八月の話。
「終戦の詔勅」、というより、「あの玉音放送」という方が、一般に能く使われる。
学校で聞いたのか、本で読んだのか、はっきりとは覚えてないのだが、「玉音放送」の「玉音」という言葉について思い出したこと。
これを「天皇の声」という意味だ、と知ったのは中学生の頃だろうか。
で、何故、「玉音」というのか、と。
これについて聞いたような、或いは読んだような気がするのは、こんな内容だった。
「何故、『玉音』というのか。それは玉を転がすような、という最大級の褒め言葉なのだ。何故なら天皇は神だったからだ」
何とも大仰な、そしてまことしやかな大嘘を言ったものである。
「玉を転がし」たら音が出るのか?
「玉」とは宝石のことだ。転がったら音を立てる宝石、なんて聞いたことがない。
これは完全に「鈴を転がす」との思い違いで、「玉音」というのは「玉を転がして云々」などとは全く関係がない。
これは以前に「玉を取る」という言葉について書いた日記の通り、「玉」は「天皇(王)」をあらわす言葉である。
従って読み方も「玉を取る」は「たまをとる」ではなく「ぎょくをとる」、となる。
「王(おう)」では失礼だから「、」を一画加えて「玉」にした。
「玉音」は「玉の転がる音」ではなく「王(天皇)の音(言葉)」ということだ。「御言葉」と言わず、「音」というのは、天皇が国民と同じ言葉を使われているというのはどんなもんだろう、ということで、天皇の場合は「言葉」ではなく「音」である、と。
「玉音」というのは、「王」というのが「畏れ多い」ことだから、そうさせたのだ。
「天皇が喋る」という表現自体、天皇に用いるのはという遠慮があり、天皇の発せられる言葉を「音」として受け止めることによって、天皇に対し、畏敬の念を以て接する姿勢を持ち続けてきたのが明治以降、戦前までの日本人の在りよう、考え方だった、ということをこそ考えるべきだと思う。
そんな認識でいる国民の天皇を思う心を知らず、「天皇を人質にとってクーデターを」とか、「天皇陛下をいただいて、戦を続行する」とかいう一部の軍人の心には、既に「戀闕(れんけつ)」の思いなどかけらもない。彼らは既に皇国の臣民ではない。
2015.10/13 (Tue)