「フィリピン人と、コルト45」
2016.10/09 (Sun)
最初に来たスペイン人は、悪かった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。
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ドゥテルテ大統領のこと、西村眞悟氏がこんなことを書かれていました。
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西村眞悟の時事通信 平成28年10月5日(水)
「ドゥテルテ発言の背景にあるフィリピンの歴史と現状」
ロシアからフィリピンを連想した訳ではないが、ロシアの次ぎにフィリピンについて書いておきたい。
フィリピンの新大統領ロドリゴ・ドゥテルテの発言の背景を知っておく必要があると思うからである。
フィリピンは、ポルトガル人のマゼランが、一五二一年、スペインの艦隊を率いて太平洋の東から到着してから三百年間以上、スペインの植民地となり国名もスペイン国王のフィリップ二世にちなんで付けられた。
西村眞悟の時事通信 平成28年10月5日(水)
「ドゥテルテ発言の背景にあるフィリピンの歴史と現状」
ロシアからフィリピンを連想した訳ではないが、ロシアの次ぎにフィリピンについて書いておきたい。
フィリピンの新大統領ロドリゴ・ドゥテルテの発言の背景を知っておく必要があると思うからである。
フィリピンは、ポルトガル人のマゼランが、一五二一年、スペインの艦隊を率いて太平洋の東から到着してから三百年間以上、スペインの植民地となり国名もスペイン国王のフィリップ二世にちなんで付けられた。
しかし、スペインは、南のミンダナオなどのムスリム地帯を遂に平定できなかった。
スペインとムスリムのモロ族は、ミンダナオなどで三百年間戦い続けたのである(モロ戦争)。
さて、一九一一年以来七十四年間、アメリカ軍の正式軍用拳銃は、日本名コルト45自動拳銃(M1911、ナインティーンイレブン)であった。
そして一九八五年に軍の正式拳銃がべレッタ92Fになった後にもコルト45はアメリカ軍の特殊部隊などで現在も使われ続けている。
このコルト45の誕生こそ、フィリピンとアメリカの関係を如実に示すものであり、ひいては、今年九月のロドリゴ・ドゥテルテフィリピン大統領のオバマアメリカ大統領に対する発言につながってゆく。
一八九八年、アメリカとスペインの米西戦争の最中、戦場のアメリカ軍から拳銃に関して次の要請が参謀本部に届いた。
「一発で、敵の動きを止められるだけの威力が欲しい」
この要請を受けて、コルト・ファイヤーアームズ社がジョン・ブローニングの考案のもとに制作したのが45口径の自動拳銃コルト45である。
では、その戦場とは何処で、「敵」とは誰か。
場所は、「フィリピン」であり、「敵」とはスペイン人ではなくフィリピン人またムスリムのモロ族である。
米西戦争の最中、アメリカ軍はフィリピンでスペイン軍だけではなく、それまで、独立のためにスペインと戦っていた原住民やモロ族とも戦った。
そして、その「敵」は、アメリカ軍にとって始めて遭遇する恐ろしい敵であった。
彼らはジャングルに潜んでいて、突如、蛮刀を振りかざしながらアメリカ軍に突撃して来た。
その時、アメリカ軍の正式拳銃であった38口径の回転式拳銃では、弾が命中しても彼らは止まらず走り続けて切り込んできた。
それで、フィリピンのアメリカ軍兵士は、一発の弾で彼らを倒せる大口径弾を連続発射できる拳銃を欲したのである。
(略)
アメリカがミンダナオを制圧し全フィリピンを平定したのは、米西戦争から十七年後の一九一五年である。
その間、アメリカ軍は、ルソン島で六十一万六千人のフィリピン人を殺し、
レイテ島では現地人にアメリカ軍三十八人が殺害されたことに対する報復として十万人以上のフィリピン人を殺した。
その他の多くの島々からなるフィリピン全土で、一体何百何十万人がアメリカ軍に殺されたのか私は知らない。
アメリカ軍が見せしめのためにフィリピン人を殺した残虐で執拗な殺戮の様子を、高山正之さんが週刊新潮(16.9.29)の「変見自在」に書かれている。それを読めば、アメリカ人はシナ人と同じように残虐である。
昭和二十年の硫黄島において、アメリカ軍は次の「無期限の日本人狩り許可証」を発効している。
Jap Hunting
License
GOOD FOR DURATION OF SEASON
No,1664 Open Season
No Limit
この実物の写真を東京都写真美術館で観た(アメリカ在住杉本博司撮影、11月30日まで展示)。
この硫黄島の三十年ほど前にも、アメリカ軍はフィリピンで「フィリピン人狩り(Hunting)許可証」を発行してフィリピン人を狐を狩るように殺しまくっていたのではないか。
その時のアメリカ軍の最高司令官は、ダグラス・マッカーサーの親父のアーサー・マッカーサーだ。
