「今年はとにかく成人式に参加しないように」なんてのがツイッターで拡散されていた。
細かく言えば「成人式がダメなんじゃなくて、その後、どうしても『久しぶりだから、カラオケでも』『もう何年も会ってなかったんだ、飲みに行こうよ』ってなることが危険なんです」と付け足してあったけれど、成人式の会場だって無言でいられるわけじゃない。旧友と目が合ったら、マスクを外して一言二言、なんてこともある。そうなれば感染の「リスクはゼロではない」。これはあの原発事故の時の「可能性はゼロではない」と比べたら、はるかに高いだろう。
で、どうだったんだろう、今年の成人式は。
今年は成人式そのものについては、当然のことながら「普通に開催できないので新成人がかわいそう」という声ばかりで、あまり賛否の論が聞こえてこないんだけれど。
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数年前の日記です。↓
2018.01/10 (Wed)
一月八日に、いつも何かと話題になる「成人式」が各地で行われた。
一月八日に、いつも何かと話題になる「成人式」が各地で行われた。
今回は成人式がらみの全国規模の詐欺(窃盗事件かも)事件ばかりが報道されていたけれど、ルーティンのようになってしまった新成人のバカ騒ぎは大方が影を潜めたような。
沖縄なんかはあんまり静かで、「一体どうしたんだ?いよいよ独立か?」なんてネットで話題になっていたけど。
それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。
30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。それはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。
ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。
けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村は別にしても、いきなり「国民の祝日」となってしまったから、他の市町村は大変だ。
「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
本来の「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなさなければ」というやっつけ感が生れる。
祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。
昔から、どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に、「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。
大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。
いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言いませんけどね。
でも、「日本人として恥ずかしくない生き方をしたい」と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。
日本に生まれ育った日本人なんだから。
沖縄なんかはあんまり静かで、「一体どうしたんだ?いよいよ独立か?」なんてネットで話題になっていたけど。
それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。
30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。それはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。
ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。
けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村は別にしても、いきなり「国民の祝日」となってしまったから、他の市町村は大変だ。
「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
本来の「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなさなければ」というやっつけ感が生れる。
祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。
昔から、どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に、「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。
大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。
いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言いませんけどね。
でも、「日本人として恥ずかしくない生き方をしたい」と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。
日本に生まれ育った日本人なんだから。