ちょっと悪乗り(?)して、もう二、三回。
「親の恩は山よりも高く海よりも深い」、というんだと子供の頃、聞いた覚えがあります。
詳しくは「山より高い(高く尊き)父の恩 海より深い母の愛」、だったようです。
ちゃんと父母の性質を対句にして説いてある。
「父の愛」、じゃないんですよね。「父の恩」。
父親というものは山のように峻厳で大きな、仰ぎ見る存在。
そうやって父を仰ぎ見、目標とすることで子供は努力し、向上する。それは「恩」という言葉でしか言い表せない。
又、父の方も仰ぎ見られる視線を感じ、一所懸命に生きる。
無邪気にその姿を仰ぎ見ていた子供は、後にそれは自分のために見せてくれていたと捉えるようになり、恩義を感じるようになる。
一方、「母の恩」、ではなくって「母の愛」。
母は海の如くに全てを包み込む。そうやって母の優しさの中で、子供は気持ち穏やかに、周りと和やかな関わりを作っていくことを学ぶ。
やっぱりこれは母の「愛」。
「恩」と「愛」が揃って一人前の人間となる。
「愛国」という言葉はあるけれど、「恩国」という言葉はありません。
あるのは「報国」。
「恩」「愛」は対になっているけれど、「愛」「報」は対になっていない。
考えてみると、「国を愛する」という言葉にある、「愛する」というのは漢語です。音読みです。大和言葉ではない。
「愛」って何だろう。
「愛する」は「愛(あい)する」、だから音読みということになるんですが、じゃあ、この「愛」という言葉、訓読みはないんでしょうか。訓読みなら当然、日本での意味が分かる筈です。
「愛おしい」「愛しい」。
これ、「愛(いと)おしい」「愛(いと)しい」と読みます。
でも「いとおしい」「いとしい」は、「愛おしい人」「愛しの君」という言葉があるのをみれば、どうも、「好き」という意味らしく、そうなると「愛国」→「日本が好き!」、みたいなところになる。
何だかちょっと違うような気がしませんか。
「愛しい」。これ、「愛(かな)しい」とも読むそうです。「悲しい」ではないけれど、でもちょっと似た感じは、ある。
あまりにもはかなくてこわれそうだから、大切に守ろうとする。そんな気持ちを「かなしい」というんだ、とか。
でも「国」を「愛(かな)しい」というのは、これまた、違う感じがする。そんな「儚な気な」存在、じゃないでしょう、国って。絶滅危惧種じゃない。
「愛(め)でる」。「好き」でも、明るく陽気な感じです。
「これ、いいなあ。好きだなあ、こんなの」、というのが「愛でる」。
「いとしい」「かなしい」「めでる」、と思いつくままに、「愛」の訓読みを挙げてみましたが、やっぱり「愛国」の「愛」には当てはまらない。
ということは、日本には「愛する」という概念がなかった。また、「愛国」という言葉もなかったのではないか。
似た言葉はありますよ。初めに書いた「報国」です。
あの楠木正成の「七生報国」。国に大恩があるから、それに報いる。
「国に報いる」。「愛国」の一つの形です。中でも激しい形、といえるでしょう。四魂の中の「荒魂(あらみたま)」にそっくりです。
まあ、考えてみれば我が国の男は、妻に対してでさえ「愛してるよ」、なんて言ったら死ぬんじゃないかと思ってるかの如くにして暮らして来ました。
だから何かの拍子に「妻には感謝しています」なんて言うと、奥さんは「そんなこと言われたの、初めて」と感激して涙ぐんだりして。
妻には言わないけど国に対してなら言える?そりゃないでしょう。「愛する」という言葉をそういう風にしか捉えていなかったんですから。
大体が「愛する」というのは押し付け、自己主張そのものです。自分の気持ちを相手に押し付け、無理やり囲い込み、強引に(我が身勝手に)守ろうとする。「愛は惜しみなく奪う」或いは「神(愛)は押しのけつつ抱きしめる」がそうでしょう。「愛」の鍬形をつけた兜の直江兼続だって、あの「愛」は、愛染明王、もしくは愛宕権現の「愛」だというじゃありませんか。
では日本人は、国に対してどんな気持ちを抱いていたんでしょうか。
少なくとも、「愛国」などという言葉で表現できるような気持ちではなかった、ということははっきりしています。
けれど、「一旦、緩急あれば義勇公に奉じ~」です。それが南北朝期の初め、「報国」という形で現われている。(あ、もっと昔に「醜(しこ)の御楯(みたて)」というのもありました。大王(おおきみ)をお守りする強靭な楯。)
日本人はそれぞれの土地にあって、懸命に生き、土地を大事にしこそすれ、「国を愛する」なんて考えたこともなかったんじゃないでしょうか。
もっと言えば、「国を愛する」、なんて考える必要も口にすることもない。そんなの当たり前過ぎることだから。
自らの所領を守ること、困っている隣人を助けることで、その先の日本全体を守ることを推察していたのではないでしょうか。
「愛国」は、「一生懸命」や「誠心誠意」のように、方向のはっきりしない、目的の見えない曖昧な言葉です。日本人はそんなことは全く考えない。
でも、隣人同士助け合い、所領を守る延長線上に、幕府があり、その先には幕府をも頭を下げさせる朝廷がある。
「報国」、「一所懸命」、「正心誠意」。
「愛国」、なんて歴史の新しいぼんやりした言葉でなく、ただ、「報恩報国」、でいいんじゃないでしょうかねぇ。
詳しくは「山より高い(高く尊き)父の恩 海より深い母の愛」、だったようです。
ちゃんと父母の性質を対句にして説いてある。
「父の愛」、じゃないんですよね。「父の恩」。
父親というものは山のように峻厳で大きな、仰ぎ見る存在。
そうやって父を仰ぎ見、目標とすることで子供は努力し、向上する。それは「恩」という言葉でしか言い表せない。
又、父の方も仰ぎ見られる視線を感じ、一所懸命に生きる。
無邪気にその姿を仰ぎ見ていた子供は、後にそれは自分のために見せてくれていたと捉えるようになり、恩義を感じるようになる。
一方、「母の恩」、ではなくって「母の愛」。
母は海の如くに全てを包み込む。そうやって母の優しさの中で、子供は気持ち穏やかに、周りと和やかな関わりを作っていくことを学ぶ。
やっぱりこれは母の「愛」。
「恩」と「愛」が揃って一人前の人間となる。
「愛国」という言葉はあるけれど、「恩国」という言葉はありません。
あるのは「報国」。
「恩」「愛」は対になっているけれど、「愛」「報」は対になっていない。
考えてみると、「国を愛する」という言葉にある、「愛する」というのは漢語です。音読みです。大和言葉ではない。
「愛」って何だろう。
「愛する」は「愛(あい)する」、だから音読みということになるんですが、じゃあ、この「愛」という言葉、訓読みはないんでしょうか。訓読みなら当然、日本での意味が分かる筈です。
「愛おしい」「愛しい」。
これ、「愛(いと)おしい」「愛(いと)しい」と読みます。
でも「いとおしい」「いとしい」は、「愛おしい人」「愛しの君」という言葉があるのをみれば、どうも、「好き」という意味らしく、そうなると「愛国」→「日本が好き!」、みたいなところになる。
何だかちょっと違うような気がしませんか。
「愛しい」。これ、「愛(かな)しい」とも読むそうです。「悲しい」ではないけれど、でもちょっと似た感じは、ある。
あまりにもはかなくてこわれそうだから、大切に守ろうとする。そんな気持ちを「かなしい」というんだ、とか。
でも「国」を「愛(かな)しい」というのは、これまた、違う感じがする。そんな「儚な気な」存在、じゃないでしょう、国って。絶滅危惧種じゃない。
「愛(め)でる」。「好き」でも、明るく陽気な感じです。
「これ、いいなあ。好きだなあ、こんなの」、というのが「愛でる」。
「いとしい」「かなしい」「めでる」、と思いつくままに、「愛」の訓読みを挙げてみましたが、やっぱり「愛国」の「愛」には当てはまらない。
ということは、日本には「愛する」という概念がなかった。また、「愛国」という言葉もなかったのではないか。
似た言葉はありますよ。初めに書いた「報国」です。
あの楠木正成の「七生報国」。国に大恩があるから、それに報いる。
「国に報いる」。「愛国」の一つの形です。中でも激しい形、といえるでしょう。四魂の中の「荒魂(あらみたま)」にそっくりです。
まあ、考えてみれば我が国の男は、妻に対してでさえ「愛してるよ」、なんて言ったら死ぬんじゃないかと思ってるかの如くにして暮らして来ました。
だから何かの拍子に「妻には感謝しています」なんて言うと、奥さんは「そんなこと言われたの、初めて」と感激して涙ぐんだりして。
妻には言わないけど国に対してなら言える?そりゃないでしょう。「愛する」という言葉をそういう風にしか捉えていなかったんですから。
大体が「愛する」というのは押し付け、自己主張そのものです。自分の気持ちを相手に押し付け、無理やり囲い込み、強引に(我が身勝手に)守ろうとする。「愛は惜しみなく奪う」或いは「神(愛)は押しのけつつ抱きしめる」がそうでしょう。「愛」の鍬形をつけた兜の直江兼続だって、あの「愛」は、愛染明王、もしくは愛宕権現の「愛」だというじゃありませんか。
では日本人は、国に対してどんな気持ちを抱いていたんでしょうか。
少なくとも、「愛国」などという言葉で表現できるような気持ちではなかった、ということははっきりしています。
けれど、「一旦、緩急あれば義勇公に奉じ~」です。それが南北朝期の初め、「報国」という形で現われている。(あ、もっと昔に「醜(しこ)の御楯(みたて)」というのもありました。大王(おおきみ)をお守りする強靭な楯。)
日本人はそれぞれの土地にあって、懸命に生き、土地を大事にしこそすれ、「国を愛する」なんて考えたこともなかったんじゃないでしょうか。
もっと言えば、「国を愛する」、なんて考える必要も口にすることもない。そんなの当たり前過ぎることだから。
自らの所領を守ること、困っている隣人を助けることで、その先の日本全体を守ることを推察していたのではないでしょうか。
「愛国」は、「一生懸命」や「誠心誠意」のように、方向のはっきりしない、目的の見えない曖昧な言葉です。日本人はそんなことは全く考えない。
でも、隣人同士助け合い、所領を守る延長線上に、幕府があり、その先には幕府をも頭を下げさせる朝廷がある。
「報国」、「一所懸命」、「正心誠意」。
「愛国」、なんて歴史の新しいぼんやりした言葉でなく、ただ、「報恩報国」、でいいんじゃないでしょうかねぇ。