(略)
フィリピン人は、以上のフィリピンの歴史の中で度々交替した支配者に関して次のように言うのだと教えられたことがある。
最初に来たスペイン人は、悪かった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。
さて、新しいフィリピン大統領のロドリゴ・ドゥテルテは、一九四五年(昭和二十年)三月、レイテに生まれた。
父は、華人の血をもつ。母はミンダナオのマラオナ人である。
貧しい中で育ち、大学を卒業してから十年間、検察官をして、ミンダナオの政治・経済・文化の中心都市ダバオの市長を合計七期務めた。
そして、本年六月三十日フィリピンの大統領になった。
このドゥテルテの生年である昭和二十年から何が分かるかというと、彼はスペイン人より悪かったアメリカ人、アメリカ人よりさらに悪かった日本人、帰ってきた最悪のアメリカ人の行状を、生々しく祖父母や両親から聞き、また自らの目で見て耳で聞いた世代であるということである。
ドゥテルテは、ダバオ市長時代もダバオの犯罪撲滅と治安維持に辣腕を振るったというが、大統領になってからは、さらに過激な麻薬犯罪撲滅を打ち出して、捜査機関に麻薬に関するマフィアや密売人の現場での即射殺を促し、警察は、既に千名以上を射殺していると伝えられている。
このことが報道されてから、かつて警察庁の警察官から外務省に出向して在フィリピン日本国大使館に勤務した大学の先輩から聞いたフィリピンの治安状況を思い浮かべた。
それは、フィリピンでは全ての犯罪者が拳銃を所持していて、素早く撃ってくる。
警官は、相手を銃撃で倒しても、必ず近づいてトドメを刺さなければ、安心できない。
という状況であった。
その状況の中のドゥテルテ大統領の強硬方針である。
従って、千人の麻薬犯罪関係者を警察が射殺した後でも、八十%のフィリピン国民はドゥテルテを支持している。
そこで、アメリカのオバマ大統領は何を言ったのか。
麻薬犯罪者の射殺は、人権上問題であるとドゥテルテ大統領を非難したのである。
そこでドゥテルテ大統領は、カチンと来た。
アメリカ人は、俺の生まれたレイテでも何十万人を殺しまくり、俺の母親の郷里のミンダナオでも何十万人を殺しまくった、お前ら、アメリカだけには、俺が人命軽視だとは言われたくないワイ、と。
さらにドゥテルテ大統領は、アメリカからフィリピンへの武器供与を拒否されたことを明らかにして、また言った。
アメリカの武器なんかもらうか、ロシアやシナからもらうワイ、と。
その時、ドゥテルテの脳裏に、アメリカの武器は、ナインティーンイレブンの様にフィリピン同胞を一発で殺すために造られたのではないか、という記憶がよぎっていたのかも知れない。
(略)
ドゥテルテでなくとも、私においても、アメリカ大統領は、あんまり、人権や自由やと、ええ格好言うな、と言いたくなる。
それでも、アメリカ人がええ格好を言うならば、貴公らの西部開拓は、開拓」ではなく、数百万の先住民の「土地と命の略奪」である。
東京で一夜にして、非武装の婦女子老人を十万人以上焼き殺し、広島と長崎の無辜の市民の上に原子爆弾を投下したお前らには言われたくない、と言いたくなる。
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1249
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コルト45にこんな誕生譚があった、なんて知りませんでした。
インドシナ半島では日本軍の吶喊の声を聞いただけで英兵は算を乱して敗走した、とか。
けど、フィリピン人は撃たれても切り込んでくる。田原坂の西郷軍もこんな感じだったんでしょう。
日本軍は、敵艦船の種類によって(軍艦を最高点とする)撃沈等の打撃成績点数が違っていたけど、米軍は輸送船であろうが何であろうがみんな同じ点数だった、とか。
これなら攻撃は、より安全に得点が期待できる軽武装または非武装の艦船に殺到します。日本はそれを潔しとしない風があったと聞きました。長期的に見れば、日本の戦い方はまさに世界の非常識。
考えてみれば広島・長崎は言うまでもなく、東京大空襲をはじめ、大阪大空襲だって、周辺の都市にしたって、軍人じゃない、非武装の一般住民。それを無差別に殺戮しているわけです。無差別爆撃、それも絨毯爆撃。これこそ大殺戮。正真正銘の大虐殺。
「一番効果的なのは破壊するより燃やしてしまうこと」。
「日本の家は煉瓦や石造りの家と違って燃えるから、破壊するより燃やしてしまおう。そのために爆弾を開発しよう」
そうやって開発されたのが「焼夷弾」でした。開発時点から一般住民を対象にしていたわけです。
こんな連中が昔の悪行には何の反省も見せず
「安易に射殺するとは人道上いかがなものか」
と言ってくるわけですから。
「どの口でそれを言うか!」、ですね。
だのに、メディアはその辺のこと、一切言いませんね。何でかな?
スペインとムスリムのモロ族は、ミンダナオなどで三百年間戦い続けたのである(モロ戦争)。
さて、一九一一年以来七十四年間、アメリカ軍の正式軍用拳銃は、日本名コルト45自動拳銃(M1911、ナインティーンイレブン)であった。
そして一九八五年に軍の正式拳銃がべレッタ92Fになった後にもコルト45はアメリカ軍の特殊部隊などで現在も使われ続けている。
このコルト45の誕生こそ、フィリピンとアメリカの関係を如実に示すものであり、ひいては、今年九月のロドリゴ・ドゥテルテフィリピン大統領のオバマアメリカ大統領に対する発言につながってゆく。
一八九八年、アメリカとスペインの米西戦争の最中、戦場のアメリカ軍から拳銃に関して次の要請が参謀本部に届いた。
「一発で、敵の動きを止められるだけの威力が欲しい」
この要請を受けて、コルト・ファイヤーアームズ社がジョン・ブローニングの考案のもとに制作したのが45口径の自動拳銃コルト45である。
では、その戦場とは何処で、「敵」とは誰か。
場所は、「フィリピン」であり、「敵」とはスペイン人ではなくフィリピン人またムスリムのモロ族である。
米西戦争の最中、アメリカ軍はフィリピンでスペイン軍だけではなく、それまで、独立のためにスペインと戦っていた原住民やモロ族とも戦った。
そして、その「敵」は、アメリカ軍にとって始めて遭遇する恐ろしい敵であった。
彼らはジャングルに潜んでいて、突如、蛮刀を振りかざしながらアメリカ軍に突撃して来た。
その時、アメリカ軍の正式拳銃であった38口径の回転式拳銃では、弾が命中しても彼らは止まらず走り続けて切り込んできた。
それで、フィリピンのアメリカ軍兵士は、一発の弾で彼らを倒せる大口径弾を連続発射できる拳銃を欲したのである。
(略)
アメリカがミンダナオを制圧し全フィリピンを平定したのは、米西戦争から十七年後の一九一五年である。
その間、アメリカ軍は、ルソン島で六十一万六千人のフィリピン人を殺し、
レイテ島では現地人にアメリカ軍三十八人が殺害されたことに対する報復として十万人以上のフィリピン人を殺した。
その他の多くの島々からなるフィリピン全土で、一体何百何十万人がアメリカ軍に殺されたのか私は知らない。
アメリカ軍が見せしめのためにフィリピン人を殺した残虐で執拗な殺戮の様子を、高山正之さんが週刊新潮(16.9.29)の「変見自在」に書かれている。それを読めば、アメリカ人はシナ人と同じように残虐である。
昭和二十年の硫黄島において、アメリカ軍は次の「無期限の日本人狩り許可証」を発効している。
Jap Hunting
License
GOOD FOR DURATION OF SEASON
No,1664 Open Season
No Limit
この実物の写真を東京都写真美術館で観た(アメリカ在住杉本博司撮影、11月30日まで展示)。
この硫黄島の三十年ほど前にも、アメリカ軍はフィリピンで「フィリピン人狩り(Hunting)許可証」を発行してフィリピン人を狐を狩るように殺しまくっていたのではないか。
その時のアメリカ軍の最高司令官は、ダグラス・マッカーサーの親父のアーサー・マッカーサーだ。
(略)
フィリピン人は、以上のフィリピンの歴史の中で度々交替した支配者に関して次のように言うのだと教えられたことがある。
最初に来たスペイン人は、悪かった。
次ぎに来たアメリカ人は、もっと悪かった。
その次ぎに来た日本人は、さらに悪かった。
帰ってきたアメリカ人は、最悪だった。
さて、新しいフィリピン大統領のロドリゴ・ドゥテルテは、一九四五年(昭和二十年)三月、レイテに生まれた。
父は、華人の血をもつ。母はミンダナオのマラオナ人である。
貧しい中で育ち、大学を卒業してから十年間、検察官をして、ミンダナオの政治・経済・文化の中心都市ダバオの市長を合計七期務めた。
そして、本年六月三十日フィリピンの大統領になった。
このドゥテルテの生年である昭和二十年から何が分かるかというと、彼はスペイン人より悪かったアメリカ人、アメリカ人よりさらに悪かった日本人、帰ってきた最悪のアメリカ人の行状を、生々しく祖父母や両親から聞き、また自らの目で見て耳で聞いた世代であるということである。
ドゥテルテは、ダバオ市長時代もダバオの犯罪撲滅と治安維持に辣腕を振るったというが、大統領になってからは、さらに過激な麻薬犯罪撲滅を打ち出して、捜査機関に麻薬に関するマフィアや密売人の現場での即射殺を促し、警察は、既に千名以上を射殺していると伝えられている。
このことが報道されてから、かつて警察庁の警察官から外務省に出向して在フィリピン日本国大使館に勤務した大学の先輩から聞いたフィリピンの治安状況を思い浮かべた。
それは、フィリピンでは全ての犯罪者が拳銃を所持していて、素早く撃ってくる。
警官は、相手を銃撃で倒しても、必ず近づいてトドメを刺さなければ、安心できない。
という状況であった。
その状況の中のドゥテルテ大統領の強硬方針である。
従って、千人の麻薬犯罪関係者を警察が射殺した後でも、八十%のフィリピン国民はドゥテルテを支持している。
そこで、アメリカのオバマ大統領は何を言ったのか。
麻薬犯罪者の射殺は、人権上問題であるとドゥテルテ大統領を非難したのである。
そこでドゥテルテ大統領は、カチンと来た。
アメリカ人は、俺の生まれたレイテでも何十万人を殺しまくり、俺の母親の郷里のミンダナオでも何十万人を殺しまくった、お前ら、アメリカだけには、俺が人命軽視だとは言われたくないワイ、と。
さらにドゥテルテ大統領は、アメリカからフィリピンへの武器供与を拒否されたことを明らかにして、また言った。
アメリカの武器なんかもらうか、ロシアやシナからもらうワイ、と。
その時、ドゥテルテの脳裏に、アメリカの武器は、ナインティーンイレブンの様にフィリピン同胞を一発で殺すために造られたのではないか、という記憶がよぎっていたのかも知れない。
(略)
ドゥテルテでなくとも、私においても、アメリカ大統領は、あんまり、人権や自由やと、ええ格好言うな、と言いたくなる。
それでも、アメリカ人がええ格好を言うならば、貴公らの西部開拓は、開拓」ではなく、数百万の先住民の「土地と命の略奪」である。
東京で一夜にして、非武装の婦女子老人を十万人以上焼き殺し、広島と長崎の無辜の市民の上に原子爆弾を投下したお前らには言われたくない、と言いたくなる。
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1249
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コルト45にこんな誕生譚があった、なんて知りませんでした。
インドシナ半島では日本軍の吶喊の声を聞いただけで英兵は算を乱して敗走した、とか。
けど、フィリピン人は撃たれても切り込んでくる。田原坂の西郷軍もこんな感じだったんでしょう。
日本軍は、敵艦船の種類によって(軍艦を最高点とする)撃沈等の打撃成績点数が違っていたけど、米軍は輸送船であろうが何であろうがみんな同じ点数だった、とか。
これなら攻撃は、より安全に得点が期待できる軽武装または非武装の艦船に殺到します。日本はそれを潔しとしない風があったと聞きました。長期的に見れば、日本の戦い方はまさに世界の非常識。
考えてみれば広島・長崎は言うまでもなく、東京大空襲をはじめ、大阪大空襲だって、周辺の都市にしたって、軍人じゃない、非武装の一般住民。それを無差別に殺戮しているわけです。無差別爆撃、それも絨毯爆撃。これこそ大殺戮。正真正銘の大虐殺。
「一番効果的なのは破壊するより燃やしてしまうこと」。
「日本の家は煉瓦や石造りの家と違って燃えるから、破壊するより燃やしてしまおう。そのために爆弾を開発しよう」
そうやって開発されたのが「焼夷弾」でした。開発時点から一般住民を対象にしていたわけです。
こんな連中が昔の悪行には何の反省も見せず
「安易に射殺するとは人道上いかがなものか」
と言ってくるわけですから。
「どの口でそれを言うか!」、ですね。
だのに、メディアはその辺のこと、一切言いませんね。何でかな?