
けれど、社会は「理」で成り立つ。
国家という社会を動かすのは、理を意識した、理に殉ずる覚悟を持った者でなければなるまい。それが代議士だろう。情に殉ずるようなことをすれば、社会は、国は簡単に破滅する。
「風」は「理」を推すものではない。「風」は「情」を吹き流すものだ。
「追い風を受けて代議士となる」?
代議士はアイドルではない。
「風」を否定する気はないけれど、それに「頼」ったり、それを「読」んだりして、先を見通そう、その見通しで進み方を決めよう、という在り方は、社会・国家のことで採るべき態度か?と思う。
マスメディアが流行の話題を採り上げるため、というのならまだしも、「世情」ではない、「国の在り方」を語る時、臆面もなく用いる言葉か?と思う。
一時期流行った、「KY(空気を読めない)」という言葉と同じ、姑息というか、矮小というか、実に惨めったらしい、揉み手をして勝者に擦り寄っていくような、主体性のなさ、を感じる。
ああ、これは「風の又三郎」の中で、芒の穂が、風が吹く度に、
「あ、西さん、あ、東さん~」と細い手を大きく揺らせている、見ていられない恥ずかしさ、何とも言えない「見っともなさ」と同じなんだ。