CubとSRと

ただの日記

香港の歴史

2020年10月05日 | 心の持ち様
 「アヘン戦争で敗北し、結果、99年間香港島貸与。期限となって返還されることを住民が望み、民主主義体制のまま『中国』となったが、法改正により中共の体制下に組み込まれることになった」
 ・・・・辺りは、学校で習ったり、最近のニュースで聞いたりして了解してるんですが、大雑把にでも香港の変遷を時系列で見る、ってことはやってません。
 良いものを拝見することができましたので、以下転載です。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)9月10日(木曜日)
        通巻第6641号  
  
 樋泉克夫のコラム 
【知道中国 2129回】               
 ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港11)

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 香港の現状から特別行政区は形を変えた殖民地だと思いたくもなるが、ともあれ1840年のアヘン戦争を起点として歴史が転換して以降、香港は一貫して自分で自分の運命を選べない殖民地のままだった。いったい殖民地としての香港は、どのような社会だったのか。

 大陸に近く、周囲を深い海で囲まれた無人に近い岩だらけの香港島は、スコットランド人海軍士官ネピア卿の「天然の良港になる」との予言のままに、大英帝国にとって清国市場への橋頭堡となった。先ず香港島(1842年の南京条約)を、次いで九龍(1861年の北京条約)を清国から割譲させ、仕上げとして1898年に新界を99年期限で租借する。

 一攫千金の夢を求めて欧米からやって来た野心家が支配者然と君臨し、中国からの職を求めて流れ込んできた大量の中国人を労働力として従える。
二層構造社会の香港は、大英帝国の極東経営の拠点として異常なまでの繁栄を謳歌する。南中国の沿海部に位置する香港が「金の卵を産む鶏」となり、国際社会に華々しくデビューしたのであった。

 1860(万延元)年正月、新見豊前守を正使とする遣米使節一行はアメリカ西海岸を目指し、太平洋を東に向かって船出した。幕府が海外に派遣した最初の使節である。一行はアメリカ大陸を東に進み、各地で大歓迎を受けながらワシントン入りし、やがて大西洋を横断して南回りで帰途についた。

 最後の寄港地となった香港で市中見物した一行は、周囲を現地人に取り囲まれ進めない。するとイギリス人が「鞭を挙げて群衆の人を制し往来を開いて」くれた。かくて一行の目には「支那人英人を恐るる事鱗の鰐に逢うが如し」(「亜墨利加渡海日記」)と映る。殖民地の繁栄を下支えする「支那人」は「鞭」を手にするイギリス人を前に、鰐を恐れる魚のように卑屈に振る舞うしかなかった。

それから半世紀ほどが過ぎた1911年10月に清朝が崩壊し、異民族である満州族支配が終わる。辛亥革命の報が伝わるや、清朝支配の象徴である弁髪を切り去った香港住民は、街頭に飛び出し、「漢族万歳」「西洋人を殺せ」「イギリス人を追い出せ」と叫んだ。

 さらに14年が過ぎた1925年、上海の日本紡績工場の労働争議をキッカケに中国全土を揺るがせた「五・三〇事件」が発生するや、広州の労働組織の支援を得た香港の労働者はストライキ(「省港大罷工」)による反英闘争に打って出た。
殖民地政府(香港政庁)に対し政治的自由、法律上の平等、普通選挙、労働立法に加え、家賃値下げや居住の自由などを要求したのだ。

 もちろん政庁は拒否する。だが労働者は怯むことなく反英闘争を続けた。
世界の労働争議史上最長とも言われる激しいストライキによって、交通や電気など社会インフラは大きな影響を受け、経済は大打撃を被り、企業家は甚大な損失に苦しみ、香港は「死の街」と化したほどだ。省港大罷工を仕掛けたのは、1921年の結党から間もない中国共産党だった。

 香港労働者の生活向上を勝ち取ったとされる省港大罷工が収束して1年ほどが過ぎた1927年、香港を訪れた魯迅はその印象を「再談香港」に綴っている(以下、拙訳)。

 「香港はチッポケな一つの島でしかないのに、中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描き出す。中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のオベンチャラ使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『現地人』だ。苦労に耐えられる者は西洋殖民地で死に、耐えられない者は深い山へと逃げ込む。苗や瑶は我われの先輩なのだ。(一九二七年)九月二十九之夜、海上」(『而已集』人民出版社 1973年)。なお、「現地人」の原文は「土人」である。
 私の留学時代の香港は、はたして魯迅が描いた当時と本質的な違いがあったのか。

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月2日(金曜日)
        通巻第6658号  

【知道中国 2141回】            
 ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港23)

    (略)

 閑話休題。
 当時の体験も含め、香港における文革に就いて考えてみたいのだが、モノの順序として香港が経験した暴動の姿を簡単に振り返っておきたい。
それというのも、香港で見られる暴動は、その時々の中国における政治を微妙に反映していたたからである。

おそらく中国政治と香港との微妙な「相関関係」は、2014年秋の「雨傘革命」においても、2019年6月からの逃亡犯条例反対運動においても考えられるはず。いや、そう考えない限り香港の問題は解けそうにない。独裁 VS 民主、強権 VS 自由といった単純な図式で割り切れるほどに、漢族の政治は単純明快ではないことを心得ておくべきだろう。

