CubとSRと

ただの日記

香港の歴史 続き

2020年10月14日 | 重箱の隅
また少し、転載です。

「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月14日(水曜日)

樋泉克夫のコラム 
【知道中国 2147回】                   
 ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港29)

      ▼
 「香港の文革」は、毛沢東が最大の政敵と定めた劉少奇派を抹殺・排除し、共産党の制圧に成功した文革派に同調する親中左派が演じた予定調和の集団芝居だった。
1960年代末から71年にかけての香港における文革風景が、そのことを物語っていたように思える。李小龍(ブルース・リー)の代表作である『死亡遊戯』に倣うなら、『文革遊戯』と言ったところか。
 
 だが、香港の親中左派は心底から北京の指令に従順に応じていたのか。そんな風を装って北京からの過度の圧力を避けようとした。いわば「支配されながら支配する」という妙手の可能性はなかっただろうか。この点が気になる。

 その後、毛沢東の死、文革の終焉、鄧小平による開放、さらに江沢民、胡錦濤を経て習近平の明確な富国強兵路線へ──共産党の指し示す方向が変化するに応じて、香港における左派勢力は金権親中派から過激反中派までが「理」と「利」を巡って入り乱れる。複雑多岐にわたる思想模様を呈するばかりか、利害打算を巡る思惑が錯綜することになる。だが当時から、いや遡れば香港島を大英帝国に割譲した1842年当時から現在まで、共産党政権を含む歴代中央政権は香港の実情を正確に把握したことはあるのだろうか。

 共産党政権に限った場合、香港を振り回すことは知っていても、香港住民の素朴な嫌中感に思い至ることはなかった。あるいは香港返還にみられた成功体験が、その後の権力の驕りの止め処もない拡大を招きはしなかったか。これを言い換えるなら、一強体制を弄ぶ習近平政権は「夜郎自大のスパイラル」に陥ってしまったということだ。

 中国の権力者の心情を考える時、やはり曹操の「寧可我負天下人、天下人不負我」が浮かぶ。
『三国志演義』の5、6回目である。董卓殺しに失敗し逃亡中の身を匿ってくれた知り合い一家を、疑心暗鬼に駆られて皆殺しにしてしまった曹操を、同行する陳宮が諌める。すると曹操は悪びれることなく、「オレが天下人(てんか)に負(そ)むこうが、天下人(てんか)をオレには負むかせない」と言い放つ。絶対権力信奉者の鋼鉄のような意志の前では無告の民の心情など塵芥の如きもの、というわけだ。さしずめ「寧可我負香港人、香港人不負我」といったところだ。

 あるいは北京の奥の院で権力闘争に明け暮れる権力亡者の無頼漢は、しょせん香港の住民の心情なんぞ気にも止めないということだろうか。
  以上は香港のみならず台湾、マカオ、さらには東南アジアの華人社会を包括した中央権力と地方・周縁社会の将来を考える上でも重要な問題を含んでいると思われるので、いずれ改めてユックリと論じなければならないだろう。
        (以下略)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 現在、習近平主席は、表面的には(内実もそうかもしれませんが)毛沢東を祭り上げています。しかし実のところ、毛沢東は共産主義思想を本当に理解していたか、となるとその辺は些か以上に怪しい。同じ「語録」であっても、「毛沢東語録」は「西郷南洲遺訓」等とは違って、戦術に関する発言はあっても、精神・思想に関しては言及されてない。
 これ、「言及されてない」のではなく「言及できなかっただけ」なのではないか。北京大学にも学生として入ったのではなく、図書館員としてだったようですから、体系だった学問をすることもできず、当然、ソ連に行って学ぶこともできなかった。
 軍人として頭角を現したということと、共産主義思想を深く理解することとは全く関係がありません。
 そして、共産主義思想を深く学んだり、理解したりなどせずとも(できずとも)、共産党「軍」のトップにはなれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする