1月13日
7時前に目が覚め、血圧を測ろうと思いながら、また眠ってしまう。
8時前に血圧を測り、安心したわけではないが、続けてストレッチをしようと思いながら、また眠り、やっと本格的に起きたのは9時前。
昨日の雪が凍って路面に張り付き、時々クルマがそれを砕きながら通過する。
バリバリという音が二階の部屋まで聞こえてくる。
冬の陽射しは高くならないので、道を挟んで南側に立ち並ぶ家に遮られ、路面にまでは届かない。昨朝から丸一日以上経つが、そのために路面に氷が残り、当然、道が乾くまでには至ってない。
ということで、今日も外出はできない。
さて。
「人の噂も七十五日」という。それなりに話題性のある事柄だって、三月も経たずに人々の口の端に上らなくなってくる。大概はその程度の時間で人々(世間)から忘れ去られてしまう、ということなんだけど、ふと思った。
「じゃあ、その後、『噂』はどこに行ってしまうんだろう。本当に忘れ去られてしまうのか。消え去ってしまうのだろうか」
文字があって、印刷物になったりする。今はネットにも残っているから消え去ることはない。じゃあ、ただ、「忘れ去られる」?
そんなことはない。過ぎ去った噂は人々の脳裡にちゃんと残っていて、きっかけがあれば瞬時に浮かび上がってくる。
「そうそう!そういえばそんなことあったよね」、なんて日常頻繁に使っている言い回しだろう。
普段、口にしなくなるだけで、情報(知識)はちゃんと残っている。それも大事にしまい込まれているわけではなく、ちょっとしたきっかけで鮮やかによみがえってくる。
それだけじゃない、大体が我々は過去の情報(噂、体験、学習して得た知識)を用いて色々なことを考えるのが日常だ。
早い話が、「七十五日で忘れ去られる」という「噂」は、個々人の中で「常識」のようになっていく。「常識」だから「信ずるに足る」もの、といつしか思うようになっていく。
けれど、「常識」ってのは、「識」ではあっても「覚」ではない。「知識」であって「考え」ではない。間違った常識を用いて考えようとすると、当然、間違った結論に辿り着く可能性が高い。
というわけで、先日買った新潮文庫の「歪曲報道 巨大メディアの『騙しの手口』」(高山正之 著)のまえがきを数回に分けて転載してみる。
もしかしたら数回では終わらず、本文まで、ということになるかもしれない。何しろ先日から氏の本を四、五冊買っている(全部、読みかけのままだけれど。)