 第2次大戦前については2129回(香港11/九・初八)に記しておいたので省略し、ここでは大戦期前後以降をみておく。

 第2次大戦が勃発するや、連合国側に与した蒋介石はルーズベルト大統領の支援を受け、イギリスに香港返還を求める。だが、チャーチル首相は「第2次大戦で獲得した国境線は崩さない」とするスターリン首相とガッチリと手を組んで拒否した。しょせん大国とは身勝手で強欲なものだが、蒋介石にとって不都合だったのは頼みのルーズベルト大統領が急死してしまっただけではなく、後任のトルーマン大統領とソリが合わなかったことだ。かくて蒋介石の意向を無視し、香港は米・ソ・英の3大国の手でイギリスに戻されてしまう。

 かくて日本占領(1941年12月〜45年8月)が終わるや、イギリスは宗主国として香港に舞い戻ったのである。

 以後、中国では国共内戦を経て共産党政権が成立し、毛沢東独裁が強化されるに従って多くの避難民が香港に逃れる。1958年に始まった大躍進政策が失敗したことから「大逃港」と呼ばれる大量難民の香港流入が発生した。

 やがて1960年代に入り経済基盤も固まり、落ち着きを見せ始めた頃、「香港暴動」が起きる。火元は当時の香港経済の象徴でもあったホンコン・フラワーの工場だった。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月5日(月曜日)
        通巻第6661号

【知道中国 2142回】             
  ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港24)

 前年に中国で発生した文化大革命に狂奔する大陸の「革命群衆の熱気」に煽られた香港左派が、1976年5月に新興工業地帯である新蒲崗のホンコン・フラワー工場の労働争議に介入し、警察との衝突事件を引き起こした。これをキッカケに過激な街頭行動へ。

 当初、左派労組が中心になって闘争委員会を結成し、交通・公共機関の大規模ストライキに発展したが、7月を機に殖民地当局は力に制圧に転じたことで、香港左派は戦術をエスカレートさせ爆弾テロで対抗した。

 当時、香港左派の背後に「広東王」と呼ばれ、広東省を拠点に中国南部で絶対的影響力を保持していた陶鑄や共産党広東省委第一書記(当時)であった趙紫陽の存在を指摘する見方もあった。彼らは共に毛沢東が敵視した劉少奇に連なる「実権派」とされていた。
また1979年になって『人民日報』は「香港暴動は、周恩来打倒と周が指揮する統一戦線工作破壊を狙った四人組の策動であり、周の反撃によって暴動は収束した」と報じている。

いずれの説が正しいかは不明だが、香港での大きな政治的運動が中央政府部内の権力闘争に連動していることは、疑問の余地はないところだろう。
爆弾テロなどによって51人の命が失われ、800人を超える重軽傷者を出して香港暴動は幕を閉じた。

 じつは香港左派は社会面、資金面、組織面、さらに思想面でも極めて複雑に入り組んでおり、共産党政権が対外開放・社会主義市場経済路線に踏み込んで以降、複雑さは増すばかり。反中過激左派まで活動しているほどだ。
これに共産党上層の権力闘争が加味し、さらには海外の様々な勢力による反中工作が加わるわけだから、いよいよ以って魑魅魍魎の迷界に突入せざるをえなくなってしまう。だからこそ日本式単純明快さでシロクロを決することに前のめりになってしまったら、事態の真相を見誤ることになりかねない。

やはり自らの抱く思想信条・政治思考(嗜好)というモノサシを一端は脇に置いて、漢族の奇妙奇天烈極まりない政治に目を向けるべきだ。それは2014年秋の雨傘革命にも、さらには昨年6月の逃亡犯条例問題以降の過激な反中街頭闘争においても見られるのである。

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 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という のがあるけれど、一般に「(体制等の)形式よりも、実利を取るべきだ」という意味に捉えられている。共産党による「社会主義という国家体制」でなくとも、国家が豊かになるなら(民主主義だって)いいではないか、と言っているんだと我々は捉えるけれど、どうもそういうことではなく、本当は「共産党の独裁体制が存続するためには国家が豊かにならなければならない。だから、国家が豊かになるために、民主主義体制も一便法として用いる」という風に考えているとみられる。その具体的事例が香港だということになる。大陸にありながら、香港に流入し、共産党を後ろ盾として思い切った商売をする。その儲けは大陸に送り、更に香港を窓口として世界と商売をする。
 ソ連は東側諸国との貿易が主体だったけれど、シナは西側諸国との貿易拠点として香港を名実ともに手に入れた。
 社会主義国でありながら西側諸国を相手に儲け、第三世界までも撒き餌をして徹底して漁る。
 こうしてみると、やはり、あの国は「社会主義」国というよりも、「CHINA共産党」国と言った方がいいのかもしれない。
 あんな現実主義の国民・国が、理想主義の一形態である「社会主義」なんて、名乗る方がおかしいんじゃないか。
コメント
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